都市に向かうとき、私たちは二重の風景を見ている。ひとつは、私たちが実際にそこで体験する空間であり、もうひとつは都市を俯瞰する「仮想の風景」である。
私たちのなかで都市の印象を形作っているのは、実際に目にする街の光景や物音、匂いや温度や足に感じる舗装の固さなど、様々に具体的な物事の連なりである。「都市の風景」として私たちが思い浮かべるのは、通常、このような空間体験の記憶である。
一方で、私たちはしばしば、自分が「どこ」にいるのかということを意識する。街を移動しながら、私たちは頭の中に、実際にはそのような視点から(少なくとも肉眼では)見たこともない都市の全体像、道路や市街地の地理的な分布を思い描いている。思い描く図像は必ずしも緻密なイメージとは限らないが、たとえば山手線に乗って移動するとき、私たちの頭の中には、池袋を上にした丸い(緑色の)路線の形が、車窓の風景とは別な次元で浮かんでいて、私たちはそれほど強く意識もせずに、現在の自分をその中に位置づけている★一。
この「仮想の風景」を共有可能な形で可視化したものが「地図」である。むろん、地図は地表の状態をそのまま表現したものではなく、あくまでも私たち(の社会)が捉えた地表の事情を記号化し、平面座標上に表現したものである。しかし地図の「真実味」は強力であって、私たちはしばしば、地図がもたらす像によって自分の「位置」を確かめ、その場所のリアリティを得ている。私たちは地図を眺め、様々な施設の配置関係や行政区界の位置、海岸線や河川の形を見る。あるいは地形図を眺め、東京の都心が驚くほど起伏に富むこと、それらの起伏が脈絡を持った「地形」であることを知る。
ところが、そうして見て取った「脈絡」を実際に体験するべく街へ出た途端、私たちは途方に暮れる羽目になる。ことに、地形を路上で体験するのは困難だ。街で目撃するのは、それぞれの敷地が目一杯「平坦面」を確保しようとし、擁壁や建物によって斜面を改変している様子であったりする。地形図が描いていた「複雑な秩序」はそこにはなく、目前には脈絡を欠いたとりとめのない(一見)人工的な光景が続いている。
見えにくさの要因のひとつは、都市の地表を圧倒的に覆っている人工物である。土地の起伏に沿って変化を見せていたであろう植生や土壌、微妙な地面の「テクスチュア」は舗装に蓋をされ、視界は建物に遮られている。都心部では、谷地形の底にしばしば幹線道路が引かれているため、沿道に高層建築物が並んでいて、地盤と建物のスカイラインとが逆転している。さらに、「傾斜」が「谷」や「川」として成立している空間のスケールと、私たちの身体が体験する空間のスケールの「差」の大きさがある。私たちの認知の射程距離は、地形をカバーするには小さい。
だが、そもそも「見えにくい」と感じてしまう「地形」そのものが、「地表の実体験」に基づいた認識ではないのだった(だいたい、「地形」という概念が地図の論理である)。「見えにくさ」は、以前は地上で見えたものが見えなくなった、というよりも、地図上での発見がそのまま地上で見えるわけではない、という、地図と実体験との乖離に由来しているのである。
若林幹夫氏は、地図が現実の空間そのものではなく、「人びとの空間的な経験に新しい次元を付け加える」ものでありながら、「そのようにして付加された空間像が人間にとっての世界経験の根源的なものを、それ自体に変わって示しているかのように機能」することを指摘している。
世界という空間を「局所」と「全域」という二つの水準で捉え、自らの存在を「全域」の内部の「局所」として捉える認知は、生物学的存在としての人間の生理学的・生態的条件に基本的には因っている。この生物学的な空間把握をいわば母型として、人は社会的な関係の圏域や社会的世界を「局所」と「全域」を持つ〈空間〉として了解する。(…中略…)地図を描き、それを通じて世界を見るという営みは、人間がけっして見晴らすことのできない世界の全域的なありかたを可視化する一つの方法、世界の空間的なあり方に関してそれを視覚化し、了解し、その中に自己と他者を位置づけようとする営みなのである。
若林幹夫『地図の想像力』(講談社、一九九五)
地理的/空間的な比喩によって環境/世界を理解する傾向を持ち、かつ社会的存在である私たちは、本来的に地図に「ハマりやすい」わけである。そして、街のなかで感じる「見えてよいものが見えない」もどかしさは、私たちが構造的に有しているこの二重のまなざしのためであって、それはおそらく解消されることはない。
この、いわば「鳥の目」と「虫の目」の乖離は、しばしば「広域計画と空間デザインの断絶」といったような問題として浮上する。「鳥の目」は必ずしも広域を描いた「地図」に限らない。縮尺に関わらず、実際の空間を抽象化し、座標上にマッピングしたもの—図面、はすべて「地図の側」のものである。およそ、何かを「計画する」という行為はすべて、鳥の目と虫の目を関係づける(あるいは少なくとも折り合いをつける)ものにほかならない。
近年、パソコンや携帯機器の性能の向上と、GPS技術などの普及に伴って、様々なデジタル「地図」へのアクセスが日常化しつつある。地図と地上との「行き来」を容易にするかのように見えるこうした技術は、ともすると「鳥の目」を都市の隅々にまで無自覚に行きわたらせて、「虫の目経験」を平滑にしてしまう。しかし、「地図の遍在」は、ケータイのナビ画面を覗き込んでいる自分自身の足元に、実は「地面の遍在」がある、ということに自覚的であれば、大きな契機である。必要なのは、鳥・虫の二重性をよく自覚したうえで、あらためて鳥の目を逆手に取って使い倒す能力、いわば「地図のリテラシー」を養うことと、虫の目の解像度、地面への感度を上げることである、と私たちは考える。鳥と虫の二つの電極を磨き、プラズマのように「ショート」を生成する。私たちは、そうした試みを仮に「グラウンディング」と呼ぶことにした。
ここでは、先行してすぐれた「グラウンディング」的実践をされている方々の幾人かに論考をお願いするとともに、私たちの試行錯誤も紹介している。言うまでもなくグラウンディングは実践である。つまりこの特集記事は、議論のためというよりも「誘い」なのである。「地図を広げ、GPSの電源を入れて、街へ出よう」という。
「グラウンディング」の軌跡
TOKYO GROUNDING: Roppongi to Shinjuku
2006年1月8日、地下鉄大江戸線六本木一丁目を起点に、赤坂-乃木坂-青山霊園-南青山-千駄ヶ谷-代々木を経て、新宿新都心までのグラウンディングを行なった。
11時2分10秒開始、16時21分18秒終了。
総移動距離12.342km、沿面距離12.388km。最大標高差58m。平均移動速度2.3km/h。
参加者:石川初、佐々木一晋、田中浩也、元永二郎、横田紀子
GPS受信機が記録した速度を標高に変換してプロットしたもの
[A]泉ガーデンと麻布郵便局に挟まれた、低層住宅の密集する谷地。再開発計画が進行しているようである
[B]乃木坂トンネルは青山霊園の手前で地上に飛び出し、外苑東通りを空中で跨ぐ
[C]青山霊園の敷地内にも地形の起伏があり、外苑西通りへ向かって谷状に切れ込んでいる
[D]地形は椀を伏せたような台地状だが、周囲の道路沿いに中高層の建築が並んでいるため、スカイラインは凹型を描いている
[E]青山通りの「尾根」から渋谷川(キャットストリート)へと下る
渋谷川沿いに上流方向へ向かうと、いくつもの「支流」を目にすることができる。明治神宮内苑の北西を通って代々木へ向かう支流は、高低差数mの「微谷」
[F]新都心地区は、淀橋浄水場の貯水池の深さがそのまま人工地盤の高さに転用されている。重層する地盤に浄水場の「原地形」が浮かぶ
この付近は玉川上水にちなむ記念碑や橋の欄干、案内板などをしばしば見かける。渋谷川の支流の「水源」は文化女子大のキャンパス
v.1 麻布台一丁目の谷より
飯倉方向
v.2 赤坂八丁目、
乃木坂トンネル越しに青山霊園方向
v.3 南青山四丁目、
外苑西通り沿いの台地
v.4 神宮前三丁目、
キャットストリート沿いに北東方向
v.5 代々木二丁目付近、小田急南新宿駅越しに北方向
v.6 代々木三丁目付近より
新宿新都心方面
註
★一──岡崎浩司「インビジブル・サークル」
(新良太 Urban-Fabric 12 東京メリーゴーラウンド、http://tenplusone.inax.co.jp/underground/photo/atarashi25.html)。