本連載のシリーズ題名にある「ミュージアム・テクノロジー」というのは、二〇〇二年一〇月に東京大学総合研究博物館に開設された寄付研究部門に付けられた部門名である(産学連携が奨励される時節柄、この奇特な寄付を行なったのはディスプレイ業界日本最大手の丹青社であると名前を記させてもらおう)。ゴッドファーザー(名親)は同博物館の西野嘉章担当教授。ムーサ=美とテクネー=技とロゴス=理とが三位一体になった大変な名称で、その部門に属するものとしてはちょっと面映いところも無しとはしない。が、ミュージアムのあり方をその根本に戻って検討しなおそうという意気込みがよく表われている名称ではある。
とはいえ、昨今の経済情勢では、ミュージアムをまるまるひとつ新設しようなどという自治体なり事業主体にはまずお目にかかれない。既設博物館の増改築のコンサルティングの話があるといった程度で、日常的には東京大学総合研究博物館における特別展(これも今年度からの国立大学法人化の影響で展示予算が実質大幅減となった)の展示デザインや、学部横断的に学生を集めてのゼミなどの活動を行なっている。
ところで去年のゼミナールで数人の学生を分担した際、さて何をやろうかとじつは困ってしまった。その筋の専門家ではない私としては本格的な博物館学を講義できるわけでもなく、といって文学部や法学部の学生たち相手にもっぱら建築デザインの話をするというのもどうかと思い、結局、博物館的なものの考えかたやその可能性について皆でディスカッションする形式にした。「博物館的思考」とは何だと問われても、あらかじめこちらに答えがあるわけでさえない。とりあえず、スクラップ・アンド・ビルド、つまりすべてを更地にしてゼロから築き上げるようなやり方ではない思考法というのが最低の前提条件である。二〇世紀のアヴァンギャルド芸術家・建築家が行なった(あるいは少なくとも行なおうとした)ことは、まさにこのスクラップ・アンド・ビルドであって、私自身そうした思考法を嫌うどころか、むしろそれに憧れを抱いてさえいるのだが、とりあえず博物館というところに身を置いて、どうやって過去の遺物を未来につなげていくかを考える立場のものとしては、ある種職能上のモラルとして、スクラップ・アンド・ビルドを自らに禁ずる、くらいのことはあっても良いかと考えたのだ。
そこで、二〇世紀アヴァンギャルドのことを考えたついでに思ったのだが、二〇世紀の主要な芸術運動のうち、シュルレアリスムは建築に疎遠である。バウハウスは言わずもがな、表現主義も未来派も構成主義もデ・スティルも建築には大いに関わりがあり、最も非〈構築〉的であると言ってよいだろうダダにおいてさえ、シュヴィッタースの作品《メルツ・バウ》は確かにバウ(建築空間の問題)である(ついでに言ってしまえば、マルセル・デュシャンの作品は建築的ではないかもしれないが少なくとも透視図法的、つまり空間的である)。それに対してシュルレアリスムの建築、というのは即座には例を思いつかない。ガウディがそうだ、と言われる向きもあろうが、ちょっと違うと私は思う(ガウディはきわめてまっとうに建築的であると思うが、シュルレアリスム的だというわけではない)。
アンドレ・ブルトンの『ナジャ』(一九二八)は、この芸術運動の記念碑的作品だが、その魅力はテクストそのものもさることながら、それに添えられた数々の写真(それもしばしば街の風景の写真)である。あるいはむしろテクストと写真が二つながらに紡ぎだすある種の作品空間である。ということは、本質的に文学的だと言えるだろうシュルレアリスムにおいても視覚芸術的側面は十分にあるわけで、そのことはダリ(嫌いではないが俗流フロイディズムのイラストレーションでしかないかも)はともかく、初期のキリコやデルヴォー、マグリットといった画家たちの作品が証していることでもある。と、ここまで書いてきて、そう言えばシュルレアリスムの彫刻って何があったかしらん、と思ってしまった。シュルレアリスム的思考は、新たな構築物を構築することに無縁だったということか。『ナジャ』に添えられた写真は、すでに在るものの写しであって、新たに構築されるものではない。絵画作品は新たに描かれるものであるが、シュルレアリスム絵画はみな夢か現かはともあれ、既視の視覚的記憶をなぞっているように描かれている。先に述べた(建築とは馴染みの)諸々のアヴァンギャルド運動がそれこそスクラップ・アンド・ビルド的思考法をもっぱら採用したとすれば、シュルレアリスムはここでの文脈で言う博物館的思考法を採ったと我田引水しておくか。我田引水ついでに、これもまたきわめて博物館的な知性の持ち主であったと言いうる批評家ベンヤミンはやはりシュルレアリスムについて以下のように書いている。
〈古くなった物〉のうちに現出する革命的エネルギーにはじめて気がついたのはシュルレアリスムである。つまり、最初の鉄骨構造物、最初の工場建築、最初の写真に、またサロンのグランドピアノ、五年前の衣服、華麗な集会室、要するに流行から離れ始めると、死滅し始める事物に現出する革命的エネルギーである。
ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』
もうひとつ、博物館というところに身を置くことになった当初考えていたのは、ミシェル・フーコーの『言葉と物』の有名な冒頭部分のことである。あいもかわらず、フーコーかと言われそうだが、著作の邦訳が出始める前から構造主義の御三家だとか四天王の一角だとかと一般紙も含めてジャーナリズムを賑わしていたこの思想史家の主著がちょうど三〇年前に日本語訳が出たとき早速手にして読んだあの序文冒頭部分はたしかに知的刺激に満ちていた(第一章に展開されたベラスケスの名画《侍女たち》の分析もそうだったが)。ボルヘスの小説の中に記述された「シナのある百科事典」──動物を分類するのに前提となるべき分類の地平そのものが成立していない──の逸話を引きながら解説された、ユートピア=非在郷ならぬヘテロトピア=混在郷こそが前者以上にラディカルに私たちの知を不安に陥れるというくだりは、いま思い起こしても結構衝撃的だった。ところで、言語学・植物学・経済学における古典主義時代の知の体系(=エピステーメー、というカタカナ語をなつかしがってもいまの読者はシラケるだけか)が始まる一七世紀中ごろと、そこから変わって近代の発端を記す一九世紀初頭という歴史のなかの二つの不連続、断絶を説くこの書物は、その前身たるヴンダーカマー=驚異の部屋(それこそ混在郷の隠喩そのものだ)から体系的分類を規範とする学術研究施設になり、その後学術の機能分化にしたがって、それ自体が分化していった博物館という制度とビルディング・タイプの変遷の解読の鍵を与えてくれそうにも思える。『言葉と物』はミュージアムの歴史として読める(!……かも知れない)。
閑話休題……。上野の《国立西洋美術館》──その建設のさらに半世紀ほど前にル・コルビュジエによって構想された「成長する美術館」の実現案のひとつ──の中央入口ホールは、「一九世紀ホール」と呼ばれていた。この美術館が作られることになったそもそもの理由である、戦後フランスから寄贈返還された松方コレクションの中身の少なからぬ部分が一九世紀美術であったことから、こういう名称を与えられたのだろう。ル・コルビュジエの『全集』第六巻には、現在合板に無地のクロス貼り(塗装だったかしらん)で仕上げられているホール四周の内壁が、全面写真で構成された壁、言うところの「ミュラル・フォトグラフィーク」になる計画だったスケッチが紹介されているとともに、図版キャプションにこの写真壁は「探究の世紀であった一九世紀の栄光に捧げられる」のだと書き記されている(この辺りの詳細は『全集』の版によって異同があるようだが)。
乱暴を承知で再度二分法を援用すれば(もちろんこの手の二分法はしばしば危険でかつ単なる誤謬に導きがちだと繰り返し言っておきたい)一九世紀を博物館的思考の、二〇世紀をスクラップ・アンド・ビルド的思考の世紀であると規定して、すました顔をしてみるのもありかもしれない。
ともあれ、ちょっと裏に回るとホルマリンだのナフタリンだのの臭いがする博物館というところに身を置く間に、このおおげさに言えばすべての自然と文明の歴史の記憶装置みたいな施設のことについて考えをめぐらせてみるのも悪くはない。ところで上述のゼミナールの途上、頭でっかちの議論だけでは面白くないから、M博物館増改築計画なる架空の建築プロジェクトをでっちあげてみた。それに対し、ああしろ、こうしたいと要望を出してくる学生諸君が架空の施主となって私のほうがロハで設計作業をやらされるはめとなった。その展示ホールの内観をコンピュータでレンダリングしたときに一番私自身の目を引いたのは、いろいろと工夫をこらした(つもりの)大架構空間などではなくて、図中左奥に顔をのぞかせている既存建物の外壁面だったのだ(モノクロの小さな図版では分かりにくいと思うが)。それは何よりも私にフランセス・イェイツ女史の大著『記憶術』に掲載された図版、古代の記憶術のデバイスであった頭の中の劇場の図、ロバート・フラッドの「記憶の劇場」を思い出させたのである。……だが、ここから先は次号に譲ろう。
1──ル・コルビュジエ《国立西洋美術館》
19世紀ホールのスケッチ
2──M博物館増改築計画 展示ホール内観パース
3──ロバート・フラッド「記憶の劇場」
出典=フランセス・A・イェイツ『記憶術』(水声社、1993)