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グラウンディング──地図を描く身体 | 石川初+佐々木一晋+田中浩也+元永二朗
Grounding: Map: Making Body | Ishikawa Hajime, Sasaki Isshin, Hiroya Tanaka, Motonaga Jiro
掲載『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体, 2006年03月発行) pp.42-53

都市を眺め直す「グラウンディング」の視点

石川初──去年の一一月に編集部からお話を頂いた当初、この特集の企画は「テクノロジーによる風景の変容」というような趣旨のものでした。それに対して僕や田中浩也さんのほうから、最近僕らが関心を持っていること、GPSやデジタル地図をツールとして使いながら都市の地面を再発見する、そういう試みを紹介してはどうだろうと提案差し上げました。提案の主旨にそって何人かの方に声をかけて集まってもらったのですが、そこで気がついたのは、自分が関心を持っているこうしたことが、実はぜんぜんうまく言葉にできていなかったし、言葉にしようという努力もしていなかった、ということでした。だから、途中で、ちょっとこれは安請け合いしてしまったかと慌ててしまったりしました。「グラウンディング」という言葉も、その席上で暫定的に出てきた用語でした。
でも、特集に関わったメンバーと一緒に歩いたり議論したりするなかで発見したことも随分ありましたし、こうして集まったテキストを再度読んでみると、自覚的にやろうとしてきたことを確認したというよりも、改めてこれからやりたいことが見えてきた、という感じもします。皆さんにもお聞きしてみたいんですが、僕自身、去年の暮れに考えていたことと、いま感じていることには温度差があります。最初は、けっこう漠然と「街に隠れている地形や自然を見つけに出る」くらいの思いしかなかった。それを、「鳥の目」的なものと「虫の目」的なものの乖離とか、体験や発見を共有する方法とか、言ってみれば「問題意識」として言葉にすることができたことは収穫でした。
田中浩也──「鳥の目」「虫の目」の話は過去からもずっとあったと思うのですが、鳥と虫の二種類に整理して論じるよりも、もっと多種類のまなざしの豊富さをそのまま提示することが必要だと思っていたんです。集まったテキストや付随する資料とかイメージを見ていると、いろんな「動物」がいるし、「鳥」にも「虫」にもいろいろいる。いろんな生き物に喩えられる「まなざし」、その多様さを改めて感じました。鳥も高く飛んでいるものもいれば、すれすれのところを飛んでいるものもいて、「鳥」と「虫」といままで呼ばれていた課題を、もっと解像度を高くして見つめ、さらにその中間に溢れる新種を見つけられたという感じがします。
元永二朗──僕の場合は、多分飛んでいないだろうなというのがいまのところの認識です。今回広重の絵もざっと見たりしましたが、結局自分は地べたにいるという思いを強くしましたね。
石川──まあ、飛ぶって言っても人間だから、また地面に着地しちゃうわけですよね。そういう感じですか?  思わず地面に戻ってくるというような。
元永──そもそも僕が自分で道具をつくるのは、自分でつくった道具を自分が使ってどう感じるのかということに興味があるからなんです。だからグラウンディングに関しても、普段把握していない地形というのを、それまで以上に知ることでどう変わるのかということに関心がある。そこで、GPSによる地図を見ながら地表を歩くと、地表を歩いているのでも自力で飛んでいるのでもなく、何かに引っ張り上げられて、鳥にぶら下がって飛ぶような感じになるのかなと想像していたのですが、全然そうはならなくて、地表の「その場所」にいるという実感は非常に強いということを改めて思いました。それを確認できたのが一番面白かったです。
佐々木一晋──「鳥」や「虫」といった多様な解釈で都市を眺め直すことで、都市の実体を覗き込めたような気がしています。ここでの都市の実体とは、都市において変化しやすい多様なものの根底にあって同じ状態でありつづけるものです。例えば、映画館とコンサートを比喩に挙げて都市という対象を眺めてみると、映画館ではひとつのスクリーンをみんなで同時に見ているけれど、それはあくまでも計画的につくり出されたひとつの写像であって、どこの席にいても同じものを観ていることになります。このスクリーンとは資本社会によってつくりだされた記号的な都市の表層や虚像といえるかもしれません。また、実際のコンサート会場では演奏者と観客の間のスクリーンが取り払われて、座る位置によって見え方や聞こえ方が変わり、同時に指揮者や演奏者、扱う楽器によっても楽しみ方が変わってきます。実際の都市はコンサート会場のようで、広義には映画館のようなスクリーンを通して認知される様相といえるのかもしれません。しかし、今回のグラウンディングを通じて、都市の認知手段は映画館のような受動的なあり方からコンサートのようなあり方へ、さらにはインタラクティヴなあり方に移り変わってきているような印象を受けました。事例として、石川さんがやられている「GPSの地上絵」は、コンサート会場の観客席側にいながら(GPSといった)楽器をもって演じることで、実際に舞台にいる演奏者(住人)や指揮者(都市計画者)とも一緒に演奏されているような印象です(笑)。
コンサートでの演奏側と観客側の垣根を超えたインタラクティヴな試みが、デヴァイスを応用することで実際の都市においても可能となってきているのではないのでしょうか。そういう広い意味での都市の実体をもう一度みんなで見つめ直そうということが今回の試みであるような気がしています。
石川──いま、元永さんのお話を聞きながら、僕はむしろ「地図寄り」なんじゃないか、と思いました。多分僕は、常にメタに見ようとする傾向があって、メタファイルのコンテンツを充実させるために、しょうがなく街を歩いているようなところがあるんです(笑)。僕が実際に汗をかいて歩かないと、思ったような面白い絵にならないから、GPSを持って街に出るんじゃないかと。もちろん街で予想もしなかったようなことに出遇うと嬉しいんですが、それも、もしかしたらより緻密に自分の鳥の目を補強する材料になるから、なのかもしれない。鳥の目を補強するために虫の目になりに行く。
田中──僕は立場としては「地表の連続的な身体経験」を重視しています。ただ、鳥の目ももちろん大事で、この企画を立ち上げた一一月の段階では石川さんのこの画像[図1]をまだ見ていなかったわけですけれども、これがメタな図とすると、全体の豊かさと複雑さを提示されたことによって、ここまで複雑だったのか、よし出かけるぞという意欲が湧くんです(笑)。要するに全体の広さというか、そういうものが提示されることによってミクロな目からもう一度見直していく動機になるんですね。そういう意味で、この地表図は「強い」です。
石川──僕も、初めてこの「5mメッシュ標高データ」を「カシミール」にかけて見たときは、端的にびっくりしました。地面はこんなに豊かだったのか。しかも、この地面の上にびっしり都市がある。地表は人工物に覆われている。拡大してみると、敷地ひとつひとつの開発が、その単位の大きさでは地形を損ねてしまっている。でも、全体をみると、ものすごくきれいに谷が残っているでしょう。僕はこの谷の健気さに打たれます(笑)。残っている地形に対する愛が芽生えるというか。だから、メタな図を眺めることで、今度はそこへ実際に行きたくなる、という気持ちはわかります。
田中──実際の地表のグラウンディングの体験がこれにすごく導かれるんです。
石川──相互関係的なものなんでしょうね。さっきはああ言ったけど、僕がメタ情報を充実させたいと思うのも、実際の街の空間体験をより面白くするためなのかも知れないし。この二つを行ったり来たりするんですよね、実際は。
田中──情報のレゾリューションが高くなればなるほど、豊かさを感じられる度合いが高まるというのがこの地図データのいいところですよね。
石川──この地形図は、「もうすでにある」という発見をしますよね。「ゼロ」なところなんかどこにもなくて、だからゼロからつくるまでもなくて、言ってみれば「地図」を恐れなくてもいい。あるいは、地図にかまけていても、地面はちゃんと残っていて、いつでも帰って来られる、というような。

1──カシミール「5mメッシュ標高」に描かれたグラウンディング(1月8日)の軌跡 作成=石川初

1──カシミール「5mメッシュ標高」に描かれたグラウンディング(1月8日)の軌跡 作成=石川初

まなざしの多様性

佐々木──以前、渋谷川の流路を辿るようにしてフィールドワークした際に出た、「上流へと向かうのか、あるいは下流を目指すのか」といった話題は非常に興味深かったですね。
石川──上流と下流の話は、グラウンディングに出たあと「まとめ」の議論で出たんですよね。街を歩いていて、慣れてくると、河川の地形、谷間の地形のなかに自分がいる、というのが周囲の地面のちょっとした起伏や空気の流れからわかるようになってくる。そういうとき、上流、下流、どっちに向かうか?  という話になったんです。僕は迷わず上流に行く、と言ったんですが、たしか元永さんは下流へ向かうと。
佐々木──僕は上流から下流に行く流れを行き来することで、その流れの両端を覗いてみたい(笑)。
田中──僕は迷った末に下流に行くといったんです。重力の法則に身を任せたい(笑)。
石川──そのときに、上流に向かうメンタリティと下流に向かうメンタリティの違い、みたいな話が出ました。上流に向かうのは、いまあることの由来を知りたいというか、根源を見に行く、ということじゃないか。下流に向かうのは、この先はどうなったのか、という今の有様を目撃しに行く。たとえば今回の特集の記事で言えば、中谷礼仁さんの「コンゲンカード」は上流で、宮本佳明さんの「環境ノイズエレメント」は下流、かもしれない。それで、上流へ向かう人と下流へ向かう人がすれ違った時、そこで共有できるプラットフォームをつくる、というのがグラウンディングの試みのひとつなのではないか、という話でした。でも、後になって思うに、「共有する」って容易なことじゃない。というか、下手に共有しようとしてしまうと、それぞれの「虫の目」的なものが失われるような気もします。今回集まったテキストやイメージが示しているみたいに、人の数だけ受け取り方がある、というのが虫の目の特徴であるわけですよね。局所的な地面の体験は非常にパーソナル。それを「地形」とか「河川」というメタな名前で呼ぶことで「共有」がなされるわけだけれど、「地形」とか「谷」という概念がもう鳥の目の論理ですよね。地面からは見ることができないのに、そう呼んだ途端に自分がそのなかにいる、自明のもののように感じてしまう。集まったテキストもそれぞれとても面白いけれども、タイトルがついて目次に収まって、製本されて書店に並ぶと、もう鳥の目になっている。虫の目の獲得は、鳥の目を常に自分のなかで翻訳しないと駄目ですよね。誰かと共有するためには鳥の目に加工する必要がある。それはまた虫の目に分解されないと使えない。
元永──原稿を書いていると、どうしても文章化することで論理が整理されて、虫の感覚が失われそうになってしまう。そこが読み手にちゃんと伝えられるだろうかというのが非常にもどかしかった。
田中──でも、デヴァイスやシステムをつくることは文章ではなくて他人と感覚を共有するためのもうひとつの方法論なんですよ。道具や装置にスコープを託すことは、それを共有する方法のひとつだと思います。
元永──できあがった道具だけを見せたいという感覚もあるんです。コンピュータというプラットフォーム上では結果的にはすべてロジックで動きますよね。そうしてできあがったツールの説明をすると、まるで論理が先にあったかのようになってしまう。「そんなことを考えていたわけではないのに」という感じがしてもどかしいんです。
石川──でも、そのシステムの出入力は結構めちゃくちゃだったりするんじゃないですか?  プログラムはしっかり動かないといけないけど、拾ってくるものはアナログじゃないですか。入力がどうしようもなくアナログなために、アウトプットもどうしようもなくアナログだったりする。
元永──そのアナログ感を文章に書くのが難しいんですよ。だから、こういう話のなかでできるといいと思っています。
佐々木──そのもどかしさというのは、実際にフィールドワークで感じた経験をダイレクトに言語に置き換えることの難しさですよね。これは「鳥の目」「虫の目」というスコープと、実際のデヴァイスやシステムの話の取り合いを人間の身体運動とか感覚でどのようにずれを補正していくかという視点に置き換えると、それはサイバネティックスのシステム論に繋がるのかなと思いました。サイバネティックスとは、ギリシア語の「技」あるいは「船の舵手」を意味する「kybernetike」を語源としていて、生物や機械をフィードバック系の情報処理モデルとして捉えて統一的に説明できる考え方から生み出されたコミュニケーションとコントロールの科学で、今回のグラウンディング特集においても、デヴァイス技術と人間の身体感覚に付随して新たなスコープが獲得されていくということを考えると、機械がもつシステムと機械を感覚的に操縦・制御していく人間側のシステム、さらにそこから出入力された情報を次にどのようにフィードバックを行なっていくのか、その全体のプロセスが重要であるような気がしています。
デヴァイスを含む機械のシステムが完全・不完全であっても、それを扱う人によってスコープのずれは必ず生じてしまうので、そのずれは自身の身体感覚でなぞっていかない限り、スムーズに次へとフィードバックしていくことは難しいということをフィールドワークに参加して強く感じました。
石川──ローラーブレードを履いて街に出たときの感覚って、まさにそういうことじゃないですか。見えなかった起伏が見えたりする、と同時に自分の振る舞いも変化する。これは一種のフィードバックで、身体がデヴァイスで拡張されて、その結果地形が別な意味を帯びて、その新しい意味を帯びた地形と自分の拡張された身体との関係がまた自分に返ってくる、みたいなことでしょう。もっと素朴なレヴェルだと、たとえば棒を持って街を歩くだけで、風景が変わってきたりするとか。
佐々木──まさにそうですね。デジタル、アナログのデヴァイスであるのかという話ではなくて、そこを超えた楽しみ方なのかもしれないですね。
田中──フィードバックということでいうと、自分の身体感覚でフィードバックするということと、もうひとつはここで挙がった他人の方法論を使うということ──例えば僕がローラーブレードを使うとか──要するにここに挙がったのはそれぞれの方法論は公開したという段階なので、この先にやるべきことは他者の方法論を他者が使うということがありえる。それは社会的なフィードバックだと思います。
佐々木──さきほど石川さんが仰られたように「川沿いを上流から歩いてくる人と下流から歩いて来る人とすれ違う時」にバトンタッチでお互いの方法論を受け渡してしまうような、抽象レヴェルでの共有可能なプラットフォーム、という感じですね。
石川──だとすると、こういう文章のテクニックは、自分の手法やデヴァイスを、もう面白くて仕様がないというように紹介する、というのがいいかもしれませんね。
田中──いろいろな意味で中間的な次元の方法論を紹介していると思います。いろんなスコープがあってその対象としては地表というひとつのグラウンドがあるのだけれども、その間に多様な方法論がある。
石川──今回、「鳥/虫」的な問題が、実はさまざまなものに存在していて、また応用可能なものである、ということもわかりました。「鳥/虫」問題、全体的なロジックと個人的な切実さという二重性は、広域計画とデザインの乖離とか、地球環境問題と自分がゴミを分類する行為とか、あるいは建築の図面と実際の空間とか、さまざまな場面にさまざまなスケールで現われている。何かを計画するとかデザインするとかいう行為はほとんどすべて、「鳥/虫」問題の応用だと言えるんじゃないか、とも思いました。そういう目でみると、これ、フィールドワークについて述べた本ではみんな言っていることですよね。『都市/建築フィールドワーク・メソッド』(INAX出版、二〇〇二)[図2]の最初のほうなんか、みんな同じことを言っている。
田中──僕は『都市/建築フィールドワーク・メソッド』から今回の特集で大きく変わったんですよね。それは必ずしも断片的な風景の集積として都市を見なくてもいいということ。

2──『都市/建築フィールドワーク・メソッド』

2──『都市/建築フィールドワーク・メソッド』

元永──風景というのはあくまで二次元的なヴィジュアル、ヴィスタということですか?
田中──視覚的表層、シーンということですね。もっと一次情報として頼りになるのが「地形」だということが身体的に獲得できたんです。
石川──「Photowalker」は、むしろどう簡単に共有するか、という点に向けてチューニングされたプロジェクトだったんじゃないかと思うんですが、共有の面はどうですか?
田中──共有の面はあまり変わっていないのですが、都市を見るときに断片的な表層を必ずしも見なくてもいいんだということです。それがグラウンドだったり身体感覚だったりするのかもしれない。
元永──それはすごい自信ですよね(笑)。僕はいまだに表層しか見ていないのではないかという気が相変わらずしますね。
田中──表層の方向が変わっただけかもしれないのですが。
石川──信仰告白みたいなものですよね。表層しか見れないんでしょうが、その先に何かがある、ということを信じれるか、ということなんじゃないでしょうか。
田中──ただのスケープだったものがランドスケープになったといってもいい。何か、都市の「基底」に「ある」ものがわかった、そこに触れられた感触があります。
佐々木──視覚的表層から地表への思考の転換というお話を聞いていて僕も同じような印象を受けました。現在、竹林を音響装置にしてしまうプロジェクトを行なっているのですが、ここでは竹自体にデヴァイスを装着することで、単に竹林という表層を楽しむだけでなくて、その場所特有の竹の生態特性や多様性を「音」を媒介にして感じとることができるんですね。デヴァイスを応用の仕方によっては、単に視覚的表層に留まらない新たな視点を獲得できるのかもしれませんね。
石川──レントゲン写真を初めて見た人はそういう感覚を持ったかもしれないですよね。人体に内臓や骨格があることはわかっているんだけど、改めて「見る」ことができるようになって、それまでとは違う次元に入ってゆく。GPSなどは、そのくらいのインパクトを持ったデヴァイスなんじゃないかと思います。座標と時間を刻々と記録するだけのシンプルな装置なのに。
佐々木──従来のフィールドワークの対象が分析する側とされる側に二極化していたのに対して、石川さんの地上絵や田中さんのジオウォーカーでは身体移動して描かれたルートというものを自分自身で観察することができるわけですよね。目に見えなかったものが見えるようになると同時に、従来二極化されていた分析対象へ自身が加わることでグラデーション化していく印象を受けます。
石川──それは面白い。たしかに、今回のような方法は、大きな二項対立の図式を細かくして、多様化させるという効果はあると思います。でも、それで人工衛星的な視点と地面を歩く行為との二重性が解消されるわけではないと思います。さまざまなスケールの「まなざし」がありえる、という意味では「多様化」だけれども、それはやはりあくまでもさまざまなスケールの「プチ二重のまなざし」であるという。そういう構造をしていることに、自覚的じゃないといけないと思います。
田中さんは、鳥の目と虫の目を繋げる回路をたくさんつくる、ということをおっしゃっていましたが、両極はきっと離れたままで、くっつくわけじゃないんですよね。
田中──もちろんそうですね。石川さんのイントロの文章に「両極をプラズマみたいにショートさせる」と書かれているんですが。
元永──離れていてくれないとわれわれのやることがなくなってしまう。
田中──離れていることでいろんなルートが書けるわけですよ。それがなくなるとひとつのルートしかなくなってしまうから。
石川──なるほど。そのギャップこそが僕らの「工夫の余地」であるというわけだ。

石川初氏

石川初氏

元永二朗氏

元永二朗氏

「地図」のパラメーター

石川──元永さんは地図がすごくお好きで、いろんな地図を取っ替え引っ替え見たりされますよね。地図の魅力って何なんでしょうか。
元永──やはり回路だと思います。地図を見ることによってそこに回路が走るんですよね。スパークをとばす対象としての地図がないと、虚空に向かって放電はなかなかできない。
石川──自分がそこに立っている、という現実に対して、地図は地面そのものではなくて、地面との「ずれ」があるわけですよね。地面に対する「補助線」と言ってしまうと違うのですか。
元永──補助線というよりは、もっと明確な目標物に近いです。最終目標ではもちろんありませんが、仮のターゲットとして地図があるので、たった一枚の地図を見ていてもまったく面白くない。常にオルタナティヴな違う地図を見たい。これではない地図を求めるところがあって、自分にとっての唯一の地図がないんです。地図の世界での基本となる地図ってありますよね。国土地理院の二万五千分の一ですけど、あれだけあればいいのだ、という人もいるのですが、そういう感じではない。あれだけ見ていても全然面白くない。もともと持っていた自分の地図と新しい地図を重ねた時のずれの間に走る回路、そういった別の回路が生成されていく感じがたまらなく面白いですね。「カシミール」の「5mメッシュ」もそうですよね。
佐々木──この新しい地図というのが、カシミールやGPSを用いて描かれた精巧な地図のイメージなのか、江戸時代に書かれた、精巧なつくりではないけど抽象度が高められた絵画に近いイメージなのか、地下鉄の路線図のようなダイアグラム化されたものなのか、その興味の振れ幅に非常に興味がありますね。つまりは何かがマッピングされた地図であるのか、ノーテーション化された図像的なものであるのか、そういう地図の種類やスケール、形式は今回のサブテーマでもあるかもしれないですね。
田中──それはすごく面白い論点だと思います。正確にはもちろん実物ではないです。しかし、「5mメッシュ」は、誰かが加工したデータでは少なくともないだろうと思いますね。
石川──そういうふうに見えますよね。でも、平面に表現した時点ですでにノーテーションであるとも言えるじゃないですか。
佐々木──ノーテーションを成立させるためのパラメーターが近年のセンサーやサンプリング技術によって拡張されたという見方もできますよね。石川さんの地上絵は、航空写真に動物の絵が描かれたノーテーションと言える一方で、移動軌跡が連続的にマッピングされたリアルな地図とも言えるのかもしれません。ここでは、デヴァイスを実装して動き回る人の身体運動がノーテーションというものを成立させるためのひとつの要素になってきているのですね。
石川──なるほど。パラメーターが重要だ、ということが重要ですよね。GPSドローイングの面白さを支えているのは、それがリアルな地面に描かれたもののように見える、という点ですよね。単に紙の地図の上に落書きしたものではなくて。つまり、ベースにしている地図がリアルなもの、加工度や恣意性が低いものだ、という共通認識がないと成立しない。そういう相対的な意味ではたしかに「5mメッシュ標高地図」はノーテーションではない。でも、実はこれは僕が意図的に、標高差を鮮やかに表現するために工夫しているし、元のデータも国土地理院が一生懸命、生の測量データから建物や橋梁を除去して、これが本当の地盤です、と言い張っているものです。実際はこの地盤を見れるわけじゃない。街にあるもののうち、どれを地形として、何を地形でないとするかは地図製作者の手に委ねられていて、この地図上で僕らが見るのは、彼らが「地面である」と見なした情報の集積なんです。つまりこれは、より緻密に巧妙になったノーテーションです。それが、誰かが加工したものではないと思えてしまう、それはパラメーターの取り方ですよね。
佐々木──このパラメーターの尺度はとても面白いですね。その一方で、GPSドローイングを目にした時、それが建築家の巨匠のスケッチのように見えたのには驚きました。巨匠のスケッチは一本一本の線に意図が込められているのに対して、GPSドローイングの一本一本の線には歩く人の意図が込められているようで、現実の尺度を超えた見えない力に惹き付けられました。
石川──ノーテーションとそうでないものの差というか、どちらとして扱うかという違いは、どのへんが境界なんでしょう。GPSドローイングは非ノーテーション的な情報にノーテーション的な情報が重なることで視覚化するものですよね。でも実は両方ともノーテーションだったりして。解像度の差のようなものでしょうかね。
佐々木──この解像度の差を埋めるためには、人間の日々のアクションが関係してくるように思いますね。家に引き籠もる人やパイロット、スカイダイビングする人とか……。
石川──逆に言うとGPSドローイングは人間のアクションから遠い。
佐々木──そういったニュアンスを受けますね。見えないという点で。
石川──なるほど、見えないというのはありますね。自分の視線の射程距離かもしれない。つまり息づかいが感じられなければもう誰がつくったのかはわからなくなってしまう。
佐々木──従来までのノーテーションは初期の生成過程で恣意性を欠くことができなかったけれど、今後、新たなデヴァイスを通して描かれていくノーテーションは、ある意図をもって共同で同時的に生成可能な状況になってきているように思います。さらに、ノーテーションとマッピングといった枠組みを超えてつくりだされていく新たな地図の可能性は、単にトポロジカルなデータだけではなくて、人間の身体運動や経験、記憶といった人間そのものの豊かさが直接に影響してくるのかもしれませんね。

田中浩也氏

田中浩也氏

佐々木一晋氏

佐々木一晋氏

実践の継続へ

石川──これはゼンリンの電子地図で、デフォルトで掲載されている情報を全部オンにした状態です。このスケールだとはっきり言って訳がわかんないのですが、すごく沢山のものがあるという「感じ」が、地形図などよりはずっと、実際に街に身を置いたときの印象に近かったりします。逆に、表示する要素を絞って、一般道路だけにすると、自転車で走れるGPS地上絵用の地図になる。建物だけ表示するとか、コンビニだけ表示する、というのもできます[図3・4]。これはこれで、何とも言えない都市の表情が出てきます。先ほど田中さんが、新しい注目点として「グラウンド」と言われてましたが、地面や地形だけではなくて、こういう切り口もありますよね。

3──コンビニだけを表示した地図 作成=石川初

3──コンビニだけを表示した地図
作成=石川初

4──建物だけを表示した地図 作成=石川初

4──建物だけを表示した地図
作成=石川初

元永──一月八日のフィールドワークでも意図的に見ていないものがたくさんあるじゃないですか。泉ガーデンからスタートしているのに、あの巨大なガラスの塊をまったく無視しているわけでしょう。だったら、地形だけある山岳地帯でフィールドワークをやってもいいという話になりかねない。そうではなくて都市なんだ、という部分はどうなのでしょう。
石川──僕自身の趣味というか、傾向として、地形とか植生とか生態系とか、いわゆる「自然」に目が向きがちなんだけど、「見えにくくなっているが、視点の取り方で浮かぶもの」というような意味では、もっとたくさんの座標系がありますよね。ファミレスとコンビニだけで描いた地図とか、地名のプロットだけで描いた地図とか。僕自身はまだ、そういう地図に慣れていないんです。でも、そういう地図も地形図みたいに扱えるはずですよね。グラウンディングは一義的な意味での「グラウンド」だけに限定して目を向けている必要はないわけで。
佐々木──今回のグラウンディングは、飛行機が開発されると同時に墜落も開発された、というヴィリリオの思考プロセスに類似しているかもしれません。飛行機がなければ墜落もない、という解釈のように、戦後六〇年で高度成長した東京という都市に住むからこそグラウンディングの解釈が発見されたといっても過言でないですよね(笑)。
田中──例えば僕とか元永さんとしても、事件をつくるためにテクノロジーをつくっているところはありませんか?  僕にはあるのですが。
元永──意図的に事故を起こしているということですか?
田中──意図的とは言えないかもしれないけれど、なんらかの事件を求めているところはあって、今回iPodにセンサーを付けてヘッドフォンで聴くというテキストを書いたのですが、おそらく僕は事件を求めていますね(笑)。事件というのは要するに予想もつかないハプニングですよね。
元永──本来その技術が開発された目的は違うということですね。
石川──僕はきっと、見慣れていない地図を持って街へ出れば、それがハプニングを喚起することになるだろうと思います。
田中──今後、もっといろんな「動物=感覚体」として都市を経験してみたいと思っています。
石川──僕はともすると、ついエコロジカルな用語で、「自然の比喩」で考えちゃうんです。そうすると、どうしてもある種の価値判断が入ってくるので、そういうものからニュートラルに見てみることが今後の課題かもしれない。
田中──僕はエコロジカルに自然的でもなくても、何か「新しい自然」を見つけてみたいという立場に近いものですから。
石川──そういう人がいてくれると、むしろ僕は安心して、そういう「係」になってエコロジーに浸れます。
10+1──この特集を機に取りあえず中間的な報告がなされて、さて、次はどういう方向にいくのか、何が成果として目指されているのかをお聞きしたいのですが。
田中──対象がグラウンドではないものでもこのメンタリティはもっと展開できると思っています。降ってくるものとか生えてくるものとか流れてくるものとか、いろんな視野で。地表と言わないとしたら地球としか言えないのですが、それに対するアプローチが継続可能でしょうね。
石川──先ほども言いましたが、もっと異なる切り口を試したいです。今回のグラウンディングは、主に僕がデータの収集をしたせいもあって、とても「地形寄り」でした。次はiPod系グラウンディングをやってみるとか、ローラーブレードを履いてみるとか、違う手法でやってみたい。さっきの「コンビニだけが表示された地図」だけを持って歩くとか。
田中──松本文夫さんが今回のテキストでそれに近いことを書かれているんですよ。都市の重力場という話をしていらっしゃいます。だから本当はグラウンディングよりもG感覚のほうがメタキーワードなんですよね。
石川──でもね、G感覚はあまりにメタで伝わらないと思うんですよね(笑)。あと、地質図を持って行きたいです。沖積層の上を、埋没台地や埋没谷をトレースして移動するとか。
元永──僕も他者の方法を試さなければならないだろうとは思います。それが次回なにかにつなげられるのかどうかはまだわからないですね。実践なんだと言っているからには、ちゃんと実践しなければいけないという思いがありますね。
佐々木──僕はG感覚というキーワードにすごい興味があって、身近な都市問題をもう少し掘り進めてみたいです。以前、森のなかで三〇メートル強の大木を伐採した経験があって、わずかな力であれだけ大きなものが倒れてしまう状況にびっくりしてしまったんですけど、モノの重力や地質というアプローチや生態系の新しい技術との関わり方を覗いていきたいです。
元永──また次のツールをつくりたいと思ってはいるんですが、自分でつくったツールを自分で使っているだけだと真の実践にならないというのを本当に感じるんですよ。だから他の人がつくったツールでもうちょっと何かできないかと考えています。別の人の思いつきをつくっていったりとか、もしくは自分の思いつきだけ伝えて別の人につくってもらったりとか、そういう形で実践のあり方をいろいろ組み替えることをしてみたい気がしますね。
石川──先日、ある人と二人でGPSドローイングを制作するフィールドワークをやったんです。二人で同時にコースを回るというのは初めての経験でした。面白かったのは、相手の人が、地図のルートと地面がシンクロする感じがわかってきた、などと興奮してくれて、それこそG感覚が相手に浸透してゆくのがわかるんです。GPSドローイングっていう行為を媒介にして。GPSドローイングは、普通のサイクリングや街歩きだったらこうは曲がらないだろう、というような、不自然なコース取りになるので、独特のセンスが必要なんですけれど、それが「伝わってゆく」のが見える。それが興味深くて、かつそれを観察することで自分自身の発見もあったりしたんです。だから、いま話されたような、ツールを交換する、身につけている靴や帽子や上着を取り替えるようなことの効果はわかるように思います。「違う切り口」という言い方だと抽象的ですが、たぶん、自分に対してあえて不自由を課すごとき実践なのかもしれないですね。
[二〇〇六年二月一八日]

2006年1月8日、六本木から新宿にかけてグラウンディングを実施

>石川初(イシカワ・ハジメ)

1964年生
株式会社ランドスケープデザイン勤務、登録ランドスケープアーキテクト(RLA)、関東学院非常勤講師。ランドスケープデザイナー。

>佐々木一晋(ササキ・イッシン)

1977年生
東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程。建築意匠、環境情報科学。

>田中浩也(タナカ・ヒロヤ)

1975年生
慶応義塾大学環境情報学部准教授、国際メディア研究財団非常勤研究員、tEnt共同主宰。デザインエンジニア。

>元永二朗(モトナガ・ジロウ)

1968年生
オルタナティヴスペースfoo運営参加。エンジニア、デザイナー。

>『10+1』 No.42

特集=グラウンディング──地図を描く身体

>中谷礼仁(ナカタニ・ノリヒト)

1965年 -
歴史工学家。早稲田大学創造理工学部准教授、編集出版組織体アセテート主宰。

>宮本佳明(ミヤモト・カツヒロ)

1961年 -
建築家。宮本佳明建築設計事務所主宰、大阪市立大学大学院建築都市系専攻兼都市研究プラザ教授。

>松本文夫(マツモト・フミオ)

1959年 -
建築家。東京大学総合研究博物館特任准教授、プランネット・アーキテクチャーズ主宰、慶應大学非常勤講師。