大極殿の発見
奈良の平城京、とくに天皇による政(マツリゴト)の中心施設であった大極殿(ダイゴクデン)の位置同定には、もはや伝説とも言うべき逸話が存在する。
平城京は周知の通り、和銅三年(七一〇)より七四年間続いた都である。現在の奈良市の西方に位置し、規模は東西約四・三キロ、南北約四・八キロ、東に外京と呼ぶ張り出しをもつ広大さを誇った。
平城京の入口、南面中央にあった羅城門をくぐると、約七五メートルもの幅の朱雀大路が北に向かってのび、約四キロ先には朱雀門がそびえている。さらにその門をくぐると天皇の住居であり、政治や国家的儀式を行なう平城宮があった。大極殿はその中心施設であった。
平城京は、都が長岡京に移ってからは急速に荒廃した。国家施設は新都へ移築、再利用されたがゆえに、残った構築物もわずかであった。それゆえ年月を経て次第に平城宮の正確な位置さえもが忘れ去られていったのであった。嘉永年間(一八四八─五四)には、北浦定政の研究『平城宮大内裏跡坪割之図』によって、平城京位置同定の復原作業が進められたが、おおまかな位置が示されただけであり、正確な位置は謎とされてきたのであった。そのような状況下の明治三二年一月二一日の午後、小さな奇跡が起こった。当時、初代奈良県技師であった関野貞(一八六七─一九三五)が奈良県西郊を散策していた時であった。建築史家・太田博太郎はまるで推理小説のような筆致でその状況を活写する。