コードとデ・コード 吉村靖孝
今日は「コードとデ・コード」と題して、ローレンス・レッシグの『Code──インターネットの合法・違法・プライバシー』(翔泳社、二〇〇一)という著作と、僕がすすめてきた「デ・コード」というフィールドワークとの関係について話したいと思います。
まず「デ・コード」ですが、これは法規をガイドとして街並みの形成過程を観察する試みだと言えます。都市を読みこむ、解読するという意味で「デ・コード」と名付けました。僕はオランダで働いていましたが、一昨年本格的に帰国した直後、慣れ親しんでいたはずの東京の街並みがどこかぎこちなく感じられました。とくに最初の一カ月くらいは良い意味でも悪い意味でもあちこちが支離滅裂に見えたのです。それがしばらく暮らしてみるとオランダなどより実に安全、快適で便利、うまく組織されていると感じはじめる。そのギャップが気になりました。そこで、その仕組みをなんとか解明したいと思ったわけです。そういう個人的で一時的な盛り上がりから生まれた研究ではありますが、背景には、すでに在蘭時、あるいはそれ以前から連なるいくつかの疑問があります。ひとつは、「東京の街並みはカオスである」という言い方への疑念です。カオスだから美しいとかカオスだから美しくないと切って捨てるだけでは、この街並みについての説明責任を果たしていない。なぜカオスにみえるのか、ほんとうにカオスなのかということをきちんと検証する必要があるのではないかということです。それから二つ目の疑問は、建築家の仕事においてながらく法規の存在が隠蔽されてきたという点です。「この法規に従ってこの形になった」というのはある種の敗北と捉えられており、例えば斜線制限がかかっているのをわかりにくくするような形態的操作を施すのはよくある話です。しかしたとえばこの篠原一男さんの《高圧線下の家》(一九八一)[図1]のように、法規にかかっていることを積極的に利用すれば、まったく違う次元が開ける可能性はある。勝利とは違うかもしれませんが、白旗の上げ方を考えること自体を作品の質に転化できる可能性は十分にあるのではないかと思うのです。それから最後は規制緩和への違和感です。現在は都心で空前の再開発ブームが起こっていますが、それを後押ししているのが規制緩和です。規制緩和が進んだ結果、特定の既得権者にとっては建築の規制などほとんど関係ないような状態になっている。規制緩和は自由を獲得する手段だと考えられていますが、ただ枷を外すだけで獲得できる自由というのは、ほんとうに僕らが必要としている自由とは違うのではないか、というのが僕の疑問点です。街並みに関わる法規は都市三法といって、都市計画法、建築基準法、都市再開発法があります。一八八八年の東京市区改正条例が起点になり、一九一八年に都市計画法が全面改正、六九年に都市再開発法ができ、同じころ建築基準法も制定されたという経緯があります。その後一九八〇年代に都市計画法が大きく改正され、八二年の中曽根内閣のときに、アーバン・ルネサンスのかけ声のもと大幅な規制緩和が行なわれ、バブルに突入していきました。小泉内閣も都市再生を言っており、基本的には今も規制緩和の大きな流れのなかにあります。たしかに硬直したシステムが息を吹き返すためにはある種の緩和が必要です。しかし、街並みを美しくするために緩和をすすめるという主張には首をかしげざるをえない。
図2は規制緩和のない小規模な開発の典型的な例で、斜線制限による規制を厳密に受けている街区です。斜線制限は、コストがかかるうえに美観を損ねているということで規制緩和論者の矛先になっているのですが、これだけ厳密に守っていると全体としてきちんと景観的なまとまりをつくり出している。この街区もひとつのサンプルですが、規制緩和を受けず真面目に法規を守っていて、なおかつ周囲の建物とは違う魅力を備えた建物を「デ・コード」のなかでは「超合法建築」と呼んでいます。例えば図3は新宿にある建物ですが、第三種高度地区の規制が非常に面白い形をつくりだしています。一般的には、建物がつくられる過程でさまざまな規制がかかり、そこを通過して街並みはつくられますが、「デ・コード」では、街並みとしてすでにできあがってしまったものからどのような法規がかかったのかということを逆に読み進めています。つまり一種のなぞときのようなものです。「超合法建築」は答えを導く際のヒントのようなものです。僕は「超合法建築」を追っているうち、問題は法規そのものではなく、適用のスタンスや規制緩和や法規改正を繰り返していくことのほうに潜んでいるのではないかと考えるようになりました。
ここまでは僕が仕事の合間事務所の連中と進めていた青写真の段階ですが、今年(二〇〇三)の四月からは東京理科大学の学生に手伝ってもらって、実質的な作業をする第二期に入りました。第二期の仕事は、サンプリング、それからカタロギング、エディティングです。まず人海戦術でフィールドワークをしてサンプルをたくさん集め、そしてそれらをカタログ状にして、適切な並べ方を考えるという段階まできました。
これから実際に採集された建物の例を見ていただきます。図4は、看板や手摺は斜線による制限を受けないことを利用して、斜線制限で切り取られた面を隠蔽するような操作をしています。上が看板で下は手摺ですが、同じ仕上げを貼ることでカムフラージュしています。看板は斜線制限を受けないと言いましたが、受けないにもかかわらず斜面を利用して看板にしているという例もあります[図5]。場所が新宿で周囲の建物が高いので、斜めの面が高いところから見やすいことを利用しているのではないかと思います。それから図6は一見するとなにか恣意的なデザインが施されているようですが、法規で看板を道路上にせり出すときには地上から何メートルまでは何十センチ、それ以上は何十センチ出てよいという指定をそのままなぞっている例です。図7は下のほうに高速道路が走っているのがわかるでしょうか。東京では高速道路のわきでは路面から一〇メートルは看板を立ててはいけないことになっているので、壁面がこれだけ空いていても看板は屋上にちょこんと載っています。大阪では路面すれすれでもかまわないので、高速を走ったときの景色はまったく異なる代物になっています。ローカルな法規の差が景観の差をつくりだしている例だと言えるでしょう。図8の「超合法建築」は右側の白い建物です。将来道路拡幅されたときの隅切りに相当するのが四階以上の斜めの面で、三階以下の階は仮設の仕様にしてそれをはみ出しています。つまり左側の現状の隅切りと未来の隅切りが並んでいるわけです。図9は銀座の伊東屋で、裏の二号館と三号館の建物の写真です。よく見ると真ん中に切れ目があって、まっ二つに割れています。一敷地にひとつの建物を建てるという法規の大原則を守って、なおかつ分割されていることを消すデザインになっています。図10は逆に敷地の分筆を解いてしまったのか、もともと別々だった建物を繋いで避難経路を確保している例です。それから図11は日影規制による建物です。日影規制というのは用途地域に大きく左右されるので、周辺の用途地域の分布状態によっては真ん中がえぐれたような建物ができる可能性があります。図12は避難階段です。店舗の避難階段は基準法上、床面積に応じて階段の幅の合計を割り増さなければいけないので、それに従って階段はやたらと増えます。図13は、道路に関するもの。全国を四メートル以上の幅の道路のネットワークで覆うために、細い道路に面したところに建物を新築するときには道路から後退して建てなければならないのですが、制度上段階的に長い時間をかけて拡幅がすすむため、拡幅しても電柱を動かす工事は後手にまわって道路の真ん中に電柱が立ったままになっています。それから図14はなんの変哲もない建物ですが、長屋申請をすると共同住宅で申請するよりは規制がゆるいため、長屋で申請しているアパートです。長屋と共同住宅の違いは共用部分がないことです。この場合は奥の道に直接出られる階段をつくって一、二階とも直接接道しています。いま見てきたような例は合法と違法のグレーゾーンと見えるときもありますが、おもしろい使い方のヒントに満ちているのではないかと思います。
ローレンス・レッシグ
『Code──インターネットの合法・違法・プライバシー』
(翔泳社、2001)
1──篠原一男《高圧線下の家》1981
2──斜線制限を厳密に受けている街区
3──第3種高度地区の規制を受けた建物
4──切り取られた面をカムフラージュする看板や手摺
5──斜面を利用した看板
6──法規に沿って道路上にせり出した看板
7──高速道路沿いの看板
8──現状の隅切りと未来の隅切りが並んだ建物
9──銀座伊東屋2号館、3号館
10──ひとつに繋いで避難経路を
確保した建物
11──日影規制を受けた建物
12──建物の床面積に応じて割り増した避難階段
13──道路の真ん中に立つ電柱
14──長屋として申請したアパート
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次にカタログをつくる作業ですが、こういう目録状のものに写真を貼り、条項、場所を書き、名前をつけてどんな風に法規を利用したのかを書き込んだりしています[図15]。
それから図16が法規の編集作業ということになります。形態に影響を与える要素に分解して、法規を編集し直しました。例えば法令集を横断して「高さ」に関するものだけを集めて、一章をつくります。街で気になった建物の高さがもし二〇メートルだったとすると、この「デ・コード」版法令集では、二〇メートルに関してどのような法規があるのか逆引きできる仕組みにしました。ほかにも階数、長さ、幅、角度、オフセットなどがあります。ここまでがサンプリング、カタロギング、エディティングというフィールドワーク的な作業です。
これらの作業を通して、日本の法規にどんな特色があるのかということを僕なりに考えてみると、ひとつには「広域性」というキーワードが挙げられるかと思います。つまり全国同一ルールということです。場所ごとに個別のマスタープランを設定するのではなく、全体を同じルールで覆って微調整をするだけなので、このことが全国に同じような風景を生み出す原因のひとつになっています。それから「高容積率」ということがあります。日本の都市はスプロールしていると言われますが、都心部の容積率は意外と高く、例えばドイツの都心部ではせいぜい三〇〇パーセントぐらいが上限ですが、日本では一〇〇〇パーセントまであります。高容積率だと、容積率の値に都市開発のスピードが追いつかないので、指定容積率が四〇〇パーセントあるのに実際は一〇〇パーセントしか使っていないという状態が至るところで発生するわけです。これは街並みに混乱をもたらす原因になっていると言えるでしょう。それから、法規だけをみると「道路重視」の方針が浮かび上がってくることは意外でした。道路自身の構造に関する物のほか、接道する建物にもさまざまな拘束力を発揮するので、道路に関係する法規はほんとうにたくさんあります。
青木淳さんが建築の設計の仕方について〈免疫的〉、〈神経的〉という比較をしています。〈神経的〉というのは脊髄から末端神経に至る木のような構造、〈免疫的〉というのは隣接するものにだけ反応して形をつくっていくような仕組みです。その分類に従うと、日本の都市計画というのは、マスタープランは挫折を繰り返し、法規だけが全国を席巻するという構図で、つまり国全体が道路との関係、隣の建物との関係だけを吟味して成長していくわけですから、非常に〈免疫的〉な仕組みではないかと思っています。
15──カタログの一部
16──編集し直した角度に関する法規
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次にレッシグの『Code』について話したいと思います。全体は四部構成になっています。第一部ではサイバー空間あるいはインターネット空間について、それらの空間がコードの存在によって非常に規制しやすくできていると指摘しています。コードというのは、実空間の建築と同じようにインターネット上で物理的な拘束力を発揮する仕組みです。そこさえコントロールすれば簡単に完全な規制ができてしまうということです。第二部では「新シカゴ学派」が出てくるのですが、コードの重要性を認めたうえで、それをコントロールする手段として政府の介入という選択肢があるのではないかという主張を展開しています。第三部では、一部・二部で述べてきた考え方がそれぞれ今現実に起こっている問題、プライヴァシーの問題、言論の自由などとどうリンクするのかという点について述べています。第四部は今後の展望で、レッシグは自分の主張する政府の介入は実行に移されず、完全な規制が実現するだろうと非常に暗い見通しを語っています。
彼が使っているダイアグラム[図17]を僕なりに変形しながら、もう少し詳しく説明します。規制を受ける対象としての「点」が真ん中にあって、これを規制する四つのモード、「法」「規範」「市場」「コード(アーキテクチャ)」がまわりに並んでいます。これらがどのように対象に関わるのかを研究しているのがシカゴ学派で、四つのモードがそれぞれ均等に作用し、つまり法の作用を最小限に抑え自由な市場の効率性を重視する立場をとっています。一方、図18が新シカゴ学派としているタイプのダイアグラムですが、先程のシカゴ学派のダイアグラムに比べると法規の部分が大きくなっているのがおわかりいただけるかと思います。図中の矢印のように、真ん中の対象に対して間接的に規制をかけることができるというのがレッシグのスタンスです。たとえば、シートベルトを義務づけたいと思うときにはまずシートベルトをしなさいという法律をつくるわけですが、さらに公共教育キャンペーンをはって規範をつくる、保険会社に補助金を出してシートベルトをする人の保険料を下げ市場からアプローチする、あるいは車に自動シートベルトを導入させてアーキテクチャを制御するなど、ほかのモードを使って間接的にコントロールすることもできます。だからレッシグは、コードは非常に重要な、クリティカルな存在ではあるけれども、やはり法を組み立て直さなければいけないと主張している。インターネット上では、コードが絶対的な規制力を発揮しうる。そしてわれわれはそういう社会に向かって一直線にすすんでいる。それがイヤなら、手を拱いているだけでなく法を利用してコードをコントロールすべきである。そこから、規制しすぎないために規制を強化しなければならないという一見矛盾したような提案が導き出されるのです。
17──シカゴ学派のダイアグラム
18──新シカゴ学派のダイアグラム
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次は少し脱線して、これを建築の文脈に引き寄せて考えてみたいと思います[図19]。「アーキテクチャ」と「アーキテクチュア」とあるのは、コンピュータの世界の慣習では最後を「チャ」と書き、建築の場合は「チュア」と書くので、あえてその違いを残したまま並べています。レッシグも『Code』のなかでしばしば実空間との比較をしています。ただし彼の場合、簡単に完全化するアーキテクチャについては非常に暗く、常に適度なノイズがあるアーキテクチュアに関しては非常に明るい見通しをもっています。しかし昨今の監視カメラや鍵の進化、ゲーテッド・コミュニティへの関心や排除するための建築の存在などを見ていると、アーキテクチュアもこの問題を素通りできないと僕は思います。
アーキテクチャ/アーキテクチュアは規制を受ける「点」と法律のあいだに入る要素です。つまり建築は一方で規制されるものとして存在し、他方で規制するものでもあるわけです。この二つの局面を分けて考える必要があるように思います。まず「規制されるものとしての建築」です。規制されることをポジティヴに捉え直してみるという意味では、「デ・コード」もどこかで共鳴しているのではないかと思います。それから図20はMVRDVのプロジェクトで、古い街並みが残る街区をどのように高容積化するかという内容です。ちょうど道路斜線のような考え方で、周囲の道路からはファサードの影に隠れて見えないようにしながら中央の建物を高容積化しています。これも法規の使い方、あるいは法規そのものを積極的に利用して作品とした例と言えるのではないでしょうか。二つ目の「規制するものとしての建築」の場合、法規とは離れていきます。しかも、さきほど言った排除型の建築、例えばホームレスの人々を排除するために何かを置くなどという議論にとどまらず、もう少し積極的にデザインの要素として使うことを考えたいと思っています。僕は学生時代早稲田大学の古谷研究室に所属し、《せんだいメディアテーク》コンペに参加しました[図21]。コンペは九五年ですからインターネットはそれほど身近ではなかったのですが、このときすでに、検索性能が高まって、フィルタリングなど自分の好みをコンピュータが勝手に選り分けてくれるような状態が到来することを前提とした提案をしました。建築の可能性はそれとは違うところにあるとして、動線が一見制御不能なくらい絡まっている箱をつくり、自分が予期しないものとか見たくないものと出会う可能性を最大化していく方法を探っていました。すでにあれから八年がたちましたが、このようなコンセプトを持った建築はいまだに建っていません。しかしインターネットの技術が先鋭化していくにしたがって、すこしずつあの提案が現実味を帯びてきたと思うことがあります。
レッシグの話からはいろいろな次元でヒントを引き出すことができますが、建築家としての自分に引き寄せてみると、とくにこの最後の部分には勇気づけられます。自由を獲得する、選択肢を広げるためにあえて規制をするということが、建築のかたちにどんな影響を及ぼすのか、僕の関心は最終的にそこに落ち着いていると言えます。
19──「アーキテクチャ」、「アーキテクチュア」を示すダイアグラム
20──MVRDVのプロジェクトでの街区の高容積化へ至るフロー
21──《せんだいメディアテーク》コンペ案
討議 今井公太郎×今村創平×日埜直彦×吉村靖孝
法規を使いこなす
日埜──『Code』で言われていることは、基本的には著作者の利益と社会的な受益のベストバランスを目指す、つまり成果に対してインセンティヴを与えつつ、社会がそれを享受する仕組みをどう作るかということです。それに対して、そもそも建築基準法というのは何を理想としているのか、何をベストバランスと言うのか、法精神とでも言うべきものがはっきりしない。例えば「採光」についての規定は、居室内の環境をある水準以上に確保しようとしているのでしょうが、それは基本的に建物の形態そのものとは関係のないミクロな問題で、どうしてそういうことが要求されるのか、必ずしも明確ではない。
吉村──建築基準法の場合、制約を最大化して理想的な建物を実現するというよりは、隣人との利害を調整しているうちに、ましなものに落ち着くであろうという程度の目論見で書かれていることが透けて見えてしまいますね。採光条件の場合は、面積に比例する以外に、隣地境界からの距離、軒の形状などに影響を受けるよう設定されています。隣人とせいぜい道をはさんで反対側の人に害を与えず、かつ住んでいる人の最小限の利益を確保することを目指しているとは言える。マスタープランがなくて〈免疫的〉だという感想はその辺と重なるのですが。
今村──そもそも法規は、共同で社会的に生きていく際に必要だと信じられてつくられているわけです。今議論しているのは民主主義国家における法なので、一方的に強いられているものというよりも、ベストバランスがわれわれに利益をもたらすということが前提としてあるはずです。やはりわれわれは建築基準法によって何かを享受しているんであって、何もないともっとひどいことになる。しかし、現実にはその副産物としていろいろ変なものが出てくる。そして、実際われわれは日々法規というものを非常にうっとおしく感じていますし、建築家も法規は守りさえすればよく、それ以上のことは議論に値しないと思っているのではないですか。法を完全に充たした建築が必ずしもわれわれの利益にはならないこともあります。でも、ふだん無視している、あるいは隠しておきたいと思っている法というものをあえて取り出してみることに可能性がある。法を題材にする、そのダイナミックな面白さについてもう少し話していただけますか。
吉村──最近学生の課題などを見ていると、形がでてくる根拠に法規を持ち出す学生がいるんです。斜線制限があるから斜めの壁があります、という具合に。これは積極的に法規を使ったとは言えない。僕は、やはり古谷研究室で「ハイパー・スパイラル」という地上一〇メートルの超高層建築を考えていました。実現を目指すともちろんいろいろ障害があるのですが、そのひとつが羽田空港でした。航空機進入路妨害にあたるため、都心部では地上一〇〇〇メートルにもなる構造物を建てることはできないのです。現状では航空法で滑走路から五〇分の一の角度で規制がかかっていて、さらに最高でも二九五メートルと定められています。どうすればこれを実現できるか。ひとつには、法を改正することでもっと高い建造物を建てることが可能です。でもそれだけでは飛行機の進入路をどうするかという現実的な問題がのこる。それならば空港を移転して一〇〇〇メートルの建築が建てられるようにしてはどうか。これはなかなか現実的な解法ですが、空港は遠くなり、またその周囲では同じように規制がかかるので、本質的な解決ではない。そこで僕が考えたのは、法規は何も変えずに空港を高層化するというアイディアです。滑走路面からの角度・高さで規制がかかっていますから、滑走路面を高くすれば、東京全域の潜在的な容積率を一気に高めることができます。法規に従うようにして形が自動的に導き出されてしまうという話をしたいわけではなくて、建築家はもっと法規を積極的に使うことができるんじゃないかと思うのです。
今井──『Code』では実空間のアーキテクチャとヴァーチュアルなアーキテクチャがともに挙げられていました。建築法規は採光や換気といったアクチュアルなアーキテクチャを示す部分もあれば、隣地斜線は二〇メートルの立ち上がりからの勾配と仮定する、といったヴァーチュアルなアーキテクチャもある。その辺はどうですか。つまりアクチュアルな部分は妥当だけれど、ヴァーチュアルな部分は根拠がないということはありますか。
吉村──例えば道路を四メートル以上の幅にしなさいという道路幅員の法規がありますが、これは災害時に消防車が入っていける道路のネットワークをつくるためだと言われます。それはアクチュアルな実体を伴ったルールのように見えるけれど、そのときに忘れられているのが幅一メートルくらいの消防車をつくるとか、非常に長いアームで街区の外から消火できるようにするという可能性で、そういう選択肢の存在が法規をつくる過程で議論されていない。一見フィジカルなコンディションに関する法規のようであっても、実際はヴァーチュアルでしかないものもある。バランスの見きわめがうまくできていない気がします。
今井──『Code』を参考にしてこのプロジェクトを進め、もしアクチュアルな部分とヴァーチュアルな部分で建築法規を体系づけられたら面白いですね。そうするとアクチュアル、ヴァーチャルともに含まれる「規範的なもの」が明確化されることで、議論が厳密になるのではないでしょうか。
吉村──おもしろいですね。「市場」や「規範」も制約を加える要因として働いているので、「法規」だけではなくてそちらにも視野を広げて考えてみたいという願望はあります。例えば電車の速度を二倍にすると都市の大きさが二倍になるといった話は、事実としては明らかだけど、都市計画家のデザインの範疇ではなかったものです。ハードウェアのデザインというよりはソフトウェアのデザインに近い部分を、街並み、都市のデザインに応用できないかと考えています。
今村──吉村さんには、「超合法建築」を自分で設計したいという野心はありますか?
吉村──当面は観察と分析に重心があって、設計云々は副産物のようなものでよいと思っています。法規のことを多少学習して、今までは使いきれなかった部分まで使えるという感覚は確かにありますが、それを目的化することについては疑問があります。下手をすると先ほどの学生のように、斜めの形を使うための言い訳として斜線制限を使うのと差がなくなってしまう。
今井公太郎氏
吉村靖孝氏
日埜直彦氏
今村創平氏
都市デザインは可能か?
今村──デ・コードの、法規をもって都市の状況を批評的にあぶりだすという方法はうまくいっていると思います。その一方で、アトリエ・ワンの「メイド・イン・トーキョー」などの仕事や、赤瀬川原平の「トマソン」などと比較されることもあると思います。つまり、街歩きをしてこんな変わったものを見つけたよ、ということです。それも確かにひとつの楽しみですが、ここでの発見がどういうふうに展開されるかということにも、期待があります。
今井──都市にマスタープランがないという話に関連して少々述べたいのですが。用途地域の指定は明文化されていない一種のマスタープランだと言えると思います。これは運用のほうの問題で、運用にマスタープランが含まれているわけです。この点はどう整理されるべきなんでしょうか?
吉村──おっしゃる通りで、いわゆるゾーニングがマスタープランとして機能している例はあると思います。そして用途地域の指定に何らかの意志が働いていることも確かですね。たとえば中央区などは区内のほとんどが商業地域でゾーニングは成立しないのですが、そのこと自体に強い意志を感じます。用途地域指定によるゾーニングという方法を肯定しているのも法規ですから、対立する要素ではないのかもしれません。結局法規は誰がつくるのかという議論と重なってきます。どのようにしてその局面に介入できるかというのも課題だと感じています。
今村──でも実際には、例えばパリの都市計画でオスマンがやったような、エレヴェーションはこうやれと一律に強制するものではなく、こういうルールの中で自由にやってよいですよという枠組みであり、そのような法規の整備と都市が成長するスピードがずれていることが、今の不揃いな都市景観をつくる要因になっています。そうすると日本のやり方では個別の建物をデザインすることはできても、都市はデザインできないという結論になってしまう。斜線制限があっても、全部がそれに揃えばきれいに整った街がつくれるという期待もあるかもしれませんが、実際には個々の建物の成長するスピードが異なるわけです。これだけスピードが速い現状ですらそうなのですから、今後日本がヨーロッパ化してペースが遅くなるとますます希望がない。
今井──景観法というものが今年できるらしいですね。これは、ある景観形成地域を自治体が指定して、例えば瓦屋根の勾配は何十度、あるいは色は白と決めたら全部それでつくらなくてはならないというトップダウンの法律です。地域内の建築には届け出が必要になり、青い建物を建てた違反者は白に塗り直しさせられるというものです。
日埜──すでにあるものは構わないという、既存不適格の問題が街並みを混乱させているということがありますが、それはやはり認めざるをえないでしょうね。
今井──景観地区の指定は市町村ができることになっています。そのため、既存不適格の問題は当然出てくるでしょうし、市民の合意によって景観協定がなされる場合は、コミュニティのメンバー全員の合意が必要になりますので、既存不適格の人はなかなか合意しにくいでしょうね。景観法はコミュニティの了解が前提になっていて、コミュニティの参加者が全員OKしないと法律自体が成立しない。景観はさっきの四つのモードで言えば「規範」にあたることですが、全員のOKさえあれば、それが「法」になり上がれるかという問題です。
吉村──歴史的には、政府が市場の要求や法の問題より景観の問題にシフトしたと思える瞬間が何度かありましたが、それは非常に短期間です。かつて宮沢喜一が首相の頃にはマスタープランをつくることが公約に盛り込まれていましたが、あっという間に消えました。政権交代するところっと変わります。
日埜──社会的理念というのは言葉の響きほど崇高な話ではなくて、結局は個人が自分の考えを公共の理想として掲げそれが承認を得るわけでしょう。そのときに誰がそれを提案して、承認を得るのか。景観法がなぜ今成立するのか不思議ですが、「国立マンション訴訟」を切り口にしてみると、ある集合住宅によって変化する景観に対して地域住民が反対して紛争が起き、それを承認した役所も同列に責められている状況があって、その対抗策として景観法が出てきたということもあるでしょう。
海外ではローカルな景観委員会がありますが、日本ではこれまで共同体による陪審員型の決定がされてこなかった。景観法では地域を基礎とし、地域協定を法として整理するということらしいですが、本当にそれを裏づけるだけの共同体の意識が今の日本に存在するのでしょうか?
吉村──仮りに共同体意識が高かったとしても、冷静な景観づくりに発展するケースは稀でしょうね。『Code』では、アノニマスな対象に対して規制をかけるのは難しいという匿名性の問題が出てきますが、建築の場合は規制している主体もアノニマスです。
今井──あるコミュニティの規制というのはそのコミュニティが決めればよいのですが、建築をつくるという場合にはどこまでがコミュニティか定義できない。
吉村──そこで法とは一体なんだろうと考えると出口がなくなるので、今ある法規をどういうふうにうまく使いこなすかというほうに突破口を探したいと僕は考えています。法規は最大公約数的な単純さを持っているのに、その単純なルールに基づいて非常に複雑な街が出てきている。そこで便利で快適に暮らしているとしたら、なぜか。外国人は東京を複雑だと言うけれども、規模の問題を複雑さと勘違いしているケースも多い。日本人はそれに同調するだけではだめで、その背後にどういうシステムがあるのかきちんと可視化する義務があると思う。法規は東京のシンプルさを証明してみせるための最初の試みでしかないので、もっといろいろな方向からアプローチできると思っています。
今井──それをやったうえで、最終的に東京は美しいのか美しくないのかという問いかけに対して、美しいと言わなければいけない。そこにはかなりの飛躍が必要です。そのひとつとして、「法律を探った結果、こういう適用は美しい」と言うことはできるでしょうか。
吉村──シンプルなルールの上でどれだけ複雑なものを生み出せるかという基準は、美しいかどうかの判断基準と接近していると思います。ルールが複雑で最終的にシンプルなものを生んでいるより、ルールがシンプルで最終的に複雑なものに価値観がシフトしているとしたら、法規を活かすことにも勝機はある。
今村──法規がシンプルであっても結局複雑な建物ができてしまうのは、敷地形状がデタラメだという要因が非常に大きい。いびつな形をベースに、さまざまな法規を適用し、最大限の床面積を確保しようとすると、結果としてモンスターのようなものが生まれてくる。東京で新しい企画の敷地図を見せられると、およそまともな敷地はなく、それが複雑な形状の建物を生産することに深く影響していると思います。
選択肢を生む建築
日埜──最後に「規制するものとしての建築」ですが、これはここまでの話と意味合いが違うのではないかと思うのですが、具体的にはどのようなことをお考えですか?
吉村──建築には人間の行動を規制する機能が生来備わっていると思います。しかし気を許すと規制緩和と同じように、それをはずしてがらんどうの何もない箱をつくるのがひとつの理想的な解法だという話になりがちです。それに対して、いくら壁を挿入しても、いくら段差があっても自由度は減らないというやり方があるのではないか。これは均質なものに対する批判なんですけれど、選択肢をたくさん確保できる方法を考えてみたいと考えています。
今井──壁がたくさん入ると経路の選択性はむしろ減るんじゃないですか? 均質な空間というのは、経路は自分で決められる。ただ自分で決めればいいといっても、いろいろな行き方をする人があまりいないから、壁があることではじめて経路が顕在化されるという側面があります。そういう意味で壁をたくさん立てたほうが均質な空間よりむしろ豊かだ、というのはよくわかるんですけれど、考え方としてそれで正しいのですか?
吉村──《せんだいメディアテーク》のコンペのときもいろいろ議論しました。たしかに均質なグリッドに割られている街では、経路というのは無数にあります。一方、不均質な系をもっている街では、同じ出発点と到達点を最短距離で結ぶと経路が一通りで決まってしまうこともある。しかし不均質ながらも直行系が保たれていれば、距離が同じ選択肢が担保されます。古谷案のプランも不均質なグリッドでできています。最短距離を結ばないという選択肢も含めて、どうやってシミやムラをつくりだすかというところにデザインの可能性が残されていると言えるのではないでしょうか。
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会場A──豊島区に倉庫を借りているのですが、最近そのあたりにマンションが建ちはじめたんです。将来環状四号線が通るという話があり、たぶんそのために用途地域が変更されてマンションが建つようになったと思います。都市計画が決定されたのが一九五〇年代から六〇年くらいだと思うんですけれど、二〇〇〇年くらいになってそれが事業決定されるわけです。『Code』にも四つの権力のダイアグラムが出てきますが、法律を決定するレヴェルと行使するレヴェルがあるわけです。吉村さんは社会にコミットするために「超合法建築」を使って法律をクリティカルに見ている。そこに法律をも変える動機のようなものを読み取ったのですが、法律を行使するレヴェルにコミットする可能性についてはどのようにお考えですか?
吉村──法規を変える手続きに直接関わる方法もないわけではないんでしょうが、今のところあまり興味がありません。例えばイチローは内野安打を量産しますよね。バットにボールが当たりさえすれば、あとは一塁まで速く走ることでヒットになる。野球のルールをこれまで誰も思いつかなかったような方法で使い切っているという意味で非常に「デ・コード」的なアプローチだと言えます。あんなにヒットを打たれたらたまらないというので、もしかしたら今後一塁ベースまでの距離を五〇センチ延ばすというような事態になるかもしれません。野球選手にとってこれは不幸なことですが、僕はこういう具合に、プレイを通してルールにアプローチできれば最高だと思います。建築家はまた別の方法を考えることができますから。
会場B──限界までルールを使い切って何をえようとしていらっしゃるのでしょうか。ひとつは景観かもしれませんが、そこには例えばドイツの公衆衛生学会がやってきたようなことが衛生学として背景にあるわけです。つまり規制を受けることで公衆衛生を得ているのですが、そのルールのなかで限界までやって衛生以外のことで何を得ようとしているのでしょう。
吉村──僕は選択の幅を確保することがとても大切だと思っていて、衛生水準を上げることや街並みをきれいにすることにさえ、実はあまり関心がありません。それよりも建築家としての自分をスルーしてユーザーが選択肢をどれだけ確保できるかということが重要です。それは建築自体のデザインに幅を持たせることでもあるだろうし、さらに、ユーザーの行動の幅を広げられる建築のあり方を考えることでもあります。そのためには闇雲に規制を解除するだけではなく、規制を強化することまで含めて、バランスが重要であるというのが僕の基本的な考え方です。
今井──そういう規制の下でしかつくらない建築家は常に敗者なわけです。建築家は規制に対して、最適解を求め続けてよい適用の方法を発見することで、規制そのものの意味がなくなる瞬間がやってくるのではないか。そうやって規制に勝つ瞬間が「超合法建築」なのかもしれません。これはアイロニーに近いと思うのですが、吉村さんのお話を聞いているとそのことに価値を置いているのではないかという気がしました。その結果規制が変更されることで、また負けることになるのかもしれないけど、抑圧されている状態をいかに表現するかが重要であるということです。
吉村──望む望まざるにかかわらず建築家は日々法規に接しています。そのとき、お上から告げられたものとして従順に従うのも、逆に反骨者をきどって違法建築に走るのも、僕にはどうもしっくりとこない。今は「デ・コード」を通して第三のアプローチを模索している最中だと言えるのかもしれません。
[二〇〇三年一二月八日]