オランダ現代建築紀行 今村創平
オランダ人の友達がチューリップ畑を見たいかと聞いた。内心僕はチューリップ畑などまったく見たくなかった。赤、黄、白、紫といったたくさんのチューリップを見るのはうんざり、と思ったなどいくつか理由はある。とにかく、チューリップを見たいとは思わなかった。友達は一緒に行こうと強く誘った。彼がそうしてくれたことを嬉しく思う。彼は僕をその景色の真っ只中に連れて行った。チューリップ畑を突っ切る道に沿って進むにつれ、僕はモンドリアンのことを理解し始めた。僕は彼のことをいつもインターナショナルな画家だと思ってきたが、彼がオランダ人の画家であることに気付いた。
ジョン・ヘイダック『ダッチ・グレイ』
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オランダの地平線を見たかった。水平に配置された一本の直線の上半分には抜けるような青空が広がり、下半分には青々とした牧草地に牛や羊が点々と見える。この極めて潔い幾何学的な空間への憧れ。北海道以外では地平線を望める地点のない日本とは、あまりに対照的なランドスケープを持つオランダに、親近感を感じるのは何故か。隅々まで正確でありながら、緊張を強いることなく、快適さに心身を任せることを可能にする国へ。
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六月下旬、オランダに一週間滞在した。何回目かの訪問であるが、前回は五年前に一日のみ。その前にオランダ各地の建築を訪ねて歩いたのはすでに一〇年以上前のことになる。よって、今をときめくオランダ現代建築の世界にどっぷりと浸るのは初めてである。
オランダの現代建築を取り巻く状況の勢いが語られるようになって久しい。そうした今まで雑誌で見て知っていた建築を実際に訪れ、その魅力を実感したいという期待があった。写真と実物が違うという自明のことはさておき、やはりその地に立つことで、取り巻く空気を感じ取り、そのことからも建築への理解が深まる。そうした思いは、今回多くの人々から話を聴き、語り合うことからも、かなり達成できたといえよう。以下、まとまりを欠いたかたちではあるが、今回の見聞を報告したいと思う。
オランダのランドスケープ(絵はがきより)
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まずオランダという国のアイデンティティを確認しておくことも無駄ではあるまい。昨今の建築界では何かと話題に挙がることも多いオランダという国だが、ヨーロッパのなかでは小国であり、歴史的にも国家として独立したのは比較的遅く一七世紀中頃である。私の場合、オランダというとすぐに連想されるのは、画家のレンブラント(一六〇六─六九)およびフェルメール(一六三二─七五)、哲学者のスピノザ(一六三二─七七)であるが、彼らの生きた時代が重なっている通り、政治的にも文化的にもこの小国のアイデンティティは一七世紀に形成された。鎖国中の日本が唯一付き合ったヨーロッパの国であったように、この時期のオランダは、宗教的にも思想的にももっとも自由が保障された国であり、世界中の亡命者が皆自由を求めて来たという。当時のオランダは貿易の結節点として機能することで膨大な富を蓄え、いわゆる「交通」をベースとする価値観が形成されていた。人々が動き、商品が動き、金が動く。そうしたネットワークを基盤として、国が成立したのであった。
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オランダ建築が最初に注目を浴びたのは、一九二〇年代、三〇年代のダッチ・モダニズムの時期である。ル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエのように時代を決定づけたり、イデオロギーを牽引したわけではないが、あるテイストを持った良質のモダン建築群を生み出した。それ以前に建てられたものでも個別に優れた建物はあるが、他国にもアピールするようなひとつのムーヴメントを生み出したことはなく、偉大な哲学者や画家を生み出した黄金の一七世紀にも、彼らと並び立つような建築家は輩出していない。二〇世紀になって、H・P・ベルラーヘの《証券取引場》、G・T・リートフェルトの 《シュレーダー邸》、J・ドイカーの《オープンエア・スクール》等々、注目されてしかるべき作品が作られたのである。しかし本稿では現代建築を中心に報告したいと思うので、近代建築については簡単にしておき、強く印象に残ったことだけを書き記しておく。J・A・ブリンクマン+L・C・ファン・デル・フルフト《ファン・ネレ工場》[図1]は写真で見ていた以上に透明であり、この美学の徹底にはそれを要求したクライアントの存在があったことを知った。世界遺産への申請を準備していると聞いたが、それも納得できる傑作である。W・M・デュドックの《ヒルベルサムの市庁舎》[図2]は、白くて透明とは違う方向のモダニズムもオランダで熟していたことがわかる。ライトの影響を強く受けながら、それを完全に自分のものとして翻訳し、時間をかけて隅々まで丁寧にデザインされている。これもまた傑作である。
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NAi(オランダ建築博物館)で開かれていた「ロッテルダム第一回建築ビエンナーレ」は残念ながら不評である。そもそもヴェネツィアの建築ビエンナーレが終わり、その代わりの位置を占めるという目論見が、ヴェネツィアの存続に伴って失敗に終わった。またちょうど館長がクリスティ・フェイライズからアーロン・ベッキーに変わったばかりで、まだ新しい体制が整っていない時期に重なったのもオーガナイズを不調とした要因のようだ。テーマは「モビリティ:ア・ルーム・ウィズ・ア・ヴュー」であり、ディレクターはメカノのフランシン・フーベン。展覧会およびNAiの施設の案内をアルバイトの学生がしてくれたが、これは学生にとっても小遣い稼ぎかつ勉強になるいいシステムだと思う。《ファン・ネレ》も《ヒルベルサムの市庁舎》でもよく勉強し、その建物に惚れ込んだガイドがついて説明してくれたが、こういうところは是非日本でも取り入れられればいい。ちなみにヨー・クーネン設計のNAiの建物自身はあまり感心しなかったが、充実した蔵書を持つ図書館が一般にも開放され、またドローイングや模型の収蔵は驚嘆すべき質と量であった。日本でもようやく建築学会の施設の片隅に建築博物館が今年の頭にオープンしたが、早くこうした充実したものになって欲しいものである。ちなみにNAiは国立の施設であり、ほかにもフランクフルトやモントリオールにも建築博物館はあるが、その活発な展覧会や出版といった活動で、今NAiに一番勢いがあり、それはオランダ建築の勢いをそのまま反映しているといえるし、やはり現代建築を盛り上げようとする公的支援があることを意味している。
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今回訪れた美術館は一カ所だけ、デン・ハーグのマウリッツハイス王立絵画館である(レム・コールハースの《クンスト・ハレ》も訪れたが、それは建物が目的であった)。ここでは未見であったフェルメールの《デルフト眺望》と《青いターバンの少女》を見ることができたが、ともに期待にたがわぬ美しい油絵であった。フェルメールを見ること自体非常に楽しみにしていたし、と同時にオランダ理解の鍵となると思っていた。フェルメールの魅力を僕が書くことはまったくの力に余ることであるが、その絵画の持つ高いクオリティとモチーフは、オランダの特性をよく表わしているように思えてならない。
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いくつかの建築家のオフィスを訪ねた(OMA、WEST8[図3]、MVRDV、メカノ、クラウス・エン・カーンなど)。こうした情報は興味本位のものとなってしまう恐れもあるが、なかなか日本にいては知りえないことだし、彼らの作品やオランダの状況を理解する手助けにもなるだろう。多くのオフィスは倉庫(WEST8、SeArch)や工場(MVRDV)を改造したもので、スタッフは高い天井の下、くつろいでのびのびと仕事をしていた。窓の外に運河が広がっていたり、緑が広がっていたところもいくつかあった。とにかく働く環境がいいことは、外国の設計事務所を訪ねていつも羨ましく思われることである。夕方にはほぼ皆仕事を終え、週休二日は当然のこと、週休三日のスタッフも多いと聞く。少し趣きが違うのはレムの事務所で、アメリカの小都市にあるような凡庸なデザインのオフィスビルに入り(それがまたレムらしいと言えばレムらしいのだが)、またほかのオフィスと違って、スタッフがみんなやつれていた。『El Croquis』でもみるように、OMAやMVRDVなどの事務所には、形態をスタディするための無数の模型が所狭しと置いてある。まさに形を生み出すための試みが現在進行形で行なわれていることがよくわかる。しかし、一方では、基本計画以降の模型はどの事務所にもまったくと言っていいほど見られない。キース・カーン(クラウス・エン・カーンのパートナー)は、「うちの事務所は最近のオランダの設計事務所としては珍しく、実施設計図まで自分たちで描いている」と言っていた。スタディ模型ばかりが多いというのは、実現のあてもない計画が過半であることも理由のひとつであるし、基本的なデザインをした後は、実施図面はほかの事務所が描くケースが多いためであろう。
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さて、実際の最近の建物であるが、二〇やそこらの建物を訪れたが、それでも見るべきもののごく一部であるので、オランダ現代建築を総括するというにはとても至らない。また、短い字数で、あれは良かった、これは悪かったと書いても、あまり意味のあることとは思えない。強く印象に残ったものだけを挙げるとすると、ユトレヒトのレムの《エデュカトリアム》[図4]とクラウス・エン・カーンの《ヴフトの博物館》[図5]になろうか。この二つは対照的なプロジェクトと位置づけてもいいかもしれないが、それぞれ現代オランダ建築の二つの極を示しているように思われる。
嬉しい誤算は、思っていた以上に施工能力が高くなっていることであった。一〇年程前には素朴な工法しかなかったが、今では精度よく細かなディテールも実現されている。もっと張りぼてを予想していたのだが。ただ、少し前まで高度な建築技術や成熟した収まりがなかったことが、現在の自由な試みを許しているという側面もあると思う。日本は技術的に進みすぎたために、それが表現を制約していることも多いことに、改めて気付かされた。
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行った先々で、オランダの好景気は終わり、これからは厳しい時期が来るだろうと聞いた。若手建築批評家として活躍しているハンス・イベリングスも、オランダの現代建築の今後の展望について問うと、経済の縮小はとりわけ若手建築家に深刻な影響を及ぼすだろうと言った。それでも、アムステルダム周辺やその他の地区でも活発に建設工事は行なわれていて、デザイン的に新鮮なものが多い(伊東豊雄《オフィスビル マーラー4 ブロック5》は工事が始まっていたし、暫く止まっていたSANAA《スタッドシアター》も再開されたと聞いた)。オランダの後に寄ったイギリスでは、同様にここしばらくは現代建築のラッシュだということになっているが、その主役はノーマン・フォスターやリチャード・ロジャース、外国からはジャック・ヘルツオークやリカルド・レゴレッタという大御所であり、オランダのような瑞々しさとは程遠い。実際にオランダでは多くの若手建築家が実作の機会に恵まれており、それがオランダ現代建築の文字通りの若々しさを生み出していると言えよう。例えばすでに国際的知名度のあるMVRDVの三人の現在の年齢は四四歳、三九歳、三八歳、クラウス・エン・カーンの二人は四七歳と四二歳と、充分若いながら、彼らはすでに数多くのプロジェクトを手がけている。しかし、実際に訪れてみると、まだ日本には名前は伝わっていなくても、活発にデザインをしている三〇代の建築家が多くいることに驚かされる。できたばかりの巨大なガラス張りの「ウォーキング・シティ」のような《INGグループ本社ビル》は、施工坪単価がオランダで最高額だと話題になっていたが、これも日本ではまだ無名な若手ユニットが設計している(メイヤー・エン・ファン・スフォーテン・アーキテクトン設計。と言っても彼らの具体的な年齢を知っているわけではなく、たぶん四〇歳代なのだろう)。社会に若手にやらせようという機運があり、若手もそれに応えて意欲的にアイディアを出そうという、いい関係ができている。不況もあって、住宅くらいしか仕事のない日本の若手建築家から見れば本当に羨ましくてたまらない状況がある。
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オランダの重要な特徴は、先にも述べたようにさまざまな都市や町がネットワークを形成していることだ。オランダはひたすらフラットな国であるが、そこを電車や車で移動し街と緑地が交互に繰り返されるありさまを見ていると、大小の都市がヒエラルキーなしに結びあっていることが実感できる。首都はもちろんアムステルダムであるが、ロンドンやパリのようにその国の権勢の中心といった位置づけはない。アムステルダム、デン・ハーグ、ユトレヒト、ロッテルダムが、それぞれ機能分担しているという説明のされ方がよくされるが、それ以外にもデルフト、ヒルベルサム、フローニンゲン、マーストリヒトなどなど個性のはっきりした都市や町が散在しており、それぞれが自律的にありながらも、お互いにネットワークで結ばれている。原広司は、離散的配置を自分の理想とする空間モデルとして位置づけているが、実際オランダはそのように成り立っている。原は、オランダ人は自分の考えをよく理解してくれると先日発言していたが、それもわかる気がする。
原はまた、オランダ的な哲学者スピノザの考えに最も共鳴すると述べていたが(しかし、一五年ほど前に出版された代表著書『空間〈機能から様相へ〉』の末尾にある膨大な参考文献のなかには、スピノザの『エチカ』は含まれていない。九〇年代以降の検討により、スピノザを発見したということか)、スピノザは「自然」という状態に、絶対的な価値を置く。それは自然を人工物で征服すべしというヨーロッパで支配的な考えとは大きく異なり、日本人の感性に親和性を持つ。しかし、注意すべきは、オランダという国は、地面から始まって草木にいたるまで、すべて計画的に作られているということだ。国土の大半が水面下にあり、大規模な干拓で国土を作り出していて、自然に見える牧草地も、もちろん道も橋も何もかもが計画(デザイン)されており、自然発生的に生成したものというのは一切ないと言われる。だから、レムやヴィニー・マースがプログラム(計画)に拘るのは、極めて、オランダ的だということだ。話を自然に戻すと、日本では「自然(じねん)」と呼ばれるようになるがままの状態に価値を見出すが、オランダにはそのような自然はないということである(このように自然から都市が連続した人工物が生み出す風景を、吉良森子は「トータル・ランドスケープ」と名づけ、これからの都市、建築、自然の作り出す関係のひとつの方向性と位置付けている)。
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私はけっしてオランダの専門家ではないし、たった一週間の滞在の印象から結論を急ぐのは慎むべきであろうが、こうしたオランダが持っている状況が、昨今世界で都市や建築をめぐって議論されていることの理想的なモデルとして読めるのではないか。そのことはすでに『SD』一九九九年二月号の特集「ダッチ・モデル」の巻頭言で吉良森子が指摘している通りであって、そのことをいまさら実感した私はまったく遅れていると笑われても仕方がないのだが、オランダ現代建築はたまたま経済の調子がよかったからとか、レムという天才がいたからということだけではなくて、その本質的なあり方において今後もわれわれにインスピレーションを与えるものと期待している。
1──ブリンクマン+ファン・デル・フルフト
《ファン・ネレ工場》1926─30
2──デュドック
《ヒルベルサム市庁舎》1928─30
3──WEST8事務所外観
4──OMA《エデュカトリウム》1997
5──クラウス・エン・カーン
《ヴフトの博物館》2002
討議 今村創平×今井公太郎×日埜直彦×吉村靖孝
建築のジャーナリズム化?
吉村──短期間でものすごい量の情報を得てきていらっしゃることにまず驚きました。それはジャーナリスト・ツアーだからこそなせる業なわけですが、他方、ジャーナリスト・ツアーであるがゆえに陥りやすい罠にはまってしまっているのではないか、とも感じました。たとえば、「外国の事務所」を訪ねたときいつも羨ましく思うと書かれていますが、ツアーの場合、訪ねたのが「外国の」事務所だったのか、それとも「成功した」事務所だったのか、という点がうやむやになってしまう。あるいは、オランダでは多くの若手建築家が実作の機会に恵まれていると書いていらっしゃって、おそらくツアーはそういう印象を持てるように設計されているのだと思いますが、僕の印象では、彼らはけっして甘やかされているわけではないんです。たしかに、処女作が公共の集合住宅と聞けば羨ましい限りですが、オランダの集合住宅は大変なローコストですし、ほかのビルディング・タイプにくらべてレギュレーションも厳しい。エスタブリッシュした建築家は倦厭しがちな仕事になっています。その意味では日本の若手建築家が取り組む小住宅と似たところがあるかもしれない。そのうえ、数で言えば当然圧倒的に少なく、将来を嘱望されるひと握りの若手のみが手に入れることができる仕事なわけです。成功の影には無数の失敗、というか失敗のチャンスもない人たちがいる。日本の建築家のように住宅建築でキャリアを積み、実力があればステップアップすることができる仕組みは、彼らには逆に羨ましく映るでしょう。
今村──言い訳めきますが、このレポートはあくまで僕が一週間という限られた時間内で感じたことです。これに対してもっとよく状況を知っている人からの「印象ではそうかも知れないが実際はこうだ」といったコメントや異論は、読む人にとっては意味があるでしょう。
吉村──この今村さんの経験自体が、オランダ建築のある側面を浮き彫りにする話題になりえるのではないでしょうか。つまりジャーナリズムに関する話です。オランダのジャーナリズムは官民問わず厚みを持って展開していて、そもそもジャーナリスト・ツアーをオーガナイズしているということ自体、われわれにとっては驚きなわけです。彼らは展覧会の組織の仕方、出版物の組織の仕方にも優れたテクニックを持っていて、「オランダ建築」という、あるようなないようなカテゴリーが外から見るときちんと輪郭を持って見える。ジャーナリズムがそういった錯覚を起こす装置のように機能している。
日埜──このレポートのオランダの二〇年代あたりのモダンについて書かれているのを読んで思ったのですが、例えばドゥースブルグみたいなきわめて有能な扇動者の「資質」は、オランダとオランダの建築家像として一般性があるんでしょうか。つまりコールハースとドゥースブルグはどちらが有能な扇動者なのかということをぼんやり思ったりするわけです。ドゥースブルグはまぁバウハウスをひっくり返しちゃうほどのインパクトがあった人ですし、コールハースにもそれに重なるところがないではない。まぁ比べようがないことではありますが。あるいはそれはジャーナリズム的な情報処理能力、情報を組み立てるプレゼンテーションの能力と関係があるのかもしれません。
吉村──ドローグ・デザインなんかを見ると確実に同様の構図があてはまるような気がしますね。建築の場合はどうでしょう。レムにはオランダ建築を束ねているような意識がさらさらないことは確かだと思いますが。それでも、ジャーナリズムと建築が接近している、あるいは建築がジャーナリズム化しているということが言えるかもしれない。
オランダは協議を重んじる国です。これはオランダ人の建築家に言わせると、とにかく面倒臭いことらしい。ロッテルダムなどにいる建築家がアムステルダムに打ち合わせに出掛けて行くと、乗ってきた車を駐車せざるをえませんが、だからアムステルダムの駐車場にとってロッテルダムの建築家はいいお客だみたいな冗談がある(笑)。とにかく一回話し出すと長い。さらに、いろいろなところを廻らなければならず、手続きがものすごく煩雑です。彼らは冗談めかしているばかりで、それを利点だとは言いません。でも外から見ると、それが彼ら独特の形態の作り方に深く結びついていると勘ぐりたくなる。コールハースとかヴィニー・マースは、協議というプロセスを、プランの組み立て方にほとんど重ねてしまっているように見える。そして彼らは協議の度にブックレットをつくる。それもいちいちグラフィック・デザイナーを入れたりしてクオリティを上げています。なぜそういったことをするのか。単純に完成度の高いプレゼンテーションで見る人を幻惑するということではないんです。そうではなくて、渡したその先で勝手にそれがひとり歩きしてくれることを期待しているからなんです。施主その他のプロジェクトの関係者がその絵本のような本を持って別のところに行き、どういったことをやるのか説明してくれる。実際そういう機会は多く、そこで失敗するとプロジェクトはたち行かなくなる。だからなんとかして誤解を少なくするように本をつくる。誰にでも同じクオリティのストーリーを反復できるような仕組みで。そういったことは、建築本体の作られ方にも影響しているところがあると思います。
日埜──それは建築だけのことではなく、社会の動き方ときっとフィットしているんでしょうね。
コミュニケーション/理論の構造
今村──人を説得するシステムというのは、どのように自分の考えを明確に伝えるかということですね。いま吉村さんがおっしゃったようにオランダの建築や雑誌が目立ってきたのは九〇年代です。それをオランダ的だと仮定しても、そういったプレゼンやコミュニケーションの仕方は昔はなかったわけですが、オランダではそれをレムの功績とみなしているのでしょうか。それとも建築界だけではなくて、社会全体にそうした傾向があるのでしょうか。
吉村──九〇年代に変わったかどうかという点に関しては、僕には正確な情報がありません。ただ現在では、「本」の文化というのはオランダじゅうどこにでもあるものです。例えばディヴェロッパーも本を作るし、アーティストが何かイヴェントをやるといったって本を作るわけです。そういった文化自体はあったけれども、それをツールとみなして作品化したのはレムだというところでしょうか。「本」を戦略的に使っていった、と。
今村──その方法を日本でそのまま応用するには問題があるのでしょうね。
吉村──試みは当然あるのでしょうが、彼らの理解の構造、あるいは理論化の構造というのが「本」という形式とよく合致していることは忘れてはならないと思います。MicrosoftのPowerPointのような感じで、ページを捲ると物語がひとつ進展する。こうだから次はこうである、といったように物語が線的につながっていく。でも日本人の理解の仕組みはちょっと違うのではないか。だから、日本でこの手法を応用する際の問題ということで言えば、本を作る技術やコストではなく、物語を線的に組み立てることの難しさのほうがネックになるのではないかと感じています。
今村──問題は作る側よりも、受け取る側にその土壌がないということですね。
吉村──そうです。
日埜──人の喋り方をダイヤグラムで書くとどうなるかという話を最近なにかで読みました。キリスト教圏の人々は結論に向けて基本的に直進するらしい。日本人はあらゆる方向をちょっとずつ押さえながら螺旋状に結論へ落とし込む。アラブ人は確かあちこちで矛盾にぶつかりながらジグザグに進むとか(笑)。これらは人を説得していくためのプロセスですが、その意味で本というプレゼンテーション・ツールには論理で簡単に切れない影響があるのかもしれません。メディアはメッセージである、って言いますし。
吉村──まだ実験中なんですが、最近僕は、大きな一枚の紙にあれこれひっくるめてレイアウトするという手法を試みています。机の上に一枚を広げて、同じ画面上でここはプランで、そこはダイアグラムでといった話し方をします。例えばマンガなんかだと、同じ画面のなかでも話の流れがあっちへいったり、こっちへいったりしますよね。また、直感的な話ですが、日本人は同一平面上に複数の時間軸が埋め込まれていることにあまり違和感を感じていない。そういう意味で、試してみる価値はあると思っています。
形態言語とクリティック
今村──『SD』の「特集=ダッチ・モデル」(一九九九年二月号)はよくできていて、そこで挙げられているオランダの特徴を示すキーワードは、インフラストラクチャー、制御システム(コントロール)、対等性(ホリズンタリティ)、合意形成(コンセンサス)、合意主義です。ここでいうダッチ・モデルというのは建築における話ですが、オランダのシステムは建築以外の政治などの面でも注目されているんですよね。一方、雑誌では編集をする過程で必ず力学が生じる。こうした特集に対して、オランダにいた経験から、違和感を感じることはなんですか。
吉村──この号は、建築の特集としては変わっているなと思って眺めた記憶があります。建築の形ではなく、どういった社会的背景があるのかのみに焦点をあてていたからです。面白い特集だと思いますね。ただ、その社会的背景と形の関係にももう一歩踏み込んでほしいという欲もでてきます。例えば、今村さんのテキストのなかで、ライトに影響を受けているJ・ドイカーの話などが出てきますね。オランダと日本を比較したときはいろいろな共通点が見出されますが、本国以外でライトが例外的に受け入れられた特殊な国であるというのもそのひとつです。初期の頃、ライトは「水平性」といっていましたが、それが、オランダに輸入されると三次元的に展開します。例えばライトのやっていたことはデ・スティルに影響を与えているわけですが、デ・スティルは基本的に三次元的にモノを扱っていく。もっとわかりやすく言うと、ドイカーにしてもデュドックにしても、一見ライトのコピーのようでもあるのですが、なんだかずんぐりむっくりしている。僕は、最近のオランダ人の形の作り方にも共通している部分があるのではないかと思っています。その背景に何があるのかというと、端的に言って土地の狭さがある。狭いから高くせざるをえないという非常にシンプルな理屈ですが、例えばMVRDVは二〇〇〇年のハノーバー万博で、拡がっていた地盤を積み重ねて、これをオランダの国土開発の次の目標にしようという提案をしました。こうした考え方自体はけっして新しいものではなく、人口密度が非常に高い(オランダと日本はほぼ同程度)ことによる潜在的な閉息感、土地の不足といった要因が、形態にも一貫して影響を与えているのだと言えるかもしれません。簡単に言うと幼児体型なんです。フットプリントが小さく、頭が大きくなる傾向があります。OMAやMVRDV、ノイトリングス&リーダイクの作品なんかには、あきらかにそういう操作が認められる。特にノイトリングス&リーダイクなんかは、ドローイングも太線で、ある意味ディック・ブルーナ(〈ミッフィー〉の作者/在ユトレヒト)風ですから。彼らは戦略として使っている部分もあるのでしょうけれど、消費者のほうは、高密度の国に住む者ならではの、根底に潜む衝動のようなものによって誘導されているのではないでしょうか。
今村──僕自身も当地へ赴いたとき、オランダのインフラストラクチャーや社会を支えている背景に興味を持ちました。反面、吉村さんが言われたように、形態の言語はたくさん発明されていますが、それに対するクリティックがどれだけあるのか疑問を持ちました。建築を社会学的に語ったり、都市で語ったり、バックグラウンドで語ることが非常に多い。ただそれはオランダに限らず世界中で見られる傾向ですね。今回訪ねたロンドン大学でも、最近の建築批評はその周辺のことに終始していて、建築そのものについて書いている人は誰もいないという不満を聞きました。
自然 /New Natureと建築
今井──今村さんのこのレポートのなかで感銘を受けたというか、非常に気になったところがあります。自然(じねん)という概念のところで、吉良森子さんの「トータル・ランドスケープ」の話が出てきました。国土からつくられたオランダという国の特性は、人工と自然との境目をなくしていこうとする傾向にあるのではないかと思うんです。日本人の感性には、あたかも人間と自然とが密着しているかのような、いわゆる親自然的なイメージがあると思いますが、オランダではそれ以上に人工と自然とが混然一体になっている。今見ている風景自体が人工的につくられたものであり、そういった感覚は日本人ですら想像できません。より抽象的なレヴェルで、新しい概念としての自然のようなものがあるのではないかと思うんです。こういった側面に関して、オランダに住んでいる人たちはどう感じているんですか?
吉村──先日も来日したMVRDVの連中と、オランダの自然と日本の自然の違いをどう捉えるかという話をしたばかりです。たしかに彼らは人工と自然は対極ではないと思っていますね。ただ、彼らが「New Nature」というキーワードのもとに採集した事例は、日本人の茶髪、日本の屋内スキー場、日本の人工ビーチなどで、日本の状況と自分たちの活動をだぶらせているふしがある。日本に来たときにも、じっくり目を凝らすとありとあらゆるところがカルティヴェイトされているという印象をもったようで、地形は違うが自然と人間の関係は似ていると感じたようです。僕らはもう少し詳細な検討をする必要があるかもしれません。
今村──ヨーロッパでは自然に対立するものとしての建築という位置付けをよくします。日本ではそれがもう少しずるずるした関係になっていて、その間に立つのが快いと考えられている。この『SD』の特集でも書いてありましたが、オランダの面白い点として、ほとんど水平なランドスケープをキープするただそれだけのために、国家予算の二〇パーセントを使っているそうです。人工地盤として埋立、灌漑をするために必要なイニシアルのコストだけではなく、一見自然に見えるものを維持するのにものすごいお金をかけている。それははたして自然と呼べるのか、もうわからない。あるがままに放っておいたものを自然というのか、われわれが愛でている緑が自然なのか。そうした点が非常に曖昧になっています。吉良さんは「トータル・ランドスケープ」という言い方をしていますが、そういったオランダ的な状況は面白いですね。日本人にはわかりやすいことですが、都市に限らずどこで仕事をしても手付かずの自然などもうないわけです。例えば最近MVRDVの《まつだい雪国農耕文化村センター》を見に行きましたが、後ろにはすごくきれいなたんぼの風景がありましたね。あれは棚田ですからものすごく手間がかかるわけで、極めて人工的な風景なわけです。それを自然と呼び、そのきれいな自然のなかに非常に白い不思議な物体がポンと置いてあるとみんな言っている。しかし、そこでの自然は、実は管理し尽くされた人工物なわけです。その関係は面白いと思います。
都市の集合と離散
今井──作らなくてはいけない人工物というのはどういうものかと考えてみましょう。例えば自己主張する人工物ばかりのなかで生活するとなると、疲れてしまいますね。人間にとってなにが一番自然かということを考えて人工物を作っている、そういった面があるのではないでしょうか。できるだけ人間の主観が入り込まないように、非常にシステマティックな方法で人工物を生成している。システムで動かすことが一般的なのではないかと考えています。そのこととオランダの持つ離散性のようなものがどう結びつくのかは、まだハッキリとは分かっていないのですが。地勢的な要因によるのか、それとも彼らが意識的にやろうと思ってそうなったのか。そのあたりはどうでしょうか。
吉村──彼らはそれを「ランドスタット」と呼んでいるわけですが、これは飛行機で上から眺めたときに生まれたという逸話があるくらいで、わりと新しい考え方です。事後的なものであり、呼び方の発明なわけです。現時点でそこまで強いネットワークができているのかは疑問です。多分にレトリックな部分を含んでいるという印象を僕は持っています。
今村──小都市がばらけているというのは、フランスやイギリスのように、パリ、ロンドンにすべてが集中しているのと対照的な状況ですね。ドイツもオランダのように全土に小都市がばらけた国になっています。
日埜──小さな国が集まってドイツという集合を漠然と形成していた状態が長かったという歴史的な背景があると思います。一方でオランダの場合、単一の王国として存在していた。国土を干拓によって作っていったということが強力な歴史的背景にあるでしょう。アメリカの場合、新しく土地が発見されて東から西に人が入っていって、もちろん農業の形態とかそれなりの理由はあるんでしょうけど、結果として適当にばらけて街ができている。
吉村──離散というか、スプロール状態に関してはMVRDVはいろいろな提案をしています。例えばオランダの南部にあるブラバント州に広域の街づくりの提案をしていて、その関連で「ブラバント・ライブラリー」という巨大な州立中央図書館も計画しています。オランダの小都市は、図書館も小規模に落ち着いているし、公園もコンパクト、小さなデパートがひとつで、スーパーは一種類しかない。非常に小さなワンユニットができており、それが分散している。その状態に彼らは危機感を感じています。だからこれをまとめてそれぞれの街に再配置する。巨大図書館の街、巨大公園の街、巨大ショッピングモールの街という具合です。それがマイナーな選択肢を残す唯一の方法だというわけです。とにかく分散の度合いを再検討しなければ、それぞれの小ささが決定的な不具合をもたらすだろうというのです。コンビニで買えるものしかなくなるような状態です。
今井──それぞれの街をお互いに完全に結び付けるようなことは可能ですよね。
吉村──この計画では公共交通機関は非常に大きな役割を担わされています。
今井──そういった状態を現実の空間として作ったときにどういうことが起きるか。都市は平面的に拡がっているものですから、それを全部結んでいっても当然どこかに終わりがあるわけです。地球を一周してしまえばいいのですが、そこまでは拡がっていけない。ある拡がりのなかでの関係になるわけです。それぞれのコミュニケーションを全部同じ値で見ていくと、真ん中の部分が当然混むわけです。平等ではなく周りにある都市に不公平感が生じる。あまりアクセスが良くないといったことは地上では起きてしまいます。インターネット上ではアクセスの問題はあまり発生せず、その空間においてはどこからどこへ行くのにも等距離であるわけです。実際の空間とインターネット状での空間を比較するとその点で異なり、必ずしも対置できません。
日埜──オランダで起きているというその危機感は、結局漫然とホモジニアスになってしまうということですよね。離散的に存在していて、それぞれがとりあえず最低限機能するための必要を満たそうとした結果、ほぼ同じ程度の単位が揃ってホモジニアスになってしまう。社会のシステムからしてオランダはモダンな国だと思うんですけれど、結果から見てそういう社会には個性が欠けていて具合が悪いということですかね。
吉村──少なくともMVRDVの連中は多元主義的な視点を持っていて、どうやって選択肢を増やすか、というほうに重きを置いていますね。
日埜──日本は地形自体も複雑で歴史的な背景もずいぶん複雑だし、あえてそういうものを起こす必要性を感じないというのはあるのかもしれないですね。
吉村──オランダ人は、自ら複雑さを生み出さなければ複雑にはならないと思い込んでいるところはありますね。これは自然の話とつながるかもしれません。
景気と国際マーケット
今村──日本の場合、世界のなかでも例外的にポストモダンとバブルの時期が一致しています。イギリスとかアメリカなど他の国におけるポストモダンの時期は、どちらかというと景気が良くない時期に重なっていますよね。日本の場合、ポストモダンの時期がバブルの時期に重なっていたため、ポストモダンを語る際、バブルで浮かれていたみたいなネガティヴな言い方がされてしまう。
日埜──逆に景気が悪いなかではともかく頭で考えざるをえないから、ラディカルなアイディアが出てくるというのもある程度真実でしょう。
今村──先程はネガティヴな話題として出しましたが、八〇年代頃の日本は景気のいい時期であったために、当時建築家はいろいろな新しい試みができたわけです。そういった状況が今のオランダにもあるのではないでしょうか。こうした状況は似ていると言えるのか、根本的に違うのか。
日埜──ぶっちゃけて言えば、オランダにおいても一〇年後残るものというのはそんなにないと思います。もちろん、アイディア、手法、あるいは彼らのオペレーショナルな考え方というのはきっと残ると思います。しかし、良い建築とか悪い建築とかいう尺度で言えば、本当に残る建築がそんなにたくさん出てくるわけがない。現在からは近すぎてわからないだけで、クズみたいなものも今評価されているもののなかにきっとある。オランダの建築家もそういうなかで必死で試行錯誤し、それがポジティヴにフィードバックして、今の活況があるんでしょう。ただコンヴェンショナルなだけでは仕方がないということは、景気なんかとは関係なく彼らもわれわれも同じ意識であるに違いない。
吉村──日本は好景気の頃に表層のデザインで無駄なことばかりをやっていたから延命できなかった、でもオランダは景気の良い時期にうまく実験的なことをやったからそれは残る、とか、そういったことはないと思うんです。日埜さんのおっしゃる通りです。彼らがやった実験的な仕事は、オランダ人にとってもやはり過激なことであり、無駄なことにも見えるわけです。プチバブルがはじけて以降、過激なことをやっていた事務所には急激に仕事がなくなっているという状況がある。
編集──やはりありますか。
吉村──ありますね(笑)。MVRDVなんかは特にその影響をもろに受けています。
今村──だから、外国から非常に注目を浴びているためでもあるが、オランダ国内で仕事をするよりも外国に出て行くしかない。レムであっても最近は結構厳しく、国内の仕事はほとんどないという話を聞きました。日本と同じように、経済が不調になり社会全体がかなり保守的なことを良しとするという風潮がある。こうしたことは、今回行ってきて非常に感じました。
吉村──下世話な話になってしまいますが、バブルのうちに国内でどれだけ建てて、国際的なマーケットに出ていけたかということですね。MVRDVもオランダ・バブルの終息以降は国外の仕事が増えたから助かっているんだけれども、そのときにそこまで行けなかった事務所は一気に経済的な危機に瀕しています。
編集──今号の日埜さんの原稿にもありましたが、バブルの時にたくさんつくった建築家はネガティヴに捉えられています。けれども今、中国に行っている建築家は八〇年代に積極的に活動していましたね。バブルと建築の関係をどう考えますか。
日埜──基本的には経済のような建築の外の状況とは関係ないレヴェルの話を見なくちゃいけないんでしょう。問題を展開し、可能性や価値を提案できた人は残るだろうし、そうではない人は残らない。これは別に特殊な話ではなくて、ごく当たり前のことです。別の言い方をすれば、バブルの時に踊ったのは嘘だったのかというと、それは必ずしもそうとも言えないんじゃないか。みんな踊ったしそれがリアルだったんだというのは言いにくいけれども、そこをいくらつついても始まらない。バブルだから云々という話は脇に置いて、今オランダにアグレッシヴな状況がある、しかも意外と長続きしているという印象さえ個人的にはあって、それをドライヴしている状況には期待したっていい。僕らももっとアグレッシヴになりたいとどこかで考えているから、オランダに興味を持つわけですし。
[二〇〇三年八月七日]
日埜直彦、今村創平
今井公太郎、吉村靖孝