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東京フォークゲリラ・ノーリターンズ (別称=昭和残響伝) | 小田マサノリ
The Tokyo Folk Guerrilla, No Returns. (a.k.a. An Echograph of the Showa Era) | ODAMASANORI
掲載『10+1』 No.32 (80年代建築/可能性としてのポストモダン, 2003年09月20日発行) pp.32-35

昭和四四(一九六九)年の春、坂倉準三が設計した《旧国鉄・新宿駅西口広場》の地下に突如として巨大な「ゲリラ建築」が姿を現わした。それはパリ五月革命の年の終わりに、ボザールの学生たちがパリ郊外を占拠して建てた《人民の家》の出現から数カ月後のことだった。そのやや遅れて東京に出現したそれは都市の郊外ではなく、その中枢部である駅の地下に現われた。通称「地下広場」、別名「新宿解放広場」。それが、「東京フォークゲリラ」を名のるベ平連の若いシチュアシオニストたちが、その「地下の見えないゲリラ建築」に与えた名前だった。その年の二月二八日、フォークゲリラたちの音楽による反戦行動が、新宿西口広場と銀座数寄屋橋で同時にはじまった。もともとそれは、関西のヤング・ベ平連が大阪梅田の地下街ではじめた「梅田大学」に感化され、それを東京に移築してきたものだったが、新宿のフォークゲリラたちは、わずかな数のアコースティックギターとトランジスタ式メガホンのアレンジメントによって西口広場を大胆にリノベーションし、音楽を通して抵抗の情動を通いあわせる地下の水脈をそこに探りあてた。地下広場の低い天井は、アンプラグドのギターが弾きだす単調なコード音の塊とトランジスタで増幅された生の声を、広場の隅々まで鳴り響かせる格好の反響装置だった。このラウドなサウンドの介入が、広場の地下に眠っていたライヴな音響空間としてのポテンシャルを目覚めさせ、都市の隠れた音響資源を発掘した。その後の七月二六日までの行動で、それまではただ人が通り過ぎてゆくだけの場所、大量の人間をただ吐き出し続けるだけの吐人空間であったところに、次第に人々が立ちどまりはじめるようになった。三橋一夫は、西口広場は「人間が集まる広場にはつくられていない。アゴラなどとはまちがっても考えていない設計である。あの広場は人間が集まるところではなく、自動車のインターチェンジを中心につくられている」★一と書いているが、もしそうなら、その時、地下広場で起こった「現象」は、ウルトラモダニズム建築の中心にその設計から排除されていた人間とアゴラが亡霊のように回帰してきたとも云える。そしてその地下のアゴラでやがて人々は、国家の政治をめぐる議論を交わしはじめ、時の政治家や資本家を批判する替え歌のアンティフォニーを響かせるようになった。土曜の夜がくるたび、この食人空間に飲み込まれてゆく人間の数はみるみるふえてゆき、東京の巨大なはらわたにつながる盲腸のようなこの場所は怪物的なまでに膨れあがった。地下のシェルターを連想させる地下広場での集会は、フォークソングを共通言語とする若者たちの解放区となり、夜の東京のアンダーグラウンドな公共圏となった。まさにチュミが云うように、アクションとイヴェントによる都市空間の占拠が、この見えないゲリラ建築を出現させ、そこをプロテストソングの地下聖堂にしたが、もとよりそれは禁止の暴力とのせめぎあいのなかから生まれた。地下広場が「現われ」たのは五月一四日に地下広場での、演説、合唱、署名、カンパ等を禁止する通達が出されてからのことであり、たとえば、高野光世は「西口で歌うことを禁止された時、私たちは西口に固執した」、そして「“歌”を、“西口”を、除外する時、私たちは既に、選んでいるのではなく、選ばされているのではないか」★二と書き、三橋一夫も、この禁止が「いっきょに三〇〇〇人から五〇〇〇人、ついには七〇〇〇人から一万人近くの人々が西口広場に集まる結果を生んだ」★三と書いている。そして皮肉にもこのゲリラ建築の「現われ」が、その直後に始まる権力による首都の公共圏の徹底した規制と長期にわたる管理のプログラムを始動させた。大内田圭弥の映画『地下広場』は、六月二八日の夜、機動隊が地下広場に投入され、夥しい数の催涙ガス弾によって集会参加者たちを強制排除し、道路交通法違反などで六四名を逮捕した弾圧の夜の光景や、同じく七月に新宿西口広場の名称が「地下通路」と改称され、警官隊が地下広場を占拠するまでの過程を記録している。その映画のラスト近く、深いエコーを響かせる電子音楽をバックに「広場はあたらしい戦術をもつだろう……」という黙示録的な予言が唐突に語られた後、トランジスタメガホンを手にした警官が告げるアナウンスメントがそれに続く。「立ちどまらないで下さい。立ちどまらないで歩いて下さい。歩いて下さい、立ちどまらないで下さい。歩いて下さい、歩いて下さい。立ちどまらないで下さい。立ちどまらないで下さい。立ちどまらないで下さい。立ちどまらないで下さい。立ちどまらないで下さい……」。この呪文のようなアナウンスに、地下通路を立ちどまらずひたすら歩いて行く群集の映像がオーバーラップされる。独特の歪んだ波形をもつトランジスタメガホンから発せられるこのアナウンスは、ある種のテクノやハウスのような催眠的な効果を与え、それが突然途切れたところで“地下広場”は終わる。立ち止まらないで歩いて下さい……このアナウンスはその翌年に開かれた大阪万博会場でのそれを思い起こさせる。実際、万博会場の様子を報じる昭和四五年のニュース映像のなかでこれとそっくり同じアナウンスを耳にすることができる。立ち止まらないで歩いて下さい……それは何のために? 無論それは、経済の繁栄と豊かな生活のためにであり、人類の退屈な進歩と調和のためにであったろうが、この高度成長時代のアナウンスメントは一見ありふれた言葉ではあっても、実はまぎれもなき国家の号令であった。地下広場と万博会場の両方で国民に向けてくり返し発せられたこのアナウンスは「立ちどまって考えたりせず、ただおとなしく見ていて下さい」というスペクタクル社会の従順な市民を養成し、管理するための命令であったし、それはまた、状況の構築や状況への介入の現場から市民を排除するものでもあった。その後、新宿西口で九四年と九六年に執行された地下通路からのダンボールハウスの強制撤去は、この場所がいまなお吐人空間として在ることを改めて知らしめたが、その後も六九年の弾圧の亡霊は新宿の地下でしぶとく生き続け、そのアナウンスは依然としてその残響を響かせている。平成一五(二〇〇三)年の二月、米英軍のイラク攻撃に対する全世界的な反戦行動の盛り上がりのなかで、あの「現象」が再び小さな息を吹き返し、いま地下広場で静かに呼吸を始めている。三四年前の同じ月にその同じ場所でフォークゲリラとして地下広場をたちあげた元・ベ平連の大木晴子氏がもう一度、自らの原点である西口広場に立ちもどって、反戦の意思表示を行なうアピール行動を始めたのである。毎週土曜の夕方六時から七時までの一時間のあいだプラカードのみを手に行なわれる無言のアピール行動は、三四年前にさかのぼる禁止が、いまなお亡霊のように棲みついているなかでまさに「選ばされたもの」であって、現在の地下広場では、歌は無論のこと、呼びかけの声をあげることすらゆるされていない。私も何度かそれに参加したが、「広場はあたらしい戦術をもつだろう」という予言は、管理側においてまず先に実現されてしまったようである。かつてギターとメガホンの音を広場の隅々に鳴り響かせていた地下の天井には、広場を隅々までモニターする監視カメラが設置され、また、かつてそこに集う者たちを見守っていた市民のまなざしにかわって今は、都庁が派遣した民間警備会社のガードマンのまなざしがそこに集う者たちの挙動を見張っている。何か妙な動きがあれば「ここは通路です、立ちどまらないで歩いてください」というアナウンスが見えないスピーカーから発せられる。そればかりではない。まるで「時は管理なり」とばかりに、ほんの数分でも時間を超過すれば、すぐさま警告が発せられる。そんな時、つい私は、太陽族の生みの親である都知事が書いたある小説の一節を思い出し、不思議な気分に襲われる。かつて石原慎太郎は『太陽の季節』にこう書いていなかっただろうか。「人々が彼等を非難する土台をなす大人達のモラルこそ、実は彼等が激しく嫌悪し、無意識に壊そうとしているものだ。彼等は徳と言うものの味気なさと退屈さをいやと言う程知っている。大人達が拡げたと思った世界は、実際には逆に狭められているのだ。彼等はもっと開けっ拡げた生々しい世界を要求する。一体、人間の生まのままの感情を、いちいち物に見立てて測るやり方を誰が最初にやりだしたのだ」★四。そして最近、絓秀実が指摘しているように、五〇年代、この「太陽の季節」をバックグラウンドにしたところで新左翼が出てきた★五というのが本当なら……などと考えだすと、ますます息苦しくなってきて、地下広場の地面に敷かれた奇妙な円盤模様のタイルで目をまわしそうな気分になる。その「開けっ拡げた生々しい世界」をことさら求めたくなる。だが、このように肉声すら奪われたなかでさえもなお「あたらしい戦術」は生まれる。ここでは内容は伏せておくが、それは管理とスペクタクルのまなざしを逆手にとって利用するという、まさにゲリラならではの戦術であり、やり方次第では、スペクタクル社会と管理社会のアーキテクチャを曝し出すことのできる戦術である。しかしそれはまだ端緒についたばかりで、肝心の民衆が欠けている。「でも一〇〇人集まればそれができる」と語る大木氏に「ヘビの関節はモグラの巣穴より複雑にできている」というドゥルーズの言葉を思いだし、ゲリラの眼はまだ生きている、とそう感じた。ところで、この新宿での静かな抵抗運動と平行して、いま渋谷の街では、イラク攻撃反対を機にはじまった「路上解放」を訴えるサウンドデモが展開されている。かつてフォークゲリラが、プロテストソングを通じて抵抗の情動を通いあわせる水脈を新宿のアンダーグラウンドに探りあてたように、いまそのデモは渋谷のオーバーグラウンドに、レイヴを通じて抵抗の情動の流れを解放するトランス空間を探りあてようとしている。サウンドシステムからDJがくりだすテクノやハウスの歪みきった波形と音圧の塊が、渋谷のガード下のエアポケットや表参道のファッションビル群のファサードを痙攣させ、レイヴの地鳴りがグローバルな資本とさまざまな条令によって占拠された渋谷の建築面を激しくゆさぶる。リロイ・ジョーンズにならって云えば、サウンドの衝動が移動したのだ。より手に負えないスタイルを身につけて、新宿から渋谷へと音による抵抗の地勢図は書き換えられた。スコアのない抵抗のリトルネロがいま渋谷の建築面の上でブレイクし、デモのレンジを拡張しようとしている★六。この夜の太陽族たちは、石原慎太郎が得意気にさしだす「ヘブンアーティスト」のライセンスや都があてがう「ストリートペインティング」のキャンバスなどには見向きもせず、もっと「開けっ拡げた生々しい」路上で、そうしたまやかしの自由に決して回収されることのない抵抗とその表現のきわどいラインどりを試みている。去る七月一九日に「イラク新法反対」と「禁止することを禁止する」を合言葉に行なわれた三回目のデモには山塚EYヨなどがDJで参加し、参加者は八〇〇人を超えた。デモの途中一部の過激な公安警察官と機動隊員らによる策動的な妨害工作にまきこまれ、二名の逮捕者が出るという被害を被ったものの、パンクやレイヴを共通言語とするこの踊るヘビたちの反射神経はモグラの巣穴より敏捷にできているようで、すぐさまこの弾圧に対する抗議行動とパーティーをたちあげ、すでに次のデモの計画も進められているという★七。また大阪では、東京の路上で起こった「現象」に触発され、八月三日に道頓堀で同様のデモが行なわれ、二五〇名以上が集まった。フォークゲリラはもう戻ってこないかもしれないが、渋谷の路上に出現した踊るアゴラは、スペクタクル社会に踊らされることを拒否し、立ちどまらずに自分で踊ることを選びとった。でも、なぜレイヴなのか、なぜ路上解放なのか。これについては、いずれその参加者たち自らが語り始めるだろう。かつてフォークゲリラが、なぜフォークなのか、なぜ歌うのかについて自問したように。そしてバルトが云うように「快楽は容易に分析に屈しない」のであればなおさらのこと、解放の快楽を抵抗の最大の武器とするこのデモについてそれを代行して語ったりすべきではないだろう。それが、連帯を求めてジャンルをはみだすことを恐れず、同時代の都市の状況の記述よりもその工作に関わりたいとする「都市ノ民族誌」の掟でもあるのだから。

1──昭和44年5月24日 国鉄新宿駅地下のゲリラ建築 出典=『アサヒグラフ』1974年3月20日号

1──昭和44年5月24日 国鉄新宿駅地下のゲリラ建築
出典=『アサヒグラフ』1974年3月20日号


2──新宿西口地下広場での反戦意思表示行動

2──新宿西口地下広場での反戦意思表示行動

3──フォークゲリラを弔うインスタレーション行動 ともに筆者撮影

3──フォークゲリラを弔うインスタレーション行動
ともに筆者撮影


★一──三橋一夫「アゴラを現出させたフォークゲリラの魔術」(小田実編『ベ平連とは何か──人間の原理に立って反戦の行動を』徳間書店、一九六九)。
★二──高野光世「西口広場は誰のもの」(同書)。
★三──三橋一夫(前掲書)。
★四──石原慎太郎『太陽の季節』(新潮文庫、二〇〇二)。
★五──絓秀実+高橋順一+府川充男「「六八年」問題をめぐって」『情況』二〇〇三年七月号(情況出版)。
★六──このくだりは平井玄の評論「街の仮面を引き剥がせ」(『図書新聞』二〇〇三年七月一九日号)に触発され、それに対するレスポンスとして書かれたものである。
★七──下記のサイトを参照。
http://dop.is-a-geek.net/

>小田マサノリ(オダマサノリ)

1966年生
東京外語大学AA研特任研究員。アナーキスト人類学。

>『10+1』 No.32

特集=80年代建築/可能性としてのポストモダン