この六月にパリで、建築雑誌の編集長と建築家にして建築理論研究者という夫妻に昼食に招かれ、気持ちのよい午後を過ごした。その折、都市や建築の体験の仕方が話題になった。彼は体験のあり方として「映画的」と「ドキュメンタリィ・フィルム的」というのを説明した。
建築や都市とそこを通るものとの関係を映画同様、空間のシークエンスの体験とみなす考え方は珍しくない。だが、それをドキュメンタリィ・フィルムと組み合わせるところにオリジナルな意味がある。「映画的」について、いささかこちらの文脈にひきつけてまとめれば、設定された空間はストーリィと登場人物に対して単なる背景以上の意味を持つ。人物の移動に従い人物の感覚に直接間接の影響を与え、その体験が物語をつむぎだす。
しかし、現実的に今日の東京ではポジティヴに「映画的」体験をするのは不可能であろう。いかに建築デザインに斬新さが見られても、そこにはお定まりのコンビニエンス・ストアやカフェが入り、ガラスを多用した現代建築は結果としていずこもチェーン店の規格化された外観を露出させるショウ・ウインドーになっている。ジャック・タチの『プレイタイム』で、アメリカ人観光客のバーバラが体験したような建築や界隈とのいささか不安を伴うときめきなど、生まれようはずがない。
「ドキュメンタリィ・フィルム」の構えで界隈や建築を見るのは、有効であるかもしれない。ヴィム・ヴェンダースの『東京画』に代表される風景への視線の向け方である。人物も建築もすべてが背景であり、ロマネスクな物語は排除され、刹那的なコピーが随時あてがわれる。ただし、外国人映画人や、団塊の世代の日本人写真家が好んでカメラに収めるパチンコ屋やカプセルホテルや茶髪の若者たちに目を奪われない者には、繁華街は人ごみをやり過ごしながら通過する場所だ。飽和状態の騒音と色と形に覆われた通行人に、ドキュメンタリィの要求するプロブレマティックなど不要である。
ところが、肯定的に評価しえず、さりとて社会的な命題にもならない空間体験を物語化したジャンルがある。小説である。かつての「モダン都市東京」のブームのためか、しばしば誤解されているが、東京の今日的都会の様相──居住者以外の多くの人間の仕事の場であると同時に文化と娯楽と消費の場──は、一九二三年の関東大震災後になってできたのではない。その起源は一九〇〇年代後半にさかのぼり、文学史の区分でいうと日露戦争後に原型はできている。
一九〇六年に日露戦争によって延期されていた「東京市区改正条例」(一八八八年勅令)はようやく新設計案の実行をみた。市中いたるところで道幅の拡張があり、公共のオープン・スペースとしては江戸時代以来社寺境内が使用されていたものが、改めて日比谷公園や湯島公園などが設けられた。一方、この時期の東京の目覚しい繁華街の変身は、鹿鳴館の民間ヴァージョンでもあった。三越や白木屋(後の東急百貨店。なお日本橋店は一九九九年一月に閉店)など老舗の呉服店が次々に百貨店になり、日本橋から神田方面に洋風建築の新館のお披露目をした。浅草六区も生人形や玉乗りに代表される見世物小屋から、擬洋風の活動写真館が軒を連ねる近代的な娯楽センターに変身を遂げた。
つまり、計画と銘打つにはいささか心もとないものとはいえ、官民あげての東京の都市改造は、すでにこの時期から行なわれていたわけだ。森誰外は当時の東京を、ドイツ帰りの士官の口を通して「普請中」と評した(『普請中』一九一〇)。これは街路の様子ばかりではなく、そこにいる者の思考態度、都市に対するまなざしの未成熟も指している。無論「市区改正」に関して公的発言をしうる誰外のような立場にいずとも、市街を空間的まとまりとして把握するセンスを持つ者にとっては、東京は耐え難いカオスであろう。日本最初の都市フラヌールである永井荷風は、一九〇九年の東京市街を皮肉に描く。
両側には太い電信柱と其の高さを競つて聳ゆる赤煉瓦の建物が、或る物は石盤の屋根の上に時計の附いてゐない時計台のやうな装飾を頂いて立続く。其の一方にはまだ足場のかかつた工事中のものも見られた。(…中略…)「東京は来る度に変りますね。あれア何ができるんです。」「警視庁に帝国劇場……。」「へえゝ。面白い対象ですね。」(…中略…)「見渡したところ、何となく香港の海岸通とでも言ひたい心持がしますね。日本にかぎらず空の碧い、木の葉の色の濃い処には赤煉瓦の家は釣合ひませんな。」
(『冷笑』一九一〇)
商船事務長と欧米での生活経験のある小説家とが、日比谷界隈を散歩している場面である。荷風が東京の市街にこのような感想を述べるのは、彼の都市景観の規範が滞在した北米とフランスとにあるからだが、「一丁倫敦」と謳われた丸の内の煉瓦街も、本邦初の本格的西洋式劇場に向けて用意した横河民輔渾身のネオ・ルネサンス様式も、大正時代には流行歌「東京節」で「いきな構えの帝劇に/いかめし館は警視庁」と親しまれる光景も、形無しである。
小説、とりわけいわゆる「近代文学」とか「純文学」とみなされているものは、登場人物の「内面」が描かれてありそれを人生論として読むものである、という思い込みが一部で存在し続けている。が、荷風のように空間の叙述に熱心な作家もいる。上野千鶴子が山本理顕に贈った言葉を用いるならば、「空間帝国主義」者の作家もいるのだ。もっとも街づくりや集合住宅の設計に当たって、居住者の生活をあらかじめ想定するのはデザインというよりは、空間と人の関係を時間軸にそって言語化するという点において、むしろ物語をつくる行為に等しい。これはぜひとも認識されたい。そのとき、望まれる評価軸は「調和」であり、荷風も気候風土、植物系にまったくそぐわない建築と街路の設計をひたすら書き込み、そして嘆く。
実際この作家は、欧米から帰国して一年ほどは東京の街がいかに調和を欠いた醜いものであるかを、建築と街路、通行人の三点を中心に呪詛にも近い批判をし続けた。一一月の上野公園あたりの重苦しい風景を描きながら、それと同じくらい陰鬱な気候風土と住民の性状について小品文風にまとめたり、電車で東京市中を横断して山の手から下町へと変化する光景を短い物語にしたりしてきた。荷風の街歩きの態度は、空間体験として「映画的」であり、問題提起として「ドキュメンタリィ・フィルム的」であったと言えよう。後年、「小説をつくる時、わたくしの最も興を催すのは、作中人物の生活及び事件が開展する場所の選択と、その描写とである。わたくしは屡人物の性格よりも背景の描写に重きを置き過るやうな誤りに陥つたこともあつた。」(『濹東綺譚』一九三七)と記した作家らしい。公園なり街路なり交差点なり、ある都市空間に身をおいたときに受ける感覚を言語化すること。その描写を物語の起爆剤にすること。これが荷風の創作の手法であった。
だが呪詛を基調にした物語は長く書き続けられない。荷風はじきに対処のしかたも会得する。拡張工事の最中の日本橋を、欧州帰りの作曲家と江戸の文学の専門家との会話を通して、次のように描いてもいる。
日本橋通は電柱の行列と道普請と両側の粗悪な建築物とで想像以外の醜悪な光景に、自分は呆然として却て物珍らしく彼方此方を眺めながら歩いていく(…中略…)しかし事実自分等は新時代の市外に対して嫌悪ばかりでなく、同時に多大なる興味をも感ずるのである。新時代の商店の正面だけはどうやら体裁をつくろひながら、歩いていく中には直ぐ其の側面からは壁の薄さと石材の粗悪が何の心配もなく曝け出してあるので、丁度化け損なつた狐の絵を見るやう、覚えず、自分等をして、「明治は誠に無邪気な滑稽な詐欺時代だ。」と一笑せしめる。
(『帰朝者の日記』一九〇九)
そして江戸戯作者風の諧謔や風刺の精神でもって、醜悪な外界と渡り合おうとするのである。荷風は数年後には、日和下駄に洋傘のいでたちで裏道を歩き、元祖路上観察者とでもいうべき存在になる。一九一五年にまとめられる随筆集『日和下駄』はそのフラヌリィの成果である。
私は近頃数寄屋橋外に、虎の門金毘羅の社前に、神田聖堂の裏手に、其の他諸処に新設される、公園の樹木を見るよりも、通りがかりの閑地に咲く雑草の花に対して遥に云ひしれぬ興味と情趣を覚えるのである。 (『日和下駄』「第八 閑地」)
八〇年代後半の「江戸・東京学」ブームでは、荷風がこのエッセイ集とともに注目された。「寺」、「路地」、「閑地」、「坂」等の章立の分類の基本には、カタログ的解読格子による評価の発想がある。この分類と解説が民間人にも説得力を持ったようである。現在でもたとえば、ビオトープ・ブームの文脈で先の一説を引用しうる。だが、ノスタルジックなまなざしと後向きのロマンチズムのみをここに見てはいけない。荷風は常に辛辣な批評の姿勢を崩してはいない。『日和下駄』でも「世の中勝手に棕櫚箒(しゅろぼうき)」と地口でもって言い捨てながらも、「模倣の西洋造と電線と銅像」のために醜くなり、空気遠近法の根本となる光や湿度の差に気づかず西洋の建築を導入したことによって生じた景観の不調和を指摘する一方で、浮世絵の構図にリプリゼンテイションされうる路地空間を評価する。ここに「駅前彫刻」その他、行政と住民とアーティストの無邪気な誤解によってぶざまな相貌をさらす『ハリボテの町』(一九九六)にスポットをあてた、美術史家の木下直之に受け継がれる景観把握のスタンスがある。
もちろん一九一〇年前後に都会化した東京を書いた作家は、荷風に限らない。「映画的」等とはまた異なった角度で、しかも軽やかに向き合っていく登場人物たちについては、他の機会に譲ることにしよう。