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アポカリプスの都市 2001──ニューヨーク/アフガン/ベルリン | 五十嵐太郎
Apocalyptic Cities 2001: New York/Afghanistan/Berlin | Igarashi Taro
掲載『10+1』 No.26 (都市集住スタディ, 2002年01月発行) pp.181-194

世界貿易センタービルの崩壊──二〇世紀建築の終わり


僕たちは下に降りて、外に出たんだ。それはアポカリプスの風景だった。原爆がどんなものかは知らないけれど、きっとあんな感じだと思う。    
    ビルの中にいた男の証言★一


巨人の鼻をへし折った。
    テロ当日、パレスチナのある男性のコメント★二


世界貿易センタービルは、マンハッタンの摩天楼の最初の殉教者だ。
    建築評論家ポール・ゴールドバーガーのコメント★三


世紀末にハルマゲドンはなかった。しかし、二〇〇一年九月一一日、歴史を変える映像がとびこんできた[図1]。快晴の朝、八時四五分と九時五分に世界貿易センタービルの一一〇階建てのツインタワーに二機の旅客機が突っ込み、爆発により炎上した後、崩れおちた[図2・3]。史上最悪の同時多発テロは、経済=世界貿易センター、軍事=ペンタゴン、政治=ホワイトハウス、あるいは国会議事堂(未遂)のシンボルを狙った。正式な犯行声明はなかったものの、アメリカへの憎悪というメッセージだけは確実に伝わってくる。
「最も二〇世紀的な建築が、二〇世紀の発明品であるジェット機との衝突で消滅した。物質文明のはかなさを痛感した」という隈研吾の感想は、多くの人も抱いただろう★四。林昌二も、同様のコメントを出している。
世界貿易センタービル(一九七四)は、近代建築の箱型ビルである。構造は、鉄の格子による鳥かご状の外壁が風圧を受け、中央のコアが自重を支えるダブル・チューブだ。その結果、フロアから柱をなくし、自由な空間をつくる。さらに急行と各階止まりを効率的に組み合わせることで、エレベータを減らし、仕事場を最大限に確保する。六三メートル四方の平面において、合理性と効率性が徹底的に追求された。結果的にそれで壊れやすくなったが、建築家を責めるのは酷である。燃料を満載した航空機を激突させるという悪魔的な想像力でもなければ、こんな事態は想定しえない。
巨大複合施設の世界貿易センターでは、五万人が働き、一日に二〇万人以上が出入りする。高密度化を志向するマンハッタニズムの賜物だ。しかし、それゆえに限定的なビルの倒壊が、阪神大震災級の約四千人の犠牲者をもたらした。高層ビル自体が都市的な規模をもつからである。そして観光客がいない時間帯にもかかわらず、犠牲者の国籍は約八〇カ国にも及ぶ。ここが多国籍化する資本主義の拠点だったからだ。二〇世紀は人間が集中する都市を求めたが、それを可能にしたのが高層ビルである。マンハッタンは世界初の摩天楼の都市である。二〇世紀は都心に職場としての高層オフィス・ビルを建てるとともに、郊外に低層の住宅地を量産した。テロではないが、一一月一二日、再びニューヨークを震撼させた航空機墜落が、郊外のクイーンズ区だったのは皮肉である[図4]。
想像を絶するテロだったとはいえ、われわれが奇妙な既視感にとらわれたのも事実だ★五。崩れ落ちるビルを背後に逃げまどう人々の映像は、SFXを駆使したハリウッド映画を連想させる。事件当時、筆者はドイツの大学の寮に宿泊していたが、全員がテレビ部屋に釘付けになり、向こうの学生も「インデペンデンス・デイ」とつぶやいていた。映画のなかでアメリカの都市は何度も廃墟となった。『ディープ・インパクト』では世界貿易センターが大波に呑み込まれ、『アルマゲドン』では小隕石がクライスラービルを貫く。トム・クランシーの小説『合衆国崩壊』(一九九六)でも、日本の旅客機がワシントンの議事堂に激突し、大統領や議員が死亡した。ハリウッド的な想像力が現実のアメリカに刃を向けた。この事件は、アメリカ経済に千億ドルを上回る損失を与え、世界の経済を直撃した。
ともあれ、世界最強の国家アメリカの中枢部が歴史上、初めて攻撃された。超高層ビルの爆風や火災により、付近のビルも巻き込まれた。一一日夕方には北側の四七階建てのソロモン・ブラザーズ・ビル、一二日夜、南棟に隣接する二二階建てのマリオット・ホテルと九階建てのノースイースト・プラザビルも倒壊した。世界貿易センタービル地区では、七棟が壊滅状態となり、さらに周囲の十数棟が相当の被害を受けている。一〇〇万トン以上のがれきはちょっとしたビル並みの高さにつもり、撤去には半年以上かかるという。ポール・ゴールドバーガーは、世界貿易センタービルがアメリカにとっての大聖堂だと述べている。そしてジャンヌ・ダルクのように殺されたことで、もっと大きな存在になったという。今やグラウンド・ゼロ(爆心地)の大きな穴がアメリカの聖地となった[図5]。

1──中国で刊行された『美国──911』 (アメリカ、9月11日)の表紙

1──中国で刊行された『美国──911』
(アメリカ、9月11日)の表紙

2──世界貿易センタービルに激突する飛行機 出典=『朝日新聞』(9月12日)

2──世界貿易センタービルに激突する飛行機
出典=『朝日新聞』(9月12日)

3──世界貿易センタービルの崩壊 出典=『サンデー毎日』(9月30日号)

3──世界貿易センタービルの崩壊
出典=『サンデー毎日』(9月30日号)

4──旅客機が住宅地に墜落し、現場に集まった警官、 9月12日 出典=『朝日新聞』(11月13日)

4──旅客機が住宅地に墜落し、現場に集まった警官、
9月12日 出典=『朝日新聞』(11月13日)

5──世界貿易センタービルの衛星写真、 6月30日とテロ後の9月15日 出典=『朝日新聞』(9月17日)

5──世界貿易センタービルの衛星写真、
6月30日とテロ後の9月15日
出典=『朝日新聞』(9月17日)

 

不幸な建築家ミノル・ヤマサキ


私たちニューヨークの日系人は、ツインタワーのビルを見るたびに、ヤマサキさんを思い、心の中で誇りに思っていました。六千人もの人々を抱えたまま、それが消えてしまったいま、心にぽっかりと穴があいたような気持ちなのです。
    在ニューヨーク日系人会の楠本定平会長のスピーチ★六


世界貿易センタービルの設計者は、ミノル・ヤマサキである。彼は一九一二年にシアトルで生まれた★七。アメリカに移住した日本人の息子である。しかし、貧しい家だったために、夏休みにサケの缶詰工場で働きながら学費を稼ぎ、夜間コースで建築を学ぶ。一九三四年にワシントン大学を卒業し、大手の建築事務所やレーモンド・ローウィーの事務所で働く。そして五〇年代に大胆なシェル構造のセントルイスの《ランバート空港》(一九五六)を手がけ、注目を浴びた。一九五四年には、神戸のアメリカ領事館を設計するために来日し、自然の素材を巧みに使う日本建築に感銘を受けている。その出自ゆえに共感したのかもしれない。彼は遅れてきた建築家だ。モダニズムが確立した後に活躍を始めている。そのためか、ヤマサキは、指導的なモダニストが建築は強い男性的な記念碑であるべきだと信じていることを批判し、それが現代と調和しないと述べている。また彼は、硬くて、冷たい建築を嫌い、感覚的で、穏やかで、親しみやすい建築が日本でつくられたことを評価した。
世界貿易センター地区は、新しい経済の中心地を求めて、一九六〇年代から開発計画が始まった[図6]。そして他の設計候補だったアメリカ人建築家たちをしりぞけて、 六二年頃にヤマサキが設計者に選ばれた。「基本的な問題は、ロウアー・マンハッタンに調和し、かつ世界貿易センターにふさわしい重みを与える、かたちとシルエットの美しい解決法を見つけることだ」。ヤマサキはこのように語り、一五〇階建てのビル一本、あるいは多塔状の案など、一〇〇以上もの計画を検討した結果、印象的なスカイラインをつくる双子塔の形式に決定した[図7・8]。またビルを見上げるために、十分の大きさがある屋外広場も設置している。
世界貿易センターは、近代的な高層ビルのお約束の集大成である。ただし、ミースの《シーグラム・ビル》のような純度の高いモダニズムではなく、ビルの下部には、ヤマサキ好みの尖頭アーチ風のモチーフが認められる[図9]。彼は、シアトル万博の《アメリカ科学館》(一九六二)や《ノース・ウェスタン・ナショナル生命保険会社》(一九六四)などでも尖ったアーチを使う。ヤマサキは、厳格なモダニズムにヒューマニズムを導入し、やわらかさをもち込もうとした。彼は所員をほめるときにも、「ビューティフル」という言葉をよく用いていたという。機能主義一辺倒ではなかった。
当初、世界貿易センターは巨大さで評判が悪かった。スケールが違いすぎて、マンハッタンの統一的な景観をダメにするといった投書も、『アーキテクチュラル・フォラーム』誌に寄せられた。しかし、一九七四年に二五歳のフランス人が二つの塔を綱渡りした事件や一九七六年に優雅な高層レストランが北棟に開業し、次第に注目を集めた。実際、このビルはマンハッタンの南端に位置し、一〇七階の展望室から山脈のように連なる高層ビル群が見え、眺める場所としては優れていた。そしてリメイク版の『キングコング』(一九七六)が、旧作のエンパイア・ステート・ビルに代わり、ここをラストシーンの舞台に選び、認知されたと言えよう(エンパイアからクレームがついたというエピソードがある)。
ボードリヤールは、世界貿易センターのツインタワーが互いのコピーになっており、ポストモダンのシミュレーションの世界への幕開けになると指摘した★八。なるほど、かつての摩天楼のような個性もシンボル性もない。アンチ・モニュメントとしてのビル。もし全く同じビルを再建すれば、この論が補強されるだろう。だが、世界が悲劇的な最期を目撃したことによって、このビルは決定的な失われたモニュメントと化した。実際、テロはメディアを意識して、衝突に時間差を与え、二機目を確実に撮影させた。その効果は大きい。全世界の人々にトラウマを刻み込むことに成功したからだ。
建設時、世界貿易センターは世界一高いビルだった。現在は第四位だったが、その消滅に伴い、エンパイア・ステート・ビルの順位が繰り上がる。ともあれ、世界一高いビルを移民の息子が設計したという事実は、アメリカが自由に開かれた国であったことを示すだろう。日本ではちょっと考えられない。だが、皮肉なことに、多民族を受け入れるアメリカの開放性は、その反面で事件を起こしたテロリストの侵入を容易くしてしまう。実行犯はアメリカに移住し、トラブルもなく暮らし、お金を積んで飛行機の操縦を学んだのだから。
ヤマサキは典型的なアメリカン・ドリームを成し遂げた。にもかかわらず、その建築の末路は不幸だった。実はもうひとつ爆破された彼の作品がある[図10・11]。《プルーイット・アイゴー団地》(一九五八)は、住民に愛されず、スラム化し、犯罪の温床地となり、一九七二年にダイナマイトで解体された。チャールズ・ジェンクスは、これをモダニズム建築の限界を示すエピソードとして紹介し、ポストモダンへの移行をうながした★九。だとすれば、今度の世界貿易センタービルの爆破は、二〇世紀を終わらせた。そして何がもたらされたのか。ブッシュ大統領はそれを二一世紀最初の「戦争」と呼んだ。

6──SOMによる世界貿易センター地区開発案、1960年

6──SOMによる世界貿易センター地区開発案、1960年

7──建設中の世界貿易センタービル、1973年

7──建設中の世界貿易センタービル、1973年

8──海から見る世界貿易センタービル 筆者撮影

8──海から見る世界貿易センタービル
筆者撮影

9──世界貿易センタービルの細部 筆者撮影

9──世界貿易センタービルの細部
筆者撮影

10──テロにより一変した、 海からのマンハッタンの眺め 出典=『朝日新聞』(9月12日)

10──テロにより一変した、
海からのマンハッタンの眺め
出典=『朝日新聞』(9月12日)

11──《プルーイット・アイゴー団地》の爆破 出典=チャールズ・ジェンクス 『ポスト・モダニズムの建築言語』

11──《プルーイット・アイゴー団地》の爆破
出典=チャールズ・ジェンクス
『ポスト・モダニズムの建築言語』


巨大石仏の破壊


タリバンが国営ホテルに来てバーミヤン大仏の模型を壊した。バーミヤンにまで進軍したら本物を破壊するよ。
    一九九六年九月のカブール陥落直後の市民のコメント★一〇


この国に未来がないことはわかっていたが、……私たちは今や過去も失ってしまった。
    アフガニスタンの元政府関係者の言葉、二〇〇一年三月


農地は乾き、家畜も売り払った。食べるものは草の根くらいだ。それでも戦いは激しく、昼夜休みなしだった。
    二〇〇一年七月にペシャワル近郊の難民キャンプに避難した農民の証言★一一


同時多発テロの黒幕はビンラディンとされている。サウジアラビア最大のゼネコンを築いた大富豪の息子であり、敬虔なイスラム教徒の父は、王宮から聖地のメッカとメディナの重要なモスクの改修工事を任せられたほどだ★一二。だが、湾岸戦争でアメリカ軍が聖地に駐屯したことを契機に、彼はアメリカを最大の敵とみなし、イスラムの永久革命を唱える。一九九一年のジハード宣言では、アメリカ兵士の殺害を呼びかけ、「抑圧と侮辱の壁は、銃弾の雨でしか破壊できない」と述べている。彼は、二五七人の犠牲者を出した一九九八年のケニアとタンザニアのアメリカ大使館の同時爆破事件への関与も疑われている。
彼をかくまうタリバンは、二〇〇一年の春、保護するという以前の約束をひるがえし、バーミヤンの巨大石仏を含む、国内の仏像を破壊した★一三。かつてカブールの国営ホテルのレストラン「バーミヤン」の壁に大仏の模型が展示されていた。しかし、一九九六年九月、タリバンがそれを粉々に壊した。九七年には大仏爆破を予告するものの、世界から非難を浴び、撤回している。だが、二〇〇一年、ついに本物の遺跡が破壊された[図12]。
バーミヤンの仏教遺跡は三世紀から六世紀にかけてつくられ、砂岩の断崖に高さ五五メートルと三八メートルの二つの大仏が刻まれていた。それは東西文明が交差した場所の象徴だった。中世にもイスラム教徒が仏像の顔をそいだが、地元では、大仏を「パーダル(お父さん)、マーダル(お母さん)」と親しみを込めて呼んでいた。しかし、神学生が戦士になったタリバンの過激なイスラム原理主義は、窓を黒くして外から女性が見えないよう指示するなど、女性への抑圧や公開処刑で国際的な非難を浴びた挙げ句、遺跡を破壊した。
偶像崇拝を禁止するイスラムにとって好ましくないというのが表向きの理由だ。世界の反対の声に対し、タリバンのオマル師は「ただの石」を壊しているにすぎないと述べている。カブールの国立博物館もロケット弾で壊された。しかし、これは宗教的な理由だけではなく、国際社会との政治的な駆け引きであり、世界から無視され、国家として認知されない状況を変えようとしたとも言われている。制裁の強化が裏目に出たというわけだ。例えば、小杉泰は「国際感覚が乏しいが、自国の経済問題に目を向けさせたかったのだろう」という★一四。またカラチのバシール・アフマドは、この事件を論じながら、タリバンは国際的な制裁に対する怒りを表明しようとしたのではないかと指摘する★一五。
実際、ソ連の撤退と冷戦の終わりによって、アフガニスタンは戦略的な意味を失い、どこの国も人々が餓える悲惨な状況を気をとめない。大仏の周辺には、古代の僧の住居跡が多数あり、内戦で家を失った難民が暮らす。三〇年ぶりの大干ばつに伴い、食糧難と内戦により、約二五〇万の難民が発生していた[図13]。しかし、世界は仏像だけに過剰反応した。アフガニスタンに存在していても、世界的に貴重な遺産だからである。「人類遺産への攻撃だ」という非難が相次いだ。ニューヨークのMoMAは、文化財の保護のために、その購入すら申し出ていた。平山郁夫画伯らが破壊行為の即時停止を求める記者会見を行なったり、保存運動の署名もメールがまわっていた。
一方、タリバンのパキスタン大使は「国連は飢えで死にそうなアフガニスタンの民よりも、彫像の方に興味がある」と反発した。前国連難民高等弁務官の緒方貞子も、難民を受け入れたパキスタンやイランの資金要請に国際社会の反応がなく、見殺しにされたという。そして「石仏を壊したとき、あんなに急に国際社会が何とかしようと言い出すなら、生きている人間が悲惨な状況にあるときに、もう少し何かしてくれてもいいのにと思った。その点では私、タリバンに賛同することもありますよ」と述べている★一六。映画のようなテロの瞬間があまりに見えすぎる一方、アフガンでは見えない悲劇が進行している。
イランの映画監督マフマルバフも、世界の無関心に殺されるアフガニスタンの人々の日常を説明している★一七。そして「パンを必要としている国家を前に、必要もなくそこにあった仏は恥を感じて倒れたのだ」という。大量死を伝えるために崩れた仏像を前に、世界は文化財の喪失だけを嘆く。ゆえに、彼は「あなたが月を指差せば、愚か者はその指を見ている」という中国の諺を引用する。この事件は、ときとして遺跡から「文化」のみを切り離して考えることが通用しないことを改めて教えてくれる。ヴァンダリズムは今に始まったことではない。過去に政治と宗教の紛争から多くの建築が破壊された。しかし、敵対するイデオロギーの破壊というよりも、自国の文化財を傷つけることで、世界の関心を集めることが目的だとすれば、新しい状況と言える。自国の遺跡に対する文化的テロだ。やぶれかぶれの一撃は、そもそも「世界」の遺産という概念は何なのかを改めて考えさせる。世界遺産も「文化」だけの存在ではなく、観光商業主義と連携している。世界遺産とは、世界から巨大な資本が集中する場所でもあるのだ。タリバンは、ねじれたかたちでグローバリズムの問題を突きつけた。
九〇年代のサラエヴォの紛争でも、ビルは破壊されたが、図書館の炎上を除けば、建物自体はあまり話題になっていない。そして情報化時代の到来により、建築はシンボル性を失ったとすらささやかれている。だが、二〇〇一年に起きた世界貿易センターとバーミヤンの大仏のヴァンダリズムは、局地的な破壊が世界的な話題になるおぞましい方法を提示した。それも、おそろしく野蛮で原始的なものだった。一〇月七日、タリバンの包囲網を固めたアメリカは空爆を開始した。
三〇億円という莫大な懸賞金をかけられたビンラディンの命は、古代遺跡よりも重いようだ[図14]。アメリカの爆撃は、今なお残る多くの遺跡を危険にさらしている★一八。大きな仏像の石窟以外にも、千近い石窟が存在し、そのうち五〇以上に壁画があり、ほかにも石窟寺院が残っているという。だが、石窟はタリバンの格好の避難場所となり、武器や弾薬の格納庫にもなりやすい。それをミサイルが洞窟ごと確実に破壊する。アフガニスタンは、二〇年以上も続く内戦により国土が荒廃し、一千万個とも言われる地雷を抱えている。この国の若者は戦争がない状態を知らない。戦争が日常なのだ。もはや何も壊すものがない、あらかじめ廃墟となった国家にミサイルの雨が降る[図15]。

私がもっとも恐れるのは、崩壊する世界貿易センターの向こうに、幾つものキノコ雲が見える光景です。最初のそれがアフガンの荒野に立ってしまえば、半世紀持ちこたえた禁忌は解かれて、世界の都市への、小さい原爆を携えたテロリストたちの侵入も企てられるでしょう。原発は、さらにあからさまなターゲットです。
    大江健三郎「成果の疑わしい戦争のなかで」★一九

12──破壊されたバーミヤンの遺跡 出典=XXI, 10

12──破壊されたバーミヤンの遺跡
出典=XXI, 10

13──テント村に暮らすアフガニスタン難民、 ペシャワル近郊 出典=『朝日新聞』(9月7日)

13──テント村に暮らすアフガニスタン難民、
ペシャワル近郊
出典=『朝日新聞』(9月7日)


14──ビンラディンの地下基地とされる洞窟の入口 出典=『AERA』(10月1日号)

14──ビンラディンの地下基地とされる洞窟の入口
出典=『AERA』(10月1日号)

15──ミサイルで破壊されたカブールの住居、 10月8日 出典=『朝日新聞』(10月9日)

15──ミサイルで破壊されたカブールの住居、
10月8日
出典=『朝日新聞』(10月9日)


終わりなき戦争という日常


僕はずっと眠っていて、今、目覚めたような気がする。僕たちは皮肉と風刺の毛布にくるまれて、まどろんでいたんだ。そこは心地よかった。
    テロ後の二五歳のアメリカ人青年の言葉★二〇


近年、ジュリアーニ市長の努力によって、ニューヨークの犯罪率は低下していた。しかし、完全に意表を突いたテロが発生した。八〇年代から車で突入する自爆テロが出現し、車をビルから遠ざける対策は練られていた。一九九三年二月の世界貿易センターのテロ事件でも、地下駐車場で自動車が爆発し、六人が死亡、千人以上が負傷した。片方を倒して、もう一方にぶつけようとしたという説もある。未遂に終わったが、同年、国連本部ビルの爆破計画もあった。事件後、警備を強化したが、ジェット機が空から突撃することは防ぎようがない。かつてエンパイア・ステート・ビルの七九階に爆撃機がぶつかる事故はあった。一六人が亡くなり、炎上したものの壊れていない。一九九四年には、アルジェリア系のイスラム集団GIAがエアバス機をのっとり、エッフェル塔に突っ込む計画を立てていた。とはいえ、今回のビルの倒壊はテロリストの予想以上だったのではないか。
一九七〇年にも四機のジャンボ機がパレスチナ解放人民戦線によって同時にハイジャックされ、空港で同時爆破した事件があった★二一。テレビの中継を意識したものだったが、彼らは乗客を降ろし、巻き添えにならないようにしている。しかし、今回は有無を言わさず、乗客を道連れにした自爆テロだった。宮台真司は、これで近代社会の底が抜け、公共圏を根幹で支える「信頼」が揺るがされたと指摘する★二二。爆破シーンの映像が繰り返され、もはや考えられないような凶悪なテロが起こりうるという不安が人々を支配する。信頼を失えば、他人を疑うしかない。疑うならば、互いの自由を制限することで、安全が保障される。ビルとともに、アメリカが誇る近代社会の自由が崩れていく。映画『マーシャル・ロー』(一九九八)では、ニューヨークの各地で自爆テロが連続した結果、戒厳令が敷かれ、アラブ系の市民が収容所に送り込まれた。こうした物語が現実味を帯びる。
ペンタゴンの損壊は、首都上空でさえ無防備だったという意味で衝撃だった[図16]。連邦捜査局は次の標的の可能性があるとして、ユニヴァーサル・スタジオに警告をだし、客が激減した。世界で最も安全な都市ディズニーランド、アメリカで一番高いシアーズ・タワー、そして金門橋も、テロの標的になると噂が流れた。エンパイア・ステート・ビルは幾度か封鎖されている。日本でも、テロ以降、一番高い横浜ランドマークタワーに特別警備実施中の看板を立て、警備員を増やした。アメリカ大使館や米軍基地、そして原子力発電所には厳戒体制を敷いている。メディアが狙われた炭疽菌テロでも、アメリカの議会が閉鎖され、過剰な反応が世界中に起きた[図17]。世界貿易センターの倒壊では、三〇〇万平方メートル近くのオフィスが使用不能になった。こうした被害を最小限に食い止めるには、通信ネットワークによって常にデータのバックアップを遠隔地でとるしかない。今後、マーティン・ポーリーの言うファントム・シティがさらに要請されるだろう★二三。
監視社会は押しつけられるのではなく、人々も望んでいる。筆者は、近年、セキュリティに対する強迫観念が増えたことを指摘したが、今度のテロはそれを加速化させた★二四。『ニューヨーク・タイムス』とCBSニュースが事件直後に実施した世論調査では、七四パーセントの回答者が、国家をテロから守るために、個人の自由をいくらか犠牲にする必要があると考えている★二五。八六パーセントの人は、公共施設やイヴェントに警備や金属探知機を置くことが望ましいという。そして六九パーセントは、厳重なセキュリティ・チェックを実施するために、国内線のフライトでも三時間早く空港に行くことをいとわない回答している。しかし、政府機関が普通の国民の電話やメールを傍受してもいいと答えた人は、三九パーセントにとどまった。
全米では星条旗のみならず、銃の売り上げが急増し、防毒マスクや目つぶしスプレーなどの護身具もよく売れるようになったらしい★二六。政府が頼れないとしたら、自衛するというのが、アメリカの伝統だ。銃で大規模なテロに対抗しても、無力なことがわかっていても。またアメリカの消費者が、不安感から遠出を控え、家にこもる「コクーニング(繭ごもり)」現象も起きた。そうした雰囲気を追い風にして、アメリカでは、重要法案である反テロ愛国法がわずか六週間で成立した。これは携帯電話やEメールの盗聴・傍受を可能とし、テロ活動の疑いのある外国人を司法手続きなしに拘留できるというものだ。すでにアメリカのエシュロンは、世界中の電話、FAX、メールを傍受すると言われる。NASAの偵察衛星も電話を傍受し、大型コンピュータであらゆる言語を英語に翻訳できるという。日本でも、九〇年代は通信傍受法や個人情報保護法が整備されたり、ナンバープレートを読みとるNシステムの導入をした。各地で監視社会化が確実に進む。
消えかけた国家が急に復活した[図18]。国家は治安と監視を強化し、メディアは危機意識を煽りたてる。ブッシュ大統領は、日常生活を続けることが、テロへの対抗になると語った。人類学者のエマニュエル・トッドは、現在の状況を的確に指摘する。「テロや戦争で人々の国家に期待する気分が高まったのは確かだ。しかし、私が懸念するのは、政府がそれを利用しているのではないか、という点だ。フランスでは、私が勤める国立研究所にまで郵便物を扱うための手袋が配布された。およそテロの標的になりそうもない。だが、そうやって、日々テロにさらされているのだと思わせられると、人々はますます国家の規制を求め、マスコミは治安を重要課題にしてしまう。全く妄想もいいところだ。だが、この妄想には意味がある。それで、国家が再登場できる」★二七。
同時多発テロ以降、世界が緊張感を高めている。結果的にはテロでなかった事件、あるいはただのいたずらも、テロではないかと大きく騒がれた。あらゆる悪い徴候がテロを連想させる。テロでないと否定された事件も、隠蔽ではないかと疑念を呼ぶ。そうした意味で、メディアがテロの野望を最終的に達成させる。テロでグローバル化の流れを止めることはできない。最貧国が豊かになるわけでもない。だが、世界で最も豊かな国を引きずり落とすことはできる。実際、アメリカは民間人の殺戮を伴う空爆という野蛮に手を染め、タリバンの厳しい宗教警察のように、自国民に対する監視を強めている。

16──炎上するペンタゴン 出典=『朝日新聞』(9月13日)

16──炎上するペンタゴン
出典=『朝日新聞』(9月13日)

17──炭疽菌テロにより閉鎖された ワシントンの議会、10月17日 出典=『朝日新聞』(10月18日)

17──炭疽菌テロにより閉鎖された
ワシントンの議会、10月17日
出典=『朝日新聞』(10月18日)

18──世界貿易センターの廃墟に国旗をたてる消防士、 9月11日 出典=Newsweek, Commemorative Issue

18──世界貿易センターの廃墟に国旗をたてる消防士、
9月11日
出典=Newsweek, Commemorative Issue


名もなき国民の死をいかに追悼するか


今日、われわれが歌うゴスペルは、イエスが友人であるラザロの死に応じたものです。イエスが最初になされたことはただ涙を流すことだったのを思い出します。
    オール・セインツ米国聖公会における犠牲者を追悼するスピーチ


火曜日の悲劇の最中、イエス・キリストはカオスに打ち勝つために現われました。ピッツバーグ近郊で墜落した飛行機の乗客は、自分たちが死にいくことを知りながら、満場一致で同意して、目標に到達する前に墜落させるために、テロリストに急いで立ち向かったのです。イエスはペテロに対し、カオスを克服できると述べましたが、彼らはペテロ以上にそれをうまく成し遂げたのです。
    ローレンスヴィル長老教会でのスピーチ★二八


九月一一日以前から嫌な雰囲気はあった。実は、筆者がベルリン工科大学に留学中の知人と自爆テロの議論をしていたとき、あの事件は発生した。全くの偶然ではない。そうした話題が出たのは、二〇〇一年に自爆テロが頻発していたからである。
特にイスラエルでは、右派のシャロン政権の誕生以来、自爆テロが急増した。二〇〇一年三月四日、パレスチナ人の自爆テロにより商業地区で四人が死亡し、四人が重軽傷を負う。三月二八日の自爆テロでは、二人が死亡。四月二二日はバス停で自爆者とイスラエル市民が亡くなり、六〇人以上が怪我をした。五月一八日はショッピングセンターで自爆テロが起こり、六人が死亡。九月九日はレバノン国境付近の鉄道駅と中部の街で、自爆テロが起きる。自爆ではないが、二月八日はエルサレム市内で爆弾テロ、二月一四日はテルアビブ郊外のバス停留所にパレスチナ人の運転するバスが突っ込み、八人が死亡、約二〇人が負傷した。その度ごとにイスラエルの軍隊が出動し、パレスチナ人を殺している。
一連の自爆テロは権力者や有名人を狙ったものではない。無名の市民が殺されている。有名人に比べ、警備が薄いのも原因だろう。だが、不条理な死こそが憎しみを煽るのではないか。アメリカの同時多発テロでは、ペンタゴンよりも世界貿易センターの悲劇が圧倒的に語られた。一九一二年、巨船タイタニック号が氷山と衝突したとき、二〇世紀型のカタストロフは始まったが、二一世紀の悲劇は超高層ビルと航空機の激突によって開始する。両方の事件に共通するのは、無数のエピソードが報道されたことだろう。が、世界貿易センターでは、それがアメリカの愛国心に最も火をつけた。おそらく、職務上その可能性がつきまとう大統領の死よりも、名もなき人々の偶発的な死の方が、自分も殺されたかもしれないという思いをよぎらせ、国民の強い感情移入をうながす[図19]。
事件後、ハイジャック犯と格闘したとされるアメリカ人や、救助に駆けつけて犠牲になった消防士や警官が英雄視された[図20]。殉教者扱いである。これは、ともすれば、あまりに不条理な死に意味を与える作業だろう。彼らも普段は一般人である。古代のモニュメントは権力者を祝福するために建設された。しかし、現代のメモリアルは、国家のために殉じた無名の戦士たちに捧げられる。そして多民族国家のアメリカは、国内のイスラム系を敵視しかねない危機を迎えた。ゆえに、人々は国旗を振り、国歌を斉唱することで、国家の分裂を回避しようとした。フィクショナルなものとは知りつつも、それしか拠りどころがないからだ。もちろん、国旗や国歌は一種の踏み絵としても機能する。
ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』によれば、近代の国家システムが王の表象ではなく、新聞や小説などのメディアを通して、国民を想像的につなぐことで成立した★二九。そして無名戦士の墓はまさに近代国家の表象であるという。近代以前は有名人のモニュメントが重要だったが、近代社会は逆にからっぽのメモリアルが、国民の意識を高める。例えば、イギリスでは、エドウィン・ラッチェンスが第一次世界大戦後に無名戦士のための施設を手がけた。ドイツでは、シンケル設計の《ノイエ・ワッヘ》が国民哀悼の日の中央式典会場となる。その内部には、死んだ息子を抱く母の像を置く。近代の戦争が、国家総力戦になり、国民全体を巻き込んだことも無関係ではないだろう。
日本では、靖国神社がこうした役割をもつ近代的な施設である。特に遊就館では、戦争に散った若者が残した手紙や人間魚雷を展示し、来場者を泣かせようとする。二〇〇一年夏の小泉首相参拝でも問題になったが、今なお靖国神社は、日本と反発するアジア諸国、それぞれのナショナリズムを刺激している。またNHKの人気番組「プロジェクトX」は、現在の日本の繁栄を築く「無名の男たちがいた」ことを感動的に紹介する。彼らもいわゆる有名人ではない。まるで戦後の企業戦士に捧げるメモリアルのようだ。靖国神社と同様、涙が共感を誘う。そしてバブル経済の崩壊以降、沈みかかった日本も、まだがんばれるという気持ちを起こさせるだろう。
では、世界貿易センタービルに対し、いかなるメモリアルが建設されるのか。九月の市民調査によれば、「記念碑を設け、ツインタワーを再建する」=四六パーセント、「小さめのオフィスビルにする」=二五パーセント、「建物を建てずに記念公園にする」=二三パーセントだった★三〇。すでに建築家も意見を出している。チュミやアイゼンマンは、より大きなビルを建てるべきだという。国家の威信をかければ、そういう発想が出るかもしれない★三一。フィリップ・ジョンソンやリチャード・マイヤーも再建派である。一方、ディラー&スコフィディオは、空白のままにしておくことを提案した。実現されそうなのが、「タワー・オブ・ライト」のプロジェクトである[図21]。地上から空に向けて光を放ち、二本の光の塔をつくるというものだ★三二。七千ワットの光源を八八個準備し、星条旗の三色を使うことも検討されている。ナチスの光の祭典を連想させないでもないが、洗練された案と言えるだろう。

19──犠牲者への哀悼のため、ニューヨークの ユニオン・スクエアにメッセージを書く人々 出典=『中央公論』2001年11月号

19──犠牲者への哀悼のため、ニューヨークの
ユニオン・スクエアにメッセージを書く人々
出典=『中央公論』2001年11月号

20──「93便のあなたたちは攻撃を食い止めてくれた 今度はわれわれがやる番だ」と書かれたメッセージ 出典=USA TODAY, Sept 17, 2001.

20──「93便のあなたたちは攻撃を食い止めてくれた
今度はわれわれがやる番だ」と書かれたメッセージ
出典=USA TODAY, Sept 17, 2001.

21──タワー・オブ・ライト 出典=『朝日新聞』(11月24日)

21──タワー・オブ・ライト
出典=『朝日新聞』(11月24日)


ユダヤ博物館の誕生──二一世紀建築の始まり


ベルリンが世界レベルの大都市になるための条件は、「二級ドイツ人」や「真のドイツ人」など存在しないという見方を受け入れることだ。(…中略…)ユダヤ人であれ、トルコ人やアフリカ人であれ、マイノリティはベルリンに活力を与える。彼らは心からドイツを愛する市民になれる。(…中略…)二一世紀のドイツはこの現実に慣れるべきだ。
    ユダヤ博物館館長マイケル・ブルーメンソルの言葉★三三


九月一一日、世界貿易センタービルが崩れおちたその日の夕方、ベルリンの《ユダヤ博物館》[図22─24]は、一般向けのオープニングを予定していた。時差を考慮すれば、二〇世紀を象徴する超高層ビルが消滅した数時間後、二一世紀最初の建築と言うべき他者の空間が誕生した計算になる。当日、ベルリン入りした筆者にとって、二つの出来事は重なって見えた。
建築はすでに竣工し、見学も可能だったが、二〇〇一年に正式な開館を迎え、オープニング・ウィークのイヴェントが催されていた★三四。ゲシュタポによってベルリン初のユダヤ博物館が閉鎖されてから、およそ六三年目にあたる。九月九日は、招待客のためのセレモニーとドイツの大統領の訪問。一〇日は、博物館の実現のために寄付をした人々に公開された。しかし、テロの余波を受けて、一一日からの一般公開は延期された。ユダヤ人迫害の忌わしい記憶をもつベルリンにユダヤの施設が誕生するだけでも、神経質にならざるをえない。今回の事件と関係なく、十分なセキュリティ・チェックの部屋も用意されていた。閉鎖された博物館は警備員に囲まれ、不測の事態に備えていた。水晶の夜に放火され、爆撃で廃墟となり、ベルリン統一後に再建されたノイエ・シナゴーグの周辺も、ものものしい雰囲気に包まれていた。この週、ヨーロッパではさまざまなイヴェントが中止された。
ベルリン滞在中に入館できないかと心配したが、一三日からオープンし、一四日には見学ができた。ユダヤ博物館は、一九八九年のコンペによって、ダニエル・リベスキンドが一六五案から設計者に選ばれた。彼は、ハイネやミースの住所、シェーンベルクのオペラ、ベンヤミンのエッセイなど、ユダヤの文化に関わる重層的な意味を仕掛けたが、本稿では主に完成した建築を論評しよう★三五。基本的な構成は、コンペ時のコンセプト通りにほぼ実現している。屋外の傾いた塔がいくつか減ったくらいだ。メタリックな外観は、ひっかき傷のような開口部を無数にもつ。平面は九回折れ曲がる蛇のような形状だ。それを串刺しにする軸線が走り、ジグザグと交差する部分は空白のヴォイドになっている。
吹き抜けのヴォイドは、部屋もなく、照明もなく、何も展示しない。だが、逆説的にユダヤ人の大量虐殺ホロコーストや、ベルリンの歴史におけるユダヤ人の不在を示すだろう。想像を絶するユダヤの悲劇は再現不可能だからである。あるいは、ホロコーストが残したうつろな沈黙を意味するかもしれない。もっとも、空虚があまりに直接的にベルリンのユダヤ人の不在を表現していることや、空虚ゆえに来館者たちの欲望のスクリーンとなり任意のイメージを投影させるのではないかという批判もある★三六。
地上に出入口はない。リベスキンドの空間にたどり着くには、隣の旧ベルリン博物館の新古典主義建築から入り、地下にもぐる。地下では三つの軸が交差する。ユダヤ人の歴史を象徴する連続性の軸、ホフマンの庭に導く亡命の軸、ホロコースト・タワーに向かうホロコーストの軸である。いずれも床が傾き、鋭角で交わるために、すぐに方向感覚を失う。ここは建築というよりも、ヨーロッパの庭園の空間のつくり方に近い。
亡命の軸では、ニューヨークやアムステルダムなど、亡命先となった都市の名前が壁に記され、ユダヤ人の取得したパスポートなどが展示される。突き当たりの明るいガラス戸を抜けると、七本×七本のコンクリートの柱が並ぶ、ホフマンの庭。柱のてっぺんには木を植え、中央の一本はエルサレムの土、まわりの四八本はベルリンの土を入れる。それぞれが互いの場所を意味するという。庭でも場所の喪失が強調される。
ホロコーストの軸では、アウシュヴィッツやビルケナウなど、強制収容所の名前を壁に記し、亡くなったユダヤ人の遺品が展示される。奥の重い扉を開けると、ホロコースト・タワーである。ここは勝手に出入りできず、係員がいて、数人ずつ入ることしか許されない。打放しのコンクリートに囲まれた暗いヴォイドだが、上部の細いスリットからわずかに光が差し込む。ここでは沈黙し、押しつぶされそうな絶望の空間を経験する。
連続性の軸から三階までのぼり、常設の展示室に至る。地下の空間は、リベスキンドの意図がかなり実現しているが、三階から二階に続く常設展示は、二千年にわたるドイツのユダヤ人の歴史と生活を紹介する。だが、展示品をぎっしりと詰め込み、天井を斜めに走る切れ込みや、ジグザグの空間を横断する線を暗示する黒い床は、展示品に埋もれている。また部屋の増設により、かたちが崩れ、建築的な仕掛けがわかりにくい。おそらく、展示品のない状態が最も美しい。一筆書きの展示空間は動線がわかりやすい。しかし、地下を経由して出口に戻るとき、行きと同じ狭い通路を使うために、混雑を招くだろう。
荒れ地だったポツダム広場の再開発では、レンゾ・ピアノ、ヘルムート・ヤーン、磯崎新らの巨匠の共演により、世界中どこでもありうるジェネリック・シティが誕生した。一九八〇年代の「IBAプロジェクト」は、建築博物館のような集合住宅群をもたらす。アイゼンマンやザハ・ハディドの作品も実現したが、刺激的なものではない。だが、《ユダヤ博物館》は異彩を放ち、圧倒的な迫力をもつ。かつてディコンストラクティヴィズムに括られた建築家として十分に期待に応えている。リベスキンドの代表作になることは間違いない。
リベスキンドは、一九四六年にポーランドで生まれ、イスラエルで音楽を学び、その後、アメリカに渡ったユダヤ系建築家である。先に過激なドローイングや理論で有名になったが、九〇年代後半から実作も手がけている。彼は、《ユダヤ博物館》を建てるなら、ここに残るべきだという妻のニーナの助言により、ベルリンに拠点を移す。このプロジェクトでは、難しいプログラムの建築を実現させた力技も評価できる。しかも当初、《ベルリン博物館》のユダヤ分館になるはずだったが、最終的に全体が《ユダヤ博物館》になった。
 《ユダヤ博物館》は、激動の歴史を経て、再生する都市ベルリンの象徴的な存在である。一九四五年、ベルリンは空襲により焦土と化していた[図25]。街に古い建物が少ないのは、そのせいである。戦後は東西に分断され、一九六一年にベルリンの壁が建設された。ゆえに、この施設は、一九九〇年の東西ドイツ統一を経て、過去を清算する二一世紀への出発を印象づけるだろう。むろん、ドイツとユダヤの歴史の傷跡は簡単に癒せない。ホロコーストは無名の市民の悲劇だった。リベスキンドは、《ユダヤ博物館》がアインシュタインらの有名人だけでなく、無名のユダヤ人をたたえるものだと説明している。彼の家系でも、八五人がナチスに殺されたという。ベルリンでは国家的に追悼するために、ドイツ初のユダヤ人に捧げた本格的な記念碑の建設が予定されている。リベスキンドに影響を与えたアイゼンマンが、《ホロコースト・メモリアル》の設計者に決まっている。
ベルリンの国会議事堂は、ノーマン・フォスターによってガラスのドームを復元的に増築した。大勢の観光客でにぎわうこの施設は、九月一四日の午後、一時的に閉鎖され、アメリカの報復戦争に反対するデモが行なわれた。だが、ハリウッド的に壊された世界貿易センタービルは、世界史をハリウッド化している。ブッシュ大統領は「十字軍」や「限りなき正義(後に「不朽の自由」と変更)」、ビンラディンは「ジハード(聖戦)」の言葉を無造作に使い、宗教を巻き込む。二一世紀最初の「戦争」は、アメリカとイスラムの互いに対する憎悪を増幅させかねない。冷戦の時代とは違い、世界は複雑な構図であるにもかかわらず、敵か味方かの単純な二分法で整理されようとしている。これが続けば、最悪の場合、アメリカの連合国とイスラム圏の戦争に発展するだろう。それゆえ、単純化がもたらす悲劇と現実を生きる難解さを示唆する《ユダヤ博物館》は重要なのだ。
しかし、九月一一日の同時多発テロの黒幕が過激なイスラム原理主義の信者だとすれば、戦後に誕生したユダヤ人の国家イスラエルをめぐる問題も、やはり事件の遠因ということになろう。二〇世紀の問題は終わっていない。

ビルの土台を揺るがすことができても、米国の土台を揺るがすことはできない。米軍は強大だ。    
    テロ直後のブッシュ大統領のスピーチ

このビルを打ち壊した者たちは、まもなく、われわれ全員の声を聞くことになるだろう。
    貿易センターのがれきの上でブッシュ大統領のスピーチ、二〇〇一年九月一四日

巨大なビルが破壊され、米国は恐怖におののいている。米国民が味わっている恐怖は、これまで我々が味わってきたものと同じだ。我々ムスリムは八〇年以上、人間性と尊厳を踏みにじられ、血を流してきた。神は米国を破壊したムスリムの先兵たちを祝福し、彼らを天国に招いた。(…中略…)世界は今、信仰をもつ者と、異教徒に分かれようとしている。すべてのムスリムは信仰を守るため、立ち上がらなければならない。(…中略…)米国民よ、私は神に誓う。パレスチナに平和が訪れない限り、異教徒の軍隊がムハマンドの地から出ていかない限り、米国に平和は訪れない。
    一〇月七日にアルジャジーラで放映されたビンラディンの声明★三七

22──ダニエル・リベスキンド《ユダヤ博物館》の模型 筆者撮影 なお、WebSite 10┼1の写真アーカイヴ〈ベルリン編〉(http://tenplusone.inax.co.jp/archive/berlin/berlin.html)に筆者の撮影した写真があるので、参照されたい。

22──ダニエル・リベスキンド《ユダヤ博物館》の模型
筆者撮影
なお、WebSite 10┼1の写真アーカイヴ〈ベルリン編〉(http://tenplusone.inax.co.jp/archive/berlin/berlin.html)に筆者の撮影した写真があるので、参照されたい。

23──《ユダヤ博物館》左がホロコースト・タワー、 右がホフマンの庭 筆者撮影

23──《ユダヤ博物館》左がホロコースト・タワー、
右がホフマンの庭
筆者撮影


24──《ユダヤ博物館》地下通路 筆者撮影

24──《ユダヤ博物館》地下通路
筆者撮影

25──爆撃で廃墟になったベルリン、1945年 出典=Architectural  Design, 7/8, 1982.

25──爆撃で廃墟になったベルリン、1945年
出典=Architectural  Design, 7/8, 1982.


★一──THE GUARDIAN, SEPT 12, 2001.
★二──『朝日新聞』二〇〇一年九月一四日。
★三──『CBSドキュメント』TBSテレビ、二〇〇一年一〇月二一日。
★四──『朝日新聞』二〇〇一年九月一八日。
★五──同時多発テロ後に行なわれた「戦争と美術」のシンポジウムのために、村上隆が準備した映像作品《わかりあえない世界》(二〇〇一)は、日本のサブカルチャーで繰り返された爆破シーンを紹介している。
★六──スピーチ『朝日新聞』二〇〇一年九月三〇日。
★七──ミノル・ヤマサキと世界貿易センタービルについては、P・ヘイヤー『現代建築をひらく人びと』(稲富昭訳、彰国社、一九六九)、Contemporary Architects, ST. James Press,1987.、R. Stern, New York 1960ユ The Monacelli Press,1995. などを参照。
★八──ボードリヤール『象徴交換と死』(筑摩書房、一九八二)。
★九──チャールズ・ジェンクス『ポスト・モダニズムの建築言語』(竹山実訳、エー・アンド・ユー、一九七八)。
★一〇──『朝日新聞』二〇〇一年三月一四日。
★一一──『Newsweek』(日本版)二〇〇一年四月四日号
★一二──藤原和彦『イスラム過激原理主義』(中央公論社、二〇〇一)。
★一三──アハメド・ラシッド『タリバン』(坂井定雄他訳、講談社、二〇〇〇)。
★一四──『朝日新聞』二〇〇一年三月五日。
★一五──Kausar Bashir, Ahmad Bamiyan Buddas and Beyond, XXI, 2001.
★一六──『朝日新聞』二〇〇一年一〇月六日。
★一七──モフセン・マフマルバフ「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」(『現代思想』二〇〇一年一〇月臨時増刊「これは戦争か」、青土社)。
★一八──樋口降康「アフガンは古代遺跡の宝庫」(『朝日新聞』二〇〇一年一一月一〇日)。
★一九──『朝日新聞』二〇〇一年一〇月四日。
★二〇──Newsweek, Commemorative Issu, 2001.
★二一──加藤朗『現代戦争論』(中央公論社、一九九三)。
★二二──宮台真司「近代社会のコーダとしてのテロリズム」(『SIGHT』特別号、Rokinユon、二〇〇一)。
★二三──マーティン・ポーリー「どうして幻影都市を再建しなければならないのか?」(五十嵐光二訳『10+1』No.13、INAX出版、一九九八)。
★二四──『監獄都市LA』や拙稿「アポカリプスの都市」(『終わりの建築/始まりの建築』、INAX出版、二〇〇一)も参照されたい。
★二五──Herald Tribune, Sept 17, 2001.
★二六──「『銃を』『旗を』走る米市民」(『朝日新聞』二〇〇一年九月一九日)。
★二七──エマニュエル・トッド「テロは世界を変えたか」(『朝日新聞』二〇〇一年一一月二一日)。
★二八──いずれも★二〇と同じ。
★二九──ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』(白石隆、リブロポート、一九九一)や、筆者と磯崎新の対話を収録した『磯崎新の建築談義#1 カルナック神殿』(六耀社、二〇〇一)も参照されたい。
★三〇──「貿易センタービル──跡地は」(『朝日新聞』二〇〇一年九月二六日)。
★三一──Bill Harris, The World Trade Center; A Tribute, Courage books, 2001. 禅野靖司「WTCをめぐるハイライズ論」(『新建築』二〇〇一年一〇月号)。
★三二──「NY──光の鎮魂」(『朝日新聞』二〇〇一年一一月二四日)。
★三三──『Newsweek』(日本版)二〇〇一年一〇月三日号。
★三四──Jewish Museum Berlin, June, 2001.
★三五──Daniel Libeskind, Academy Editions, 1991. Daniel Libeskind, Jewish Museum, Erndt&Sohn, 1992. The Jewish Museum Berlin, Stadwandel Verlag, 2001. Daniel Libeskind, Jaron Verlag, 2001. などを参照。
★三六──田中純「終わりの時代の建築家」(『批評空間』一〇号、福武書店、一九九三)。
★三七──『朝日新聞』二〇〇一年一〇月九日。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>『10+1』 No.26

特集=都市集住スタディ

>隈研吾(クマ・ケンゴ)

1954年 -
建築家。東京大学教授。

>林昌二(ハヤシ・ショウジ)

1928年 -
建築家。日建設計名誉顧問。

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>団地

一般的には集合住宅の集合体を指す場合が多いが、都市計画上工業地域に建設された工場...

>マーティン・ポーリー

建築批評家。

>フィリップ・ジョンソン

1906年 - 2005年
建築家。

>レンゾ・ピアノ

1937年 -
建築家。レンゾ・ピアノ・ビルディング・ワークショップ主宰。

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>ザハ・ハディド

1950年 -
建築家。ザハ・ハディド建築事務所主宰、AAスクール講師。

>ノーマン・フォスター

1935年 -
建築家。フォスター+パートナーズ代表。

>五十嵐光二(イガラシ・コウジ)

1966年 -
表象文化論、美術史。東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。。

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年 -
表象文化論、思想史。東京大学大学院総合文化研究科教授。