建築そのものは問題ではなく、そこにどんな状況が成立しているのかということが決定的だと、彼はしばしば口にしていた。そして本当の感情と営為が成立する余地が極端に失われていく状況に危惧を抱いていた。こうして大島氏は少しでも刺激的な状況を作ろうとして、自らの問題意識を提示し、実践するためにさまざまなフィールドで活動を行なった。それは自らが乗り出して状況を攪乱する以外ないという活動家としての自負だった。こうして彼は出版や翻訳をする一方で、「コーディネーター」として美術家や建築家と協働してコンペに名を連ねたり、展覧会や家具、建築のプロジェクトを推進し実現させていった。
これらの作品には、彼の洋書店"SQUAttER"(スクウォッター:不法占拠者)の名のごとく、成果を出せば、たとえ最初に口出ししただけでも「共作」ということになればまだ良いほうで、時には自分のアイディアだからと公言し、その逆となればシラを切るという、「いいとこ取りの責任転嫁」とでもいうべき愉快なエピソードも数多くある。だがそれも互いの刺激的なバトルと忌憚なき友情があったからこそである。共作(凶作?)だと言えるようなプロセスが紹介できるなら、その方がよいだろう。
《久屋大通コンペティション》
1987年に行なわれたコンペで、名古屋の建築家、高橋博一氏とコラボレートした作品。三等に入選し、いわばこれが、大島の言葉を借りれば、大島の最初の「勲章」となった。具体的にどれぐらい設計作業に関わったのかはわかりかねるが、コンセプトメークや、設計趣旨の文章に大島の力点が置かれたのではないかと推察される。審査員長だった黒川紀章氏の審査結果を評して、「問題のない大手設計事務所案を一等に据え、それと相反する非常に私的な作品を二等に押し、三等に地元の設計事務所の優秀な案を入れる、非常によくわかるバランス感覚である」というようなことを大島は述べていた。
作品には、今見ると、当時日本でもすっかり有名になっていた、チュミの《ラ・ヴィレット公園》の影響などが見られるとする向きもある。確かに、独特の嗅覚で、欧米の「最先端」の情報・潮流を先んじて採り入れつつ、そこから今日的な問題提起を行なう展開力が、大島の特異な能力だったとするなら、ヴィヴィッドな建築家の才能がそれに応えたのだとする捉え方もあり得るだろう。
彼の特徴として、ある一定の時期ごとに、非常に濃密な関係を持つ建築関係者たちがいたというのがあり、その都度大島の見込んだ、才気溢れる人たちとのさまざまなコラボレーションを行ない、さまざまな成果物を世に送り出した。[道家 洋]
正式名称=「久屋大通公園・モニュメント設計競技」1987年
プロデュース=大島哲蔵/ 設計=高橋博一
《Reciprocity of Man & Water(snow)》
スクウォッターの事務所ではスペースの限界があり、知人の建築事務所を週1回まさに「スクウォッティング」しながらの作業であった。ジャッドの立体作品を例に挙げるなど、氏の独特の着眼点に圧倒され、その思考法に引きずり込まれたのは貴重な時間であった。場所の占有化が進み砂漠化した都市を危惧し、敷地を定義しながらも自然というヴォイドを内包し、すべての人に開かれた立体的な都市公園を作り上げる「地表面の公的性格の回復」を目指し4連の空中プリズムを作り上げた。しかし内容や入選することよりもむしろ僕らのような若い世代と時間を共有するということを純粋に楽しんでいたように思う。[柳原照弘]
正式名称=「青森市北国型集合住宅国際設計」2001年
プロデュース=大島哲蔵/設計=柳原照弘+桑田真由子
《アンダーコンストラクション展》
《アンダーコンストラクション展》は1986年の2月2日に1日だけ、名古屋のとある建築現場で催された現代美術のエクシビションである。美術作品を画廊や美術館という、いわばありふれた設置場所から、建設途中の躯体が荒々しく剥き出した建築現場に移すことで、美術と建築の両方の問題点をあぶり出そうという試みで、相互の微妙な取り合わせが話題となった。展覧会は当の建築物の設計担当だった西井信幸氏と美術を後押しする大島が協働する形で行なわれた。当時新聞に掲載された大島のコラムを読むと、作品の特徴や意義を的確に捉え、絶妙の解説となっているが、最後の、前向きで期待感に満ちた言明が、近年の建築や美術に対する深い失望感と比べると際立っている。[道家 洋]
正式名称「ONE DAY EXIBITHION UNDER CONSTRUCTION——建築現場に設置されたアートワーク」1986年
プロデュース=大島哲蔵/ ディレクション=西井信幸
《2G》
バルセロナ・パヴィリオンに隣接してミース財団の施設を増築するコンペ。われわれは既存のパヴィリオンがオリジナルでなく複製されたものであることに着目し、空間的体験のみならず、歴史的側面を補完することで、パヴィリオンそしてミースの再定義を促すことを目論んだ。かくしてミースによって同じワイマール時代に建設され、破壊されたもうひとつの建造物「カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクの記念碑」を複製し、そして両者をつなぐ光のパッサージュを地表すれすれに埋設してユニヴァーサルスペースを暗示する台座とした。当時物議を醸した左翼の星にはミースが参加した前衛誌“G"のイニシャルを添えて…。[宮島照久]
正式名称=「バルセロナ・ミース財団本部設計競技」
1998年
プロデュース=大島哲蔵/設計=宮島照久/
CG協力=山本拓治
《ASO——阿蘇 シュミラクル オープンエアー》
われわれが阿蘇山のふもとに用意したこれは、庭園でもアースワークでもない。それはランドスケープという新しい制度や、トゥーリズムそしてスポーツというイデオロギーに逆行し、放置され自生する領域(阿蘇の火山灰の荒地)、群島状に配された牧草地のモニターに映し出された虚ろな映像、そして一定のエリアをカヴァーするカメラの相互作用により刷新されたサイトの表情を形成する。その結果、考古学的な荒地のサイトに映像化された多次元の空間と時間がリフレクトされる。人間が自然の特異点として自らの照準を合わせる地平──それはスポーツによる身体の超克や、トゥーリズムによる異郷の発見的踏破、アートによる意味の異化と重ねられる──の略取と更新に向けられたサイトが現前する。
[宮島照久]
正式名称=「阿蘇町農村公園アート・プロジェクト・コンペティション」1996年
プロデュース=大島哲蔵/設計=宮島照久+浜谷朋之
《芦屋地区震災プロジェクト》——形式なき空隙-非ゾーニング的な両義的空間の挿入
阪神・淡路大震災が勃発すると、ただちに大島氏は地元の芦屋市に建築家と美術家を主体とするボランティア集団を結成した。結成後間もなくして、ある被災地区の住民から復興の相談を受けた大島氏の要請に応え、宮島と浜谷の2人がこの復興計画案に取り組んだ(後に、阪神間被災地への再建アイディアを募る国際コンペに一等入選した)。当時、行政側は震災以前から住民不在のまま計画していた区画整理事業を実践する好機とみなしていた。我々はこうした計画特有の図式的に意味や行為を分節するゾーニングの手法を退け、用途を特定せず多様な生活行為を許容する領域を合法的に介在させることで地区固有の自律的な運動を生成することを目論んだ。この「非計画の計画」とでもいうべき計画案作成に大島氏は直接参加することはなかったが、実践での戦略については大いに示唆を頂いた。
行政や住民と渡り合うためには、専門家としての主体的なロジックと推進力が求められた。それに応えるべく彼は被災地区を幾度となく訪れ、2年以上にわたって無償の活動を続けた。計画は実施には至らなかったが、当地に行けばその闘いの痕跡を垣間見ることができるだろう。
コーディネート=大島哲蔵/設計=宮島照久+浜谷朋之
住民と打ち合わせする大島氏:写真右上