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三次元曲面と建築術の行方 | 丸山洋志
Three-Dimension Surface and Future of Architecture | Maruyama Hiroshi
掲載『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために, 2002年09月30日発行) pp.37-38

最近、大学の設計・製図を教えていてもどかしさを覚えることがしばしばある。設計課題のエスキースとして三次元曲面らしきものを使ったプロジェクトを提出してくる学生に対してである。経験則からいうならば、この手のほとんどの学生は三次元曲面の「自由」さなり、その情動的なイメージに魅了されているだけであり、建築的なリアリティなど端から関心がない。さらに、そんな学生たちに限ってコンピュータを使って新しい形態をイラストレーションすることに建築修行のほとんどの時間を費やしてきたのか決って、でき損ないの模型(実際、厳密に三次元曲面の精密な模型を作ることなど学生の技術では不可能であろう)を持参しながらもぞもぞとしているだけである。なんのことはない、コンピュータが描いてくれたイメージだけで、三次元に対する一切の(建築的)責任を放棄しているのである。もちろん、そんな学生たちを責めたてるつもりなど毛頭ない。ベテランの教師なら、ひとまず学生がこのような「新しいかたち」に取り組む姿勢を認めたうえで、機能・構造といった建築的リアリティを配慮していく姿勢なり、良識なりを解りやすく諭していく術を持ち合わせているのかもしれない。いまどき、「ヴァーチャル」、「コンピュータ・グラフィックス」を負の謳い文句と決めつけ、このようなアプローチを端から拒絶する教師などいるとは思えない。しかし、(たとえ非常勤とはいえ)何らかの教育的意見を述べなければならない立場の私はといえば、そんな学生と同じように口ごもり、言葉を失ってしまうのである……困ったものだ。

前回言及した荒川修作氏はよく講演会で、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」の口に指を入れようとしても無理だったと、自らの体験をまことしやかに述べる。今回は荒川氏に言及するつもりはないので彼の体験をあれこれと詮索しないが、私は同じような失笑を買うであろう思いを建築に対して抱いている。建築における形而上学は何かと問われるならば、「この空間がこの空間であること」と答えるであろう。もちろん、空間のかわりにいかなる建築的現象をもってきてもよいのだが、経験的にも「この」空間が「あの」空間であったことに出くわしたことなどないからである。また四畳半の「広さ」(の概念)が八畳の「広さ」(の概念)であったことなど経験したことがないからである。ここで、大方の読者は「おまえは形而上学ではなくフィジカル(形而下)」を語っているにすぎないと指摘されるであろうが、フィジカルのフィジカル性そのものは分析的に認識するだけであり、建築的経験とは異なる。私は、あくまで経験的に語っているのであり、さらに言うならば建築的現象そのものではなくそれを「経験可能なもの」として基礎づけている所作に限定しながら馬鹿馬鹿しいことを指摘しているだけである。われわれ建築家は何らかの所与の条件に従って分析的・認識論的な命題の解答を積み重ね、後は経験という文字どおりの「ア・ポステリオリ」な判断にすべてを委ねることによって「建築」家ではない。もちろん分析的な判断、認識論的正当性に意味がないなどと言うつもりはない。しかし、その結果としての「よしと判断される」ものが裏切ることは誰しも経験しているだろう。あるいは、それでこそ人生といえるかもしれない。
しかし、それだけがまかり通ったら社会がめちゃくちゃだ。せめて、われわれの住むところ、建物なり都市なりを、単なる分析的判断あるいは感覚的予見の脈絡とは異なる方法で、「あらかじめ(ア・プリオリ)」の当必然的に基礎づけなければいけないと普通は考えるだろう。言ってみるならば、これが西欧流の建築術であり、幾何学(この場合、ユークリッド幾何学)という空間に関する学(幾何学的原則は認識論的対象でもなければ感覚的経験の対象でもない)が建築の形而上学に深く浸透している所以でもある。

一応、私はここまで奥歯にものが挟まったごとくに述べてきた(つもりだ)が、単にこのことだけを建築に関係なく述べたければ「カントは……と述べている」と二行ぐらいで済むであろう。一応、冒頭の「三次元曲面を従来的な認識論的脈絡(機能・構造)で飼い慣らす」ことに躊躇せざるをえないこと──非ユークリッド幾何学はわれわれの経験をア・プリオリに基礎づけるものなのか否か、あるいはそんなことなど考える必要のないものなのか──の予備的な考察のつもりで、いつもながらの講釈を述べたまでだ。幾何学──読者は西欧だけではなくあらゆる文明下の建築が幾何学的であると指摘するであろう。ただし、「経験の対象を可能にする」ア・プリオリな判断を基礎づけるものと自覚されたのは西洋だけである。そう、(近代以降の)建築にとっての幾何学とは、神秘的な意味なり超越的真理を提供するものではなく、ただ(経験にとっての)真理なり意味の「限界」を何となく「あらかじめ」知らしめてくれる役割を果たしたのである。

とは言っても、いまやユークリッド幾何学など隅から隅まで見通せる存在であり、建築的道具としても開発・消費され尽くしたものであり、やれ「経験の対象を可能にする」云々といった屁理屈など傍において、新たな行為がうまれてくることを夢見ながら非・因果的な幾何学に建築を委ねようとするのも当然だ──おそらく、三次元曲面なり(無意識的な)非ユークリッド空間を建築課題に導入してくる学生の程度は、こんなものであろう。せめて、この手の幾何学の属性である「角のとれた、情動的な」かたちに対して、「可分割的な空間」と「不可分割で純粋持続的な時間」というベルクソン的対立を楯に時間の相互浸透性を前面に押し出しながら、それに即したプログラム処理(「出来事」などという枕詞などつけて)ぐらいしてくれたら、こちらとしてもコメントのつけようもあるのに……まぁ、学生には無理難題か。三次元曲面を逸早く導入したアメリカの若手建築家たちはある意味で、そんな明解な方向性を打ち出している。建築における「空間の時間化」(=モダニズム)も「時間の空間化」(=ポスト・モダニズム)もベルクソン的指摘「時間を空間化した(カントの)誤謬」でチャラにしておき(無茶な言い回しだが)、感性的直観に空間・時間的純粋悟性概念ではなく、実在的・直接的反映(記憶、事物)を引き受けさせるその媒介として三次元曲面なり非ユークリッド幾何学を流用しながら、建築の形而上学に付きまとう因果律的制約(近代理性)や思弁的自由(本当の自由など知り得ないという近代的諦観)からの「進化」を目論むといったようなことを、一応はもっともらしく述べているからだ(ANYを見よ!)。もっとも、彼らの志向する建築をフランク・ゲーリーのビルバオ・グッゲンハイム美術館などと同列にとらえて良いものなのか、ベルクソン主義に自覚的なぶんだけ新たな発見があるものなのか、今のところ定かではない。ただ、個人的には彼らの方向性にそれほど関心がない。確かに空間・時間にまつわる形式主義をすり抜けているようで、そのような建築はどこまでいっても「自我の内部」の関心を投影するものでしかないからだ。もっとも、若い世代は「それで十分!」と言うかもしれない。

長い、長い前振りであった。今回は、東京は渋谷のホテル街をぶらつきながらたまたま見つけた竣工間近の三次元曲面を使った住宅を取り上げようとして、その入り口が見つからずとんでもない迂回をしてしまった。歪な卵を地面においたような、通常の建築形態から逸脱した地上三階、地下一階のこの住宅が遠藤雅樹と池田昌弘(構造家)の両氏のコラボレーションによるものであることは、計画段階から雑誌に公表されていたので即座に判明した。たまたま見つけたゆえに、内部を見るわけにもいかず小さな開口部から気づかれないように覗いただけである──だから、経験に基づいてこの作品に言及していくつもりはない。そのかぎりでは、内部・外部を含めて三次元曲面を志向しているにもかかわらず、構造体(鉄骨造)を含めた構法的分節を意図的に消去しないデザイン所作を窺うことができた(つまり、三次元曲面を意識させるような滑らかな仕上げに妙に固執していない)。私自身遠藤さんと面識があるにせよ、親しい間柄ではない。その私がこの建物を見た数日後いきなり遠藤氏に「三次元曲面の建築的可能性とはなんですか?」と電話で尋ねたのだから迷惑したに違いない。遠藤氏曰く「ユークリッド空間にないある種の自由がある」と短く答えてくれた。上述の指摘(三次元曲面を意識させるような滑らかな仕上げに固執しない)に対しては「ゲーリー的な曲面の扱いには賛成できない」と述べている。もちろん、まだ完成もしていない建物に関して際どい質問を浴びせるのは失礼千万であり、正味の質問はこれだけに留めた。ある意味で、予想された解答でもある。遠藤氏のコメントがどのような意味をもつ(べき)か、それは次号でじっくり展開していくことにしたい。

三次元曲面の背後にある(だろう)非ユークリッド空間。それがひとつの形式のもとに存在する実在的概念なのか、単にユークリッド空間上に歪みとして表象された論理的概念なのか──ざっくりと言ってしまうならばアメリカの若手建築家などは前者の側にあり、旧い世代に属しながら三次元曲面を建築に導入するピーター・アイゼンマンなどは後者の立場にあるだろう。一見するとアイゼンマンの建築の場合、論理的概念と実在的概念を混同してリテラル(この場合、何らかの哲学的言説のイラストレーション)に三次元曲面を作っているかのように思われよう。だが、その詳細を検討するかぎり、最近の彼の建築の生命線となるものはユークリッド空間から非ユークリッド空間への歪みのプロセス自体であろう。だからといって、建築におけるそのようなプロセスの記述そのものが、もはや近代建築の宿命的弊害となりつつある「経験をア・プリオリに可能にする……」といったカント的な主観の条件を克服したことにならないことにも次回附せて言及するつもりである。

1──フランク・ゲーリー《ビルバオ・グッゲンハイム美術館》 出典=http://www.adrianbonet.com/gugge/fo/017.jpg

1──フランク・ゲーリー《ビルバオ・グッゲンハイム美術館》
出典=http://www.adrianbonet.com/gugge/fo/017.jpg

2──同、内観 出典=http://www.adrianbonet.com/gugge/fo/033.jpg

2──同、内観
出典=http://www.adrianbonet.com/gugge/fo/033.jpg

>丸山洋志(マルヤマ・ヒロシ)

1951年生
丸山アトリエ主宰、国士舘大学非常勤講師。建築家。

>『10+1』 No.29

特集=新・東京の地誌学 都市を発見するために

>荒川修作(アラカワ シュウサク)

1936年 -
美術家、建築家。