典型的なオープンハウスの特色といえば、そこに居合わせるであろう住み手なり設計者なりの言葉をとらえることができる点にあるだろう。そこでの経験は、ハウスメーカーのモデルハウスや、新築マンションのモデルルームで営業マンの職業的笑顔に迎えられるのとはわけが違う。なぜなら、営業マンからの言葉は一方通行でしかないのに対し、オープンハウスの場合は、ときに住み手と設計者とのあいだで繰り広げられる攻撃防御の現場に居合わせることにもなるからだ。すなわち、住み手は来訪者に対し、自分の家について不利益な証言をするかと思えば、設計者はそれに対して抗弁をし、さらに再抗弁の応酬となる。つまり、オープンハウスという経験は、原告たる住み手と被告たる設計者の訴訟行為に法廷(現場)で立ち会うようなものである。
それでは、建築初学者や一般来訪者はいかなる身分で立ち会えばよいのか。むろん、裁判長たる資格で、原告被告の言い分を斟酌し、判決を言い渡すことができれば理想だろう。しかし、どだいそれは無理というものだ。来訪者の能力をいっているのではない。法律の世界と違って、建築の世界にはあてはめるべき規範が存在しないからだ。そのため、言葉は定着することを拒否し、漂流することになる。裁判長のようにこれをつかまえて手なずけることはできないのである。
では、いっそのことあきらめて傍聴に徹するのはどうか。しかし、原告被告のやりとりを第三者として聞いているだけでは、モデルハウスで職業スマイルと向き合うのと大差なくなってしまう。こちらに危険が及ばない分、得るものも少ないだろう。
そこで、最近話題にもなっている裁判員としての身分でかかわるのがベストではないかと私は考えている。周知の通り、裁判員は身分としては素人だが、裁判官との合議で訴訟活動を行なう、いわば中間的な存在である。オープンハウスの場合は構造的に裁判官は不存在となるが、他の「裁判員」との合議は可能だ。そのうえで、裁判官でも傍聴人でもない判断が下せないか。
もちろん、合議をするにしても、何らかの手掛かりは必要である。建築にあてはめる対象としての規範がないために言葉が漂流しつづけることは先に述べた。そうした言葉を少しでもつかまえて定着させるには、書物というツールを使うほかにない。しかし、ここでさらなる困難に突き当たることになる。六法全書に相当するような書物などありえないからだ。となると、段階的に切り崩していく戦法に出るしかないらしい。
まず、限りなく六法全書に近い性格を持つ建築書はないかとさぐってみる。大昔の大建築家が書いた概論的なものは除外するとして、現代建築を網羅的に扱ったケネス・フランプトン『現代建築史』(中村敏男訳、青土社、二〇〇三)を挙げてみたい。これは、何通りもの読み方ができる書物であって、現代住宅を俯瞰した通史としての性格をも持ち合わせている。多くの図版のうち住宅作品の占める比率も高い。建築関係者は復習として、そうでない「裁判員」でもじゅうぶん読めるように書かれている。
本書のメインとなるのは、批判的歴史と題された第II部であり、一八三六年から一九六七年までの約一三〇年間の現代建築である。とくに目立つのは、ル・コルビュジエへの言及が繰り返されることで、これだけ拾い読みしてもル・コルビュジエのエッセンスを抽出することができる。
ほかにも眩いばかりのビッグネームぞろいだが、これらの大建築家の名前も、今では建築ファッション雑誌によって一般になじみやすいものになっているに違いない。そして、フランプトンの言葉は妙なバイアスがかかっていないから、本書の性格をより六法に近づける結果となった。
1──ケネス・フランプトン『現代建築史』
これに対し、建築は建築言語そのものの問題であって、けっして日常言語で語られうるものではない、といった考え方もある。そうした言説を晩年の村野藤吾から直接聞かされたときのショックは、いまだに尾を引いている。
村野の建築言語を知るためには実際の作品に触れることが肝要であることはいうまでもないが、網羅的な検証を可能にする点で、書物として手元に置くメリットも大きい。なかでも住宅作品に焦点を絞った『和風建築秀粋──村野藤吾の住宅建築撰集』(和風建築社+吉田龍彦企画編集、京都書院、一九九四)は建築と書物の奇蹟的な邂逅と言っても過言ではない。
《旧佐伯邸》から始まり、《高知県知事公邸》、《自邸》をはさんで《長谷部鋭吉邸》、《旧近衛文麿邸》へと至る道程は目を瞠るものがある。本のヴォリュームからして日常言語たる解説はきわめて少なめにおさえられている反面、平面詳細図、展開図などディテールを知るための手掛かりはふんだんに盛り込まれている。グレードの高い写真が使用されているから誰でも村野の建築言語を享受できる。オープンハウスを経験する前に、まず最高をおさえておきたい向きには必携だが、高価なうえ、現在入手困難なのでライブラリーでの探索をお勧めする。
2──村野藤吾『和風建築秀粋』
さて、日常言語と建築言語の両極をおさえたうえで、より実際的な着地点はないかと見廻してみる。これがじつに難しい。世に手ごろ感をうたった住宅本は数多いが、ほとんどが設計者、あるいは住み手の自己満足本だからだ。いや、自己満足でもいいのだが、取り上げられている住宅を見ると、どう考えても一〇年かそこらで使い物にならなくなるような代物ばかり。マンションも含めた住宅建築の寿命についてはあらゆるメディアで取り沙汰されているが、実際は議論されているよりずっと短いように思う。
そうしたなかで、築二〇年以上三八年以下の物件、計二四件を集めた『建築家が建てた幸福な家』(松井晴子、エクスナレッジ、二〇〇四)は一読に値する。たいていの住宅が、築一五、六年を境に「限界」を見せはじめるのに対し、本書に収められた作品群は、それをゆうに超えているのだ。設計・施工者の「気」の入った建築はおのずと長持ちする。それは、人間は嘘をつくが建築は嘘をつかないことの証しでもある。
さらに興味深いのは、ここに登場する建築家の面々である。宮脇檀、東孝光から始まって、林寛治、阿部勤、室伏次郎を経て鈴木恂、象設計集団で締め括る。一見して職人肌の建築家ばかりである。おそらく、最初に建築家を決めてから作品を提出してもらったのではなく、逆に、長寿の家を収集した結果、こうした建築家のセレクションになったのだろう。なにやら不思議な安堵感を覚えたのもそうした経緯からに違いない。
3──松井晴子『建築家が建てた幸福な家』
これらの長寿住宅を概観して気づくのは、物語性を喚起するという点である。意図して物語性を盛り込んだのではなく、住み手が引き出しているように思える。それは、建築書としては珍しく住み手の日常生活風景を取り込んだ写真を使っているせいもあるだろう。
結局、オープンハウスで見るべきものとは、その住宅の物語性ではないか。それは、住み手と設計者との格闘の痕跡かもしれないし、妥協の産物かもしれない。ディテールや全体構成を眺めながら、住み手あるいは設計者の証言を「裁判員」として判断すること。それはすなわち自分なりの物語を発見するきっかけをつかむことにほかならないだろう。