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木造密集市街地を再考する | 三宅理一
Reconsidering High Density Wood Structure Zones | Miyake Riichi
掲載『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界, 2001年10月発行) pp.188-195

なぜ密集市街地なのか

どこかの町から鉄道で東京に向かうとしよう。新幹線でも私鉄でもよい。東京駅あるいは山手線のターミナルに向かって走るその車窓から眼に飛び込んでくるのは、変わりばえのしない建て込んだ家並みである。それが何十キロも長々と続く。県境である多摩川や江戸川を越え、ようやく都内に入っても、その状態は変わらない。遠くに超高層ビルが見え都心らしさを垣間見たとしても、近景はまさに密集した市街地であって、それこそマッチ箱のような住宅があたり一帯を埋め尽くしている。人間くさいといえば確かにそうであるが、晴れがましい首都の姿にはほど遠い。モダンなオフィスビルの情景とあまりにもかけ離れているだけでなく、外国人をしてこれぞスラムではないかと言わしめるような一見無計画で過密な環境となっている。仮にそれが下町であればそれなりの風情があり、町家や長屋に住む渋みのある老人たちの姿が浮かんでくるものだが、実際の風景はただただ殺風景な住宅がぎっしりと空間を埋め尽くしたにすぎない。そこに建っている住宅も住宅産業系といえば聞こえが良いが、プレハブあがりの簡易住宅と考えた方がわかりやすい。工場生産の似通った住宅がそこかしこに並んでいる様はやはりそっけない。頭のなかで描く東京のイメージ、つまりは大手町、霞ヶ関といった都心のビジネス街や超高層ビルの林立する副都心、さらには海辺に面したお台場のいかにも計画されデザインされた街区とは裏腹の、まさに正反対な住宅地と言ってよい。アンチデザインとでも言うべきだろうか。面積でいえば、超高層ビルが林立するビジネス街はごく一部であって、東京のかなりの部分はこのように密集した住宅地で占められている。
通勤や通学のときに眼にする東京の現実はあまりにも日常的であって、このような住環境についてこれまでの都市計画とか東京論では正面きって語られることがなかった。ヒロイックなもの、奇怪なものを求めるジャーナリズム的視点からも、用途地域の有効な活用を求める正統な都市計画の立場からいっても、どこにでもあり突出したところのない月並みな市街地は、以前は議論の対象にもならなかった。町中どこにでもある電信柱が眼に入らないのと同じである。
本稿は、このような密集市街地に眼を向け、通常の計画論ではカバーできない都市と住宅の現実に眼を向けることを目的としている。二〇世紀という時代のなかで生み出され増殖を続けた木造住宅の密集市街地のありのままを受け入れ、従来の発想からの切り替えを試みることを主眼としたい。ややペダンティックな言い回しをすれば、モダニズムの倫理性を下敷きとして調和と均衡を求める計画理論ではつかみきれない逸脱した都市の現実を直視し、得体の知れない力で増殖を続ける町並みの不可解なメカニズムを抉り出すこと、となるだろうか。
二〇世紀とは、近代化以前の安定した都市構造を突き崩し、産業の圧倒的優位のもとに市街地の膨張と高密度化を促した時代である。モダニズム理論が一九世紀の工業化と階級分化の現実の前に、それまでの古典主義的な価値観を打ち破り、大衆とデモクラシーの支配に進化する都市と建築のイメージを重ねて、ひたすら改良主義的な計画論を築き上げてきたのは事実である。しかし、何かが違っていた。江戸時代という農本主義的な思想を宿し、風景と都市とが奇妙なまでに一致していた時代から、土地のコントロールに有効な手段を見出せないまま一気に産業化と人口の再配置を進め、都市の破壊と膨張を繰り返した我国の歴史的プロセスが、モダニズムの倫理性では到底制御できない巨大な怪物のような都市の現実をつくりあげてしまった。あるいは、近代化の大きなうねりのなかで取り残されたものがいつしか肥大化していって都市を脅かしていると言ってもよい。住宅としては戸建てや長屋のかたちを引き継ぎながら、過密化を余儀なくされたがゆえに近代以前の親密で安定した住まいとはまったく異なった環境をつくりだしてしまったのが今日の木造密集市街地である。二〇世紀の負の遺産とも鬼っ子とも言えそうだ。

危険な木造密集地域

木造住宅密集市街地は、東京とか大阪といった大都市ならばどこでも眼にすることができるあまりにも日常的な住環境である。ごく有体に言えば、普通の木造の住宅が高い密度で建てられた市街地であって、古い町家が並ぶ京都なども、明らかにこのカテゴリーに入るわけだから、「密集」という言葉から受ける「劣悪な住環境」というニュアンスは必ずしも正しくない。都市計画の高見沢実氏によれば、木造密集市街地はその形成過程によって以下の類型に分けられるという。

一、土着的密集市街地:特に漁村の木造密集地域
二、近世的密集市街地:(イ)京都・奈良といった歴史的密集市街地
(ロ)宿場町や街道筋の町など
三、近代的密集市街地:主として明治末期から戦前にかけて形成された木造密集市街地
四、高度経済成長期の密集市街地:昭和三〇年代以降、郊外でのスプロール的形成

近代以前の密集市街地は、ある意味では我国の歴史的な住環境をごく素直に体現したものであり、メンテナンスの善し悪しはあるにしても、一定の歴史的資産としてそれなりの評価を受けている。それゆえ、建築基準法や都市計画法によって拘束されるべきものではないし、歴史的環境としてその維持のための方策を打ち立てねばならない。しかし、二〇世紀に入って成立した木造密集市街地は、数十年から一〇〇年の歴史があるにしても、近代以前の市街地とは明らかに異なった様相を見せ、いまなお膨張が続く発展途上の市街地であることが多い。みずからが住み込んでいる市街地であったために、逆に研究の対象にもなりえず、またこれといった方策も立てられないままであった。
このように長らく見て見ぬ振りをされてきた密集市街地が、突如論議されるようになったのは、ごく最近のことである。一九九五年に起こった阪神淡路大震災で、神戸の長田区や灘区に代表される木造住宅密集地域が壊滅的な被害を受け、その根本的な脆弱性がはからずも実証されたために、各地の密集市街地の検討が始まったのである。大都市圏と呼ばれるところには、この長田区や東京都墨田区のように下町の典型的な高密度地区から、東京の豊島区や杉並区のように所得階層でいえばそれなりの数値を示しながらも密集化しているところまで、さまざまな密集市街地が分布している。行政から言わせると、防災上きわめて危険であり、再度神戸のような震災が起こったならば、相当の被害を覚悟しなければならないということになる。
阪神淡路大震災以前に東京都が出した危険度測定調査報告(一九九三)[図5]を眺めてみると、山手線を取り巻くように真っ赤に塗りつぶされた地域が広がっているのに気がつく。地震や火災に対してどれだけ弱いかを防災危険度という指標で表わしているわけだが、その価が五という最高価を示す地域の広がりがこれだけあるということである。東京都の危険地域のかなりの面積を山手線外側に占めていること自体異常であるが、それが現実であるわけだから仕方がない。重要なのは、この危険度の広がりと木造住宅が密集している地域とがほぼ重なり合っていることである。オフィス街やショッピング街を抱える山手線内部の環境はむしろ良好とされ、その外側に木造住宅密集地域がドーナツ状に広がる様から、東京の市街地の発展過程を読み取ることはそう難しくない。極論すれば、東京の市街地の拡大に際して周縁部をなおざりにしてきた結果、このような未整備地区がリング状に連なってしまったと言えそうだ。
他方、東京に隣り合った川崎や横浜では、木造密集地域は海沿いにベルト状に連なっている。これは海岸部に立地する京浜工業地帯の労働者の住宅地域に対応しており、同心円状に発展してきた東京都とは異なった発展過程を示しているようにも見受けられる。横浜のオフィス街(関内地区)を挟んでさらに南に密集市街地が続くため、京浜地帯全域で眺めた場合、木造密集地域はちょうどクエスチョンマークのようなかたちを示している。むろん埼玉や千葉の方向にも同じように密集市街地が連なっているので、首都圏全体としては、真中が空いた星型の木造密集市街地の構図となっているだろうか。行政上はそれぞれの自治体が別個に市街地の防災や改良に取り組んでいるため、意外と全体の構図が見えないが、首都圏全体として数万ヘクタールの土地がこのような防災危険度の高い地域と見なされている。

1──墨田区京島地区の風景

1──墨田区京島地区の風景

2──墨田区京島地区の風景

2──墨田区京島地区の風景


3──横浜市鶴見区潮田地区

3──横浜市鶴見区潮田地区

4──横浜市鶴見区潮田地区

4──横浜市鶴見区潮田地区

5──東京都「地震に関する地域危険度測定調査報告」 出典=三宅理一+林明夫編『次世代街区への提案──安全で環境にやさしい街づくり』

5──東京都「地震に関する地域危険度測定調査報告」
出典=三宅理一+林明夫編『次世代街区への提案──安全で環境にやさしい街づくり』

防災論だけでは

防災の観点から木造密集市街地を論ずることは、きわめてわかりやすい。住人にたいしては「あなたの土地と家は、地震や火事が起きたらひとたまりもありませんよ」と言えば誰しもが納得するわけで、人々の恐怖心に訴えかけるという点で、単純明快である。災害時の被害状況を予測するということは、いうなれば地獄図を描いてみせるわけだから、一般の建築家やアーバンデザイナーが描く計画図とは訳が違う。通常の計画図が未来を薔薇色に示すのに対して、こちらは自身の生命の安全を脅かす要因をこれまでの経験をもとに算出し、その被害状況を未来予測的に描き出すことになり、少なくとも阪神淡路大震災の思い出が鮮明なうちは、官民ともども必死になってその対策を練り上げることに腐心していた。
震災から三年たった一九九八年に日本建築学会等建築系五団体が開催した「アーキテクチュア・オブ・ザ・イヤー」は、まさにこの地獄絵を再現しようとした試みである。東京そのものを対象として大上段に構えて問題提起を行なったが、そのなかの展示で大きな面積を占めたのが東京の震災被害シミュレーションであった。早稲田大学の尾島敏雄研究室で制作したもので、航空写真を用いた東京中心部の模型を作り、そこに分単位で震災発生にともなう火災被害の拡大を投影していくかたちをとる。用いたデータは一九九一年の東京都防災会議のもので、冬の夕刻六時に関東大震災規模の直下型地震が発生したという想定で火災の発生と延焼を予測した。その結果は恐るべきもので、火災発生後四八時間で豊島区の五〇パーセント、世田谷区の四二パーセント、中野区の五五パーセントが焼失することがわかった。鳥瞰的に見ればあたり一面焼け野原という状況で、第二次大戦の空襲よりもひどい。山の手といわれる地域ですらこのように震災の前には無力であるということが明らかになったわけで、展覧会にきた人は、模型を見て何よりも先に自分の家が火災に巻き込まれるか否かを確認するのに追われていた。関係者にとっては予想をはるかに上回る被害の状況にショックは隠せない。
さらに特筆すべきは、被災後の対応であった。この企画には特に陸上自衛隊も加わって被災時の救助活動と避難についてもシミュレーションを行なったが、現実の被害の大きさに対して現行の部隊の規模と体制では東京全域を一気にカバーして活動を行なうことは不可能であり、一刻を争う状況のなかで被災者としてはともかく自力で対処しなければならないというごく当たり前の方策に帰着したのである。木造密集市街地が次々と延焼していくなかで住民はともかく逃げるしかないということだから、パニック映画さながらの事態に陥るわけだ。地獄絵の地獄絵たる所以である。このシミュレーションは当初、影響が強すぎ、少なくとも学会と名のついたところが公に発表してかまわないものか危惧されたが、これが事実なのだからやはりその事実を直視する以外に道はないというのが関係者の偽らざる心境である。
この展覧会は東京問題のなかで木造住宅密集地の問題を強くアピールするという意味で大きな成功だった。東京のかなりの部分を占める密集市街地が、災害時に壊滅的な被害を受ける恐れが十二分にあるということが広く確認されたわけである。次なる問題はその地域の住人がこのシミュレーションの結果をどう受け止めるかということになる。しかし、実際にそのような住宅地の調査を重ねていくと、シミュレーションから導かれる客観的データと住民意識の間に微妙なずれがあるのに気がついた。地震の被害はいうなれば一〇〇年に一度のものである。それに対して住民の日常は家族のもろもろの雑事や近隣との付き合い、そして日々の商売や勤めに追われていて、なかなか一〇〇年の大計に意識が到らない。頭ではわかっていても現況を変えることに必要なエネルギーが湧いてこないのである。個人や家族のレヴェルで対処できる話ならとうの昔に策を練っているわけで、それができないのは地域のなかで権利関係や利害があまりにも複雑に絡み合い、その調整だけで何十年もかかりそうだからである。
人々の合意形成という観点から見ると、先に地獄を見せて人々の危機意識に訴えかけるという手法は効果的である。一人ひとりの権利主張が激しい時代にあって、その権利を一時的に凍結して一気にプロジェクトを軌道に乗せるためにはある種の外圧が必要であることは、少なくともそのような事業に関わったことのある人間なら誰でも理解できる。国際関係でよく引合いに出される「黒船」論と同一の発想で、震災という地獄を見せつけることが計画実施の引き金になるというのも、それなりに頷ける。ある種の安全保障論ということもでき、少なくとも国のレヴェルでは国土交通省が非常事態に際してその指揮をとることになっている。さらにどの自治体でも、財政難にかかわらず耐震補強や防災を名目として相当の予算を計上し、そのための事業を実現に移している。だから行政としてはそれなりの危機意識をもち、その対策を僅かながらも講じているのは確かである。しかし現場に入ってよく観察すると、木造密集地域の現実はさほど変わっていないというのが正直な感想である。黒船の警鐘鳴れど民動かず、というところだろうか。

計画理論がない

木造住宅密集地域は政策的に見てことほどさように難しい地域である。こうした地域を対象とした計画理論は長らく実質的に練られてこなかったと言ってもよく、一九八〇年代に入ってごく一部の研究者やプランナーが町づくりの観点から地域に入っていったという程度である。我国の都市形成史という視点から見ても、このような地域の存在は政策担当者の眼中になかったわけで、同時に都市開発の担い手たるディヴェロッパーやゼネコンの関心事でもなかった。道路整備と区画整理を中心として進められた東京の都市計画で、それらが進まない地域は都市計画マターの優先順位から外されていたようである。
東京に絞って眺めてみよう。都内で防災危険度が最大というありがたくないお墨付きをもらった墨田区の京島地区の歴史は比較的新しい。関東大震災の被災にともなって、焼け出された下町の住民たちがこちらに移り住み、にわか仕立ての長屋をそこかしこに建てたことから宅地化が始まったと言ってもよい。インフラ整備も地盤整備も行なわれないまま、多くの罹災者たちが住み着いたのが、いつのまにか現在の町並みの基礎となった。しかも戦災を奇跡的に受けず今日に到った。戦後まもない頃はやはり戦災の被災者を集め、ヘクタールあたり五一二人という世界最大の人口密度を記録する。足を運んでみれば理解できるが、迷路のような道路と路地が絡み合い、そこに木造の住宅がぎっしりと建ち並ぶ、昭和の幻影を見るかのような不思議な町である。六〇年、七〇年ほど前に遡る木造住宅も珍しくなく、東京のかつての歴史を知るうえで間違いなく貴重な地区である。
逆に山の手の密集市街地たる杉並区阿佐ヶ谷のあたりは、下町とは風情が違う。この地区も中央線の開通とその後の駅整備にともなって開発が進んだ地域で、農地を食いつぶすかたちで宅地化が進んだ。青梅街道のような古い街道や昔の古道が残っているが、地域の大半は戦前の宅地化の波にのってあたり一面が建て込んでしまった地域である。基本的には十分なインフラ整備がないまま、農地を宅地に変えていった一帯なのである。中央線から見える雑多な都市景観はこのような自然発生的な宅地化ゆえにである。かつて陣内秀信氏は一見雑多に見えるこうした地域の歴史的構造を道路や社寺の配置から探り出し、近代の堆積の下に隠された近世の姿を復元したが、このことを逆に言えば、二〇世紀のコントロールを欠いた建設行為が、古き良き風景を圧倒してしまったということであろう。域内を走る狭隘な街路はこれまたかつての農道のなれの果てであり、要は七〇、八〇年ほどの間に農地が細分化されて一面住宅となったということである。
こうした密集市街地は、下町でも山の手であってもいずれも都心から近く、交通の便や近隣の利便性という点では、かなりの条件を備えている。もともとが山手線の少し外側で郊外に向かう鉄道沿いに町並みが展開したわけで、相対的な家賃の低さが勤労者を惹きつけ、それゆえに地域の密度が増すことになった。人口が稠密であるということは、住民のコミュニケーション密度を高くし、近隣の商店街にとってもありがたい話であった。地主や地権者にとってみれば、借家経営にきわめて適したところであり、古くは長屋、新しくはアパートというかたちで安価な住居を提供することになった。不動産経営の観点からいえば、こうした零細地主の集合が、木造密集地域と言ってもよい。強い公共の意思がかたちづくられることなく、ただただ宅地が膨張していった結果である。
都市計画の阻害要因として、地権者の権利調整の難しさが挙げられるが、木造密集地域はその典型である。道路を拡幅することはおろか、角地の隅切りや塀の位置など数十センチメートル単位の話が住民の係争になっているようなところで、将来のヴィジョンを語り新しい町並みを生み出すことなど夢のまた夢の世界であった。町のイメージを明るく語るものといえば、駅から近接したことをキャッチフレーズにしたマンション業者の広告くらいだろうか。実際は、空間のあらゆる部分が複雑な権利関係をもち、その権利が微妙に保たれている状況なのである。民事不介入の原則を貫く行政としては、実質的に手がつけられないわけである。

6──京島地区の都市図 出典=『ゼンリン住宅地図 東京都 墨田区』

6──京島地区の都市図 出典=『ゼンリン住宅地図 東京都 墨田区』

7──阿佐ヶ谷地区の都市図 出典=『ゼンリン住宅地図 東京都 杉並区』

7──阿佐ヶ谷地区の都市図 出典=『ゼンリン住宅地図 東京都 杉並区』

隙間論の必要性

これまで見てきたように密集市街地の特徴のひとつは、公共の意思が感じられない、もしくは大変希薄だということである。言い換えれば、住民や地域の産業は好き勝手に活動しているのに、そこに必要なインフラ整備や緑地整備が長らく忘れ去られたように見える場所と言ってもよい。我国を訪れる外国人が日本に都市計画が存在するのか、と怪訝な顔をして問うのは、このような現実を眼にしたからにほかならない。地方都市であれば、城下町といった古くからの構造が明確であり、ヨーロッパの都市等との類似性も指摘できるが、東京圏や大阪圏となるとそうはいかない。明治以降の都市化とスプロールの圧力を前にして、そのような歴史的連続性は消えてしまい、今ではむしろ二〇世紀の歴史を編纂しなければならない状況なのである。公共の政策的関与が希薄に見えるために日本の都市計画は未熟ではないかという議論は、これまで学会や専門家会議で嫌になるほどなされ、また海外からの視察者に説明されてきたが、実際に町が良くならないのでは、その説得力のある答えを見つけようがない。
都市形成のメカニズムを考えるうえで重要なのが、近代化のなかで発生する「隙間」化の問題である。既成の市街地が何らかの理由でバランスを失い、その土地や建築が空き地や空き家になると、そこから虫食いが始まり、次第に大きな空洞になっていく、ということである。市街地のなかに空いた隙間が、ただの空いた空間ではなく、別の意思をもった個人や企業によって徹底的にもてあそばれると言ってもよい。
古くは明治初頭の藩邸の払い下げがそうである。何十ヘクタールにおよぶ藩邸が、維持不可能になって多くが民間に払い下げられ、細分化されて宅地化する。そこに強い公共の意思が働くことがなく、農地の宅地化と変わらない現象が都内のあちこちで起きている。六本木や芝など、多くの建て込んだ市街地がもともとは藩邸の払い下げから発生している。こうした大規模敷地の細分化が明治初年に起こったとして、明治後半から昭和にかけて起こったのが、既成市街地の外側での乱開発の様相をともなった宅地の開発である。いわゆる山手線の外側の密集市街地がそれにあたり、ここも公共性の介在を認めることができない。
もうひとつ重要な現象が、既成市街地のなかでの隙間の利用という現象である。不動産マーケットの需要に従って裏宅地に長屋やアパートを建設するという行為がそうであり、そのために優良な住宅地の景観が大きく損われるといったケースは枚挙にいとまがない。商店街でいえば、空いた場所を利用してゲームセンターを設置したりするのも同様のメカニズムにのっとっている。逆にこうした敷地に空き地が発生し、そこにマンション産業が入り込むのも、結局は隙間に着目した事業展開の例と言えそうだ。レッセフェール主義の公共とは裏腹に、事業者のしたたかな意思を感じさせる瞬間でもある。
今日の密集市街地を特徴付けるこのような隙間のメカニズムは、我国独特のものである。建築の建て替えや経年変化のなかでの地域景観の変化は世界中どこでもあるにしても、隙間の発生にともなう個人事業者や零細企業の動きは、民間のなりふりかまわぬ経済活動と位置付けるよりも、もう少し体系だった整理が必要ではないだろうか。伊藤滋氏言うところの四〇〇〇万人の地主の集合国家たる我国で、その多くの割合を占める中小事業者がかたちづくってきた都市の実相を掘り下げ、都市計画がなかなか動かない理由を突き詰めなければならない。木造住宅密集市街地はまさにそのような具体的なサンプルであり、われわれはその現実を卑下することなく、その限界と可能性を改めて考える段階に来ているのではないだろうか。

>三宅理一(ミヤケ・リイチ)

1948年生
慶應義塾大学大学院政策メディア研究科教授。建築史、地域計画。

>『10+1』 No.25

特集=都市の境界/建築の境界