アビ・ヴァールブルクの仕事は、エルンスト・H・ゴンブリッチによる伝記の翻訳(『アビ・ヴァールブルク伝──ある知的生涯』、鈴木杜幾子訳、晶文社、一九八六)以来、松枝到によって編まれた論集(『ヴァールブルク学派──文化科学の革新』、平凡社、一九九八)、田中純の労作(『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』、青土社、二〇〇一)、そして伊藤博明と加藤哲弘を中心にした翻訳者グループによる著作集(『ヴァールブルク著作集』、ありな書房、二〇〇三─)の刊行などによって、その全貌を明かしつつある。進藤英樹の翻訳による『異教的ルネサンス』もまた、『ルター時代の言葉と図像に見る異教的=古代的予言』(一九二〇)の初訳を含む、占星術をめぐる論考を中心にして編まれた訳業であり、上に挙げたヴァールブルク研究の流れに大きく貢献するものである。
しかし、ヴァールブルクの占星術関係の仕事の真価は、その対象のなじみのなさからか、一読して明らかになるわけではない。ルネサンス期イタリアとドイツにおける占星術というテーマは──そこで扱われるのは図像の非常に微細な分析や、ルター本人、その周辺の人文学者たちの占星術との関係である──美術史研究としてみた場合、些細で奇妙なテーマであるようにみえる。
だが、彼の占星術研究は、当時のドイツの学問状況を考慮すれば、けっして孤立したものではなかった。一九世紀末から二〇世紀初頭にかけてのドイツの古典文献学は、あらゆる分野において、基礎研究のみならず、それを基盤とした豊穣な議論や独創的な成果を産み出すことになる。占星術研究もまたそのような分野のひとつである。ヴァールブルク自身が何度もはっきりと述べているように、彼の占星術研究は同時代の学問的達成に依拠しており、とりわけ友人でもあったフランツ・ボルの研究は、必要不可欠なものであった(ちなみにヴァールブルクもボルもヘルマン・ウーゼナーのもとで学んでいる)。ボルのほうもまたヴァールブルクの占星術研究を書物として出版することを強く薦めたのである。
そもそも「イタリア美術とフェッラーラのスキファノイア宮における国際的占星術」の着想は、ボルの主著『天球』(一九〇三)に付された、アラビア語で書かれたアブー・マアシャルの『大序説』のデュロフによるドイツ語訳なしにはありえなかった。また占星術は学問と宗教との奇妙な混合であり、ある種の信仰によってこそ占星術が現在までにいたる強靱な生命力を持っているという根本的認識をヴァールブルクはボルと共有している。ボルがその著作『星辰信仰と占星術』(一九一八)の序文でヴァールブルクの著作の重要性をその出版以前から強調するのには理由があるのである。
ヴァールブルクが創設した図書館が、人であれ書物であれ、学問的ネットワークそのものを組織しようとしたことを考えれば、彼の業績が、当時のさまざまな学問分野の達成を貪欲に摂取し、基礎にしていることは当然のことである(『ルター時代の言葉と図像に見る異教的=古代的予言』に関しては、ボルのほかにデューラーの『メランコリアI』に関して画期的な研究を行ないながら、一冊の書物も残すことなく夭折したカール・ギーローの名を挙げねばならない)。実際、彼が組織したネットワークは、すでに彼の生前に高名なものとなり、ゲルショム・ショーレムは戦後、ヴァールブルクを中心にしたハンブルク学派は、戦前のドイツ・ユダヤ文化を代表する三つのサークルのうちのひとつであると述べることになる(ショーレム自身、ヴァールブルク文庫を訪問している)。
ただ、ボルの仕事が、文献学的精密さと学識の深さによって裏打ちされた占星術の歴史への堅実な貢献であるのに対して、ヴァールブルクの占星術研究は、もちろん文献学的な作業を基盤としながら、ルネサンス期に甦るダイモン的古代への畏怖に焦点が当てられている。
このような異教的なものへの畏怖は、まず地上の生に対する天球の影響という観念に現われる。古代のダイモンたちは、星々の姿を纏い、世の行程を支配する。占星術は現在のように個人の運命を占うために用いられていたのではなく、王=国家とその運命=歴史を占うために用いられていた。占星術において、天空の厳密な秩序は、地上の秩序へと投影されるだけではなく、天空の運動が歴史の運動へと翻訳されるのである。だからこそ「占星術的歴史哲学」と呼ばれるべき歴史理解が生じる。星辰の諸力はまず歴史を動かしていたのだ。
ルネサンス期にまずイタリアで息を吹き返す占星術的歴史哲学は、ルターのよき理解者であったメランヒトンにも影響を与えているようである。彼はこのような占星術と歴史の結合をルターという時代を画する人物に投影していた。メランヒトンはルターとは異なり、異教的な信仰から自らを完全には守ることができず、占星術がなす予言によって、天球が定める歴史の行程に対応できると考えた。だからこそルターのホロスコープが、当時メランヒトンの周辺にいた人文学者たちにとって重大な問題となりえたのである。
ヴァールブルクは、メランヒトンが持っていた星辰の諸力への畏怖を、あたかも継承しているかのようである。ただヴァールブルクにとって、ダイモン的な諸力は、何よりも神々のイメージを通して現前する。「古代の残存=古代の死後の生 das Nachleben der Antike」への問いに、ヴァールブルクは終生取り組んだが、彼にとって、この問いの主戦場はイメージであった。異教の神々は、形を変えてキリスト教ヨーロッパの中世を生き延び、ルネサンスにおいて再び息を吹き返す。あたかも首尾よく変装しおおせたと考えた妖女がその身振りによって自らの身元を明かしてしまうように、占星術において用いられる神々の図像にみられる「身振り」は、その出自が異教的古代であることを告げるのである。
名高い「情念定型 Pathosformel」の概念は、図像表現に見出される激昂した感情を表わす身振りなどの表現形態が、古代美術における身振り言語を、受け継ぐ形式であることを示すものである。この形式を通して、非合理的な生の力(=パトス)は、時代を超えて伝承されると同時に、観照者にも伝達されることになる(もっとも加藤哲弘によれば、制御しがたいパトスの高揚は、定型表現を媒介とすることで調停されるのであり、その点で情念定型の概念自体二義的である)。しかし、情念定型における古代芸術の生き延びを、単純に図像間に認められる照応関係だけに限定することはできない。情念定型を通じた古代的なパトスの伝承は、より広いパースペクティヴにおいて、つまりイメージの問題系に位置づけなければならない。
イメージと呼ばれるにふさわしいのは、ある細部の知覚をきっかけにした、不在であるものの現前であるように思われる。たとえばグリムなどは、「イメージ Bild」を定義する際に、息子に父の面影(イメージ)を認めるという例を用いている。イメージとは、つねに何らかの身振りや諸特徴などの最小限の徴表をきっかけにして奔出しつつ現前する、制御しがたい圧倒的な出来事そのものではないだろうか。ヴァールブルクが情念定型や占星術の図像表現において直面していたのは、おそらくそのような出来事だったのである。
このような出来事としてのイメージが、占星術、ないしは星辰信仰において見出されるのは、偶然ではない。何よりも星辰こそが魂の死後の生の場所であった。魂の不死と星辰における死後の生への信仰は、極めて古いものである。オルフェウス教、ミトラス教、キリスト教、マニ教などの西洋諸宗教を貫いて存在する魂の不死説は、死後の生において生き残るギリシア・ローマの神々の形象よりも古く、東方を指し示している。たとえば、バビロニアで発祥した占星術を、ギリシアにおいて受容した重要なサークルは、ピュタゴラス派であったし、その宗教運動が、オルフェウス教の影響を色濃く残していること、つまりギリシア文化とは異質な東方的なものを孕んでいることはよく知られている。
しかし、東方的なものとは、ヨーロッパにとってつねにすでに失われているものの名にほかならない。バビロニア文化の精華としての占星術は、現在に残されている遺物から何千年も遡る伝統の帰結であるからである。そしてまた、イメージにおける神々の死後の生を残存させる動因の起源も失われているのだ。にもかかわらず、イメージは伝承され、生き延びる。イメージの生はいわば不滅の生なのである。
したがって、イメージにおける生は、途轍もなく古いものであり、同時に現在のものである。このような不滅の生の問題に直面したのは、ユングでもあった。古代の死後の生の問題は、「元型 Archetypus」の概念とも結びつくことにも注意を払うべきであろう。宗教学や神話学において、ユングが影響力を持っているのには理由がある。元型の概念は古代の死後の生の解明に一定の視点を与えるからである。しかし、イメージを残存させる諸力は、イメージのタイプとはまた別の問題であり、イメージもまた元型に単純に還元できるわけでもない。イメージの生において唯一確認できるのは、それを生き延びさせる諸力である。フロイトが、まったく別の文脈ではあるが、太古のドラゴンは死なずと言うとき、念頭においていたのは、このような起源が定かならぬ不滅の諸力なのである。
ヴァールブルクがボンで学んだヘルマン・ウーゼナー──彼はヴィルヘルム・ディルタイの義弟である──は、ヴァールブルクが理念として掲げる学際的研究の草分け的存在であった。彼が古典文献学の教授であったことは偶然ではない。そもそも古代の文献を読むためには、あらゆる領域の知識が要求されるからである。ウーゼナーの理念は極めて単純化すれば古典文献学に宗教学・民族学を導入し、それによって新たな学を創設することであった。ウーゼナーの理念を継いだ彼の女婿でもあり、ヴァールブルクと歳を同じくするアルブレヒト・ディーテリヒは、文献学的、宗教学的に重要ないくつかの仕事を残したものの、道半ばにして斃れた。ヴァールブルクが『ルター時代の言葉と図像に見る異教的=古代的予言』の末尾において、この二人の名を範として掲げるのは、美術史と宗教学の学際研究を試みようとした彼が、その困難と重みを熟知していたからにほかならない。
学際的な研究を支えるのは最終的には制度でも方法でもない。ヴァールブルグの名はウォーバーグ研究所に冠されることで残り、彼が創造した図像解釈学はパノフスキーによって方法論化されることによって、実り豊かな研究を産み出す契機となった。しかし、必ずしもそれらにヴァールブルクの掲げた理念の実現があるわけでも、彼の「死後の生」が息づいているわけでもない。イメージに圧倒されその力に貫かれた者が、我に返りあらためて世界と対面することで否応なく課される問題の命ずるままに、そこが専門外の領域であろうと、未開墾の土地であろうと、足を踏み入れようとするときにのみ、ヴァールブルクの精神は甦るのである。
1──アビ・ヴァールブルク『異教的ルネサンス』
(進藤英樹訳、ちくま学芸文庫、2004)
2──「筆者は、この悪魔を背中に乗せ、まるで蛇のように地面に着くまで頭巾の付いた修道服の裾を
長く垂れ下がらせている修道士の背後に二つの星辰図像の記憶が生き続けていることを疑うことはできない。
つまりアスクレピオス=蛇を持つ男と天蠍宮である」(『異教的ルネサンス』、235頁)
3──農夫になり変わったダイモンが描かれた写本
出典=『異教的ルネサンス』