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野性的領域に向けて | 日埜直彦
Toward Frontier of Architecture | Hino Naohiko
掲載『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること, 2005年04月発行) pp.30-31

ローマ帝国の崩壊とともに失われた古典建築の伝統、その廃墟を横目に見ながら建築をゼロから始めたロマネスク期の建築、そんなコントラストが近代建築と現代建築の間にもあるのではないか。いかにも大げさなこの仮説がこの連載の端緒であった。このような問題設定は唐突でほとんど時代錯誤的に聞こえるかもしれない。だがある意味では現代を問うことがおろそかにされている現状こそが特殊なのである。例えば現代の建築が近代建築の延長上にあるのかそれとも近代建築を乗り越えるべきものなのか、その程度のことさえあやふやにされ、スーパーフラットに歴史を括弧に括ることが積極的なニュアンスで語られる。こうした状況において今がどのような時代なのか問うことが稀になり、互いの意識のズレに無関心になるのも自然かもしれない。だが近代は時代精神を主題とする啓蒙の時代であり、そのような無関心は陰画的に近代と現代が隔てられていることを物語っている。建築が作られる現場において現代を問うことがおろそかにされているとは思わないが、だがそれに対応する言葉はあまりにも希少ではないだろうか。
ともあれ、近代と現代の間にこそ歴史的断絶があるという仮説によるならば、近代建築はその革新的マニフェストに反してむしろ古典的な建築の延長線上に位置づけられる。古典建築と近代建築を一貫する構想プロセスのあり様を本論では編成的指向と呼んだ。共有された理想の具現化として建物を捉えるような一種のパラダイムである。社会的共同性は構想プロセスを了解可能にし、信任の担保となることでそれを透明化した。だが現代のいわゆる価値の多様化という事態は理想像を不安定にする。このような不透明な状況において、建築の姿を定める媒体として、ある種のカタチ、理念とは無縁の、ある具体的な建築の成り立ちを要約した三次元的なコンポジションが理想に代わって構想プロセスの前面に現われてきている。こうした傾向を本論では解釈的指向と呼び、その対象となる建築的コンポジションをアレンジメントと呼んだ。アレンジメントはそれぞれの立場に応じて解釈される対象であり、合意の対象である。現代建築の多様な形態はいくつかの部分要素に分節され、その内的関係を視覚化している。その内部で何が起こるかが想起され、周囲との関係が形態上に現われるだろう。
理想を具現化するという古典的パラダイムには多かれ少なかれユートピア的な指向が潜んでいる。極端に言えばそれは地上の楽園への期待であり、同時に疎外の克服である。ヴァレリーに見られるごとく、そこには奇跡を待つ悲痛な響きさえ聞こえる。これに対してアレンジメントは固有性の生成と関わり、その創発的な質が問われている。それは形式的なフォームというよりは具体的なシェイプの問題であり、時にはより即物的な次元まで視野に組み入れられて複合的でハイブリッドな固有性が追求される。古典的な統一性などかなぐり捨てられて、むしろ積極的に異質な要素を併呑しつつ、計画というよりも実験として建築が構想される。理想への指向を垂直的と言いうるならば、こうした固有性への指向は水平的であり、互いに直角をなして一方の地平を他方に投影することはできない。フラットに見るという態度そのものよりも、そのそこかしこに具体的な固有性を見出すことが現代における生産的問題なのである。
例えばフラワーアレンジメントや料理は、一本の花あるいは一切れの食材を組み合わせることで、それらの素材に還元できない固有性を備えた花束あるいは一皿を作る。アレンジメントの創発性とはそんなごくありふれたことであるわけだが、本質的に複合的性格を持つ建築が同じように考えられてはならない理由があるだろうか。そこに違いがあるとすれば、フラワーアレンジメントや料理においては比較的自由にアレンジメントの可能性が探られ、建築においてはその桁外れに複雑な条件に応じて秩序立った解決の定石が発展したというだけのことではないか。あるいはまたもう少し建築と親近性のある例を挙げるならば、ロバート・ラウシェンバーグが抽象表現主義に対して突きつけたコンバインの概念について同様に考えることができる。ラウシェンバーグは芸術の制度的表現に対して雑多な素材をコンバインした作品を提示し、モダンアートの形式主義の一端を切り崩した。ディシプリンの条件付けに抗して野性的な可能性を探求するこうした試みはさまざまな分野に見出すことができる。もちろん建築的なアレンジメントにおける固有性のあり方はフラワーアレンジメントなどと同じものではありえない。フラワーアレンジメントにおけるアレンジメントと料理におけるアレンジメントが異なるように、建築のアレンジメントにおける固有性はプログラムの交錯と展開、素材のコントラストとコーディネーション、技術的な新機軸、周囲の環境など、建築的な問題に対してあくまで建築的な創発性を持って答えるだろう。

こうした観点は現在進行中の建築的挑戦の価値をある程度裏付ける。しかしその具体的な状況を見返すとき、その実態はそう単純ではないし、それどころか懸念を抱かずにはいられない傾向も並行して現われている。
時に「スターアーキテクト」などと呼ばれる世界的に名を知られた建築家は、これまで述べてきたようなアレンジメントにおける試行を急速に先鋭化し、複雑かつ立体的な構成のさまざまな可能性を謳歌している。それはたしかにこれまでにない類いの建築を実現し、伝統的な建築のディシプリンを古くさい因習と化した。しかし同時にそのことによって現代建築はスペクタクル化し、さらにアイコン化しつつあるのではないだろうか。フランク・O・ゲーリーは例の曲面のコンポジションを次々に量産し、個々に発展がないわけではないがそれらは明らかにゲーリーのアイコンとして流通している。ジャン・ヌーヴェルにおける屋根のような大型構造物とその下のコンポジション、ヘルツォーク(H&deM)におけるいわばメタフォリカルな素材と彫刻的な形態による異化の効果、レム・コールハースにおけるプログラムと形態の挑発的な関係、こうした傾向はいくらでも挙げることができる。これらを各々の建築家に特有の関心の反映と素直に受け止めてよいのか、あるいは単なるクリシェなのかという点には議論の余地がある。しかし少なくとも彼らの作品を社会的に見れば、アレンジメントの試行は固有性よりも単なる特異さに流れやすいのかもしれない。特異なアレンジメントにはおそらく特異な可能性、特異な質があるに違いない。それはそれで評価できるとしても、その特異さは建築家のオーソリティの刻印として、商品=アイコンとして流通する。こうしたアイコンは、アレンジメントの可能性とはほど遠く、むしろ単に消費資本主義的状況の反映に見える。
こうしたこれ見よがしの試みは一部の建築家に見られるのみであって、現在の状況として一般化するのは無理があるかもしれない。実際大多数の建築家が作る建築ははるかに穏当なものだ。現実的に考えれば「スターアーキテクト」たちが取り組んでいるようなスケールの大きな建物でない限り、三次元的なアレンジメントとして建築を構想することは難しいかもしれず、スケールメリットを活かすことができない規模の建築においてその形態を変形することは、すぐさまコストや構造の不合理さに直面し、施工上の困難に行き当たるだろう。
しかしながらアレンジメントの意味をここでいくらか拡張してみれば、その適用範囲は相当広がってくる。以前述べたようにアレンジメントが複数のオブジェクトのメタレヴェルの関係であるとすれば、どのスケールにオブジェクトを見るかは任意である。例えば地形あるいは周囲の建物との関係においてそれを考えることもありうるし、あるいは室内環境に置かれる物体と建築の部分においてそうすることもできる。習慣的分節を括弧に括り、コンポジションの視点をどの水準に据えるかをより自由に考えたとき、拡張した意味において建築的なアレンジメントを考えることが可能だろう。そしてこうした視点は日本の幾人かの建築家のアプローチとして、実はすでに広く知られているものではないだろうか。例えば塚本由晴西沢大良による『現代住宅研究』(INAX出版、二〇〇四)は、この種の本としてはいくらか風変わりな章立てで現代の近代以降の日本の住宅を再解釈していくが、そのとき行なわれていることは、特定の着眼点からそのアレンジメントがこれらの住宅をそれほど多様なものにしているのかを考察することではないだろうか。強引な解釈かもしれないが、こうした見方は比較的一般的な現代建築に対する観点を与えてくれはしないだろうか。
もちろん拡張した意味においてアレンジメントを捉えたとしても、現代建築のすべてを説明できるわけではない。だが最近のある種の傾向について本論の文脈と関連づけておきたい。粗雑な言い方をすれば、歴史的意匠から近代建築に参照先を移したポストモダン、とでも表現すべき一傾向についてである。そこではスタイルが趣味的にパッケージとして選択され、デザインのひな形として応用されている。本論はアレンジメントを現代的状況に対応するものと位置づけ、多様なヴァリエーションから選びとられるものとしたが、こうしたパッケージは手近で共有可能なアレンジメントの代理となっているのではないか。しかしパッケージとしてのスタイルに向かうこうした指向と、アレンジメントの固有性に向かう指向を見比べるとき、未開拓の領域の広大さには雲泥の差があるはずである。
さて、一方にアレンジメントがアイコン化する傾向、他方にアレンジメントというよりもパッケージとしてのスタイルへと向かう傾向があるとして、見かけはかなり違うこれらの動向はともにルーティン化への閉塞を懸念させる。こうした傾向への抵抗の拠り所ははたしてどこに見出しうるだろうか。

ロバート・ラウシェンバーグ《モノグラム》(1963) 出典=『西洋美術史』(美術出版社、1993)

ロバート・ラウシェンバーグ《モノグラム》(1963)
出典=『西洋美術史』(美術出版社、1993)

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.38

特集=建築と書物──読むこと、書くこと、つくること

>スーパーフラット

20世紀の終わりから21世紀の始まりにかけて現代美術家の村上隆が提言した、平板で...

>フランク・O・ゲーリー(フランク・オーウェン・ゲーリー)

1929年 -
建築家。コロンビア大学教授。

>ジャン・ヌーヴェル

1945年 -
建築家。ジャン・ヌーヴェル・アトリエ主宰。

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>塚本由晴(ツカモト・ヨシハル)

1965年 -
建築家。アトリエ・ワン共同主宰、東京工業大学大学院准教授、UCLA客員准教授。

>西沢大良(ニシザワ・タイラ)

1964年 -
建築家。西沢大良建築設計事務所主宰、東京芸術大学非常勤講師、東京理科大学非常勤講師。

>現代住宅研究

2004年2月1日

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...