自衛隊に入ろう/入ろう/自衛隊に入れば/この世は天国/男の中の男はみんな/自衛隊に入って/花と散る
高田渡「自衛隊に入ろう」
ナセル、周恩来、ネルーらのよびかけで、反帝国主義・反植民地主義を掲げた通称「バンドン会議」(第一回アジア・アフリカ会議)が開かれた昭和三〇(一九五五)年、第三世界の春。この年の四月、東京には時期外れの雪が降ったという。核の脅威を背景にした冷戦体制下の、冷たく硬直した世界に「平和と独立」の熱い風を吹き込んだ非同盟主義運動の始まりの年は、いみじくも日本においては「国内冷戦=五五年体制」の始まりの年となったが、この年はまた米軍の「立川極東空軍基地」(現・陸上自衛隊駐屯地、昭和記念公園)をめぐる、〈民〉たちの熱く長い戦い、通称「砂川闘争」の始まりの年でもあった。朝鮮戦争後の米ソの軍事バランスの変化に伴い、極東アジア地域の軍事拠点である日本の基地強化を迫られた米国政府は、立川の基地拡張を日本政府に要求。水爆の搭載が可能な大型爆撃機や輸送機の離発着のできる滑走路の拡張計画が立案されるが、これに対して砂川の農民は「土地は百姓の命」であり、「これ以上の土地のとりあげは死を意味するものであるから拡張には絶対反対する」との方針を満場一致で決定し、「反対同盟」を結成。以後、土地の収用に必要な測量作業を阻止する「非暴力、不服従、無抵抗の抵抗」を展開してゆく。亀井文夫の「砂川闘争三部作」★一で、その「ねばり強い抵抗」を観ることができる。闘争支援にやってきた労働組合員から教えられたという農民たちの重たいスクラムに測量作業を阻まれた調達局は、同年八月二四日「警視庁予備隊」(現・機動隊)を投入。この時はじめて拘束者とケガ人が出るが、この日から日本山妙法寺の僧侶たちも戦列に加わり、以後、彼らが打ち鳴らす団扇太鼓の低いバックビートがこの闘争のサウンドトラックとなる(亀井の映画ではこれに「原爆を許すまじ」のメロディラインがオーバーダブされる)。この砂川の闘争にコミットしたのは労働組合員や僧侶ばかりでなく、バンドン会議以後のアラブ、アフリカの動きに感化されて、後に《アフリカA》や《アラブの刺青》などの作品を描くことになる赤瀬川原平も、吉村益信たちと共に現場の土を踏んでいる。
現場の空気にはまって、一週間泊り込んだ。警官隊は怖いですね。決戦の日に農道でスクラムを組んで座り込んでいると、警官隊がドカドカって引きずり起こしていくわけですよ。(…中略…)先に行った吉村さんに「お前、目は気をつけろ」といわれた。(…中略…)先に引きずり出された学生が、みんなに抱きかかえられて、闘争本部のある看護班に連れて行かれて。それが水木しげるの絵に出てくるように、本当にどろっと目玉が出ている。顔の下から警棒で突かれたんだろうね。ぞっとした★二。
「決戦」とは九月一三・一四の両日に強行された予備測量のことで、「青カブト」と呼ばれるヘルメットで武装した一八〇〇名の機動隊がスクラムを突破。農地に侵入して地面に杭をうちこんだ。
とうとう測量隊は、凶暴とも思われる警官隊の助けを得て、土地に何本かの杭を打ってしまいました。しかし皆さん、私どもはたとえ、土地に杭は打たれても心にまでは杭は打たれません(…中略…)私どもはブルドーザーの下敷きになっても、この原爆基地の拡張はさせません★三。
決戦後の集会で青木市五郎が口にしたというこのことばから「土地に杭は打たれても心に杭は打たれない」のスローガンが生まれ、闘争は次のステージに進んだ。この決戦に参加した画家の中村宏は、その現場の様子を《砂川五番》★四という作品に描いている。後に「戦争画」(萬木康博)と評されたように、その絵はひたすら重く暗い。まるで作家の心に杭が打たれたかのように見える。同じく亀井の第一作も、これからの困難な闘いの行方を暗示するかのように終わるが、第二作の『麦死なず』の題名のとおり、砂川の人々の心には杭は打たれてなどいなかった。様々なる「非暴力、不服従、無抵抗の抵抗」がはじまるのはそれからである。予備測量後に開始される精密測量を阻止するための戦術が次々にあみだされ、すぐさま実行に移された。畑の肥やしにする糞尿の入った肥桶でバリケードを築き、測量予定地の畑に笹の葉で糞尿をふりまく「黄金作戦」(現代版「金枝篇」とも云えるこの伝説的な戦術はビニール袋に糞尿をつめて投擲する三里塚の「黄金爆弾」に伝承された)や、野焼きの煙でスモークをはって測量の視界を遮る「煙幕作戦」など、秋の野良仕事を兼ねた一石二鳥の抵抗が実行された。また「娘っ子に口紅でもつけて測量隊のほっぺたにかじりついてやれ」という色じかけの「説得作戦」や「泣き落とし作戦」も試みられた。かたや僧侶たちは測量隊員の耳元で太鼓を打って念仏を唱え、女たちは笹の葉をふって侵入者を掃討する抵抗のパフォーマンスを演じてみせた。これに対して機動隊は放水車まで用意して応戦し、またしても力ずくで農地に押し入って測量を強行し、麦畑をめちゃくちゃに踏み荒らしていった。されども麦は死なず。人々は首相官邸と国会に測量の中止を直訴する直接行動にうって出る。しかし、そのいずれも果たせなかったため、残された最後の手段として直訴団はアメリカ大使館への抗議行動を敢行。終わってみれば、これが戦後初のアメリカ大使館前デモとなった。その後、残りの測量は来年一〇月までに完了するとの通達があり、亀井の第二作はそこで終わる。そして迎えた明くる年の一〇月、測量が再び開始される。地元で「学連さん」と呼ばれていた全学連もこの時から現場に加わり、一二日には、四八〇〇人から成る人の壁が築かれ、一三〇〇人の機動隊を押し返した。最大の激突が起こったのはその翌日である。亀井の第三作『流血の記録』はその日の現場を克明に記録している。前日からの雨で現場の土はぬかるみ、その中をヘルメットと警棒で武装した機動隊が行進してくる。機動隊は陸軍直伝の散兵戦術(散開隊形)で農地に侵攻。一触即発の緊張した空気の中、やがて指揮官から「警棒はずせ!」の指令が下る。警棒を構える機動隊員たち。警棒を握りしめる手がクローズアップされた次の瞬間、突然シーンが切りかわり、農地は一瞬にして戦場となった。無防備の人々に次々と警棒が撃ちこまれ、悲鳴と怒号の声があがる。ハイコントラストのモノクローム画面の中で血と雨と泥と涙がまみれ、カメラが激しく揺れる。「おかあさん!」と叫んで倒れる女学生。担架で運ばれてゆく負傷者たち。衝突はそれから五時間にわたって断続的に続いた。冷たい雨の中、誰とも知れず「赤とんぼ」「故郷」の合唱がはじまった夕刻、測量隊はついにこの日の測量を断念し、八四四人もの重軽傷者を出した九月一三日の闘争が終わる。この日、砂川の戦場に機動隊員として派遣されていた井戸浩が、「人生観が変った」という遺書を遺して服毒自殺したのはそれから八日後のことだった。翌朝の新聞は「警棒の雨、暴徒と化した警官隊」、「砂川に荒れ狂う警官の暴力」といった見出しで砂川の闘争を報じ、政府を厳しく糾弾。この批判をうけて政府は、ついにこの日、測量中止を決定。その夜、この中止決定のニュースがラジオで報じられると、臨戦態勢にあった砂川に一転して歓びの声があがり、人々はたまらず外に飛びだしてきた。そして「まひるのように明るく照らされたおみやの境内は、人々がお互いに握手し、抱きかかえんばかりの態度に喜びを分かち合っていた」(砂川ちよ)という。翌日、砂川では、決死の抵抗によって最後まで守りぬいた土地を四〇〇〇人の人々がデモ行進し、この歓喜のデモンストレーションで亀井の映画は終わる。こうして基地の拡張計画は潰えたが、地続きの土地になお基地は残っていた。この一種の代理戦争ともいえる砂川の闘争で人々が求めたのは「平和と独立」だった。平和とは抵抗の闘いを通じて手に入れるものであり、独立とはアメリカの軍事政策からのそれだった。よって以後、砂川の抵抗は、米軍に接収された土地を取り戻し、最終的に基地を撤廃することを目指して、なおも続けられた。一方、砂川闘争に参加した吉村益信は、その後、荒川修作、篠原有司男と共に六〇年安保粉砕の国会デモに加わり、その三日後に、赤瀬川原平らと共に「新宿ホワイトハウス」でネオ・ダダ・オルガナイザーズを結成。以後、この美術の粉砕者たちは「情況への接着」を求めて、「読売アンデパンダン」という自主独立の美術の戦場で、その臨界点にまで至る「前衛の道」を狂おしくデモしていった★五。かたや砂川では、ヴェトナム戦争の激化に伴い、基地への離発着が増えた軍用機の飛行を阻止するため、滑走路の脇に機体にふれるほど長い反戦旗を立てるなどの直接行動が行なわれ、「平和と独立」のための抵抗が続けられた。そして昭和四四年、米軍はついに立川基地からの空軍の撤退を発表するが、七〇年安保が自動延長された翌年に、政府は米軍基地の跡地に陸上自衛隊の駐屯地を置くとの閣議決定を行ない、その翌年の三月、自衛隊先遣隊が深夜の移駐を強行。同じ年の暮れ、立川市民八二パーセントの反対を押し切って自衛隊本隊が立川に移駐。すぐさま自衛隊を監視する通称「テント村」(立川自衛隊監視テント村)が駐屯地の脇に立てられるが、以来、自衛隊の駐屯が三二年間続いている。そして、現在、砂川闘争の激戦地となった土地には、平和への一里塚として建立された「闘争史碑」が駐屯地の方角を向いて静かに立ち、雨に洗われてすっかり字が読めなくなった立て札や「大正明治昭和平成」(原文ママ)と壁にスプレーで書かれた落書きが時代の推移を物語る。昭和はすでに遠くなりにけり……のはずが、米軍が残していった基地の跡地と、その跡地にやってきた自衛隊をめぐって、今ふたたび立川が揺れている。ひとつは、天皇在位五〇周年を記念して立川基地の跡地に建てられた「昭和記念公園」でいま建設が進められている「昭和天皇記念館」に反対する動きである。立川を拠点とする「昭和天皇記念館阻止団」の主催によるシンポジウムや集会が精力的に行なわれ、渋谷でサウンドデモが行なわれたその同じ日、立川では「自衛隊のイラク派兵と昭和天皇記念館建設に反対するデモ」が行なわれた。そのデモから数日後の二月二七日の朝、立川に自衛隊が移駐した時から自衛隊の監視を続けてきた「テント村」のメンバー三名が逮捕され、次いで起訴された。容疑は自衛隊官舎に入って、官舎のポストにビラを投函した際の「住居侵入罪」だった。投函されたビラは「自衛官・ご家族の皆さんへ、自衛隊のイラク派兵反対! いっしょに考え、反対の声をあげよう!」という見出しではじまるもので、ビラが投函されたポストは、デリバリーサービスのチラシなどがポスティングされる、どこにでもあるようなポストだった。この逮捕に対して法学者たちからすぐさま抗議声明が寄せられ、次いで、アムネスティはこの三人を「思想信条を理由に拘禁された良心の囚人」として認定。日本人の認定はアムネスティ創設以来はじめてのケースだというが、三人はいまなお拘留中である★六。それからほどなくしてイラクで日本人が相次いで拘禁される事件が発生。これに対し政府は「自衛隊を撤退させる考えはない」と発表。無事解放された後も「自己責任」を問うなどして、国内外からの批判を招いた。「民主主義のばけの皮の剥れゆくままに」というマーク・スチュワートの歌が生々しく響いてくる。「〈くに〉とはぼくたちの暮らしや仕事をじゃまするものでこそあれ、決してなにかの役に立ってくれるものではないのである」という花森安治のことばが響いてくる。今から半世紀前に砂川の人々が決死の抵抗で守りぬいた民主主義がここにきてなだれをうって壊れてゆくのを感じる。昭和が薄暗いエコーを響かせ、そこから最悪のものが蘇ってこようとしている。かつて赤瀬川原平がどこかで書いていたように、おそらく民主主義というものは持続するものではなく、ある一瞬に輝くものなのではないだろうか。昭和にはいくつかそうした瞬間があり、そうした瞬間のかけらを拾い集めて心にとめておくために、私はこの「残響伝」を書いているように思う。たとえビラに杭が打たれても心に杭を打たれないために、である。ランシエールが教えるように、そもそもデモクラシーとは、本来、公共の存在としての資格や条件を満たしていない計算外の物たち、すなわち、デモスたちが、デモスの分際で公共のことがらに口出しすることを非難する嘲笑と侮辱のことばだった。それは、政府や政治の統治形態のことではなく、統治そのものを打ちこわしかねない特異な事態、例外状況のことである★七。したがって、私は民主主義の社会というものをうまく想像することはできないが、民主主義者たちの「想像の共同体」を想像することならできる。計算外の時刻に計算外の場所に現われて、デモスのメッセージをアトピックにデリバリーするビラや歌はそうした想像のメディアである。「ハロハロ・バンドン(バンドンをとりもどそう)」は、バンドン会議の時につくられた歌で、この歌は「平和と独立」を求める民主主義の響きをとどめている。「号令の時代」に必要なのはこういう歌だ。そして、さしあたって、いま歌われなければならないのは、たぶんこんな替え歌ではないだろうか。
自衛隊に入ろう/入ろう/民主主義者の〈民〉はみんな/自衛隊に入ってビラを撒く!
都市ノ民族誌[完]昭和残響伝[つづく]
1──「土地に杭は打たれても心に杭は打たれない」
出典=亀井文夫『砂川の人々・基地反対斗争の記録』
2──《砂川五番》
出典=「池田龍雄・中村宏展」カタログ
3──黄金作戦 撮影=鳥羽一雄
4──煙幕作戦 撮影=向井潔
5──10月13日の衝突 撮影=小池賢三
6──歓喜のデモ 撮影=指田実
7──テント村 撮影=野邨幸和
出典=星紀市『写真集・砂川闘争の記録』
8──2004年初春
9──大正明治昭和平成
10──昭和天皇記念館
8─10=筆者撮影
註
★一──亀井文夫『砂川の人々・基地反対斗争の記録』(一九五五)、『砂川の人々・麦死なず』(一九五五)、『流血の記録・砂川』(一九五六)。以上日本ドキュメント・フィルム社。以下、本稿での砂川闘争に関する記述は次の著作に多くを負っている。星紀市『写真集・砂川闘争の記録』(けやき出版、一九九六)。
★二──赤瀬川原平『全面自供!』(晶文社、二〇〇一)。
★三──砂川ちよ『砂川・私の戦後史──ごまめのはぎしり』(たいまつ社、一九七五)。
★四──「池田龍雄・中村宏展」(練馬区立美術館、一九九七)。
★五──赤瀬川原平『いまやアクションあるのみ!──「読売アンデパンダン」という現象』(筑摩書房、一九八五)。ヨシダ・ヨシエ『戦後前衛所縁荒事十八番』(リトニア書房、一九七二)。
★六──立川・反戦ビラ弾圧救援会。
http://www4.ocn.ne.jp/~tentmura/index.htm
★七──コ・ランシエール「デモクラシー、ディセンサス、コミュニケーション」『現代思想』二〇〇三年五月号、青土社。