建築とファッションの境界が揺れ動いている状況を見てきた。
表参道や六本木には有名建築家の手になるブランドの旗艦店が林立し、そこは高価な商品とともに現代建築をも消費する場所となっている。住宅やインテリアもブームになり、書店に行けば建築やモダン・デザインを特集するライフスタイル雑誌があふれている。
これまで建築とファッションは別物、というか対極にあるものと考えられてきた。長い年月を生きる建物とシーズンごとに変化する服飾はまったく異なる分野だったはずだ。近代建築は装飾を目の敵にしてきた経緯もある。にもかかわらず、現在の両者のあり様はなぜか限りなく似てきている。
元来「ファッション」という言葉には「流行・トレンド」と「衣服・服飾」という二つの異なる意味がある。両者はセットで使われることが多いが、建築との関係を考えるために、二つをひとまず分けてみよう。
現在の建築の領域に見られるのは「流行」という意味のファッションだろう。
『Casa BRUTUS』編集長時代より「建築×ファッション」の特集を繰り返し、建築のファッション化に加担してきた斎藤和弘日経コンデナスト社長によると、日本人の消費への欲望は「衣・食・住」の順番に進むという。彼はDCや欧米ブランド、グルメのブームに続いて、つぎは住空間がトレンドになると予測していたのであった。たしかにブランドを着ていた世代が住宅を購入する年齢になり、衣服と同じレヴェルで住空間を考えるようになっていることは事実だろう。この世代にとっては住まいもまたライフスタイルや嗜好にあわせて自在に選ぶ商品にほかならず、その選択においてはデザイン・センスこそがもっとも重要となる。
八〇年代以降、建築はポストモダニズムを代表する文化としてその過剰なデザイン性が注目を集めてきた。それはバブル期に建物が消費社会の仕組みに強固に組み込まれていったプロセスとも重なる。建築のファッション化も消費とマーケティングが社会全域に拡大したひとつの帰結であろう。
身体空間をデザインすること
しかし「服飾」という意味でのファッション・デザインの領域には、それとはまったく違うレヴェルで、建築的な思考そのものに共鳴しているような動きがあり、実はこちらのほうが私には興味深い。最後にそれを見てみたい。
まず第一に、ファッションの領域を服飾から身体空間そのものへと拡張しようとするデザインがある。
衣服と建築の共通点は何かと言えば、人体という空間を包み込む覆いであることだ。もっとも衣服が個人の身体しか包まないのに対して、建築は身体をめぐる拡がりのある空間を包むということではスケールは違う。しかしそれはサイズの問題でしかない。たとえばアドルフ・ロースは「被覆の原理」というエッセイで、建築の原型を毛皮や繊維のじゅうたんで覆われた快適な空間に求め、「身を包む被覆」こそが原初の建築だと主張している。衣服を建築のメタファーとする発想は古代ローマのウィトルウィウスより見られるというから、建築理論としてはお馴染みの見解なのだろう。
ロースが言うように、身体を包むために空間を構築することが建築の本義とするなら、衣服はまさに建築にほかならず、逆に建築もまた衣服となる。九〇年代以降にファッション・デザインをラディカルに再定義しようとしているデザイナーたちの作品を見ていると、この考え方がさまざまな形で新しく追求されてきていることがわかる。たとえば三宅一生のA─POCシリーズは身体をそっくり包み込むボディタイツを基本的なコンセプトとする衣服であるが、コンピュータを使って紡績や織布の段階から身体のパターンそのものをプログラミングさせる発想でつくられている。大量生産されたプロダクトでありながら、それをまとう人々の身体や嗜好に応じてハサミを入れ、自由にカスタマイズすることもできる。三宅はこのシステムを流用して、椅子やソファーなどの家具も製作している。A─POCは繊維によって身体を包括する空間を被覆するプロジェクトへと発展しつつある。
コム・デ・ギャルソンの川久保玲は、女性身体のプロポーションを異化しながら、新たな身体性を模索してきたデザイナーである。そのデザインはときに脱構築とも呼ばれてきたが、川久保はただ既成価値を破壊するにとどまらず、しばしば身体をとりまく空間に独自の形象を与えるようなデザインを発表してきた。たとえば「こぶドレス」として知られるコレクション「ボディ・ミーツ・ドレス・ミーツ・ボディ」では、体の自然なプロポーションを歪曲させるようにパットを入れることで、まったく新しい身体の空間をデザインするものだった。
身体を歪ませたり拡張させたりする異化のファッション・デザインは、マルタン・マルジェラ、フセイン・チャラヤン、ジョン・ガリアーノ、アレクサンダー・マックイーン、ヴィクター&ロルフらも九〇年代によく発表している。たとえばマックイーンは身体障害者をモデルに使った挑戦的なデザインを発表したし、チャラヤンやヴィクター&ロルフも身体の一部を不自然に肥大させるドレスを世に問うている。これらは身体を被覆する空間そのものをデザインしようとする試みではなかったか。
都市に介入する衣服
建築と衣服のもうひとつの重要な共通点は、両方とも私たちがパブリックな場所にいるためには不可欠な道具であり、身体と都市の間をつなぐインターフェイスであることだ。衣服も建築も私たちを「被覆」するとともに、都市空間に「介入」するための手段である。これは同じ現象を内側と外側から見ることであろう。
これまで都市の光景をつくり出すのは、おもに建築家や都市計画家の役割であった。しかし九〇年代以降には、ファッションの側からも身体と衣服の公共性に注目し、都市空間に介入する作品を発表する作り手が登場してきた。
このジャンルでよく知られているのはルーシー・オルタである。彼女はファッション・デザイン出身のアーティストで、衣服と建築の境界を無効にするような、近未来的な造形物とパフォーマンスによって、ホームレスなどの社会問題を可視化するプロジェクトを展開してきた。彼女の「レフュージ・ウェア」は、都市の路上生活者を守るためのシェルターであるとともに、彼らの存在から社会構造を見つめ直す問題提起でもある。オルタはコミュニティのあり方を衣服によって表現した「ネクサス・アーキテクチャー」も発表している。
ほかに衣服をモチーフにしてパブリックな場所へと介入していくアーティストにアネッテ・メイヤーや月岡彩がいる。メイヤーは都市の日用品のパッケージをドレスのうえに転写し、それを着た人々に実際に都市を歩かせるというパフォーマンスによって、都市の風景を異化する興味深いプロジェクトを各国で行なってきた。月岡は自動販売機やマンホールと見まがう服やバッグを作り、自己顕示と自己隠蔽のゲームを視覚的に演出する。
アーティストだけではない。マレーシア出身のアメリカのファッション・デザイナー、イェオリー・テンは日本での知名度は低いが、建築からインスピレーションを得た服作りで欧米では評価が高い。イェオリーは衣服から余剰なものいっさいを取り払い、すべてをアブストラクトなラインへと還元する。その無駄なくシンプル極まりないデザインはミースやル・コルビュジエを身体化した印象を受けるほどだ。彼女は流行によって変化する装飾過多なファッションを批判し、機能性と合理性という観点から衣服を検討している。そのために衣服の素材や構造を徹底的にリサーチするという。
イェオリーは「ファッションも建築も同じ原理で動いている」と言う。彼女にとっても衣服はシェルターであり住居であり、「都市漂流民」たちが都市環境に適合するための道具なのである。かつてMITで開催された彼女の展覧会は「インティメイト・アーキテクチャー(親密なる建築)」というタイトルであった。流行や装飾ではなく、都市空間との関連において衣服を考えようとするファッション・デザイナーは今や世界各地に登場している。
マーク・ウィグリーは労作『White Walls, Designer Dresses』において、近代建築運動が衣服改良運動から大きな影響を受けてきたこと、多くの建築家たちが衣服をデザインしていることなどを明らかにし、近代建築とファッション・デザインの深い関係性を検証した。だとするならば、ファッション・デザイナーたちが衣服を建築のメタファーから再考し、身体を覆う空間として、また都市に介入するための建物としてデザインしようとする現在の動向は、モダン・デザインの根本に立ち戻ることにほかならない。
ファッション・デザインは「親密なる建築」というコンセプトを受け入れるのだろうか。建築とファッションは消費に還元されることのない創造的な空間を構想できるのか。注意深く見ていきたいと思う。 [了]
1──ルーシー・オルタ
出典=Florence Müller, Art & Fashion,
Thames & Hudson, 2000.
2──アネッテ・メイヤー
提供=京都芸術センター
3──月岡彩
出典=「かくれんぼ」展(京都工芸繊維大学アート&デザイン・フォーラム主催、2003)パンフレット
4、5──イェオリー・テン
出典=Yeohlee: Work, Peleus Press, 2003.