昨年末に岡山の不動産会社から連絡があって、急遽岡山へ飛んだ。なにやら、大規模開発がなされる敷地を見て欲しいとのことだった。早速車で飛行場から現地に直接向かうこととなった。その敷地にはブルドーザーがまだ残っており、広大な敷地の周りには水田が広がり、実に殺風景な光景が目の前に広がっていた。全区画三八戸の宅地開発プロジェクトのうち現在できているのは、敷地の角に立つこれまた恐ろしく殺風景な公園(となるであろう)スペースのみであった。それは、健全な住宅地を作りますという計画者側からの意思表明のようでもあったが、そこには植物は一本も植わっていることはなく、新品の遊具は設置されているが、誰も遊んでいる様子はない。あたかも記号としてそこに計画されたような不思議さがあった。天気は晴天だったが、変哲もないその敷地に強めの風が吹き付けていた。五〇〇メートル程離れたところにあるグラウンドから、少年野球のかけ声が風に乗って聞こえてはまた消えていった[図1]。
敷地条件を整理すると、元来農地であった土地を宅地へ用途転用している。事業主はそこの八区画に住宅を設計して欲しいとのことであった。全体では三八住戸の分譲住宅地。一区画一〇〇平米ほどの四角い宅地が通りを挟んで四区画ずつ向かい合わせの敷地がほぼ正方形に分割されている。その敷地割は各敷地の面積を均等にすることのみを目的としている。岡山の中心部から車で四〇分ほどということもあり、マイカー二台所有を想定した住宅の提案を八棟希望された[図2]。
いままで、いくつかの建物を設計してきたが、その設計を行なうにあたって、まず土地を訪れ、ある程度の時間を費やしその場所の風の流れ方や、光の当たり方、周りの音の聞こえ方、周辺に広がる植物との関係、周辺の交通状態、隣地の建物との関係、そしてその建物の開口部の位置、その他、いろいろなことをまずは自分にインプットする作業を行なう。そのときは、自らの持っているアンテナの感度を最高に上げて感じられるものを、読み込む作業を行なう。そのあと、建物をその土地にどのように適合させるかを紙面の上で検討し、模型や図面を作り、さらにはパースやCGをつくる。すべては、最初の設計条件と呼ばれる、敷地の環境をいかに読みその意味をどのように解釈するかで設計は進み、作業を進めてはたと立ち止まり、その環境の検討に再び舞い戻り、自分のアイディアが果たして正しいのか、自分がつくりたいものは何なのかを考える。
それなのに、このはじめのインプットの情報が、極端に少ない状況に出くわすのは、今回が初めてであった。この状況はわれわれにとっては難しいものであった。一方で、いままで自分と他者を納得させるために(自分を納得させるためのほうが明らかに大きいのだが)敷地の条件というカードを持ちながらデザインを行なってきていたことにあらためて気がついた。
このようなデザインのための思考過程は、現代の設計教育事情にもよるところが大きいことを痛感する。九〇年代にわれわれが建築教育を受けたときもこのような場所を読むという行為を習得するように努め、また二〇〇五年のいま現在、大学で課題を指導するときもこのことを強く押し進めることを学生には勧めている。さらに、住宅雑誌などを眺めてみると、造形的に美しさを感じないのだが、そこに同時に掲載されている説明文を読んで初めてその建物のすばらしさと、設計者の思考の深さに気がつくことがしばしばある。それはあたかも説明書付きの製品を手に取るかのような感覚で、よく言えば丁寧な解説により使用方法とその製品のすばらしさを一緒に堪能できるのだから、説明書つきのパッケージとして成立しているともいえる。しかし、別の見方をすれば、ずらずらと書かれた建築家(ここではあえてデザイナーではなく建築家と呼ぶこととする)の文章は、その造形への言い訳に過ぎない気もする。「どうしてここに窓が必要なのか」、「どうしてこの壁が高くそびえているのか」、その説明を求められて建築家は、「ハイハイその件に関しましては、これこれこういう理由でこのようになっております。なのでこの部分は絶対必要で、なくてはならない物なのです」と……。その形が美しければ何も説明を加える必要はないに違いないし、だれも回答を求めないだろう。出てきた形に「言い訳」をすることがいつからかデザイナーとしての建築家に許されてきた気がする。
それは、建築が場所があって初めて成立する唯一無二の存在であるがゆえ生まれてくる必然の現象と言うこともできるかもしれない。さらには、実際の設計となると、世の中に存在させるための建築法規という絶対的条件をクリアする必要があり、そこから、建築には斜線制限というものがかかってきて、いまわれわれが町中の建築密集地域などで見ることの多い、造形としては何とも不自然で明らかに窮屈そうな斜面が現われる。これが形を決める根拠となっているという現実も確かにある。建築は条件が形を決める物なのかもしれないとあらためて思う瞬間でもある。
それでは、もう少し条件の少ないプロダクトやグラフィックデザインの分野に視点を移してみると、明らかに異なる状況が見えてくる。人は購入しようと思う製品を肌で感じて、自らにどのようにあっているのかを確かめて製品購入を決断するに違いない。そこに説明は必要なく、現にプロダクトデザイナーは無口であることが多い。そして作り手からの視点で眺めると、興味を抱くのはその発想がどこから来たのかということであり、それは多少のデザイン心を持ちえている人にとってはまったく難しいことではない。プロダクトデザイナーやグラフィックデザイナーは言葉を武器として持つことはなく、物だけで勝負している気がしてならないのは気のせいだろうか。
そのようなプロダクトデザインやグラフィックデザインの世界を取り巻く状況も少し変化してきた。先日、無印良品の電気湯沸かしポットを購入したのだが、製品が手元に届きいざ開いてみてびっくりした。なぜなら、ポットの給湯口とは逆の表面に、事細かに注意事項や取り扱い事項がぎっしりと印刷されていたのであった。全体を取り巻く白い曲面とその色にマッチしている形態もこれでは残念なことに台無しであった。ここに昨今常識となってきた、PL法に十分な配慮をしていることを示す、無印良品の企業姿勢がうかがえる[図3]。さらに、たばこが健康を害する危険性を有することをパッケージの表面に大きく印刷することが日本でも、義務づけられてきた。先日ノルウェー人が持っていたマルボロライトの表面には「ガンは人を殺す」と大きく書かれ、さらには追い打ちをかけるように、同じ面にはたばこで犯された真っ黒に変色した胃や肺の写真が印刷されていた。一方で裏面には「医師は禁煙を助ける」等と描かれていて、表面のショッキングな写真を見てどきっと思った人へのケアも忘れていない。日本でも数カ月前から順次、警告文章の掲載面積が大きくなったらしく、すでにハイライトはわりと大きめになっている。たばこのパッケージデザインは世界各国さまざまで、見ていて楽しい。それはあの規定サイズに基づいてたばこのブランドイメージを有効に表わすデザインをグラフィックデザイナーがあの手この手で考えた結果であるのだが、ここに来てそれをまったく無視した新しい力が加わり、その規制がデザイナーの意図したオリジナルデザインを害するという現象が生まれてきている。訴訟国家アメリカで生まれたPL法はProduct Liabilityの略。つまり、直訳すれば「プロダクトの責任」なのだが、皮肉にもLiabilityには「不利な」とか「マイナスの」という意味もある。いままでのデザインにとって、このPL法はマイナスであることは疑いない。
こう考えてみると、われわれからは制約がないと認識されていたグラフィックやプロダクトデザインの世界にも、このようなオリジナルデザインに影響を及ぼす規制が生まれつつあり、そのうち、そうした規制を想定したデザインというものが生まれてきてもおかしくないかもしれない。いままで建築家が悩んできたような、避けて通ることのできない条件が増すという状況が生まれてくることは確かであろう。
そんなことを考えながら設計を進めている。少なくとも、設計条件を読み解いて建築化していくという設計方法はこの後もずっと継続して進めていくことだろう。事実冒頭のプロジェクトでは限られた条件をいま一度洗いだ出し、かつ、ゼロからランドスケープを作り出すという試みを行ないつつ、条件がないならばその条件を作るという考え方を念頭に置きながらプロジェクトを進めている。自らの敷地を干拓によって作り出すことから始めたオランダの建築家はきっと、われわれのような違和感を覚えることがないのかな、等と考えながら。
建築家が雄弁に作品を語り、延々と話を続けるのはそれでよいとしても、その後いつの時からか、建築家は語りという武器をかざすようになってしまった。それは罪なことなのか、生きていくためのすべなのか。
いつどのような条件でも、デザイナーである以上できあがった「モノ」そのものだけが世の中に残る。その「モノ」は、その形の根拠を事細かに説明するような「取扱説明書」を同封しないとデザインとして成立しない、ということのないようにしていきたいと思っている。
世の中とコミットしながら制作を続けていくことが必然であるデザイナーの置かれている立場は、今後何処に向かうのだろうか。
1──住宅地の一角に計画された公園
2──住宅の設計を依頼された敷地(左)とその図面(右)
3──無印良品の電気湯沸かしポット
すべて著者提供/撮影