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「大地讃頌」事件について 後編 | 増田聡
Case of "Daichi-Sansho" : The Second Part | Satoshi Masuda
掲載『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること, 2005年04月発行) pp.15-17

承前

文化の論理と法の論理がきしみを見せる「大地讃頌」事件を、文化論理の水準から眺めるなら、クラシック音楽的な文化規範と、ジャズ、あるいはポピュラー音楽実践における文化規範との摩擦の事例として見ることができよう。すなわち、クラシック音楽の「楽譜がそのまま確定された作品を指し示す」ような作品観念と、ジャズの「楽譜と演奏の間の差異が創造性の指標となる」ような作品観念の対立である。
現行著作権法の音楽に対するアプローチは、楽譜の水準とその演奏の水準、さらにその録音の水準を通じて、ひとしなみに一貫した「同一の作品」が存在すると見なす観念に依拠している。ゆえに、ここでは「楽譜を逸脱した演奏」と「編曲」とを区別することができない。これはクラシック音楽の作品概念と親和性をもち、演奏者は作曲者の楽譜による指示を忠実に実行する存在であり、演奏の場には二次的な創造性しか関与しない、という音楽コミュニケーションのあり方が前提されることになる。
「楽譜を逸脱する演奏」が通例である音楽文化(ジャズ)や、「楽譜が最初から存在しない音楽」(ロックなど)では、楽譜/演奏/録音相互のメディア変換において、それぞれの水準ごとに音楽の姿が(記号論的な水準で)差異を孕む。図式的に述べるならば、楽譜/演奏/録音の過程のなかで、楽譜と演奏の間に差異を持ち込むのがジャズであり、演奏と録音の間に差異を持ち込むのがロックであり、録音と録音の間に差異を持ち込むのが、レコードを楽器として用いるDJによって産み出されるクラブ・ミュージックである、と位置づけることができよう★一。
一方、現在の著作権法が想定する音楽の存在論は、「楽譜と演奏と録音の間に記号論的な差異を認めない音楽」、すなわちクラシック音楽的な音楽観に依拠している。日本著作権法はもとより、それが参照したベルヌ条約もまた念頭に置いている音楽とメディアの関係は、音楽がまず楽譜のかたちで「創作」され、その楽譜に基づいたかたちで忠実に演奏され録音される、という順序で進む、一九世紀的な音楽実践の(直線的な)記号論に留まっている。ゆえに法は、ジャズ的な「楽譜を逸脱する演奏」を、クラシック的な「編曲」、すなわち作品の改作行為として把握し、それを禁じる。
だがもちろん、そのような媒体中立的な音楽観は、あらゆる音楽実践に妥当する普遍的なものとは言い難い。かつ、現実に音楽経済の多数を占めるレコード音楽の中では「楽譜通りの演奏」はすでにフィクションでしかない。むしろそこでは、レコード音楽こそが作品の原型をなすものとして形づくられ、しかる後に楽譜が記述されることになるのが通例だ。ゆえに現行著作権システムは、楽譜と演奏と録音の間に差異を持ち込むような音楽文化(ジャズ、ロック、クラブ・ミュージック……)を適切なかたちで扱うことができない。さらに法制度のなかに概念化されたクラシック音楽的なメディア観は、今回のようなケースを通じて、他の異なる音楽文化に対して実質的な影響を与えることにもなるだろう。著作権法は音楽産業の活動を抑制し促進する重要なファクターであるがゆえに、その法が前提する文化観は、他の音楽文化に強い影響を及ぼすこととなる。
例えば、アメリカの口承芸能であったフォークソングは、一九世紀から二〇世紀にかけて多くの採譜者によって著作権登録が行なわれ、彼らの権利に服するものとなった。あるいは、五〇年代のアメリカのR&Bで、独創的なビート・パターンを案出したボ・ディドリーは、その模倣に対して法的権利を主張できなかった。文化実践を経済的な権利に変換する法システムである著作権制度は、多様な音楽実践をクラシック的なメディア観へと水路付ける。ここにおいて、所有されるものとはすなわち、あらゆる音楽がクラシック的な音楽観のもとで、「音楽」とみなされるような形式構造でしかない。
近年数多く生じる、著作権をめぐる社会問題や論争のなかでも、音楽についての問題は群を抜いて多発している。理論的な水準で考えるならば、その要因は「大地讃頌」事件が示すような、音楽実践と法の持つ制度概念との齟齬が(他ジャンルに比べ)著しい点にある、といえよう。その齟齬は二つに大別されるだろう。音楽が媒介されるメディアの多層性と、商品としての音楽の存在論的な特性、の二つだ。
まず、音楽が媒介されるメディアの多層性とは、楽譜/演奏/録音といった異なる位相のメディアに媒介されて流通する音楽の特性を指す。楽譜/演奏/録音は(ジョン・ケージの有名な言葉★二が示唆するように)それぞれ相互に別々のメディア論的な特性を持つ音楽的契機であり、別々のかたちで音楽の意味生産に関与する。
しかし見てきたように、著作権法の観念する音楽観においては、それぞれの契機を貫通する同一の「作品」が存在することを前提して制度設計が成される。もちろん保護されるのは、楽譜/演奏/録音の過程を通じて変化しないと想定された「作品」であり、それ以外の音楽実践を半ば無理矢理にそのあり方の中に押し込めてしまう。この現実と観念との齟齬が、音楽著作権をめぐる諸問題の一因となる。
次に、商品としての音楽の存在論的特性について。音楽は物的な商品とは異なり、その消費の際に、他の消費者が一つの商品の使用をめぐって競合する、ということがない。つまり、通常の場合、一人の消費者がある一つの商品を消費すると他の消費者はそれを消費できなくなるが、音楽は多数の消費者によって同時に消費することができ、かつそのことで音楽がなくなってしまうことはない。また、音楽はその物理的な特性から、対価を支払わない消費者を排除し難い性質を持っている(放送やBGMなどに典型的なように、音楽それ自体に対価を払うことなく、われわれは日常的に多くの音楽を消費することができる)。この二つの特性をそれぞれ、経済学では非競合性(消費者による使用が相互に競合しない)および非排除性(ただ乗り的な使用を排除できない)と呼び、これらを合わせ公共財的性質と呼ぶ★三。情報財も、この公共財的性質を持ち合わせている。
経済学的な観点から眺めるならば、著作権制度とは、物的な財とは異なる存在論的な性質を持つ情報財に対し、法制度によって人為的な独占性を付与することによって、擬似的な物的財として取り扱うことを可能にする制度、と見なすことができる。音楽はとりわけ、その美的な質が情報財として流通しやすい芸術ジャンルである。すなわち、その美的な質(消費の対象となる質)は、メディア媒体などの物理的な支えと無関係である度合いが、他のジャンル(例えば美術、映画、演劇……など、美的な質がその対象を支えるメディア=媒体と分離し難い)よりも高い。故に、音楽著作権をめぐる諸問題は、情報財を擬似的な物的財として取り扱う際の問題を鋭敏に映し出すことになる。
その作品の改変がオリジナルを消失させてしまうような存在論的な特性を持つ、絵画や彫刻ならば、著作権法の想定する「同一性保持権」の必要性は比較的容易に首肯しうるだろう。それは音楽よりも相対的に物的財に近い芸術ジャンルであり、「オリジナル」に対して変更を加えることにわれわれは抵抗感を覚える。著作権法上の同一性保持権は、ここでは消費者であるわれわれが持つ、対象の存在論的な質に対する感覚と摩擦をきたすことはない。
しかし音楽においては、いくら楽譜を「改変」して演奏したところで、オリジナルの作品が失われることはない。その意味では、音楽において、他の著作物と同様に法的な同一性保持権を主張することは、しばしば他者の文化実践──演奏や録音、あるいは聴取──への過度の干渉として機能してしまうことになる。つまり「大地讃頌」事件とは、各々のジャンルによって異なる音楽の作品概念が、法システムに媒介されることによって激しい対立構図にまで至った例、といえる。
著作権制度は、物的財ならぬ情報財を、物的財に擬制しつつその所有権を措定しようとする法制度である。しかしそのなかで、音楽がその存在論的なあり方を深く再考されることなく、他の芸術ジャンル、あるいは他の財物と同じ性質を持つものとして扱われ続けるならば、「大地讃頌」事件と同様の摩擦は避けられないだろう。
「著作物」は、「作者の思想や感情の表現」である、という理由で、各ジャンル間の存在論的な差異を無視されつつ一括され、一様に同じ法システムのなかで取り扱われている。そのことによって、著作権は他者の文化実践の自由に干渉しうる権能としても機能することになる★四。「大地讃頌」事件が典型的なかたちで示しているような、音楽実践をめぐる美学的=倫理的摩擦は、著作権システムが持つ現実の文化実践への硬直したまなざしに起因している。


★一──ポピュラー音楽の作品概念の構造については、拙論「ポピュラー音楽における『作品』とはなにか──記号学的考察の試み」(『ポピュラー音楽研究』第一号、一九九七、二二─三四頁)を参照。
★二──「作曲することは一つのこと。演奏することは別のもう一つのこと。そして聴くことは第三のこと。それらがどうして互いに関わることができようか」(ジョン・ケージ『サイレンス』、水声社、一九九六)三七頁。
★三──情報財についての経済学的分析として以下を参照。林紘一郎「『情報財』の取引と権利保護──著作権をめぐる『法と経済学』的アプローチ」(奥野正寛+池田信夫編著『情報化と経済システムの転換』、東洋経済新報社、二〇〇一)一七一─二〇四頁。
★四──音楽に限られない著作権一般について、リバタリアニズム的な財産権理論の立場から批判的に検討した議論として、森村進「著作者の権利──過保護の権利」(『財産権の理論』、弘文堂、一九九五、一六六─一八三頁)を参照。

*この原稿は加筆訂正を施し、『聴衆をつくる──音楽批評の解体文法』として単行本化されています。

>増田聡(マスダ サトシ)

1971年生
大阪市立大学文学研究科。大阪市立大学大学院文学研究科准教授/メディア論・音楽学。

>『10+1』 No.38

特集=建築と書物──読むこと、書くこと、つくること