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磯崎新インタヴュー 破壊と救済のメトロポリス | 磯崎新+五十嵐太郎 聞き手+南泰裕 聞き手
An Interview with Arata Isozaki: The Destructive and Restorative Metropolis | Isozaki Arata, Igarashi Taro, Minami Yasuhiro
掲載『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000, 2000年03月発行) pp.54-67

「デコンの終わり」と「都市破壊業KK」/時代の分水嶺としての一九六五年、一九九五年

五十嵐太郎──今日、磯崎さんにおうかがいしたいテーマはいくつかありますが、出発点としては、磯崎さんが伊藤ていじさんたちと『建築文化』一九六三年一二月号で特集した「日本の都市空間」の問題設定を挙げたいと思います。あの特集企画は、六〇年代が都市の時代である、という予感をもって出てきたものでした。僕と南君は九〇年代初めに「構築する」と「論理化する」という意味をかけて、『エディフィカーレ』という建築同人誌を創刊し、都市のことを考え始めたのですが、そのときモデルにしたのがちょうど三〇年前に磯崎さんたちがなされた「日本の都市空間」という仕事だったんですね。南君の提案でその九〇年代版をやろうということで、『エディフィカーレ』で勉強会や読書会をやりました。その成果は、一九九五年一〇月号と九六年二月号の二回に分けて『建築文化』誌上で、六〇年代から九〇年代までの三〇年を見直すという特集になりました。ただ、一九九五年はまさにオウム真理教の事件や阪神大震災がおきたこともあって、そうした新しい都市の問題系をまだあまり消化できなかったわけです。ですから、今回『10+1』で「九〇年代の都市と建築」をテーマにした特集を相談されたとき、これは『建築文化』でやった特集の続編であり、その発展になるだろうということが思い浮かびました。
僕らの前の特集はむしろ過去を引きずって、六〇年代、七〇年代、八〇年代を総括しながらきたんですけれども、ちょうど二〇〇〇年の時点から振り返って、九〇年代だけを見ると、九五年以降の方がむしろフェイズが大きく変わり、八〇年代から九〇年代というよりも九五年以降に切れているかもしれない。実際、インターネットとマッキントッシュを手にするようになった新しいデジタル・クリエーターの「九五年世代」という言い方が存在する。これについては南君のほうからも述べてもらってから話を進めていきたいと思います。
南泰裕──八〇年代の終わりに、磯崎さんは多木浩二さんと『へるめす』で、「世紀末の思想と建築」と題する長い対談をなさっていましたけれど、その時に「九〇年代は空白の時代になるのではないか」というお話が出ていますね。八〇年代の終わり頃から、アラン・ブルームやフランシス・フクヤマの議論をはじめとして「歴史の終焉」や「物語の解体」がさかんに語られるようになってきたのですが、僕自身は、一九九〇年代には何か既視感のようなものが時代全体を貫いていた、という印象がどこかでつきまとっていました。言い換えれば、表象作用の機能不全とでも言うべき事態が様々なレヴェルで進行し、一九九〇年代は二〇世紀自体を自己言及していたようにも感じられるんです。
九〇年代を大雑把に振り返ってみますと、一九八九年のベルリンの壁の崩壊を契機に、東西の冷戦構造が解体され、日本では、一九九五年に阪神大震災とオウムの地下鉄サリン事件があった。建築では「ライト・コンストラクション」という展覧会が九五年から九六年にかけて開催され、磯崎さんがコンペの審査員をなさった《せんだいメディアテーク》や「横浜港国際客船ターミナル」のコンペがありました。あるいはドミニク・ペローの《フランス国立図書館》が竣工したということもあり、この九五年というのはひとつの転回点にも見えてくると思います。この一九九五年前後に僕らは、いま五十嵐さんが話していたような都市についての議論を、磯崎さんたちがかつて一九六〇年代になさっていた『建築文化』での都市論特集を参照にしながら行なっていたのですが、ちょうどその頃からメディア・テクノロジーのあり方がかなり変わってきて、モバイル・テクノロジーやインターネットといったものが急速に一般化したということがありました。そうした過程で、グレッグ・リンやベン・ファン・ベルケル、MVRDVといった建築家に代表されるような、デジタル・ツールを通した建築表現の多様化やサイバースペースについての議論が多く見られるようになってきました。
こうしたことを睨みながら、二一世紀をも視野に入れつつ、九〇年代の都市─建築とはいったい何だったのかという話を順にうかがいたいと思います。
磯崎新──その『建築文化』の特集というのは、僕が「シティ・インヴィジブル」を書いた号かな?
五十嵐──ええ、「見えない都市」に至る、四つの段階を整理した「都市デザインの方法」を書かれたときですね。
磯崎──まあ、いろいろ書いたけれど、ちょっとまじめというか、ややアカデミックに書こうと考えたのはあの論文ぐらいで、それ以外はエッセイみたいなものですからね(笑)。
いまお二人がおっしゃったように、確かに九五年というのは社会的な意味合いでの事件がたくさんあったけれど、それは一九六〇年代にも共通して言えることではないかという気がするんです。六〇年代と一言でいいますけれどもそれをよく見ると、六四年までと六五年以降とはどうも僕は違うと思う。いま「反回想」というテキストを書いているんですが、六五、六六年くらいから中国ではいわゆる文革闘争、日本では万博の準備が始まります。それは、メタボリズム、安保闘争、読売アンデパンダンというような六〇年代前半の出来事や運動とかなり違っているんです。そのシフトは建築界でもほとんど論じられていないし、建築の中でそういう議論をするコンテクストさえもない。美術のほうでも漠然と言われているだけです。九五年を九〇年代における転回点と見るというのは、オウムと阪神大震災という明瞭な事件があったからですね。この二つの出来事は両方とも、今世紀になって明瞭に形を成してきたメトロポリスの裏側に、僕らがつかみ切れていなかったようなものが潜んでいたということ、それが、突然あるきっかけで表に飛び出てきたということなんではないか、あるいはひとつの極限状態でそれが露呈されたとみるべきなんでしょうね。
一月一七日の神戸の震災の有様をテレビで見ていて僕が最初に思ったのは、「デコンの終わり」ということです。
ようするに、デコンストラクションをわれわれは人為的にやっていたけれど、都市そのものがデコンになってしまった。ヴェネツィア・ビエンナーレの日本館で組み立てたのはその時の直感的な反応でした。そのときにもうひとつ、僕なりの反省というか仕事についても考えました。五十嵐さんが先ほど言われた六〇年代の「日本の都市空間」で僕が書いたのは──都市というのは記号の濃度と流れになった。流れというのを情報だと考えると、情報化した記号がひとつの存在状態を組み立てているのが都市である。それを手がかりに都市を理解すべきである。そしてそこからこれまでのプリミティヴな都市デザイン・メソッドを順々に分析─ 批判しよう──という内容の論文です。それ以後、例えばヴェンチューリやジェンクスたちは記号の意味論的な面を手がかりとした都市理解を提起した。それに対応する建築や都市デザインが、おそらく三〇年ほど行なわれてきたわけです。しかし、震災によって実はそういうふうに見えていた都市が、一瞬のうちにパッと崩壊してただの瓦礫となり、生の物質がそのまま露になった。つまり、あらゆる表層にあった意味が、崩壊した瞬間に全部消え、中身が現われた。そして、それまであらゆるデザインの問題はデコンも含めて表層の問題として議論されてきたけれど、その議論の組み立て全体も疑われるような状態が発生してしまったわけです。ある意味で三〇年間やってきた都市論が無効になったということです。失敗したというわけではなく、都市の記号論的解釈はあのとおりだったと考えますが、都市の置かれている状況が激変した、というべきでしょうね。
それからサリン事件についてなんですが、僕は六〇年代の初めに「都市破壊業 KK」という文章を書きました。もはや都市は、建築家も含めてある個人の構想のもとに組み立てうるというものではなくなりつつある。つまり単一主体が都市を組み立てるということはなくなってきつつある。だからもしこのままいくと凶暴な都市になってしまうということに対する反抗として、「出来上がりつつある都市を壊せ」という内容のものです。その時に都市をどういう手段で壊すかというと、物理的な破壊や記号を撹乱することで都市の機能を停止させ、さらに「ライフラインに毒物を入れろ」と書いている(笑)。ですからサリン事件の時、かつて僕の分身が計画したフィクションを本当にやった奴がいるというのが大きなショックでした。三一、二歳の頃ですから世間も何もわからない時ですが、「周りにあるもの全部が気に入らない」といった、非常に単純な、巨大なものが生まれてくることに対する抵抗と、あの連中が考えたことが全く同じだったということに僕はすごいショックを受けたんですね。ですから、サリン事件は僕自身の問題にもなりそうだというふうに思いました。
結局、両方ともメトロポリスというものを二〇世紀が作ったことに起因するのではないか。かつての都市のように一元的に統括する機構があり、それを叩けば権力を獲得できるというような非常に明瞭な統制概念がある都市では、建築家──ヒットラーとシュペーアさらにはブラジリアも含めて──はみなその流れから逃れることができずに計画を無意識にやっているけれども、メトロポリスというのは違っていると思います。もっと手のつけようのない一種の機構というか物質の流れのようなもので、どんどん巨大化している。むしろカフカ的なシチュエーションにメトロポリスがなっていって、それに巻き込まれて同調するのは気に入らないなというのは当時からあると思いますね。
オウムの事件で非常に不思議なのは、自分たちを国家だ考えていたことですね。それはすごくアナクロな発想だと思いましたが、彼らは逆に、国家として、その敵であるメトロポリスおよび現代文明との戦争に突入したんだ。だから人を殺してもむしろそれは手柄なんだというふうに思ったわけでしょ。ヴェトコンを何人殺したとかということと変わらない、ようするに戦争の英雄観ですよ。
メトロポリスの日常性のなかで、眼に見えない抑圧が発生する。それが別の国家を形成しているわけだから、これと戦争するんだ。そのためには手段をえらばない、というレヴェルで連中がやっていたとするならば、あのエッセイを書いたときの僕の気分と全く同じだとも思ったわけ(笑)。これは怨念ではない。むしろ、メトロポリスの存在に対して、個人として、生活者として存在している人間が、メトロポリスに住まわなければならないという基本条件を前にしたときの、怨念にも似た抵抗あるいは行動であるということです。であれば、赤軍派も三島も天皇に対する姿勢はそれほど変わらない。大江健三郎の「政治少年死す」とか「セブンティーン」の気分でしょう。皆似たようなシチュエーションです。
こうした問題に対して、では、メトロポリスとどう付き合ってどう始末したらいいのかということを僕は考えてきたわけです。それが「海市」プロジェクトです。
「海市」はある意味でいうと、メトロポリスのネガです。あるいはメトロポリスがリアルであるならこちらはヴァーチュアル、隠れたシステムというか裏返しですね。これは六〇年代以来、みんなやってきたことで、山に籠もったり、キューバ革命が成功したにもかかわらず、再び南米の革命に身を投じたゲバラみたいな行動をとるのと、まあ気分的にかなり似ている。一九六〇年代からもう三〇年以上もたっていますからそこまで過激なことを言わないだけですが、実はあまり変わってないと思いますね。そうして見ているとこのメトロポリスの構造自身がちょっとずつ変質を始めている。
これまでのメトロポリスはおおよそ同心円を描けばよかった。グリッドや線状はこの状態をパターンとして崩すことだったのですが、中心がここに成立していたことに違いはない。この中心の概念が変わりはじめている。つまり、決定的中心が消えて、いずれもが相対化してしまった。例えば東京があって世界があるという構図、あるいは水戸という田舎の街があって東京があるという構図、こういういままでの都市のあり方が、水戸は東京であって、東京は水戸であるという具合に同時に中心たりえるようになってきた。そこには距離もなければ、時間もない。つまり、いままで中心が中心として成立していたのは田舎があったからで、東京と田舎の間の時間と距離が中心を際立たせメトロポリスを際立たせていた原因だった。しかし、いまはそのすべてが同時性──それがグローバリゼーションと言うのかもしれませんが──として存在し、そのことによって身動きならないような過飽和状態にあるわけですね。世界のシステムがそのように変化していくことについて、マクルーハンは六〇年代に「世界はひとつの村になった。ひとつの情報が一気に全世界に広がる」と言いましたが、あの頃はみなあまり信用しなかった。気の利いたキャッチフレーズ程度に思われていた。マクルーハンと同時期に、「宇宙船地球号」と言ったバックミンスター・フラーもいました。六〇年代には花火みたいなものだった。ところが、それから三〇年経ってみると彼らが言ったことはすでに常識になってしまった。これはある意味で行き着いた先のニルヴァーナみたいな状態がもうそこに起こっていて、ということはどう転んでも物がはっきり見えてこない。つまり、一切の差異が消滅してしまうという事態になっているというか、そのように見えている。差異をうむことによってメトロポリスをつくっていた距離がなくなったり時間がなくなってしまった。個別性を組み立てる手がかりもなくなった。九五年以降、都市はこんな状況にたち至ったとみえます。都市だけでなく、世界がそうです。九五年に至る五年というのは、バブルと東西二極対立の崩壊過程というふうに記述できる。しかし、震災とオウムの二つがあった後というのはちょっと違う世界に入り込んできているという印象が僕にはありますね。それが故に九〇年代の中頃から──僕は六〇年代の人間だから──もういっぺん、六〇年代のことを考えようとしているわけです。

磯崎新氏

磯崎新氏

他なるものと市民社会の正義


五十嵐──実は昨日、僕は新宗教の空間をテーマにした博士論文の発表を終えたばかりなんです。ですから、ここ数年、宗教のことはずっと考えてきましたし、昨年論文を書いていた時も、法の華やライフスペースなど、いろんな宗教的な「事件」が起きた。
オウムは建物ではなくて、磯崎さんがいまおっしゃったまさに近代メトロポリスを成立させるきっかけになったネットワークのひとつである地下鉄を麻痺させて、メトロポリスを攻撃しているわけですね。と、同時に彼らは非常にアナクロであるというのも間違いなく、それは彼らの信じる正義なり、イデオロギーの結果、正しいと思ってやったという。彼らには根拠があったと思うんです。しかし、あの事件が本当に恐ろしいなと思ったのは、オウムの再犯の可能性ではなく、ある意味では意外と簡単にテロを起こせるのではないかということを、少なくとも日本の文脈で言えば明らかにしたことだと思います。しかも、それをたいした根拠もなく実行する場合が怖い。例えば、そうしたテロ行為には何らかのイデオロギーといったものがつきまとうのですが、昨年飛行機をハイジャックした犯人は……
磯崎──お遊びでやった愉快犯みたいな(笑)。
五十嵐──驚くべきことに、ただ飛行機を操縦して──しかもレインボーブリッジの下をくぐって──みたかったというだけですね。あれはある意味ではまさに根拠のないテロで、オウムはそういう意味ではまだアナクロだったと思いますが、それ以降根拠なきテロ、あるいは通り魔みたいなのは増えていくのではないか。こうした犯罪は九〇年代後半の都市の様相を変えるかなと思ったのがひとつ。もうひとつ、サリン事件そのものは非常に愚劣で実際に被害者も出した。さらにその結果として他者への憎しみというのをものすごく増長させたと思います。アメリカは人種的にも階層的にもかなり多様ですから、人々は空間的にゲットー化しながら住んでいる。しかし、日本では、これまでそういうものがないかのように、つまり単一の思想を持った民族であるという抑圧のもとに近代のメトロポリスを成立させてきたわけですね。それがオウム事件以降、オウムという他者には人権なんてものはない、あるいは、法を超えても取り締まれといった風潮が蔓延しています。具体的には信者たちの居住権をめぐってさまざまな問題が起きていますが、これは日本社会が他者といかに共生するかという、ある意味では試金石にもなるような問題ではないかという気がちょっとしているんです。二一世紀の日本は、高齢者介護のために、あるいは大学の活性化のために、おそらくいま以上に移民が増えると思います。当然その中には日本人の生活習慣とは馴染まない宗教を信仰する人たちも入ってくるわけですが、もしイスラム教と摩擦を起こしたとき、その信者を批判したり村八分にすることは簡単にはできない。なぜならオウムを叩くというのは国内の問題で済むけれど、イスラム教の人が増えて不気味だなんていう批判は国際的な非難に遭うでしょう。そういう意味では市民社会の正義が、マスメディアと連携しながら九〇年代後半に異様に強くなったなと思うんですね。サッチーへのバッシングも、和歌山のカレー事件の犯人邸への落書きも、裁判という手段を経由しない公開処刑であり、ほとんど袋叩きです。建築のほうに戻して考えてみると、似たようなことは公共建築に対する市民の態度にも表われているような気がします。例えばインターネットのサイトの中には、誰々の公共建築はひどいとか、芸術家気取りの建築家のデザインは使い勝手が悪いなんていう悪口を延々と書いているものが出てきています。いまはまだ、そういう力は表面化していないけれども、やがて建築に圧力をかける団体みたいなネットワークがだんだんできるという気がするんです。あと何年かすれば表面化して、建築をつくりにくい、ある意味で厳しい時代が来るんじゃないかなという予感がするんですね。それは何となくオウム以降に出てきた、何か違うこと、あるいは奇抜なことも含めて他者を許容するかといった時に、割と横滑り的に大衆的な感情が特殊なものを抑圧してしまう方向がちょっと生まれているんじゃないかと思います。
磯崎──建築家っていうプロフェッションがかなりやばくなってきているという印象はあります。
五十嵐──公共建築に関していうと、ネット市民主義と連携しつつ、市民の正義とされるものがずるずると強くなっている。彼らにちゃんとしたオルタナティヴがあればいいのだけど。建築家にとって、公共建築は今後非常に苦しくなっていくんじゃないかなって思うんですけどね。すでに都知事選の結果、世界都市博は中止になっているし、大型公共事業も住民運動が阻止する流れが出てきている。
磯崎──オウムの場合はサティアンが記憶に残っているけれど、最近聞いた話では、いくつかの宗教団体が巨大本堂の建設計画とかやってるらしい。ちらほら話を聞くとそのプロジェクトの建築費は一千億円単位だっていうじゃないですか。そういうのには何故かお金が集まるんですね。
五十嵐──昨年、高山建築学校に参加した帰りに、近くの崇教真光が造った《光記念館》(一九九九)という博物館に寄ったんです。おそらく雑誌には発表されていないんですが、大変なお金がかかっているんです。ただ意外──と言ったら失礼ですけど──に建物としてクオリティは悪くなくて、お金もこのケースにおいては単なる成金趣味ではなく、正しく使われているなという気がしました。そこでやはり皮肉だと思ったのは、これが公共建築だったら、ちょっとでもお金をかけるとたちまち「市民の税金」だといって非難される。でも、宗教団体ならば、基本的に建築資金は信者の共同体が出すわけですし、かつ彼らは非常に税法上の優遇措置を受けているというメリットもあります。宗教はもともとそうでしたが、豪華な建築のプロジェクトが実現する数少ない領域になるかもしれません。ただし、そこでまた市民の目が突然光ると、信者がだまされているということになりますが。
磯崎──それはやはり、現在のマスメディアがある意味で言うと妙な戦後民主主義を引きずっているということなんですよ。妙な平等性というかね。
五十嵐──そうですね。

五十嵐太郎氏

五十嵐太郎氏

南泰裕氏

南泰裕氏

現代美術のコンテクストをはみ出す二つの美術館

磯崎──宗教の場合、おそらく彼らは五年とか一〇年という感じじゃなくて、何百年、何千年っていう単位で建物をつくるんだと考えているでしょう。これが公共建築の場合だと、せいぜい明日の問題から何年か後の問題っていうぐらいですね。ところで、海外から見てですが、日本でいま二つの美術館が注目を浴びています。ひとつはI・M・ペイが設計した信楽の神慈秀明会の美術館──「MIHOMUSEUM」。それからもうひとつは大塚製薬のつくった徳島の焼き物のコピー美術館──「大塚国際美術館」。これは、フェイクというより完全にコピーだけを集めたものですね。この二つが日本の美術館として注目を浴びているもので、ほかはなんにもない。確かに現代美術館や地方の美術館はいろいろあるけれど、「ウォーホールかとか、キーファーやってるんでしょう」っていうわけ(笑)。そういう美術館は海外にだってあるわけで、自分たちの所のものより程度が低いというわけですね。単純にそういう形で見られている。でも、この二つは恐れられている。その理由というのが、神慈秀明会でも大塚のそれにしても、まあ建物が良い悪いっていうのはあんまりなくて中身が問題なんです。神慈秀明会の美術館は、国際マーケットでコレクションアイテムになるようなすごいもの──既成のヨーロッパの美術館でもそう簡単に集まらないし、なかなか出物がない──、それをバブルの直後からたった数年間で国際級のコレクションができちゃったというので、驚いている。美術館の母胎が宗教団体だということは誰も知らないわけですから、なんか日本という国は不思議な国でということになっていて、海外で会う人みんなだいたいこの話ですよ。
大塚製薬のつくった徳島の美術館は、オリジナルの完璧な同一スケールの模写なんですね。例えばルーヴルにいって、本当に油絵の具で書いててもいいんですが、キャンバスの長さは変えないといけないんです。つまり、完璧に同じものを、完璧にオフィシャルにコピーするということはありえない。大塚製薬のそれは最初からコピーだけれど、ただしスケールは完全に同じ。事実本当にあそこにはシスティナの礼拝堂と同じ大きさの空間があって、そして、ミケランジェロの《最後の審判》と全く同じ壁画があるんです。ところが、ポストモダン風にしてるんで両サイドのデザインが、ヴァチカンを見ていないとしか思えないほどひどい。本当はあそこなんか真っ白にして手を抜いて、絵だけ、空間だけあればもっと良かったと思う。それから、ポンペイはナポリの美術館やポンペイの本体の美術館よりもよくセレクトされていて、その中の傑作は全部同じスケールでコピーされているわけです。これは、元々が壁画でフレスコだから、まあ、焼き物には合っているんでしょうね。テクスチャーが非常にいい。それが何千点とあるわけ。そうすると、もうあそこに行ったら美術全集はいらないわけ。ただ、じっとしてたら美術全集が目の前にある。書物に印刷してあるのは縮尺でしょう。ここは、同じスケール。それをミュージアムと呼んでいるというのが本当はすごいところです。いや、ちょっと皮肉に言っているんですけどね。
昔からポータブル美術館というコンセプトがあって、スライドを持って移動した先で上映すればいいんだとか、インターネットの美術館だとかいったヴァーチュアルな美術館はいろいろ開発されてきたけれども、あっちはもうアナクロもいいところなわけ。一番古い焼き物というテクニックを使って、そのかわり実物大だという、そういう不思議な素っ頓狂をやっている。それを作っちゃうっていう迫力はどういう意味か、それが不思議なんですね。
九〇年代の現代美術はシミュレーショニズムから出発している。ここには単純にスタイルや手法を模倣するだけでなく、実物そっくりに描いたものまで出現している。はっきりいってニセモノをつくることによって、これは既成の〈芸術〉の価値の体系を破壊することを芸術にしようとしたものですね。このやりかたで美術館という聖域を外側から揺すろうとした。だけど、そういうレヴェルを超えているわけですね。で、それでつまり、ショック。つまり、日本の持っているイノセントな、つまり、コンテクストは何も分からないわけです。伝わってないわけ。だけど、そういうコンテクストの中、つまり外にあるそういう現代美術のコンテクストを揺すっちゃうような、なんかそういうものができちゃう。そういう不思議さみたいなものがあります。
イノセントにやるというところがショックなんだよ。それは、オウムの連中もおそらく同じだと思いますね。
五十嵐──言ってみれば、フェイクは基本的には記号的な操作になりますよね。マイク・ビドロの「これはピカソではない」とか、デュシャンの鞄の中の美術館もそうですよね。しかし、それはフェイクでありながら原寸であるということで、九〇年代以降の現代美術にも顕著な身体性への回帰を実行している。それが面白いんじゃないでしょうか。
磯崎──おっしゃるとおりだと思います。行くと面白いですよ(笑)。
五十嵐──そういう意味では、徳島のアナクロなフェイクは、それ自体が全て現代美術と判断できますね。
磯崎──そうだと思います。だけど価値がうまれるかどうかわからない。それで話題になっている。ただし、大塚製薬は宗教団体ではない。にもかかわらず、こんな何百億っていうスケールのプロジェクトが突然可能になるのか、これまた不思議にみられている。あそこは、オロナミンCだとかポカリスエットといった健康ドリンクなんかで儲けているわけでしょう。僕らが中国に行って食事をしますね。食事ではだいたい僕らは中国産のココナッツミルクのジュースを飲むんです。
でも中国人はみんなポカリスエットを飲むんです(笑)。それくらいはやっている。
五十嵐──われわれはただ中性的なカタカナの響きしか感じないけど、欧米圏などではポカリ「スエット(汗)」と言ったときにどんなイメージをするんでしょうね。
磯崎──汗飲んでるわけだからねぇ(笑)。本当に。だけど、考えると大概、いまのテクノロジーの問題にしても建築のデザインにしても、何か明るいやつっていうのはこの手のものじゃないかなと。建築のデザインにしても、何にしても。という気がするんですよ。それはやっぱり九〇年代後半以降の現象のような気もするんですよ。ただ、表立っちゃいけないんです。それで、隠してある方が。だけど、実は身体とか心理とかそういうものにどこかで入り込んでいる。なんか、大塚製薬の宣伝をしているわけではないからね、今日は(笑)。

自滅すること、あるいは六〇年代と九〇年代の類似と差異

南──いまのお話を聞いて考えたんですが、九〇年代は都市のディズニーランダイゼーションが進行して、それがビルディングタイプ・レヴェルでも細部まで染み込んで、キッチュな空間に惹かれてしまうということが起こったのではないかと思うんです。その延長でヴァーチュアリティとリアリティの問題に関連するんですが、さっきの阪神大震災の絡みで言うと、ちょうど一九九五年の二月に、僕らは「エディフィカーレ」として、NICOSギャラリーというところで現代都市をテーマにした展覧会を開いたんです。その時に僕の中には、極限にまで全体化した都市を脱色し、透明化したときに見えてくる、高度なシステムの裸形というイメージがありました。それで僕は、マルセル・デュシャンではないのですが、展覧会全体に「都市を抹消し、〈交通開放系〉の裸体を想像せよ」という、主体なきコマンドのようなタイトルをつけたんです。そうしたら、その展覧会準備の真っ最中に阪神大震災が起こり、ほとんどこのタイトルが予言するような形で、本当に都市を抹消するような事態が出現し、モノがまがまがしく剥き出しになった光景に立ち会って、ものすごくショックを受けました。磯崎さんがお話されているように、デコンストラクションの建築といった概念が、一瞬にして徹底的に無化されたということを、その時、ありありと感じ取っていました。それで、神戸が個人的に関わりのある土地であるということもあって、ボランティア活動のために東京と神戸を行ったり来たりしていたんですが、その時に感じたのが、実際に向こうにいる人たちと、そこにいない人たちとの、その当事者・非当事者間の認識の差異というか温度差みたいなものがものすごいということでした。地震の渦中にいた人っていうのは、日本全国が壊滅状態になったとみんな結構思ったらしいんですね。ところが、東京では全然そんなことはなくって、それがどういう風に現象したかというと、巨大なスペクタクルとしてこっちには映ってしまったということで、実はすごくヴァーチュアルなものが一番リアルなものに感じ取れた瞬間というか、リアリティとヴァーチュアリティの奇妙なねじれが一挙に起こった契機としてあったのではないかということであって、そこからヴァーチュアリティみたいな議論が盛んになってきたこととも無縁ではないと思うんです。また、そうしたヴァーチュアル・アーキテクチャーに関する議論と並行して、建築はもうすごく建てにくいというか、建てるっていうことじゃないところから出発しないといけないという議論がすごく盛んになってきたんですけれども、その辺りでこれからの都市と建築、あるいは建築家のあり方について、磯崎さんはどういう風に思われますか?
磯崎──あなた方といくつ歳が違うか知らないけど、三〇年あまり昔、一九六〇年代の終わりにも南さんがおっしゃったことと同じことが言われていましたね。ようするに、既成の芸術は今日の制度を組み立てていて、かつそれは権力と結びついてしまった。だから、既成権力に反対するということは建築家やデザイナーにしてみると、もし彼らがデザインすればオートマティックに彼らに収奪される。建築をつくれば彼らのものになってしまう。絵を描けば彼らの商品になる。故にアーティストはもう何もできないんだと。カメラマンはシャッターが押せない、絵描きは筆が持てない、建築家はT定規が重いと(笑)。本当にそういう表現がなされたんですよ。それが六〇年代の終わりなんです。その当時の問題は、既成の様々な諸権力、諸制度、それからあらゆる価値基準、まあ、価値基準そのものを壊すためには、そちらを壊さなければならないと。それらをサポートしていたアートや建築作品は自らを破壊せよというわけですね。まあ、脱出しないといけない。建築から、現代社会からドロップアウトすること、ビートニクやヒッピーになることが盛んに主張され、一方では赤軍派のような──対抗、テロリズム──の道しか残っていないのではないかというような議論があったわけです。僕らも三〇代に入ってましたから、それぞれの世界でのプロフェッションになる予備軍にはなっていたわけですね。結果的にはそれをやる限りにおいて先行きが何も見えない。結局放棄する以外しょうがない。放棄したあげくに何が起こったかというと、いっぺん自滅するんです。自滅したあげくに限界に到達する、それはラディカリズムというものの持っている構図ですね。ラディカルというのは目標がなくて、ようするに根源に戻る、あるいは極端な限界に到達するという、それがラディカリズムですから、そこに行き着いたらもう先がない。先がなかったらそこで分解する。自滅することによって、その次に何が起こるか。
長期にみると、自滅のあとにはいろんなことが起こるんですよ。そのさなかにいるとよく見えませんけどね。六八年は文化革命の挫折としてみられています。僕は「計画」概念がここで無効になったとみています。それが明らかになるのは、さらに二〇年の宙吊り期間を経て、二極対立の世界が崩れてからです。このときは攻撃目標でしかないし、予兆でしかないのですが、じわじわ進行しますね。「計画」概念を職業にした職種がすべて危機に陥ったのですよ。建築もその部分を切り捨てねばなるまいし、都市も「計画」できなくなりました。自滅したあげくに、誰もが白紙状態から再スタートせざるをえない。七〇年代の初頭で最初に方向が見えたのは、アルド・ロッシたちの都市の文脈主義でした。そこには記憶を回復するという保守的な視線が、むしろラディカルに主張されている。歴史主義はすぐ隣り合わせでしょう。
僕にとっては、言語論(記号論)経由のフォルマリズムでした。フォルマリズムを徹底させるために建築にとって外部の都市を消去して、自律性を主張せざるをえない。そこで「都市からの撤退」を語りました。いまだに誤解が続いていますね。
コンテクスチュアリズムとフォルマリズム、いまとなってはこのように要約できますが、発生時は誰も明瞭に意識しているとは思えません。そのうちこれをひっくるめてポストモダンと呼ぶようになったと思われます。ここに抜けでるために、いったん自滅しなければならないし、そこからの脱出のしかたで違ってきますね。勿論自滅したまんまの人も大勢いますね(笑)。
南──そうですか(笑)。都市と建築をめぐる諸問題を、時代に即して基礎から問い直すような、ある種、還元的な構えが必要だとは、僕も痛切に感じているんです。ただ、それが二一世紀にどのような方向に向かうのかは、率直に言ってまだはっきり見えてこない。坂口安吾というわけではないですが、一度、自滅するぐらいの覚悟が必要なのかもしれませんね。
磯崎──僕は自滅した経験があるから、まあ二度三度自滅するのは平気だと思っています(笑)。
南──先ほどの宗教の話とちょっと絡めますと、ラディカリズムということを考えた場合、オウムなどはアナーキズムというふうに言った方がどっちかと言えば近いかなという感じがしてて、その先を根源的に考えるという意味のラディカリズムではないところでの、奇妙な屈折を起こしているという印象もあるんです。だから一方で、ラディカリズムを徹底しようという気にはあまりなれない、という部分もある(笑)。それが問題を複雑にしてもいるのではないか、とも思うんです。二〇世紀末としての現在は、システムに対する一元論的な批判がうまく機能せず、空回りしてしまうような危うさがある。例えば都市といった言葉で代表されるような、システムの総体の現代的な不可解さと危機を、はっきりと浮かび上がらせてみるべきだ、という思いと同時に、一方ではそうした極度に高度化した都市に埋没し、身体を漂白してその一部と化すことの心地よさもあるんです。抑圧と同時に解放がある。何か二重感覚とでも言うか。
メディア・テクノロジーの進展によって、いまやシステム全体を覆う多様なネットワークがあちこちに張り巡らされていて、それはとてもフラジャイルなもので至るところでぶつぶつと簡単に切れてしまうような、アドホックな関係の網目ではあるけれど、その中を漂うことの快楽もあるんです。
それはひょっとしたら、宮台真司の言うような、都市における「第四空間」的な居心地のよさやリアリティとも接続しているかもしれません。先ほどお話がでた一九九五年前後に、僕は東京湾岸の全領域的なフィールドワークを延々とやっていたんですが、その時もやっぱり、そうした感覚をぬぐえなかったんです。
また、建築で言えば、一九九〇年代にはヘルツォークやズントーのような、禁欲的でミニマルなデザインがひとつの流れを見せる一方で、フランク・ゲーリーの《ビルバオ・グッゲンハイム美術館》や諸々のエアポート建築のように、これまでにない超巨大な建築も数多く出現している。両極端の志向が同時に発現している、という状況も感じられます。
磯崎さんのおっしゃっている六〇年代のラディカルな状況と、九〇年代との類似と差異を、今後、改めて考えてみる必要があるのかもしれません。最初に僕が「既視感」や「自己言及」といったのは、もしかしたら九〇年代が、ある部分で六〇年代を、レトロスペクティヴに反復しつつシミュレートしていた、ということを示していたのかもしれません。
五十嵐──磯崎さんのおっしゃる六〇年代と九〇年代の違いがよくでているなと思ったのは、中村政人さんっていう若いアーティストの活動ですね。個人のアートプロジェクトでは、マクドナルドの「M」やコンビニのマークを画廊に持ってきてしまう。あるいは彼の率いるコマンドNの都市を舞台にした「秋葉原TV」や「ザ・ギンブラアート」なんかも評判になりました。彼らの行動は赤瀬川原平さんたちが六〇年代以降に《東京ミキサー計画》などでやられていたことの反復のように見える。本人も赤瀬川さんや「トマソン」的な視点に敬意を払いながら、やっぱり違いがあって、まさに赤瀬川さんの時代は反芸術や反社会がとにかく先行し、偽札か芸術かが議論になった千円札の事件のように、「行くところまで行ったら裁判所」だったと思うんです。それに対して、中村政人さんは確かに都市を舞台にしたパフォーマンスみたいなものもやるし、一応ある種の反芸術的な身振りもあるけれど、ある意味で形式化をしていて、例えば彼の作るマックの「M」であるとかコンビニのマークは結構美しいものなんです。その美しさっていうのは明らかにミニマルアートであるとか、抽象絵画を思わせるような形式性に裏付けられている。九〇年代に流行したライトコンストラクションの建築も、これと似ているかもしれない。中村さんは「行くところまで行ったら裁判所」ではなくて、マックにもコンビニにもちゃんと許可をとって同じ業者にオブジェをつくらせており、社会性というかある種の保守性が指摘できます。ちょっと個人的な話ですが、僕も参加した『エヴァンゲリオン・スタイル』という森川嘉一郎君の編集した本が、図版の問題でガイナックスに訴えられかけたことがありました。その時に出版社の人が裁判好きで裁判をやってその過程を本にしようと息巻いてましたが、森川君は青くなっていた。彼はそもそも『エヴァンゲリオン』は引用の織物でできたアニメだから、それと同じ手法で本を作るというコンセプトを持っていて、一種のシミュレーション・アートの素振りでやったわけです。しかし、六〇年代の千円札裁判が国家対芸術という社会的な問題になるのに対し、九〇年代のエヴァンゲリオン裁判が実現していれば、たぶんアニメオタク同士の争いになってしまう。非常に九〇年代的だなぁと思ったんですけど。
磯崎──いまのその話は非常に面白いですね。先ほどの身体性という問題とちょっと絡んで六〇年代と九〇年代との比較はできると思います。六〇年代は身体とは言わず肉体と言いました。ようするに行動に生身の肉体を賭けている。アーティストもみんな大体パフォーマンスをやるとかその他を含めて自分の肉体を賭けて動いていた。それに対しておそらく現在の話は負けたら自滅するのもしょうがないし、解体するのもしょうがない。気軽にいえるんじゃないですか。まあ、ほとんどゲームでしょう。ゲームは勝った負けたというのがあるんだけど、負けたから仕事がないとか、勝ったから儲かったとかいうものでもないような、そういう事件そのものがシミュレーションの中で進行するような事態になってきているのではないですか。そこら辺はいま、水戸芸術館で、日本の現代美術をゼロにして書き換えるとどうなるかという、「日本ゼロ年」という展覧会を椹木野衣のキュレーションでやっていますが、非常に面白い。六〇年代以降の、そして七〇年代、八〇年代に出てきた批評家やキュレーターたちの持っていた構図をこの展覧会で全部崩しちゃえという魂胆が彼にはあって、その魂胆の面白さは非常に生っぽい段階でまだこなれていないという印象はあるけれども、ひとつ議論ができるようなベースをここに入れてきてるんじゃないかなと思います。そうすると、その時に行き着く先がさっきの話じゃないけれども、ヴァーチュアルなゲームだとか、もっとリアルなアクションなのかっていうことで、なんかそういうことがあるんです。例えば、会田誠。ちょっとやばいんじゃないというような天皇の揶揄があったり、マンハッタンを零戦が爆撃している大スペクタクルとかが出てくる。これは面白いと言えば面白いからもうみんな拍手喝采をしている。
六〇年代には、例えば赤瀬川原平は『朝日ジャーナル』という、現状に対して左翼知識人的な批判の言説を内容とした週刊誌の表紙をずっと描いていたんですよ。それはとても評判よかったんですよ。ただ、一番最後にね「アカイ アカイ アサヒ ガアカイ」っていうやつを表紙に描いた(笑)。彼は結局朝日から下ろされたわけですが、あのときのラディカリズムというのは、とことん行き着くと自分のスポンサーまで揶揄しちゃう。もちろん国家もです。アナーキーと言えばアナーキーですけれどそういうところに行き着くような力があったんですね。でも、いまは事件にならない。どうしてですかね? 一〇年くらい前に富山の県立美術館で、ある作家の作品が天皇を冒涜しているとして右翼が押しかけ、それに怯えた美術館側が収蔵していた彼の作品を売っぱらい、カタログを廃棄処分にしちゃったっていうことがありました。そういうことが起こる可能性は日本にはあると思うけれども、いまは大分事態が違う。その原因は何なのか。身体性が欠けたレヴェルで事態が進行すると、ゲームの勝ち負けぐらいにしか感じられないということがあるかもしれないけれど、それに身体が関わっているのであれば、痛い、暑い、怪我をしたあるいは死ぬということに関わるから、そうするともうひとつ事件が違って見えて来るのではないかと思うんです。建築の議論にしても、かつて僕は建築を視覚的な、あるいは知的な構図として見るという見方をひたすら喋っていた。実はそれしかインターナショナルに伝える手がかりがないんだけれど、それは僕の半分くらいなわけで、本当に僕が仕事をするときの問題というのは身体の入り込む空間、身体が関わったことによって感知できる空間、そこが僕個人の基盤であるというか根拠ですね。根拠っていうのを僕が個人的にそう思っている。それと、ヴァーチュアルというのとどう関係があるかといつも考えています。
五十嵐──最近、『広告』二〇〇〇年一+二月号が「スーパーフラット元年」という特集を組んでいます。これは東浩紀さんと村上隆さんの対談から提出された新しい時代の認識で、オタク的なアニメの図像に代表される奥行きの欠如した焦点のないイメージを意味します。こうしたフラットな感覚は、確かに九〇年代の建築にも指摘しうるもので、例えば、建物の表層にこだわったヘルツォークや妹島和世、設計条件のヒエラルキーを解体するみかんぐみアトリエ・ワン、そしてMVRDVの「データ・タウン」なんかがそれに当てはまるのではないかと、その号で論じました。特にMVRDVは、コンピュータによるゲーム感覚の表現形式を巧みに示せたグループだと思います。
磯崎──ヴィジュアルなものを存在させる空間から奥行きや深さが消える。そんなフラットはもうどこにも浸透しつくしているのでしょうが、これは空間内での価値の産出を危うくする。つまり、価値がフラットになったということとそれは通じているのでしょうね。非常に動きにくいことでしょう。建築ではないんだけれども、八〇年代の始めに田中康夫が登場したときに、あの人の発想というのは、ようするに全く別の切り口で見ると既成の価値の体系がおかしく見えてくる。こんな事例をずっと彼は探して、一個一個つぶしてきた。それに乗っかる人が少なかった。つまり、彼を批判する人は、自らの価値体系を壊されることに本能的に反応して防禦側にまわったのだと思いますね。フラットになると彼のようなやり方が一番仕事の見込みを立てにくくなっていると思います。むしろ、日本は全体が遅れているからまだ十分にけんかする相手がたくさんいるというのは見えますけどね(笑)。だけど、彼の探していたラディカリズム、僕はアレが八〇年代のラディカリズムだったと思うんです。それが確かにやりにくくなってきているという気がします。そういう点からすると六〇年代の終わりにある種ラディカルが行き着いたのと、新しい別のフェイズで行き着いた状態というのが起こっているわけですね。

「ダス・マン」の救済と断念──ハイデガーとミース

南──身体性との関連でお聞きしたいんですけれど、磯崎さんは最近、『すみか十二』っていう住居論を出されましたね。住居というのは身体との関係が最も問われるビルディングタイプのひとつであると思うんですけれど、現在のように身体性の概念があやふやになった状態で、かつリアルとヴァーチュアルとの境界みたいなものが定かではなくなってきたような状況の中で、僕自身は現在、徹底化した都市を前提とするところから住居を考えてみようとしているんです。それで、磯崎さんの書かれたこの住居論にとても関心があるのですが、それをいま、本格的に読んでしまうと間違いなく僕自身が大きな影響を受けてしまうため、「とても読みたいけど、いまは読めない」というダブルバインドの状況にいるんです。住居に関しては、さしあたり自分自身の実感として、認識論的には「すべてが都市である」という命題から出発することがきわめて現在的な妥当性を帯びている、と思えました。ただ、そのように考えたときに、都市がそれ自身の中に、逆説的に自己を疎外するような「残余」をかかえ込んでもいて、その「残余」こそが住居という概念なのではないか、と思ったのです。それで、極限にまで徹底化した都市のネガとしての住居を、都市における最初で最後の可能性と見立て、「住居はいかにして可能なのか」という、ほとんど無謀とも思えるような方法的問いを、自らに課しているんです。全域的かつ巨大なメトロポリスを前提とした居住のあり方はどのように想い描くことができるのか、そうしたことを、僕は何か、絶対的な思考の孤立を感じつつ引き受けながらも、あえて試みているところなんですが、そこではじめに考えたのが、内部としての住居を、都市を引き込んだ上で、例えばジル・ドゥルーズが示唆していたような「内在性」によって読み替えてみようということでした。その内部という問題に関して、磯崎さんは都市についての思考の中で、「東京がインテリア化している」という発言もされています。また、住居という問題系については、一九九九年にテレンス・ライリーのディレクトのもと、MoMAで行なわれた「アン・プライヴェート・ハウス」展なども視野に入ってきます。それらも含めて、磯崎さんは住居をどういう風に捉えられているのかを、身体性や都市との関連でお聞きしたいのですが。
磯崎──『すみか十二』では、大上段に振りかぶるとすれば、いまのご質問のような議論を真正面からすべきだと最初は思ったんです。だけど、どう見てもそれをやるとダサクなる(笑)。いくらやっても行き着かないようなものになってしまうのではないか。しょうがないから裏をかいて、住宅作品というよりも僕が関心を持っている建築家や個人がつくったものを、見たときの感じを手がかりに議論をすればいい。それをエッセイみたいにしちゃったんですが、その時に結局分かったことは、僕は「うかんむりの家」とか「にんべんの住」よりも「木へんの栖」という字、つまり鳥や獣がねぐらにしているその部分、住居というのをそうやって見ないとしょうがないんじゃないかということから考えることにしました。そして、住居に対する普段の実感は何-かというと、僕らは大きな住宅とか自分の住居というコンセプトを完全に形態化できるような典型的な住宅、そういうふうなものを持てる時代ではなくなったということですね。僕はたまたまある程度古い生活を引きずっているけれども、いまの人たちは、住宅で身の周りに置いていたものをある部分ガジェットとして体に着けて動いているわけです。僕はそれを「着装人間」と呼ぶことにしていますが。食事にしたってレストランやファーストフードがあるわけですから、あとは寝る場所さえあればいい。だから、栖と言ったら鳥が巣に帰って寝てるのとどっこいどっこいです。これからの住居はそういうものしかないのかもしれない。仮にそれがテントに住んでノマドになったとしても、食べるところが社会化されたところであって、寝てるときだけが個人になる。だから、眠る場所があればいいんじゃないか。カプセルでいい。それなら、墓場も同じじゃないか(笑)。それで、終の栖というのをお墓と重ねて、最低限の住居というような具合に僕は見て、他の人の仕事を見てどうなるだろうかと、どう見てるだろうかというようなことをこの本で書いたわけですね。だいたい議論はあまりなくて、ゴシップばかりでした(笑)。ゴシップを書くとみんな読んでくれるからね。
それで、これは僕自身が背負い込んでいる一番きつい部分だと思うんですが、建築としての住居はいわばパラディオがコンセプトをつくった。
ル・コルビュジエの住宅にしてもミースのそれも、みんなパラディオのタイプと変わらないわけです。ああいう独立住居は土地があって、森や緑があって、そこにどんと、いわゆる自然の中にすわっている。そういうことから建築としての住居の形式論が議論されてきて、それはさっきの環境と建築というようなことも含めて建築の基本的な形式の概念を組み立ててきた。ところが、それがメトロポリスになってくると、密度から計算して、全員が地上にヴィラを作って住むことは計算上成立しないわけですね。で、立体化して空中に住むしかなくなる。つまり、僕らは土地に接して住むことを断念しなければならない。あのエッセイで僕がこれだけは言いたかったというのはミース論なんです。例えばハイデガーは、人間を救済するためのロジックを組み立てる基礎をつくろうとしてあれだけの膨大な著作を書いてしまった。人間は「ダス・マン」です。『存在と時間』に出てくる概念です。顔を失い抽象化した「ダス・マン」、その「ダス・マン」を人間として救済するためのツールを組み立てようとしたのがハイデガーだと僕は理解しています。その具体的な手段を提供するように見えたのは二〇年代の場合で見ていくとナチスです。ナチスというのは「あらゆるテクノロジーを使いながら『ダス・マン』を大地に帰還させてある」という謳い文句でした。僕はハイデガーが引っかかった原因はこれなんだと思う。彼はまじめに考えてその救済の手がかりを探していた。それで、いま世間で癒しであるとか救済であるとか、あらゆる議論の九九パーセントがそれになっていますけど、それはポジティヴに見えますね。ナチスはそれをつかんだから、あれだけ人を引っ張っていくことができたんだと思います。基本的に顔を失った「ダス・マン」という抽象化した人間を大地に帰して、顔を回復させる。誰だって承認しますよ。しかし、ミースっていう人はこの救済を断念した。ポストヒューマニズムというか、ヒューマニズムそのものを最初から建築の思考の手がかりにすることを断念したと思います。この二人の運命を比較してみると、ハイデガーがこけたから、それでミースが偶然成功したわけです。ハイデガーがナチ協力の汚名をきせられ、叩かれたのはナチスがこけたせいだからというだけの話です。ようするに、救済は可能か不可能かということに対する態度決定がそこで違っていた。この原因はメトロポリスができたということですね。ここではポストヒューマニズムしか成立しない。この枠組みを認めた上で人間を救済するなんて無理だったんです。いまメトロポリスは過飽和状態になって輪郭が溶け始めている。建築も溶けています。都市も溶けています。どんどん溶けていったら一体何が残るかと言えば、見当がつかないけれども、ここで明らかなことは、救済なんかは諦めざるをえない。せいぜい人間という動物の収容所です。都市というのはそういうものなのだと言ってしまうか、あるいは都市を、顔の見える、お互いのコンセプトが外形までに反映するような住居プランとして設計できるような条件を探してあげようというか、しかしこれはいささかマユツバ的に楽天的でしょう。まあどっちかです。そうするとこの都市の中には大地の上に独立して住宅を作るというのはもうほとんどないから、インテリアしかないだろう。建築の輪郭だって溶けているから、せいぜい自分の住む場所をインテリアとしてつくるくらいしかない。これが僕の観測で、それが住居論ではないですけれど都市論として見ています。
五十嵐──救済ということで言えば、九〇年代の終わりに二つのナショナリズム的な本がベストセラーになりました。小林よしのりの『戦争論』(一九九八)と最近出た西尾幹二の『国民の歴史』(一九九九)です。面白いのはこの二冊ともに現在の都市風景を憂えていることです。『戦争論』は冒頭で生きる目的を失い、公共性のモラルを喪失した若者の街を、『国民の歴史』は終章でハイデガーのいう「退屈」に触れつつ、自由に酔いしれ、空虚を抱えた情報社会の人々を描写しています。確かに、日本の都市は室内化し、ある意味で弛緩してどろどろに溶けちゃって、そこでコギャルなり茶髪のオニーチャンたちが何の理念もなく好き勝手にやっている。公共性が変容しているという認識そのものは決して間違っていないと思うんです。
ただ、その二冊の本はそこからまさに救済に入ろうとしている。『戦争論』の方は戦前を理想化するという非常にアナクロ的なものなんですね。一方、『国民の歴史』は、長い歴史的なスパンで国内外を比較して日本の優秀さと誇りを強調していくという書き方ですね。
磯崎──なるほど。僕は時間つぶしの感じがして、両方とも読んでいません。
五十嵐──ある種の救済なんだなという気がするんですけど、やっぱりその公共性が変わっているという認識までは正しい。しかし、国家的なるものを単純に復権させれば良いという単純な話は納得いかない。しかも、新しい歴史教科書を作りたいという動きに関連している。だから、これに対抗する歴史的な構想力が必要だと思う。
磯崎──当然、この有様はおかしいと思います。だから、変えなきゃならない、救済しなければならない。そういうものは当然考え方として出てきますよね。まあ、僕の友人の大江健三郎の書いてる小説はそのまま「救済」ですね。ようするに魂の救済みたいなものと、その現実の宗教絡みの救済活動の挫折、その二つだけがテーマですね。その中に土着コミュニティみたいな、森のコミュニティもある、そういう構図です。みんな、それには引っかかっている。だけど救済なんか馬鹿馬鹿しいからやめろと、それの方がリアリティがあるんだけれど、それを言ったら袋叩きにあうということだけは分かっていますね(笑)。だから、いまいろんな人がミース論をやってるんだけど、ミース論でミースを突き放してピタッと誰か言ってくれれば面白いと思うんだけど、後々まで背負い込みが残るでしょう。ハイデガーの裏をやるわけだから。この次は逆の論理で叩かれますよ。強制収容所とサティアンと民族浄化とを一緒にまとめて正当化しなければなりませんからね。
南──ル・コルビュジエ同様、ミースについては九〇年代に入って、その再検証や作品の読解が盛んに行なわれていますね。いま磯崎さんがお話しされた「救済の断念」というテーマは、歴史的なものであると同時にきわめて現在的なプロブレマティークでもあるんでしょうね。
そこでは九〇年代においても繰り返し議論されてきた「他者」や「他者性」の問題とも絡んでいるように思えます。例えば建築におけるインターナショナリズムという構えは、「ある空間の形式を、他者と共有しうるようにするにはどうしたらいいか」ということを、ある意味で非常にウェットな形で組み上げようとしてきたわけですよね。その中で、ミースはそれを、きわめて乾いた構えで断念しながらも追求したんですが、むしろそっちの方が、いまのわれわれには魅力的に見えている部分もある、ということなんでしょうか。九〇年代は東西構造の崩壊とともに、民族問題や紛争が局所的な激化を見せ、他者の他者性というべきものの難しさを再認識させた時代でもあったわけですし、一方で新しいメディア・テクノロジーは、これまでだったら出会えなかったような他者との関係を可能にする部分も持っています。「救済」の危うさを背後で受け止めつつ、他者といかに切断され、かつ接続するかということが、再度問われるべきなのかも知れません。
今日は九〇年代の都市と建築をめぐる諸状況ということで、磯崎さんにいろいろと刺激的なお話を聞かせていただいたのですが、お話をうかがって、まだまだ考えてみるべき多くの問題がある、ということが分かりました。実際、九〇年代というのはまだ終わったばかりなわけで、逆に言うと九〇年代を対象化して考えてみること自体は、始まったばかりということでもあり、今後繰り返し検証し続けなければならないのだと思います。例えばANY会議を通した建築と哲学・思想との対話や、グローバリゼーションのゆくえ、あるいは今後注目すべき建築家の話など、お聞きしたかったことはまだまだたくさんあるのですが、機会があれば、是非今回の続きを聞かせていただければと思います。今日はどうもありがとうございました。
[二〇〇〇年一月一九日、磯崎アトリエにて]

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年生
磯崎新アトリエ主宰。建築家。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>南泰裕(ミナミ・ヤスヒロ)

1967年生
アトリエ・アンプレックス主宰、国士舘大学理工学部准教授。建築家。

>『10+1』 No.19

特集=都市/建築クロニクル 1990-2000

>日本の都市空間

1968年3月1日

>ドミニク・ペロー

1953年 -
建築家。ドミニク・ペロー・アーキテクト代表。

>フランス国立図書館

フランス、パリ 図書館 1995年

>メタボリズム

「新陳代謝(metabolism)」を理念として1960年代に展開された建築運動...

>グローバリゼーション

社会的、文化的、商業的、経済的活動の世界化または世界規模化。経済的観点から、地球...

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>森川嘉一郎(モリカワ・カイチロウ)

1971年 -
意匠論。明治大学国際日本学部准教授、早稲田大学理工学部総合研究センター客員研究員。

>妹島和世(セジマ・カズヨ)

1956年 -
建築家。慶應義塾大学理工学部客員教授、SANAA共同主宰。

>みかんぐみ(ミカングミ)

1995年 -
建築設計事務所。

>アトリエ・ワン

1991年 -
建築設計事務所。