菊池誠
、1996年、266ページ
ISBN=9784872750676
[批評]
...接続させる、情報の足場が存在する。トランスアーキテクチャー、建築を超えた建築、それは見えない... ...いつでも入手できる状態にある。が、トランスアーキテクチャーは、それらをわれわれの充実した経験...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.76-89
[翻訳]
...の連続体、略してニュースペースこそトランスアーキテクチャーに固有の空間である。 0 美は客観的で... ...展を、いち早く予期していた。それはトランスアーキテクチャーという新しい建築を要請していたのだ...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.192-203
[論考]
...アーキテクチャー」は氏の提唱する「トランスアーキテクチャー」の発現のひとつであるという。ノヴ... ...する。サイバースペースの内部では、トランスアーキテクチャーの可視的な側面が、空想性を秘めたか...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.78-83
[東アジア建築世界の二〇〇年 1]
...誌の別冊として『アジア建築研究──トランスアーキテクチャー/トランスアーバニズム』(INAX出版、... ...を分析する」(『アジア建築研究──トランスアーキテクチャー/トランスアーバニズム』INAX出版、一...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.189-200
[論考]
0:チップのなかの空間 ((-1 . ) (0 . INSERT) (8 . AME_FRZ) (5 . 36) (2 . AME_NIL) (10 1.0 ...ットより*この原稿は加筆訂正を施し、『トランスアーキテクチャー』として単行本化されています。...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.126-135
[論考]
ネイション・ステートを懐疑的に見なくてはいけない今日の状況下では、もはや首都という存在すらユートピアになりかねない。幸田露伴が「一国の首都」で説いたモラルたっぷ...」(村松伸監修『アジア建築研究──トランスアーキテクチャー/トランスアーバニズム』、INAX出版、...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.210-220
[年表]
日本の建築の近代について、これまでにどんな歴史的視点が生まれ、拡がり、変わっていったのだろうか。建築をきちんと考えよう、つまり歴史的に考えようとしたとき、否応な...十嵐太郎ほか編『アジア建築研究——トランスアーキテクチャー/トランスアーバニズム 』(INAX出版、...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.164-165
[都市史/歴史]
都市史における五つの潮流 一九九〇年代の都市史関係の文献を回顧すると、それには大きく分けて次の五つの潮流があるように思われる。まずひとつめは新たな都市権力論の登...七、村松伸監修『アジア建築研究──トランスアーキテクチャー/トランスアーバニズム』(INAX出版、...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.120-123
[ミュージアム・テクノロジー随想 4]
四回連載の本コラムも最終回である。毎回、遊歩者のようにとりとめのないことを書き付けてきたが、結論へと線形に展開するテクストを書くことは最初から想定していない。 前回触れた「メディアとしての建築」展の図録に、ル・コルビュジエの絶筆「思考のほかに伝えうる何ものもない」を翻訳掲載した。その後、伝達可能であるというのはどういう...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.39-41
[ミュージアム・テクノロジー随想 2]
私が「M博物館増改築計画」[図1]なる架空のプロジェクトの内観透視図をレンダリングしていたとき、ロバート・フラッドの「記憶の劇場」を思い出したという話を前回書いた。窓などの建具をはずされスケルトンだけになった擬古典様式の既存建築が、舞台装置ないしは映画セットじみて見えた、それが記憶術の道具として用いられる舞台のイメージ...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.42-43
[ミュージアム・テクノロジー随想 1]
本連載のシリーズ題名にある「ミュージアム・テクノロジー」というのは、二〇〇二年一〇月に東京大学総合研究博物館に開設された寄付研究部門に付けられた部門名である(産学連携が奨励される時節柄、この奇特な寄付を行なったのはディスプレイ業界日本最大手の丹青社であると名前を記させてもらおう)。ゴッドファーザー(名親)は同博物館の西...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.41-42
[論考]
都市計画はひとつの工学的な技術体系として(…中略…)物的・実体的な諸施設の配置・構成を手だてとし、個別的・社会的なもろもろの空間や構築物を媒介として、都市社会をコントロールしようとする総合的な制御科学の体系であるといってよいだろう。 浅田孝『環境開発論』 1 爆発するメトロポリス 一九六〇年代に書かれた都市の問題に...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.96-103
[論考]
ルネ・マグリットの一連のデッサン《これはパイプではない》を分析しつつ、ミシェル・フーコーはその中に自己破壊に至るまで逆立ちさせられた一種の〈カリグラム〉を認めている。 〈カリグラム〉とは、明らかにわれわれのアルファベット的伝統の対立項を消去しようとするものである。それは示しまた名指し、描きまた語り、模倣しまた意味し、人...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.195-202
[ミュージアム・テクノロジー随想 3]
前回も少し映画のことを書いたが、一九五〇年代前半生まれの私はジャン=リュック・ゴダールほかのヌーヴェルヴァーグ映画には間に合っていない世代に属する。つまりロードショー時にではなく後年、名画座で『気狂いピエロ』(一九六五)などを観た。ゴダールより年長だったと思うが、文学から映画への転身が遅かったのか、日本への紹介が遅れた...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.28-29