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南方主義建築の系譜──南のモダニズム・フランス植民地での実践 | 大田省一
A Genealogy of the Architecture of "Austral-ism": The Modernism of the Equatorial South in French Colonial Practice | Ota Shoichi
掲載『10+1』 No.23 (建築写真) pp.195-204

熱帯型の建築

今の世の中から植民地主義の時代を顧みるとき、またその枠組みのなかでの建築家の活動をみるとき、植民地主義は、まさに、建築家が本国とは異なった環境と出逢う契機を与えたと言える。
ヨーロッパを出て、植民地の開発のために建築家が出向く先は、アフリカ、アジアの熱帯地域がそのほとんどを占めた。地中海の向こうに広がる、建築家の新天地は、しかし、新たな課題の宝庫でもあった。熱帯に建築をつくるということは、建築家たちにとって新しい試行錯誤の場となったのである。
欧米の植民地主義が熱帯と出逢うのは、もちろん何世紀も前の大航海時代から始まっており、熱帯での建設活動も各地にさまざまな痕跡を残している。経験主義的につくられたこの時代の建築は、熱帯での快適性を建築的工夫で実現するための試みであった。ベランダなどの装置がこれにあたるだろう。これらは、フレッチャーが「建築の進化系統の木」を描く遥か以前のもので、宗主国からは地理的に遠く離れていただけではなく、建築文化の産物としても遠く離れた個別の作業であって、植民地の現実のなかに埋もれた存在であった。
二〇世紀は、このような宗主国と植民地の距離を大きく縮めた時代であった。建築家というひとりの人間が、世界を俯瞰して仕事ができる時代となった。
同じ二〇世紀でも、建築家の態度にはひとつの転換点がある。異文化への対処の仕方がオリエンタリズムの視線を宿し、それがストレートに建築表現に出ていた頃は、建築家は依然として探検趣味の末裔として植民地に降り立っていたのであり、土地の現実を把握する術をまだもち合わせてはいなかった。しかし、宗主国の側の植民地に対する認識が変化し、建築家個人が再び土地の現実と格闘するようになったとき、彼らは、本国とは異なった環境を分析的に捉え、自身の新たな発想の場としたのである★一。特に、汎世界建築と目されたモダニズムの建築が文字どおり世界に広がっていったとき、「世界共通」であるはずのその形態は、大きく変えられていくのである。
ここでは、フランス植民地とそこで活躍した建築家を例にとって、熱帯での建築家の活動の一例を紹介することとする★二。彼らは、「南」をどのように表現したのだろうか。

フランス植民地と建築

世界恐慌を経た三〇、四〇年代のフランス植民地では、都市の運営が大きな問題となっていた。このなかで建築家には、現実の都市において直面する問題を解決する、提案者としての役割が期待された。このため、植民地建築家が発表する作品にも、二〇年代のような、文化・芸術面での現地へのアプローチよりも、建築の性能面での主張が強くなってくる。それは熱帯の気候に対処できる建築であったり、居住者としての現地人の生活様式に配慮した建築であったり、という点においてである。
そうして、いずれにおいても、実際に熱帯植民地での使用に耐えうる建築であることが第一義となったのである。気候面での対応の例としては、《アルジェ総督府庁舎》(設計ジャック・ギオーシャン[Jacques Guiauchain]、アルジェリア・アルジェ、一九三〇)[図1]が、熱帯型モダニズム建築の実践例として登場した。階段室をガラスブロックでシリンダー状につくって他と隔離し、壁厚を十分にとることで、熱対策と日光の採り入れという、相反した要求に応えようとした。ファサードの工夫は、主に庇を使うことで解決している★三。
三〇年代には、各地の植民地で活動する建築家・都市計画家が一堂に会する場が設けられた。一九三一年の「国際植民地博覧会」、およびその時に開催された「熱帯地域植民地都市計画会議」がそれである★四。植民地にて実際に設計にあたっている建築家たちが集まることで、共通に抱える問題等に関して意見交換がなされた。このような対話のなかで、熱帯の建築という像が浮かび上がってくる。国際植民地博覧会では、「植民地の住宅(La maison mértallique coloniale)」が二種類の気候区分、多湿地域向け(ここでは「コンゴ型植民地」と呼ばれた)と乾燥地域向け(同様に「セネガル型植民地」と呼ばれた)にそれぞれ特化したものが出展された。いずれも鉄骨構造によるプレハブ住宅のプロトタイプとして出展されたもので、現地での実際の建設にも配慮したものであった★五。
建設会社ごとのモデル展示[図2─4]が行なわれたが、コートジボアール・アビジャンでの例は、二〇日でできあがったという。気候面での対応は、もちろん最重要課題であり、各部材の構成から、屋根裏換気などの建築的な工夫まで、さまざまな新機軸を盛り込んでいた。
一九世紀から二〇世紀にかけては、博覧会が世界規模で盛んになった時代であり、この仕組みが建築の再定義にも応用されたのである。

1──《アルジェ総督府庁舎》 出典=Architectures Françaises Outre-Mer

1──《アルジェ総督府庁舎》
出典=Architectures Françaises Outre-Mer

2──植民地の住宅 出典=Urbanisme, No.36, Mai 1935

2──植民地の住宅
出典=Urbanisme, No.36, Mai 1935


3──植民地の住宅 出典=Urbanisme, No.36, Mai 1935

3──植民地の住宅
出典=Urbanisme, No.36, Mai 1935

4──植民地の住宅 出典=Urbanisme, No.36, Mai 1935

4──植民地の住宅
出典=Urbanisme, No.36, Mai 1935

ブリーズ・ソレイユの流布

ル・コルビュジエも、植民地を自身の活動の場と捉えていた建築家のひとりである。ル・コルビュジエ自身、アフリカでのプロジェクトは地域での独自例の提示を自負していた。彼は、一九三三年の「アルジェ都市計画・近代建築博覧会」において二つのプロジェクトで熱帯への対応策を発表した。「高層ビル・ポンシク(Ponsik)」と、「ウエ・ウーシャイア(Oued Ouchaïa)の住宅」のシェーマ[図5]である★六。「ウエ・ウーシャイア」では、建物の配置は日照、景観に応じて決まり、建築のかたちは気候と日光のコントロールに対応している。
アルジェではブリーズ・ソレイユの規格に基づく建築のリズミカルなファサードの構成が追求されていた。
ル・コルビュジエが北アフリカにブリーズ・ソレイユを導入しようとしたのは、この地域の建築においては初めての試みだった。彼はアフリカでのプロジェクトにおいてブリーズ・ソレイユの使い方を拡大していった。熱帯地域での日射の問題を解決するためにブリーズ・ソレイユを使用した初見は、一九二八年のカルタゴの住宅である。一九三〇年からのアルジェの一連のプロジェクトでは、この点はさらに拡大されていく。一九三三年のアルジェの住宅では、ガラス面の前にブリーズ・ソレイユが置かれ、このヴォキャブラリーの確立がみてとれる。一九三八年の
 《アルジェ裁判所》では開放的なロッジア、「蜂の巣」状のブリーズ・ソレイユの形態が提案され、後に広汎に流布するかたちの原型が誕生している。そのロッジア型のものは、一九三九年の
 《アルジェ業務棟》で完成されている。一九三八年の《ロスコフ海洋研究所》では、三種類のブリーズ・ソレイユが示された。すなわちガラス面を被うセル、フラットにつけたロッジア、垂直状のものである。
ル・コルビュジエにおけるブリーズ・ソレイユの表現を決定づけたのは、ブラジルでの仕事である。リオデジャネイロの《教育保健省》は、そのファサードの全面にこのヴォキャブラリーを配している★七。「場、地勢、気候、これらが建築を制御する」。こう考えていた彼にとっては、ブリーズ・ソレイユは気候と建築との重要なコンタクト・ゾーンの役割を果たしていた。
ル・コルビュジエのブリーズ・ソレイユの考案を受け継いだのは、アンリ・カルサ(Henri Calsat)である。彼は、ブリーズ・ソレイユの熱帯への応用を推し進めた。カルサの提案は、壁面にハニカム状のものを設置し、窓面の外側には、方向調節可能な金属製の薄板によるブラインドをつけるというものであった[図6]。これらの装置を、単に日よけ(brise-soreil)としてだけではなく、風よけ、雨よけ、さらに砂嵐や竜巻にも有効なものとして位置付けている★八。彼は実際に熱帯植民地に赴いていた建築家であり、その提案はより現実性を帯びたものとなった。
カルサの計画案としては、コート・ジボアールに計画した「狭小地区の住宅案」がある。南、西面に格子状と水平板によるブリーズ・ソレイユをめぐらせている★九。
「われわれの時代では、気候・医学面の要素は、宗教、社会、経済、歴史といった面の要素と比べて、支配的なものになっている」。カルサはこう述べて、自分の取り組みの重要性を主張していた。彼の実践は、アフリカの大地にブリーズ・ソレイユを現実に根付かせることとなる。その後も、この建築ヴォキャブラリーは流布し、コート・ジボアールのアビジャンでは、公共事業局、市庁舎が建てられた。ショメット(Henri Chomette)の《アビジャン市庁舎》(一九五四)は「蜂の巣」状、《郵便局》(一九五五)では垂直状[図7]、
 《裁判所》(一九四八─五〇)では細かなスクリーン、とその多様な展開をみせる。そうして、次第にブリーズ・ソレイユの使用が、熱帯建築のステレオタイプ化していくのである★一〇。
第二次大戦が終わった後も、各地での実践は続く。ブリーズ・ソレイユについては、さまざまに試行され、大戦後もフランスの支配下に置かれたアフリカ諸国でつくられていく。
ジャン・プルーヴェ(Jean Prouvé)とポール・エルベ(Paul Herbé)、デマレ(J. Démaret)の「熱帯型住宅(Type tropique)」(ニジェール、一九四九)[図8]では、アルミ製の可動ルーバーを四面にめぐらせ、換気を考えた二重屋根を載せて、熱帯版の「住むための機械」をつくってみせた。ここで、プルーヴェは彼が住宅設計において一貫して探求してきた「ポルティーク(Portique)」と呼ぶ構造体を使用した。これは、折り曲げ鋼板による門型のフレーム部品の上に同じく鋼板製の梁を載せ、外周に配置される外壁パネルとの間に金属製の軽い屋根を架ける構造方式である。このアルミを主体としたプレハブ住宅は、デモンストレーションのためにブリストルからニジェール・ニアメまで飛行機で空輸された。プルーヴェのアトリエでは、ニアメの裁判所、領事館等のプロジェクトにも、プルーヴェの構造システムの応用をもって臨んでいる★一一。

5──ウエ・ウーシャイアの住宅  出典=Le Corbusier, Œuvres Complète, t. IV

5──ウエ・ウーシャイアの住宅 
出典=Le Corbusier, Œuvres Complète, t. IV

6──カルサのブリーズ・ソレイユ 出典=L’Architecture d’Aujourd’hui, n°3, 1945

6──カルサのブリーズ・ソレイユ
出典=L’Architecture d’Aujourd’hui, n°3, 1945

7──《アビジャン郵便局》 出典=Architectures Françaises Outre-Mer

7──《アビジャン郵便局》
出典=Architectures Françaises Outre-Mer

8──熱帯型住宅 出典=Architectures Françaises Outre-Mer

8──熱帯型住宅
出典=Architectures Françaises Outre-Mer

立体都市

熱帯の建築のヴォキャブラリーを豊かにすることにおいて、巨匠の果たす役割はまだ続く。ル・コルビュジエがV・ボディアンスキー(V. Bodiansky)、A・ウォガンスキー(A. Wogenscky)、M・ピー(M. Py)、J・ルフェーブル(J. Lefèbvre)と結成したATBAT(Atelier des Bâtisseur)は、建築家、技術者たちのための新たな研究の場をつくることを主な目的とし、マルセイユの《ユニテ・ダビタシオン》(一九五二)の建設などの成果を残しているが、ボディアンスキーは一九四九年にATBATのアフリカ部門(ATBAT-Afrique)をつくっている。このATBATアフリカ部門では、G・カンジリ(G. Candilis)とS・ウッド(S. Woods)が、アルジェ中心地区のためのイスラム教徒地区のプラン[図9]を策定した。これは日光を適度に採り入れつつ換気をよくするために、居室部分の二倍の階高のパティオを立体的に配し、換気道を各階のあいだにつくるというものであった。住戸の配置は太陽光の入射角により決定された★一二。
人口密集地区の再編に、立体的な構成を導入しようというもので、都市を垂直状に組み立てるという観点では、《ユニテ》と共通するものがある。彼らが打ち出した図式は、熱帯の気候特性に配慮しつつ、立体都市をつくろうとするもので、当時の本国のモードと植民地の事情が融合されたものであった。カンジリは、都市の普遍的な問題の解決法を、植民地での実践から見出そうとしていた。
「イスラム教徒の住居の空間的な特徴は、住宅が外部に開いていないということだ。この特徴を保持するには、開放的なスペースを用意し、この気候下で多機能なスペースとして年中使えるようにするのである。帯状に広がった家の場合は、この開放的スペースは中庭となり、邸宅の場合は、二階分の高さのロッジアとなる。このスタディの目的は、パティオを持った家屋の密集の可能性であり、それは人口過密なメディナの、貧相な住宅の状況を再生産しないようなものでなくてはならない。
これはまた、イスラム教徒の居住の研究と同時に、都市化のなかで、同じ方法がヨーロッパ人の居住問題のための実験ともなる。一般にヨーロッパ人の住宅はイスラム教徒のものより複雑で、外に向かったかたちである」★一三。カンジリはこう発言し、都市居住の可能性を模索する意志を表明した。

9──ATBAT・アフリカのイスラム教徒地区プラン 出典=Architectures Françaises Outre-Mer

9──ATBAT・アフリカのイスラム教徒地区プラン
出典=Architectures Françaises Outre-Mer

現地人と建築のかたち

他方、生活の地として植民地都市を見つめ、住民、それも、現実に人口の大多数を占める現地人に配慮した計画が、三〇、四〇年代の植民地で多くみられるようになる。二〇年代にはモロッコ等で大規模に行なわれており、四〇年代には、これに植民地都市の経営という課題が加わる。ローコストで現地人向けの施設を供給しようというものであった。この取り組みのなかから、新しい建築言語が誕生することになる。
ル・コルビュジエの北アフリカ・シェーシェル(Cherchell)の農園住宅[図10]では、熟練建設工、建設資材の不足という当時の情勢に配慮し、現地人の労働力と在地の石材を使用することを前提にしたプロジェクトが立案された。つまり、現地人によりつくられる中空ブロックを積み上げるものであった。その建築は、壁で外界から仕切られたなかに、何列にもボールトが繋がるものであった。サヘル(サハラ砂漠周辺部)の乾いた大地に、単純ながらも印象的なシルエットが描き出された★一四。
この同じ文脈での実践の例はほかにもある。アルジェリアの《ロルファ(Rhorfas)》[図11]がそれである。これはマルセル・ラテュイエール(Marcél Lathuilliere)らが提唱した、煉瓦造、セメント造の薄いドーム建築で、その屋根の形は自然換気の有効性をも考慮したものだった★一五。
ル・コルビュジエが自身のプロジェクトを発表した場が、このアルジェリア人の建築家にとっても発表の舞台となる。一九三六年のアルジェ近代都市博覧会において、ラテュイエールは以下のように言っている。

一九三〇年以来、集団の精神に、少しずつ個人の精神が盛り込まれている。地中海の気候に適合した近代建築が出現し始めている。新しい建築には、共通のものが打ち立てられている。


アルジェリアの建築家の献辞は、ひとつの統一した考えを明らかにした。気候への対応の必要性からつくられる建築は合理的なフォルムと結びついたかたちであり、その表明においては多様でも、その精神が発露したようなものである。


それが、このドーム建築であった。
海外植民地の伝統を壊すことをおそれ、キューブ状の形にボールトが載せられた。建設資材については、戦時中の物資不足に配慮したものであった。
チュニジア・ガフサ(Gafsa)の現地人地区に、放物線状や卵型の屋根をもつ住居があり、この型の住宅がこの地域で「ロルファ」と呼ばれていたので、この新しい建築もそれに倣って命名された。ロルファには大きく二つのタイプがあった。ひとつは幅五メートル高さ一・二五メートルの放物線を繋げたかたちをつくり、それを支柱で持ち上げた形態、もうひとつは幅六メートル、高さ三・九メートルのパラボラを三〇センチメートルの高さの笠木に載せるものである。いずれも幾何学的な曲線をモチーフとしていた。
この新しい建築は、鉄や木材の不足に苦しむ部局に採用され、兵舎、鉄道、郵便局などに使われた。
一九四一年にはアルジェ市の廉価住宅局(Office Public d’H.B.M.)にこのタイプの建築が採用され、一六〇〇戸のイスラム教徒向け住宅の建設が計画された。エル・ジュナン住区(Cité El-Djenan)(ラテュイエール設計、アルジェ、一九四二)[図12]といった現地人住宅地区(ムズルマン[イスラム教徒]住区[Cité Musulmane])の建設に導入されたほか、リセ・ドゥ・ベン・アクノウム(Lycée de Ben-Aknoum)(ロウエ[Lowe]設計、アルジェ、一九四〇)[図13・14]や、郵便局、兵舎等の施設にも導入された。
アルジェリアの建築家によってつくられたこの建築は、現地事情をよく理解したうえで作成されたもので、それだけ現地のニーズにも見合っていたのである。これは、現地の集落形態をモダニズムの技法を使って翻訳したものであった。放物線等を用いたロルファの幾何学的なシルエット、合理的な構造原理は、モダニズムの精神が熱帯で発露したかたちだと言えよう。
ボールトを載せた建築はほかにも例があり、チュニジアの新現地人地区における労働者住宅は交叉ボールトの連続した屋根がパティオを囲むように並んでいる。チュニスのイスラム教徒女子学校[図15]でもボールトが並んだ屋根となっている。いずれの場合も未熟練労働者による建設が意図されている。チュニスでは当時、市街地の再建が重要課題となっており、これらの計画はそのパイロット・プロジェクトの意味合いももっていた。
以上のいずれの計画も、建設のための労働力としての現地人に向き合ったものであった。
ル・コルビュジエはサンディカリズムに参加しており、彼が労働者の協働を意図してデザインをしたことは納得がいく態度である。ただ、これには現実問題として、労働力の不足が背景に存在しており、同時代的にみれば一般的な態度であったとも言える。そうして、その未熟練労働者にも建設可能なデザインとして選ばれたのが、連続ボールトの形態であった。

10──シェーシェルの農園住宅  出典=Le Corbusier, Œuvres Complete, t. IV

10──シェーシェルの農園住宅 
出典=Le Corbusier, Œuvres Complete, t. IV

11──ロルファ 出典=L’Architecture d’Aujourd’hui, n°3, 1945

11──ロルファ
出典=L’Architecture d’Aujourd’hui, n°3, 1945


12──エル・ジュナン住区 出典=L’Architecture d’Aujourd’hui, n°3, 1945

12──エル・ジュナン住区
出典=L’Architecture d’Aujourd’hui, n°3, 1945

13──リセ・ドゥ・ベン・アクノウム 出典=L’Architecture d’Aujourd’hui, n°3, 1945

13──リセ・ドゥ・ベン・アクノウム
出典=L’Architecture d’Aujourd’hui, n°3, 1945


14──リセ・ドゥ・ベン・アクノウム 出典=L’Architecture d’Aujourd’hui, n°3, 1945

14──リセ・ドゥ・ベン・アクノウム
出典=L’Architecture d’Aujourd’hui, n°3, 1945

15──チュニスのイスラム教徒女子学校 出典=L’Architecture d’Aujourd’hui, n°3, 1945

15──チュニスのイスラム教徒女子学校
出典=L’Architecture d’Aujourd’hui, n°3, 1945

植民地インドシナの建築

植民地は宗主国を中心とした世界である。この図式の下では植民地同士は並列した存在であり、相互に交流もあった。アルジェで、カサブランカで、何人もの建築家が活動をしているさまは、インドシナの建築家たちにも影響を与えた。
アジアのフランス植民地、インドシナでも、年中暑いコーチシナ(ヴェトナム南部)やカンボジアで活動する建築家にとっては、気候への対処は切実な問題であった。
パリで教育を受けたレオ・クラスト(Léo Craste)は、熱帯植民地での建築について研究し、気候面での対処を主張していた。彼は論文のなかで、日射、降雨、通風への建築的な対応の必要性を主張し、この考えに立ってハノイの市街地の再編成計画を立案している★一六。
彼は、自分の任地であるインドシナ・サイゴンに赴いてからも、その考えをもち続けた。自身の建築に通風グリルを採り入れ、室内環境への配慮を示した。《サイゴン総合病院(Polyclinique de Saigon)》[図16]、《チョーズイ学校(École de Chodui)》[図17]、《ラルン・ボネール現地人病院(Hopital indigène de Lalung-Bonnaire)》[図18]等が彼のデザインで建てられた。クラストにより採用されたグリルは、やがてファサードデザインのアクセントとして、多くの変形例を生み出して流通していく。
アルジェリアのように、現地人向けの新規開発地区が新たな建築表現を生み出す場になった例もある。
地中海沿岸では、現地人住宅の姿は量塊的な煉瓦ブロック造のものに求められたが、インドシナでは、それは茅葺きの小屋であった。現地人住宅の不足への対策として、ハノイで「バン・ド・サーブル住区」[図19]、サイゴンで「茅屋村(ヴィラージュ・ド・パイヨート)」★一七[図20]が建設されたが、この家屋をインドシナの建築家が手掛けた。これらの家屋は木造、ニッパヤシ葺きで、まったく在地の茅屋の体ではあるが、プロポーションは整形され、開口部には蔀戸や竹細工を用い、軽やかなデザインの作品となっている。
「バン・ド・サーブル住区」では、インドシナで三〇年代から四〇年代にかけて活躍したジャック・ラジスケ(Jaque Lagisquet)のほか、ヴェトナム人建築家グエン・カオ・ルエン(Nguyên Cao Luyên)が参加している。ルエンはこの経験から、人民により近い建築とは何か、という考えをもち続け、素朴にして人々の生活の原初的なものとの繋がりを感じさせるこれら茅屋のなかにそれを見出していた。彼は、後に『古い家々から(Tù  nhŭg mái nhà tranh cĉ truyên)』★一八という書を著して、建築家は在地の伝統的家屋を見直すべきだ、と主張した★一九。
また、このような木造ニッパヤシ葺きの建築は、革命後、抗仏期にホー・チ・ミン政権が山中での活動をしていた際の施設の建築にも受け継がれた。
この「茅屋」という建築のタイプは、インドシナの建築家が再発見した表現形式となった。三〇年代から四〇年代にかけてはリゾートの建設が盛んに行なわれたが、これら行楽用の施設でも、茅屋のデザインが取り入れられている。モンセ(Moncet)、サルナーブ(Sallenave)の二人の建築家のプランによりマルセイユ建設会社(Société des Grands Travaux de Marseille)が建設したシャレーでは、木造軸組みに切妻のニッパヤシの屋根が載せられ、蔀戸をかけた姿は茅屋そのものだが、インテリアも丁寧に仕上げられ、避暑客の要望に応えうるものだった。野趣を求めるリゾートにも、自然に近い建築として、茅屋が登場したのである。
また、この背景としては、在地の材料・工法を利用した建築をつくろうという動きが一部にあり、これも関係していたようである★二〇。この点に関しては、アルジェリアの動きも同様の背景をもつものであった。
インドシナでは、現地人の工芸を積極的に評価しようという運動があった。いわば「民芸」のインドシナ版であるが、芸術教育機関であるエコール・デ・ボザール・インドシナでも工芸は重視され、漆芸や籐細工などに新たなデザインのものが次々と開発されていった。これには、第二次大戦下の政情変化によって日本を発ち、インドシナに寄港していたシャルロット・ペリアンも関心を寄せ、その活力に期待感を表明している。ただ、彼女はこうも言っている。「インドシナ、これはフランスの一部です」★二一。
ところで、インドシナでは、すべての建築がこのような気候面での対応を果たしたわけではなかった。モダニズムの箱への操作としては、大きな庇を取り付けることがせいぜいである。四〇年代のインドシナの建築表現である「アンナン様式」★二二の屋根も、圧倒的な雨量に対しては有効であっただろう。その他、アルジェのロルファと同様の手法と思われるものが、インドシナの避暑地ダラットに建設された例もある。
しかし、他のフランス植民地と比べ、インドシナでの建築家の気候面への取り組みは、けっして大きなものではない。アルジェの建築家が、独自の手法で問題を昇華させたのに比べ、いささか皮相的な解決策であったと言わざるをえない。乾燥した砂漠気候とは違い、高温多湿のモンスーン気候下においては、大多数を占める壁構造の建築では、自ずから限界があったというのも事実であろう。ここでは、かつて「植民地の住宅」として提案されたものは、普及には至っていなかった。
彼らが採った方法は、もっと根本的なこと、つまりは高原の避暑地をつくり、そこへ逃げるというものだった★二三。

16──サイゴン総合病院 出典=L’Architecture d’Aujourd’hui, n°3, 1945

16──サイゴン総合病院
出典=L’Architecture d’Aujourd’hui, n°3, 1945

17──チョーズイ学校 出典=L’Architecture d’Aujourd’hui, n°3, 1945

17──チョーズイ学校
出典=L’Architecture d’Aujourd’hui, n°3, 1945

18──ラルン・ボネール現地人学校 出典=L’Architecture d’Aujourd’hui, n°3, 1945

18──ラルン・ボネール現地人学校
出典=L’Architecture d’Aujourd’hui, n°3, 1945

19──バン・ド・サーブル住区  出典=H. Virgitti, Quelques Œuvres Socials dans la Ville de Hanoi

19──バン・ド・サーブル住区 
出典=H. Virgitti, Quelques Œuvres Socials dans la Ville de Hanoi

20──サイゴン茅屋村 出典=Indochine, n°115, 1942

20──サイゴン茅屋村
出典=Indochine, n°115, 1942

サイゴンでの継続(大戦後の動き)

サイゴンの建築界は、独立後もひき続きフランスの影響を受けていく。第二次大戦期にハノイからダラットに疎開した建築学校は、その後一九五〇年にサイゴンに移転し、サイゴン建築学校となり、植民地期のフランス流の建築教育が続けられた。ハノイの都市計画を手掛けたルイ・ジョルジュ・ピノー(Louis Georges Pineau)はサイゴンに移り、サイゴン大学で建築史を教えた。
 《南ヴェトナム大統領官邸(現統一会堂)》[図21]の設計やサイゴン・チョロンの連合都市計画を手がけ、いわば南ヴェトナムの国家的建築家であったゴー・ヴィエト・トゥ(Ngô Viêt Thu)は、フランス留学帰りの人物であった。
インドシナで「建築・都市計画中央委員会」の長として活躍したセルッティは、セネガル・ダカールへと向かい、新しい任地で熱帯建築の実践を続けた。ATBATは、カンボジア・プノンペンにおいても熱帯向け集合住宅を建造した★二四。「フランス植民地」という枠組みは、まだまだ健在であった。
そうして、アフリカのフランス植民地で実現していた熱帯建築の系譜は、サイゴンにも受け継がれた。グエン・クアン・ニャック(Nguyên Quang Nhac)は《ホテル・アルクアンシエル》、《ハムギ通りの事務所ビル》、《IDECAF》(フランス文化交流協会)[図22]等の実例を通して、熱帯建築の設計に取り組んだ。IDECAFでは、シンプルなヴォリューム操作を行なった躯体に、連続窓を並べてその上には一直線に庇が伸びるデザインをみせた。気候面に対処したデザイン的工夫として、彼はブリーズ・ソレイユを大々的に採用している。
チャン・ディン・クエン(Trân Ðình Quyên)の《トンニャット病院》では、ブリーズ・ソレイユを、建物の向きによってハニカム状のものと垂直状のものとを使い分けた。日本の援助で建造された《チョーライ病院》では、アルミ板の日除けが付けられた★二五。
南北分断後のサイゴンでは、日除けのためにファサードにスクリーンをつくることが広く行なわれ、ここにデザインが収束していってしまう。単純なハニカム状のものから、細かい幾何学的模様まで、さまざまなヴァラエティがみられる。南部婦人博物館[図23]、チャンフンダオ通り住宅[図24]、総合科学図書館[図25]などが、この例である。いずれも造形的なスクリーンを日除けとしてファサードに置いている。
先述のゴー・ヴィエト・トゥの設計になる《南ヴェトナム大統領官邸(現統一会堂)》も、そのファサードは彫塑的なスリットが入ったものとなっている。一九世紀に建てられた古典建築の旧総督官邸が爆撃により大破した後に建造されたこの建築は、その基本構成において元の建築を踏襲しており、このファサードは、まさにかつてのベランダに対応するものとして引用されてきた。熱帯建築の嫡流が、ここに現われているのである。

21──南ヴェトナム大統領官邸(現統一会堂) 出典=ポストカード

21──南ヴェトナム大統領官邸(現統一会堂)
出典=ポストカード

22──IDECAF・サイゴン  出典=Saigon 1698-1998 Architecture/ Urbanisme

22──IDECAF・サイゴン 
出典=Saigon 1698-1998 Architecture/ Urbanisme

23──南部婦人博物館、サイゴン

23──南部婦人博物館、サイゴン

24──チャンフンダオ通り住宅、サイゴン

24──チャンフンダオ通り住宅、サイゴン


25──総合科学図書館、サイゴン

25──総合科学図書館、サイゴン

「南方主義」の建築

植民地の建築家は、いつのまにか建築に「南」を投影していた。
気候面での対応とはいえ、それは純粋な機能主義のものではなかった。そこには、建築家がみた「南」の姿が投影されていたのだ。つまりは、必要以上にその機能、熱帯気候への対処のための装置という機能を主張したものや、熱帯の建築ならではのヴォキャブラリーを取り入れたりしたものであった。
植民地建築家が赴いた地では、フランス人からみた南の地、暑い土地での建築という、「南方主義」の建築とでも言うべきものがつくり続けられたのである★二六。
自身も植民地において多くの設計例をもつオーギュスト・ペレは、建築の気候面での対処を次のように捉えていた。「気候とその厳しさ、素材とその特性、持続性とその法則、ものの見え方とその歪み」、「線とかたちの永遠性と普遍性は、恒久な状態に組み込まれる。機能、使い方、規則、モードは、一時的な状態に組み込まれる。建築家は、素材とすべてのプログラム、必要性、援助に満足がいくものを与えねばならず、科学をもってその配置に恒久性を付与する。それは、彼の作品に時間の経過を与え、過去をつけ加えることとなる」★二七。建築は気候に適合することによって伝統の継続性のなかへと位置づけられる、と彼は考えていた。
二〇年代から四〇年代にかけてマグレブ(モロッコ、アルジェリア、チュニジア)において実施された、建築の近代化にこの態度がみてとれる。公衆衛生の概念が牽引役となって起こったこの動きでは、広い開口部、二方向の開口、内庭の除去を、在地の建築に適用することが目指されていた★二八。
インドシナでも、現地人街の改良のために、さまざまな施策が出された。中庭の整備、側廊下の設置、開口部の確保などである★二九。
公衆衛生の概念が、現地人をも対象にするようになっていた。このような態度は、植民地といえども、けっして珍しいものではなかった。これは、宗主国の価値観が植民地を訓化していくことであった。
全体的にみれば、熱帯植民地の建築家が「南方主義」のデザインをしたことは、このような宗主国から植民地への視線に則ったものであった。公衆衛生、気候への対応は、もちろん現地の実状のなかで必要性があって植民地に適用されたものであり、そのこと自体は現地の開発に寄与しているだろう。ただ、その適用に際して、現地の文脈を超えたものがなかったかどうか、ということは、検証されてもよいかもしれない。「南方主義」の建築は、このような問題をわれわれに投げかけているようにもみえる。


★一──この間の建築家の意識の変化については以下を参照。Zeynep Flik, “Le Corbusier, Orientalism, Colonialism”, Assemblage 17, 1992. 4.
★二──旧英国領東西アフリカの近代建築については、小倉暢之『東西アフリカ近代建築の気候への適応過程に関する研究』(私家版、一九八八)を参照。
★三──Philomena Miller-Chagas, “Le Crimat dans l’Architecture des Territoires Française d’Afrique”, Architectures Françaises Outre-Mer, Liége: Mardaga, 1992, pp.350-351.
★四──植民地都市計画会議については以下を参照。Urbanisme aux Colonies et dans les Pays Tropicaux, La Charité-sur-Loire: Delayance, 1932.
★五──Colonel Icre, “La maison Mertallique Coloniale”, Urbanisme No.36, Mai 1935, pp.220-225.
★六──Chagas, op. cit., pp.347-348.
★七──Le Corbusier, Œuvres complète, Les Edition d’Architecture Zurich, 1995, (dixième èdition), t.IV, pp.108-115.
★八──J. H. Calsat, “Le Brise-Soleil”, L’Architecture d’Aujourd’hui, n。3, 1945, pp.22-23.
★九──J. H. Calsat, “L’habitat Colonial Européen”, Ibid., p.17-21. このなかでカルサは、地中住居の提案もしている。
★一〇──Chagas, op. cit., pp.354-355.
★一一──「ジャン・プルーベ 1918─1968」(『建築』No.134、一九七一、五一─五三頁)。
★一二──Chagas, op. cit., p.355.
★一三──Ibid.
★一四──Le Corbusier, Œuvres complète, t. IV, pp.116-123.
★一五──Marcél Lathuilliere,“Voute Minces Dites Rhofas”, L’Architecture d’Aujourd’hui, n。3, 1945, pp.32-35.
★一六──Léo Craste, Un Nouvel Hanoi, Mémoire de l’Institute d’Urbanisme de l’Université de Paris, 1934.
★一七──「バン・ド・サーブル住区」、「茅屋村(ヴィラージュ・ド・パイヨート)」の詳細については以下を参照。H. Virgitti, Quelques Œuvres Socials dans la Ville de Hanoi, Hanoi: Imprimerie d’Extrême-Orient, 1938. A. Hérivaux, “Le Probléme des Paillotes dans le Saigon Moderne”, Indochine, n。115, 1942, pp.9-10. A. Hériveaux “Les Agglomération de Paillotes de Saigon-Cholon”, Indochine, n。166, 1943, pp.16-17. “La cité des paillotes à Saigon-Cholon”, Indochine, n。1944, 1942, pp.9-10. LTQG1(ヴェトナム国立第一公文書館)Mairie Hanoi H.37.4174. Construction de Village des Paillotes.
★一八──Nguyên Cao Luyên, Tùnhg mái nhà tranh cô truyên, Hànôi: Nhà Xuât bán vǎn hóa, 1977.
★一九──グエン・カオ・ルエンについては以下を参照。Huýnh Tán Phât, "Tuóng nhó Anh Nguyên Cao Luyên", Kiên Trúc, Hôi Kiên trúc su Viêt nam, 2và3,1987, pp.78-80.
★二〇──M.,“Où en le Bâtiment?-La Saison de l’Artisant, de la Petite industrie et des Arts Appliques 1943-1944”, Indochine, n。199, 1944, pp.26-29. さらに、この背景には、第二次大戦下で、重工業品を輸入に頼っていたインドシナの危機感も作用していた。
★二一──“Madame Perriand Nous Parles du Japon”, Indochine, n。131, 1942, pp.14-15.
★二二──モダニズムの躯体に瓦屋根を載せた建築。当時のヴェトナム人懐柔の風潮との関連で生じた建築。
★二三──このときに開発された避暑地には、ダラットのほかにハノイ周辺ではタムダオ、サパ、バビ、フエ周辺ではバックマー、ダナン周辺ではバーナーなどがある。
★二四──Lisa, Architecture Moderne à Phnom Penh 1954-1970, Paris, Mémoire de TPFE, École d’architecture de Paris-Belleville, 2000, pp.109-114.
★二五──Natasha Pairaudeau et Francois Tainturier, “De Saigon a Ho chi minh ville: Croissance et Changements depuis 1945”, Saigon 1698-1998 Architecture/ Urbanisme, thành phô Hô chi minh: Nhà Xu`t bàn thành phô Hô chi minh, 1998, pp.199-213.
★二六──この「南方」という言葉は、第二次大戦中の日本で東南アジア地域を指した言葉でもある。なお、タイトル英訳に使用した「Austral」は、かつてヨーロッパの南方趣味を表わす際にも用いられた語である。
★二七──Auguste Perret, “Contribution à Une Théorie de l’Architecture”, Construire, 1945. : Chagas, op. cit., p. 347.
★二八──Ibid.
★二九──Ville de Hanoi-Réglement Sanitaire, Arrêté du 12 Novembre 1925, Hanoi: Imprimerie Tonkinoise, 1925.

>大田省一(オオタ・ショウイチ)

1966年生
東京大学生産技術研究所助手。建築史、アジア都市研究。

>『10+1』 No.23

特集=建築写真

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。