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DK改造のワンルーム | 西川祐子
Re-modeling of a Mixed Dining Room and Kitchen | Nishikawa Yuko
掲載『10+1』 No.23 (建築写真, 2001年03月発行) pp.36-37

この二年ほど、文化人類学科の「ジェンダーと文化」という科目で、日本型近代家族とその容器としての住宅の変遷というテーマの講義をしている。受講生がもっとも生き生きと取り組む課題のひとつに「設計者の意図に反した住みかたをしている面白い住宅例を調査し、報告せよ」というものがある。
建築家には本意でないかもしれないが、住人は住みはじめるや、設計者の意図に反するさまざまな造反をはじめる。年月がたてばなおさらである。私はまた、この課題レポートによって現代の若者たちのあいだに根強くあるレトロ志向の意味についても知りたく思った。たとえば宮崎駿の『となりのトトロ』(一九八八)は古屋に引っ越してきた幼い姉妹の冒険譚なのだが、この作品が経済の成長期につくられたニュータウンに生まれ育った世代をひきつけるのはなぜだろう。
レポート全体には興味深い結果がでた。ヴェトナム旅行の機会を使って調べたもので、植民地時代にはオペラハウスであったものが、独立後の一時期に国会議事堂に、現在はファッションショーの会場などに使われている建物の歴史について書いたレポートがあった。また、山村調査の際に廃校になった校舎を転用した宿泊施設を見つけた、など文化人類学科の学生らしい多彩なレポートが集まった。そのほか京都市内には、大正末期から昭和のはじめに建造された元新聞社、商会、銀行などのビルディングがファッション・ビルと称して、ギャラリー、レストラン、喫茶店、小物店などを入居させており、若者のたまり場が形づくられている。酒蔵を改造したライブハウスも人気がある。
元「いろり端のある家」を扱ったレポートが一束あった。茅葺き屋根のまま民俗博物館の中に保存されているが、内部は住居ではなく展示場として使われ、喫茶店に転用されている。あるいは伝統的な農家をnLDKコンセプトによって改造し、住みつづける例も多い。祖父母にたいして聞き取り調査を行ない、故郷の家の、現在は応接間の下に埋もれていた牛小屋の記憶を発掘したり、古井戸を発見した学生もいた。
「ババ抜き、つまり親との別居の条件の下で結婚した夫婦と子どもの住む家が『リビングのある家』モデル、子供たちが独立してババが残った家が『茶の間のある家』モデルだと考えられる」とはじまるレポートがあった。祖母の家を調査したこの学生は、三つある部屋のひとつは着物の部屋、もうひとつは何が入っているのか本人にもわからない膨大な数の紙箱と木箱の物置になっていると書いている。おばあちゃん自身は三番目の部屋、台所につながるかつての茶の間で寝起きしていて、必要な道具はすべて、布団から手の届くところに配置されていることに感心した、「これを『茶の間のある家』の『ワンルーム』化、と僕は呼びたい」とレポートは結んでいる。
レポートのなかでもっとも多かったのは、DK設計の転用についてであった。DKはもともと、標準家族用の標準住宅として設計されたはずだが、家族用住居モデルはリビングのあるnLDK設計にとってかわられている。DK物件の現在の使用目的は多様である。他のレポートとは違って、DK物件については学生は観察者であるだけでなく、住むことの当事者であることが多い。賃貸住宅の市場に出回っており、彼らの手が届く家賃なのである。
ある学生のレポートは自らが住むDK物件を「2DKタイプ、五〇平米、家賃六万九千円の物件に友人と二人で入居中です。電話線、テレビ線が一つしかないところから、夫婦用もしくは一人暮らし用に設計されたと思われる。つまり私たちは設計者の意図とは違う使い方をしているのではないか。じっさい隣人は夫婦のようである。学生マンションではない」と、レポートした。添えられた平面図によれば、南向きのベランダにそって六畳の和室と洋室が並んでおり、陽当たりが良さそうである。キッチン、トイレ、バスルームが共有空間となっている。LDKとはちがって、DKには間仕切り壁が少なく、和室が襖で仕切られている。これを取り払い、さらに押し入れの襖も取って一室住宅とする改造ないしは使用例が多い。カーテンを取り付けた押し入れがベッドの代わりをする。畳の上にカーペット他の敷物をしきつめ、壁も布で覆う。
若者向けの雑誌が毎号のように「自分らしい部屋づくり」特集を行なって、プロのインテリアから手作り改造まで写真と図入りで紹介をしている。報告者である学生はこれにヒントを得て、実践してみたらしい。レポートには「古いDKをワンルームにして、天井と壁をキッチンホイルで覆い、床にもキャンプ用の銀色のマットを敷いた部屋の写真を参考にしたが、部屋中がさがさ、まるで蒸し焼き魚になった気分で、銀色の部屋に長く住もうとは思わなかった」という実験例があった。
住居が商業用空間に転用された例もある[図1]。マンションの一戸分の間仕切りを取り、店舗にしてゲーム用ソフトを販売している。壁に沿って「海外製ボードゲームの棚」、「海外製RPGの棚」が並び、真ん中が「カードゲームの棚」である。バス、トイレが在庫品の置き場、押し入れであったところにレジがある。ベランダにゴミ置場と書き込まれているのは問題となりそうであるが、おそらく毎日出る段ボールの空箱や詰め物を回収時間まで置いておくのであろう。
学生たちのはつらつとした好奇心と調査の行動力に感心しながらレポートを読んでいるうちに、私は、二〇〇〇年の夏に、市営住宅の四階でひっそりと亡くなったひとりの老婦人の部屋を思い出した[図2]。一八年前、私は市立女性会館において二年連続の女性史講座を担当した。テーマは「日本の近代小説にあらわれた三つの家──いろり端のある家、茶の間のある家、リビングのある家」であった。受講生は四〇名、一八歳から六四歳まで年齢の幅があった。最年長の山田(仮名)さんは、自称「昔の文学少女」であって、「冥土の土産にもういちど勉強したい」と受講生カードに書いていた。彼女の戦前にさかのぼる記憶と抜群の読書歴は討論の時間に光彩をはなったが、その年齢までどのような暮らしをしてきたのやら、現代生活の情報にはまるで疎い様子であった。
講座終了の後に受講生のうち一〇人が自主グループ〈光の領分〉となって残り、読書会を開き、回覧雑誌をつくるなど、交流がつづいた。五年ほど前、山田さんはいよいよ足が弱って部屋を出ることができないでいるから、ひさしぶりに集まり、訪問しようということになった。古い市営住宅は五階建てでエレベーターがない。その四階に山田さんはひとりで住んでいた。週二回訪問するヘルパーさんに買い物を頼むということであった。部屋は、山田さんのベッドと通路をかろうじて残して、残りの空間は天井まですべて本と雑誌の堆積で埋まっていた。もともとは2DKであったのか、3DKであったのか、よくわからない。陽当たりが良いので、紙類は乾燥して黄ばんでいた。市が最近になって階段に手すりをつけた。それを頼りにしてみんなで車椅子ごと山田さんをかつぎおろし公園まで行った。山田さんは、同じ棟の空き部屋に外国人の入居が増えたようだと言った。階段にはエスニック料理の良い香りがたちこめていた。今は空き部屋となったあの部屋に誰が入居するのだろう。見知らぬ誰かが、彼女の記憶を引き継ぐような仕掛けを作ることができたらいいのに。

1──初期マンション(2DK)をゲーム用ソフト販売店にした例(左図は聞き取りによる) 筆者作成

1──初期マンション(2DK)をゲーム用ソフト販売店にした例(左図は聞き取りによる)
筆者作成


2──初期市営住宅(2DK)の一室化。80歳女性の独り暮らし 食事室と四畳半を接続して使用。残りは物置化。足が不自由なのでこたつから手の届く範囲にすべての生活必要品を配置している。 筆者作成

2──初期市営住宅(2DK)の一室化。80歳女性の独り暮らし
食事室と四畳半を接続して使用。残りは物置化。足が不自由なのでこたつから手の届く範囲にすべての生活必要品を配置している。
筆者作成


3──初期公団住宅(2DK)の一室化 週末婚のカップルと幼児ひとり。子どもに目が届くように間仕切りをはずし、一室化して使用。 筆者作成

3──初期公団住宅(2DK)の一室化
週末婚のカップルと幼児ひとり。子どもに目が届くように間仕切りをはずし、一室化して使用。
筆者作成

>西川祐子(ニシカワ・ユウコ)

1937年生
ジェンダー研究、日本とフランスの近・現代文学の研究、伝記作家。

>『10+1』 No.23

特集=建築写真