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ミレニアムの都市(後編)──ディズニーランド化×マクドナルド化 | 五十嵐太郎
The City in the Millenium Part 2: Disneylandization vs. McDonaldization | Igarashi Taro
掲載『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) pp.200-212

白と灰の融合

一九八九年は東西の冷戦構造が崩壊し、日本では昭和が終わり、時代の変革を象徴づけた年になった。二〇世紀のシステムが終わった年とみることもできよう。この年、アメリカのディズニーワールドでは、マイケル・グレイヴスの設計した《スワン・ホテル》がオープンした★一[図1]。続いて翌年には同じ設計者による《ドルフィン・ホテル》も登場する。いずれも名前の通りに巨大な白鳥やイルカが付随した建築であり、ホテルの外壁には水の波やバナナの葉のカラフルなパターンが描かれ、内装も同一のテーマを反復していた。お伽の国のディズニーらしい、わかりやすいデザインと言えよう。しかし、これが著名な現代建築家の作品だったことから、賛否をめぐって議論が起こり、ある評では彼が一二歳の少年に戻って設計したかのようだと述べている。スワン・ホテルのオープニングで、会長のマイケル・アイズナーは「多くの人がこれをとるにたらないものとして片づけるかもしれませんが、結局は建築の主要な作品として認められると私は確信する」と語った。彼こそは一九八四年にTV・映画界からディズニーに入り、建築戦略を打ち立てた人物である。
かつてグレイヴスはモダニズム建築の継承者とみなされ、七〇年代にはホワイトと呼ばれる一派として括られていた。それを決定づけた真っ白な表紙の『ファイブ・アーキテクツ』(一九七二)は、コーリン・ロウの序文とともに、五人の建築家、すなわちピーター・アイゼンマン、グレイヴス、チャールズ・グワスミー、ジョン・ヘイダック、リチャード・マイヤーの作品を収録している★二。アイゼンマンをはじめとしてフォルマリズムの作家ばかりだ。確かに当時のグレイヴスはネオ・コルビュジエ風の純粋なデザインを実践した[図2]。しかし、彼がコンペに勝利した《ポートランドビル》(一九八〇)では、古典主義的な要素を大胆にとり入れた典型的なアメリカン・ポストモダンになり、抽象的な形態操作を特徴としたホワイトのやり方と決別する。この作品が話題になっていなければ、アイズナーもグレイヴスに白羽の矢を立てることはなかった
だろう。ただし、彼はもともと一九六〇年にローマ賞を獲得し、ヴェンチューリと同様、ローマのアメリカン・アカデミーに二年間滞在していたから、イタリア建築への造詣も深かったはずだ。
ホワイトからはグワスミーもディズニーの仕事に参加した。《ボネット・クリーク・ゴルフ・クラブ》(一九九二)と《コンテンポラリー・ホテル・コンヴェンション・センター》である。ただし、これらはグレイヴスよりも抑制され、抽象的な表現をもつ。
七〇年代の建築界では、ホワイトに対立する一派としてグレイと呼ばれる建築家たちがいた。ヴェンチューリ、チャールズ・ムーア、ロバート・スターンらであり、いずれも歴史的な建築の要素やポップなデザインを用いたポストモダンを実践している。なかでもムーアは地元の建築家だけあって、いち早くディズニーランドに注目し、「過去数十年に西洋で建設されたものでは最も重要な作品」と述べていた。彼の編集したロサンゼルスの建築ガイド(一九八四)でも、全体を一四の地域に分け、そのひとつを丸ごと「ディズニーランド」に割り当てており、二〇ページにわたってジャングル・クルーズやホーンテッド・マンションなど、各アトラクションごとに細かい解説をつけている★三。ディズニーランドの比重がかなり大きいガイドと言っていい。本書では、世界の風景を収集したハドリアヌスのヴィラと比較しつつ、「この環境の体験の数々を信じられないほど精力的に採集すれば、人の動きや接近についての技術的な教えと同様、コミュニティと現実、個人的な記憶と居住すること、これらに関連したすべての建築教育にとって十分な教訓が得られる」という。
当然、グレイの考えはディズニーと親和性がある。晩年のムーアは書き割りのような《プレビューセンター》を設計した。ヴェンチューリは《緊急サーヴィスセンター》、スターンは《フィーチャー・アニメーション・ビル》(一九九五)などを手がけている[図3]。ともにアニメのセル画のような鮮やかな色彩感覚が目を惹く。前述したように、ホワイトの一部もディズニーに吸収された。つまり、七〇年代に対立の構図でまとめられていたスター建築家たちは、一巨大企業の仕事において融合したのである。

前衛的なものはやめといたほうがいい。商業主義でいくんだ。芸術とはそもそも何か。要するに大衆が好むものだろ。だから、彼らが欲しいと思ってるものを与える。商業主義に徹して悪いことはなにもありゃしないよ。
フランス訪問中のウォルト・ディズニーの言葉★四

1──マイケル・グレイヴス《スワン・ホテル》、1989 出典=Architecture after Modernism

1──マイケル・グレイヴス《スワン・ホテル》、1989
出典=Architecture after Modernism

2──マイケル・グレイヴス《ハンゼルマン邸》、1967 出典=Five Architects

2──マイケル・グレイヴス《ハンゼルマン邸》、1967
出典=Five Architects

3──ロバート・ヴェンチューリ他《緊急サーヴィスセンター》。 左壁面の模様は、白黒ぶちの犬をもとにした 出典=Building a Dream

3──ロバート・ヴェンチューリ他《緊急サーヴィスセンター》。
左壁面の模様は、白黒ぶちの犬をもとにした
出典=Building a Dream

ウォルト・ディズニーのポストモダン

当初、ディズニーランドは有名建築家とあまり縁がなかった。そもそも良き趣味のモダニズム建築家からは低俗な娯楽施設とみなされても仕方がない。実際、ウォルト・ディズニーは友人の建築家ウェルトン・ベケットから、君の夢見るようなものを設計できる建築家はいないから君自身でやるしかないと忠告されていた。ウォルトは、映画会社のアートディレクターもつとめた建築家ウィリアム・ペレイラを雇うが、最終的には建築を学んだマーヴィン・デイヴィスの協力を得て計画案を作成し、一九五三年にアニメーターのハーバート・ライマンにドローイングを描かせている[図4]。『眠れる森の美女』を制作中だったウォルトは中央に城を設置し、その前面をハブにしてそれぞれの国に行くという構想を思いつく。またウォルトは自宅にミニチュア鉄道の線路を作るほどのマニアぶりから、遊園地を取り囲んで走る実物大の汽車を考案する。創始者のウォルトがアイズナーと同様、映画界で成功していたことを考えれば、二〇世紀における映画と遊園地の親和性を指摘しうるだろう。ディズニーランドの景観は映画さながらにシーンの連続性をもたせる。
しかし、やがてウォルトが創案した遊園地の影響力は無視できないものになる。一九五五年のカリフォルニアのディズニーランドに始まり、一九七一年はフロリダにディズニーワールド、一九八三年に東京ディズニーランド、一九九二年にユーロディズニーランドが開園した。さらに二〇〇一年秋のオープンを目指して海をテーマとする東京ディズニーシーの開発が進み、上海との誘致合戦に勝利した香港政府の投資により、二〇〇五年に第五の香港ディズニーランドの開園が予定されている。香港では開園初年度に見込む五二〇万人の入場者のうち四割を中国本土からの客を当て込み、ほかにも台湾やシンガポールなど中華圏からの集客を期待し、大きな経済波及効果を予想しつつも、一私企業に対して多額の税金を投資することに批判もあがっているという★五。もはやディズニーランドは、一九世紀後半以来の万博に代わって、二〇世紀後半の代表的なスペクタクル空間になった。
ディズニーランドは、単に大規模なテーマパークであるだけではなく、抜群の集客力を誇るために周囲への影響も少なくない。例えば、昨年、東京ディズニーランド周辺の渋滞解消のために、オリエンタルランドが道路用地買収と建設費の約一三億七千万を負担し、首都高湾岸線に直結する道路と料金所を新設することになった★六。日本においてテーマパークのために高速道路への取り付け道路をつくるというのはほかに例がない。一九九七年度には、高校の修学旅行の見学地の首位を長年守った清水寺を抜いて、ついに東京ディズニーランドがトップになった。ちなみに、三位はハウステンボス、四位は法隆寺であり、今やフェイクの文化が上位を占める。またユーロディズニーランドは文化的侵略と揶揄され、出だしこそ振わなかったものの、一九九五年以降経営が好転し、周辺を巻き込み、バル・デューロップという開発を進めている。これはディズニー社と五つの自治体と開発公社が、テーマパークと連動させながら、新しいアメリカ郊外風の住宅地・公共施設・商店街・オフィス街を整備するというものだ★七。ディズニーの世界があふれ出し、壁を越えて周囲の現実世界を浸食する。
ディズニーの「建築家」なき建築を見よう。東京ディズニーランドはウォルト・ディズニー・プロダクションが基本計画を担当し、梓設計が設計監理を行なった。設計に際しては、ディズニー側から縮尺一九八分の一の基本計画図面と現地の実施図面が送られ、日本側はそれらをつなぎ合わせながら、敷地にはめ込み、最終的にはディズニーのデザイナーが承認して決定している★八。「見せるところは徹底的に見せ、また見えてはならないところを徹底的に隠す」という原則は、映画のオープンセットの伝統を継承したものだろう。例えば、メイン・ストリートでは、見えがかりを優先し、全体を八分の五に縮めつつ、ファサードは上層にいくほど小さくなることがよく知られている。そして日本側は「アメリカにあるものと同質か、むしろそれ以上にほんもののディズニーテーマパークをつくることが要求された」という。ただの模倣ではない。オリジナル以上にオリジナルなシミュラクルである。
筆者はディズニーワールドを除く、三つの遊園地を実見し、まったく同じものが建設されるわけではなく、地域によってデザインが微妙に違うことを確認した。例えば、ゲートをくぐって最初に現われる、アメリカの古い街並みを模倣したメイン・ストリート。日本では屋根のついたモールになっている[図5・6]。アメリカの青い空と違って、日本の気候は雨が多いからだ。シンボルである中央の城も異なっており、本家の眠れる森の美女の城が小さくて低いのに対し、日本のシンデレラ城は巨大である[図7]。ディズニーランドはドイツのノイシュヴァンシュタイン城をモデルとし、ディズニーワールドは複数のフランスの城を融合したものだったが、パリの眠れる森の美女の城は、本物の古城が近くに存在するという地理的な条件から、幻想的な外観を与えることになった★九[図8・9]。またユーロディズニーは全体的に色彩の鮮やかさが抑制されていたし、そのアドベンチャーランドがほかの所とは違い、イスラム風の建築を配するのは、伝統的に他者を表象するのが中東や北アフリカだからである。
ディズニーは無意識にポストモダン建築を実現していた。特にイッツ・ア・スモール・ワールドのファサードは「世界」の建築を記号化しつつ寄せ集め、書き割りのような歴史主義を先駆けている。神殿風のファサード、ゴシックの尖頭アーチ、ピサの斜塔、ビッグベン、エッフェル塔、オランダの風車、タージマハルのドーム、東洋のパゴダなどが、淡いパステルカラーに彩られたフラットなグリッドの上に並ぶ、「世界」の縮図としての建築[図10・11]。建物の周囲では、象やミッキーマウスのトピアリーも目撃されるだろう。場内では、ライドのボートに乗って七つの海を渡り、世界各国の民族衣装を着た人形の歌と踊りを楽しむ。衛兵の格好をしたイギリスの子供、蛇使いのインドの子供、着物姿をした日本の子供……、臆面もないステレオ・タイプのオンパレード。カタログ化され、完全に断片化された世界の「様式」が浮遊する。
驚くべきことに、ポストモダン折衷主義の代表作、チャールズ・ムーアの《イタリア広場》(一九七八)や、東京ディズニーランドと同年に完成した磯崎新の《つくばセンタービル》(一九八三)よりも、はるかに早くイッツ・ア・スモール・ワールドは誕生した[図12]。デヴィッド・ハーヴェイは、ポストモダンの空間を構成するスペクタクルと劇場性は、様式の折衷、歴史の引用、装飾、表面の多様化によって達成されると指摘しつつ、
 《イタリア広場》にはそれがすべて認められるという★一〇。だが、イッツ・ア・スモール・ワールドもそうだ。また彼は「今や全世界の料理は、世界の地理的な複雑さが夜ごと、静止したTVの画面上のイメージの連続に還元されるのと寸分違わぬ方法で、一カ所に集められている。これと同じ現象が、エプコットやディズニーワールドのような娯楽の宮殿にて開発されている」と指摘しつつ、極度に圧縮されたポストモダニズム的な時間─空間の経験を語っている。まさにイッツ・ア・スモール・ワールドは、プログラムのレヴェルでも、小さな箱に「世界」を閉じこめた建築と言えよう。
ちなみに、ディズニーランドが誕生した一九五五年には、まだイッツ・ア・スモール・ワールドは存在していない。これは一九六四年のニューヨーク世界博において、国連のユニセフのために出展するペプシコーラ社がディズニー社に依頼し、そのオーディオ・アニマトロクスの技術を用いて制作したパヴィリオンだった。メアリー・ブレアがカラーデザインを担当している。そして博覧会の終了後、一九六六年に風の塔など一部の施設を除いて、ディズニーランドに移された。同博覧会では、会長のロバート・モーゼズがディズニーランドを訪れ、三次元のキャラクターを動かす技術に惚れこみ、四つの企業の展示に使われている。かくしてニューヨーク世界博を契機に近代的なスペクタクルの中心地だった博覧会は、その座をディズニーに譲り渡す。

五〇年後に私が本を書くとしたら、タイトルは「エンターテイメント建築」にしようと思っています。この建物(磯崎新のチーム・ディズニービル)がまさにそうですよ。エンターテイメントという言葉を軽蔑的な意味で使う人もいますが、私にとっては最高の賛辞なのです。
マイケル・アイズナー★一一

4──ハーバート・ライマンの描いた ディズニーランドの鳥瞰図、1953 出典=Building a Dream

4──ハーバート・ライマンの描いた
ディズニーランドの鳥瞰図、1953
出典=Building a Dream

5──東京ディズニーランドのワールドバザール、1983 筆者撮影

5──東京ディズニーランドのワールドバザール、1983
筆者撮影

6──ディズニーランドのメインストリート、1955 筆者撮影

6──ディズニーランドのメインストリート、1955
筆者撮影

7──東京ディズニーランドのシンデレラ城、1983 筆者撮影

7──東京ディズニーランドのシンデレラ城、1983
筆者撮影

8──ディズニーランドの眠れる森の美女の城、1955 筆者撮影

8──ディズニーランドの眠れる森の美女の城、1955
筆者撮影

9──ユーロ・ディズニーランドの眠れる森の美女の城、1992 筆者撮影

9──ユーロ・ディズニーランドの眠れる森の美女の城、1992
筆者撮影

10──ディズニーランドのイッツ・ア・スモール・ワールド 筆者撮影

10──ディズニーランドのイッツ・ア・スモール・ワールド
筆者撮影

11──東京ディズニーランドのイッツ・ア・スモール・ワールド 筆者撮影

11──東京ディズニーランドのイッツ・ア・スモール・ワールド
筆者撮影

12──磯崎新《つくばセンタービル》、1983 筆者撮影

12──磯崎新《つくばセンタービル》、1983
筆者撮影

マイケル・アイズナーのポストモダン

ウォルトが一九六六年に亡くなった後、長期的な凋落傾向にあったディズニーに新たな息吹を吹き込んだのが、一九八四年に会長に就任したマイケル・アイズナーである★一二。アイズナーはパラマウント社で『レイダース』や『スター・トレック』などのヒット作を送り出し、ディズニーに入ってからも、アニメ黄金時代の復活を命じ、『美女と野獣』や『ライオン・キング』などを大成功させた。一九九三年には三次元に再現されたアニメの街、トゥーンタウンを開設し、遊園地の活性化にも貢献している。
ミッキーマウスの住むトゥーンタウンの建築は直線がなく、ぐにゃぐにゃと歪んだ形態をもつ[図13]。当初、計画を担当したアニメーターのジョー・ランジセロは、普通の建築を想定していたようだが、アニメのキャラクターのように建築も表情を持たせるべきだと考え、凍りついた彫像として建築を作ることにより、動いているかのように見せることになった★一三。現実の空間に放り出された動く建築の瞬間。ゆえに通常の平面図などは役に立たず、模型を活用し、それを図面化しながら設計を進めたらしいが、このやり方はサイバーアーキテクチャーと似ていよう。つまり、コンピュータ内でモデリングしつつ、動いているような造形を導きだすサイバーアーキテクチャーとトゥーンタウンは、ともに九〇年代的である。六〇年代のイッツ・ア・スモール・ワールドとポストモダン建築が折衷主義的なコラージュの手法を共有していたように。
アイズナーは、建築の専門教育を受けたことはなく、ディズニー以前に建築家と仕事を行なったことはなかったが、ミースのシーグラムビル(一九五八)に惹かれるなど、若干の関心をもっていた★一四。しかし、ディズニーに入り、最初にミッキーマウスの形をしたホテルの建設を提案する。彼は、きっと子供たちがそのホテルに泊まりたがり、「建築がビジネスマーケットを生むことをわかっていました」と回想している。結局、この計画は実現しないが、彼は会社内の建築家のウィン・チャオと信頼関係を結び、友人のアートコレクターからは、フィリップ・ジョンソンとマイケル・グレイヴスを推薦された。アイズナーは有望な若手のグレイヴスを選び、前述した二つのホテルが実現する。かつてウォルトには、最初のディズニーランドが十分なホテルを用意しなかったために、ディズニー以外のホテルが大きな利益をもっていったという反省があり、ディズニーワールドでは山の手線の内側よりも広い敷地にホテルも建設し、アトラクションを増やすことで訪問者を長く滞在させた。基本的には、こうしたディズニーの路線上にグレイヴスのホテルはのっかっている。
グレイブスによるバーバンクの《チーム・ディズニービル》(一九九一)は、アイズナーのリクエストに応じて、ディズニーのキャラクターをカリアテッドとして用い、約六メートルの身長をもつ七人の小人がペディメントを支える[図14]。これは建築の伝統的な古典主義とディズニーのアニメーションが融合し、「クラシカル・アニメーション」と呼ばれた★一五。ちなみに、七人の小人が登場した『白雪姫』の大成功は、一九三九年にバーバンクにアニメ専用スタジオの新築を可能にしたという因縁もある。
こうしてディズニーと有名建築家のつながりが生まれ、アイズナーはアメリカ以外の建築家にも依頼するようになり、九〇年代に次々とプロジェクトが実現していく。ユーロ・ディズニーのホテルのコンペでは、ベルナール・チュミ、ハンス・ホライン、レム・コールハースジャン・ヌーヴェル、アルド・ロッシ、磯崎新、アイゼンマン、フランク・ゲーリー、グレイヴス、スターン、スタンリー・タイガーマン、ヴェンチューリらが候補に挙がっている。そしてグレイヴスの《ホテル・ニューヨーク》(一九九二)やゲーリーの《フェスティヴァル・ディズニー》などが完成した[図15]。二〇世紀末のメディチ家となったディズニーが、建築家のセレブレティを吸収してしまったのである。
フロリダの《チーム・ディズニービルディング》(一九九一)は、磯崎新が設計した。アイズナーが磯崎の《ロサンゼルス現代美術館》(一九八六)を面白いと思い、依頼を決めたという。そして磯崎は高層・中層・低層の三案を用意するが、フロリダがフラットな場所であることから、細長い低層のプロジェクトが選ばれた。彼によれば、アメリカの国旗にちなんで赤と青が使われ、人造湖に浮かぶディズニーの戦艦は、ミッキーの耳を抽象化しつつ幾何学的な構成要素の遊戯を行なう[図16・17]★一六。建築史家の鈴木博之は、この建物に磯崎が日本的な空間を組み込み、日本人建築家としての署名を挿入したと指摘する★一七。例えば、ミッキーの耳を連想させるゲートは鳥居にも見えるし、玉石敷きの円筒部の中庭は伊勢神宮の古殿地、横長の建物の前に湖と中の島を設けた配置は宇治の平等院を参照しているという。あからさまな具象的要素を入れることなく、さまざまな解釈を誘発する高度に知的なゲームになっている。《チーム・ディズニービル》は批評家からも絶賛され、ディズニーとしては初のアメリカ建築家協会の賞を獲得した。
筆者の記憶によれば、東京ステーションギャラリーの「磯崎新一九六〇/一九九〇建築展」(一九九一)において、《チーム・ディズニービル》以外のすべての建築は木製模型と図面が展示され、写真を含む一切の映像がなかった。《チーム・ディズニービル》のみが現実の風景を紹介されたのだが、それはハイヴィジョンの映像を用い、いわばハイパーリアルな感覚をかもしだしていた。当時はまだ目新しいハイヴィジョンの映像は、通常のものに比べ、あまりにもクリアすぎて、非現実的だった。個人的な経験で言えば、一〇代の頃、気づかないうちに視力を落としてから、初めて眼鏡をかけたとき、世界が驚くほどに明瞭になり、違和感を覚えたことがある。こうした感触に近い。つまり、その展覧会は、唯一現実を写した作品がもっとも非現実的に見えるという逆説を仕掛けていた。そもそも《チーム・ディズニービル》は、虚像を湖面に反映しながら、フロリダの青い空を背景に明瞭な輪郭を強調し、にわかに現実のものとは信じがたい雰囲気をもつ。そうした特性がハイヴィジョンの映像によって強調されていた。まさにディズニーは虚構と現実を撹乱する。

13──ディズニーランドのトゥーンタウン 筆者撮影

13──ディズニーランドのトゥーンタウン
筆者撮影

14──グレイブス、バーバンクの《チーム・ディズニービル》、1991 筆者撮影

14──グレイブス、バーバンクの《チーム・ディズニービル》、1991
筆者撮影

15──グレイヴス《ホテル・ニューヨーク》、1992 筆者撮影

15──グレイヴス《ホテル・ニューヨーク》、1992
筆者撮影

16──磯崎新、フロリダの《チーム・ディズニービルディング》、1991 出典=『磯崎新1960/1990建築展』(1991) カタログ

16──磯崎新、フロリダの《チーム・ディズニービルディング》、1991
出典=『磯崎新1960/1990建築展』(1991)
カタログ

17──磯崎新、フロリダの《チーム・ディズニービルディング》、1991 出典=『磯崎新1960/1990建築展』(1991) カタログ

17──磯崎新、フロリダの《チーム・ディズニービルディング》、1991
出典=『磯崎新1960/1990建築展』(1991)
カタログ

ディズニーランダゼイションの極北

ディズニーの建築王国に対する批判がないわけではない。例えば、社会派の建築史家ダイアン・ギラルドは、『モダニズム以降の建築』(一九九六)において、ディズニーの重要性を認めながらも、それが白人の男性ばかりを起用しながら、スター建築家の名声を消費していることを指摘する★一八。大多数の女性やマイノリティの建築家には文化的な権威がないからだ。また彼女はディズニーランドが「政治的な倫理としては、工作された幸福と合意の専制政治を表象する」と言う。なるほど、ディズニーの行為は大胆に見えながら、圧倒的な経済力により、結局はアヴァンギャルドな建築家を骨抜きにして、ただ与えられたテーマに従うデザイナーにおとしめるかもしれない。建築家からの抗議もあった。ユーロ・ディズニーランドの計画において、ロッシはディズニーの方針と折り合わず、アイズナーに「あなたはフランスの王ではない。私は辞める」と手紙を書いている。
今やディズニーランドという固有名詞は、デザインのひとつのモデルになった。中川理は『偽装するニッポン』において「公共施設のディズニーランダゼイション」を論じている★一九。彼によれば、一九八〇年代以降、日本社会に「かわいい」イメージが肥大化したところで、公共施設に文化性を付与する一パーセント事業、手づくり郷土賞、ふるさと創生事業などが追い風になり、小矢部のメルヘン建築群、土偶の駅舎(一九九二)、ふくろうのトイレ(一九九三)など、安易な親しみやすさを狙ったデザインが蔓延したという[図18・19]。ディズニーランダゼイションは具象的なデザインを建築に持ち込む。そうした意味では、無装飾の機能主義を標榜したモダニズムから、意味を発信するポストモダンへという大きな枠組みの変化があるとすれば、これは後者に所属しようとしている。だが、あまりのキッチュさゆえに建築的には評価されない。
中川の論が興味深いのは、デザインの手法を分析した後、公共性の問題を展開している点だ。彼はディズニーランダゼイションが物語性を導入することを指摘し、「なぜ、イメージづくりが必要かと言えば、それを媒介にして、市民と公共空間を直接的に関係づけようとしているからである」という。単に建築のポストモダニズムが普及したのではない。公共施設に対するデザインの根拠が喪失したという危機的な状況が引き金になっている。そこで仮想の公共空間を成立させるディズニーランドのわかりやすさが参照されるのだろう。これは「消費社会における『公共』の困難が露呈している」ことにほかならない。だが、九〇年代の終わりには、ディズニーランダゼイションへの反動からか、公共の出費に対する市民の目が厳しくなっている。おそらく箱物行政の批判を突き詰めれば、公共施設は文字通り、淋しい安物の「箱」ばかりになってしまう。しかし、公共施設だからこそ、長期的なリサイクルも可能なしっかりとした建築をつくるという発想もあっていい。今後、これへの反動があるのかどうかが注目される。
ディズニーランド・モデルの展開は、主に三つの方向があるだろう。ひとつは公共空間がキッチュ化していく、明るい「ディズニーランダゼイション」。もうひとつは本連載でも触れたが、他者を排除する囲われた安全な人工環境への要求であり、空間のゲットー化という暗い側面だ★二〇。ディズニーランドは公共空間の広場を模倣しながら、実際は高い入場料を払った者のみがアクセスできる。そして瞬時に入場者のゴミを清掃したり、落とし物を回収するシステムをもち、つねに清潔なのだが、言い換えれば、これは監視社会としても優れているということだ。都市モデルとしてのディズニーランドは、ジェントリフィケーション、ゲーテッド・コミュニティ、セキュリティ優先の空間などが示すように、八〇年代以降に顕著になっており、二一世紀の初頭にもしばらく続くだろう。しかし、いずれの方向性も、近代社会を成立させた公共性の衰退を意味している。
そして三番目は、保存と観光のまなざしが交差する歴史的な空間だろう。時間を止められた建築・都市は、有効な生産手段を持てず、ディズニーランド化して生き延びるしかないからだ。かつてフランチェスコ・ダル・コーは「イタリアの未来像は?」という問いに、「あえて答えるとすれば、それはディズニーランドだ」と述べている★二一。

18──小矢部のメルヘン建築群 筆者撮影

18──小矢部のメルヘン建築群
筆者撮影

19──土偶の駅舎、青森県、1992 出典=『偽装するニッポン』

19──土偶の駅舎、青森県、1992
出典=『偽装するニッポン』

ウルトラモダンとしてのマクドナルド

次にもうひとつの商業主義的なアメリカ化の典型としてマクドナルドを考えよう。今世紀初頭、アメリカではフォード社が自動車を大量生産し、その波及効果によりドライヴイン・レストランという新しい食生活が定着する★二二。一九二〇年代以降、ファーストフードの増加に伴い、豚のかたちをしたバーベキュー・スタンド(一九三三)のような走行中の自動車からも注意を惹くために奇抜なデザインの店舗が現われ、「カリフォルニア・クレージー」と命名されたが、これらに統一性はない★二三[図20]。また食堂車を模したダイナーもあるが、チェーン化されているとは言い難い★二四。自動車の普及が建築をオブジェ化させる傾向を促進した。しかし、一九五〇年代にはコーヒー・ショップやドライヴイン・レストランが、モダニズムのデザインを大衆化させる。マクドナルドもそのひとつだった。
マクドナルドの始まりは、一九三七年にマクドナルド兄弟が始めたオレンジジュース・スタンドである。彼らは一九四八年に当時の慣習であるドライヴインの給仕制度を廃止し、セルフサーヴィスや限定メニューを導入して合理化を実現した★二五。八角形のスタンドで、ハンバーガーを一五セントという通常の半値以下で販売する画期的な価格破壊は、ドライヴイン・レストランのシステムを変える[図21]。やがてほかのファーストフードもマクドナルドを模倣したために、兄弟はフランチャイズにのりだし、流れ作業を円滑にできる内部の計画とすぐにマクドナルドとわかる外部のデザインを必要とするようになった。各店舗の外観が同じシンボルを反復し、マクドナルドのイメージを定着させるために。
アラン・ヘスは「最初のマクドナルド・ハンバーガー・スタンドは、コーヒーショップ・モダンに関わる南カリフォルニアの特産品である」と言う★二六。彼の研究によれば、以下のようにマクドナルドの建築は誕生した。リチャード・マクドナルドが描いた黄色い半円の大アーチが二本あるスケッチをもとに、カリフォルニアの地元建築家スタンレー・メストンが両側面に洗練された放物線と壁面に赤白のストライプのタイルをもつプロトタイプを設計する[図22]。大胆なアーチはサーリネンの《ゲートウェイ・アーチ》(一九四八)などの影響だと指摘されるが、メストン事務所の担当者はマクドナルド兄弟にそうした知識はなかったと証言しており、リチャードは単にアーチが目立つので使ったらしい。ただ、当時のコーヒーショップでは、一九三〇年代に多用された垂直の広告塔に代わり、幾何学的なモチーフがよく使われていた。メストンが「より単純な幾何学が欲しかった」こと、そして「工場を設計しているようだった」と語ったように、迅速で効率的な流れ作業のためにカウンターや各設備もデザインされた。まさに機械としての近代建築である。
かくして一九五三年にアリゾナ州にゴールデン・アーチをもつマクドナルドの店舗が登場した。初期のマクドナルドは、前面がすべてガラス張り、カウンターや柱がすべてステンレス製でクリーンなモダン・イメージを演出しつつ輝き、アーチに沿ったネオンの縞により夜間も存在を主張する。一九五〇年代はカリフォルニアを中心にマクドナルドのフランチャイズが広まり、メストンのプロトタイプが増殖した。ただし、マクドナルド兄弟は雨の多い寒い地域だと車を出て購入するセルフサーヴィスは流行らないと考え、その他の地域への進出はあまり考えなかったらしい。しかし、シカゴから来たミルクシェーキ機のセールスマンのレイ・クロックがマクドナルドの営業権を買い取り、全米規模のチェーン展開を成功させた。クロックは寒い地域にあわせて、メストンのデザインに変更を加え、室内に販売エリアを持ち込み、さらに食事席を増設したのである。
一九六八年にマクドナルド社は、大衆の趣味の変化に合わせて、二重勾配のマンサード屋根と煉瓦風の外装をもつデザインを導入し、明るいポップなモダンから伝統的なイメージに回帰する[図23]。ヘスによれば、主要な宣伝媒体がTVになり、路上のアイキャッチとなるデザインの必要性が薄れたからだ。奥出直人はマクドナルドのデザインの変遷を取り上げ、一九七〇年代にはファーストフードが欲望を刺激する露骨なデザインをやめたという★二七。これは奇しくも、建築がポストモダンに転回し、歴史的な景観を配慮しはじめたことと一致する。保守化するマクドナルドと歴史に回帰する建築家。その結果、マクドナルドは歴史的な街区への進出が可能になった。ただし、ゴールデン・アーチはロゴに残り、屋根や看板の上にお行儀よく載る。一〇〇〇以上も建設されたオリジナル・デザインの店舗は減少し、一九八〇年代には一〇を切ってしまう。一九八四年にはそのひとつが国家指定の歴史的な場所として候補にあがった。そして最初の店舗の破壊が計画されたときには、保存の嘆願書が殺到し、博物館に生まれ変わっている。マクドナルド自体が伝統と化したのだ。
奥出はこう述べる。「マクドナルドから学べることは、モダニズムのプロジェクトの失敗にモダニストとして取り組むこと、あるいはコンテキスト至上主義でもパスティシュでもない形を探すことが、文化的正統性を担うブルジョワ階級が消滅し、中産階級が主体となった後期資本主義社会の建築に要求されている」、と。そして社会学者のジョージ・リッツアは『マクドナルド化する社会』において、マックス・ウェーバーは近代の合理化を論じ、そのモデルを官僚制に求めたが、現在、その究極の完成形態がマクドナルドではないかと言う★二八。超近代としてのマクドナルド。彼は、マクドナルド化を「ファーストフード・レストランの諸原理がアメリカ社会のみならず世界の国々の、ますます多くの部門で優勢を占めるようになる過程」と定義づけ、作業の「効率性」と商品の「計算可能性」、いつでもどこでも同一のサーヴィスを保証する「予測可能性」、そして技術体系による「制御」という四つの特徴を挙げている。これらはマクドナルドを発生させた自動車と同根であり、ともに科学的なフォード・システムから生まれたものにほかならない。
リッツアによれば、マクドナルド化の利点には、敵意に満ちている世界において気安さのある安全環境を提供すること、入場すれば、あらゆる人々が同等に取り扱われる可能性が高いことなどがある。ディズニーランドとも共通するだろう。さらに彼はいずれも自動車文化の落とし子であるレヴィット・タウン(最近は「マックマンション」という言葉も登場した)やショッピングセンターのビルディングタイプも、マクドナルドと同じシステムをもつことを示唆していた。戦後のパラダイス・モデルである。
一方、問題としては、合理性が引き起こす非合理性、すなわち環境への大きな負荷、健康への害、客も従業員も作業ラインに組み込む脱人間的な環境を指摘している。そして効率性と倹約の幻想を与えつつも、実際は高価であること、楽しさの強調が「アメリカの娯楽強迫症」の一部であることが批判された。ともあれ、彼の興味深い点は、「ポスト産業社会はマクドナルド化と同時に存在する」とし、「マクドナルド化している世界はモダニティとポストモダニティの双方を表現している」とみなしたことである。マクドナルドはモダンかポストモダンかの二者択一ではない。その両方なのだ。
マクドナルドは日本にも上陸し、リッツアが言うように、「第二の文化」にさえなろうとしている。だが、アメリカのものをそのまま移植したのではない。日本的な受容が行なわれている。例えば、一九七一年に藤田商店がアメリカのマクドナルド社と契約し、日本初の歩行者天国が始まったばかりの銀座に一号店を開き、一年後には売上げ世界記録をつくるほどの人気を獲得した★二九。このときアメリカ側は自動車で乗りつける客が中心の自国流のやり方にならい、郊外の住宅地、具体的には茅ヶ崎付近を候補地にすべきと主張したが、日本側は文化の中心地から始めることを押し通したのである★三〇。駅前を中心に展開する日本型マクドナルドの萌芽が認められるだろう。九〇年代後半も、全世界の出店のうち二〇パーセントを日本が占めるほどに急増し、一九九六、九七年だけで一〇〇〇店が創業している。なお、車を降りずに購入する最初のドライヴスルーは一九七七年に登場した(アメリカでは一九七五年)。
マクドナルドは世界を均質化しつつ各地に進出し、一九九一年にはアメリカ国外の店舗数が国内のそれを凌ぎ、九三年には旧東側諸国を含む全世界で一万四千店を数え、グローバリゼーションの代名詞となった。一九九二年には北京で世界最大規模七〇〇席を誇る店舗も登場した。が、マクドナルドは後期資本主義の特質である多国籍主義を実践すると同時にアメリカ文化の象徴であるため、利害の対立する地域では攻撃の対象となる。例えば、一九九九年にアメリカ政府が欧州産の食品の一部に一〇〇パーセントの制裁関税をかけたところ、南フランスでは農民がアメリカの食の象徴であるマクドナルドに抗議行動を開始し、店先に大量のたい肥や腐った野菜をまいたり、建築中の店舗を破壊した★三一[図24]。またコソボの空爆時、現地のマクドナルドが憎悪の対象になったことは記憶に新しい。日本では、福田和也が若者に立ち食いの悪習慣を定着させたことを批判し、マクドナルドに高い税金をかけることを提案している。

20──ザ・コーヒー・ポット、1943 出典=California Crazy

20──ザ・コーヒー・ポット、1943
出典=California Crazy

21──改造したサン・ベルナディーノのドライヴイン 出典=Car Hopes and Curb Service

21──改造したサン・ベルナディーノのドライヴイン
出典=Car Hopes and Curb Service


22──スタンレー・メストン、マクドナルド、1953 出典=Googie

22──スタンレー・メストン、マクドナルド、1953
出典=Googie

23──保守化したサクラメントのマクドナルド 出典=Googie

23──保守化したサクラメントのマクドナルド
出典=Googie

24──マクドナルドへの抗議 出典=『朝日新聞』1999年8月23日

24──マクドナルドへの抗議
出典=『朝日新聞』1999年8月23日

ミレニアムの祝福された街

一九二〇年代、ウォルトは電気仕掛けの遊園地に行って、「いつか自分も遊園地をつくる。それは清潔なものにする!」と語ったという。一方、彼はコニーアイランドの荒廃ぶりに失望した。三〇年後、彼の夢は実現し、長く居たいために、メイン・ストリートの町役場の隣の消防署の二階のアパートに住みはじめる★三二。さらに彼の夢は続く。カリフォルニアに過去のノスタルジアが漂っていたとすれば、フロリダでは未来のユートピアを志向し、ウォルトは実際に二万人が住む閉鎖された「エプコット」(実験的未来共同社会の原型)の建設を考案する[図25]。一九六四年、「ウォルトピア」とも呼ばれたエプコットの構想のために、マーケット・リサーチを設計に導入していた建築家のレイ・ワトソンが選ばれた★三三 。後にワトソンはディズニーの会長にまでなる。ウォルトの死後、エプコットの建設は大幅に遅れ、一九八二年にオープンするが、内容も一変してしまう。エプコットは、未来の技術をテーマにしたフューチャーワールドと、各国の建築様式を円周状に並べたワールドショーケースから構成される、ただの博覧会風のテーマパークになっていた[図26]。
ウォルトは来場者が遊園地内にいるときは現実の世界を見せたくないし、別の世界にいるように感じさせたいと述べていた。ディズニーランドは、都市計画的に言えば、近代的なゾーニングとポストモダン的なテーマ性を融合したものだと言えよう。しかし、今度は隔離された世界が現実の世界に侵入した。マジック・キングダムの南方五マイルの地に二五億ドルを投資し、一九九六年七月四日、グリーンベルトに囲まれた四九〇〇エーカーの実験都市「セレブレーション」が登場する。これは労働、教育、居住、余暇を統合しつつ、八千の住戸に二万人が住む予定になっており、ウォルトの中断された構想を継承したものにほかならない。セレブレーションという名前はアイズナー夫妻がつけたものだった。
セレブレーションはスターンらが基本計画をつくり、ダウンタウンにはジョンソンによるタウンホール、グレイヴスによる郵便局、ヴェンチューリによる銀行が建設された。ディズニーは都市の商品的・文化的価値を高めるために建築家を起用している。またユーロディズニーランドの計画時に喧嘩別れしたロッシとも和解して、オフィスと商業施設、オベリスクを設計させた[図27]。さながら現代建築のテーマパークである。近代都市計画批判で知られるジェーン・ジェイコブスは、セレブレーションを街のテーマパークとみなす。にもかかわらず、ディズニー側はここが単に建築家の作品で有名になってしまったら失敗であり、日常感覚と人間性を都市に取り戻すことが重要なのだと語っている 。
セレブレーションには、パターン・ブックによりデザイン・コントロールされた住宅群、大学で練られた教育プログラムに基づくモデル・スクール、車に乗らずに歩いて行けるショッピングセンター、そして劇場、公園、保健施設、ゴルフコースなどがある。ただし、エプコットのような未来的なデザインを拒否し、保守的な建築様式が凶悪な犯罪の少なかった良き時代を想起させる。ヴィクトリアン、クラシカル、コロニアルリバイバルなど、六種類の住宅様式が決められ、ドアに塗ることのできる色彩など、厳密な制限が住民に課せられた(すでに住民の反抗も起きたらしい)。また歩道や近接したポーチなどは、住民のコミュニティ形成を促進するよう計画された★三四。ディズニーはコミュニティの感覚を販売しているのだ。住宅もタイプ別に領域を分けないで、一軒家(価格は三五─七五万ドル)、テラスハウス(一二─三〇万ドル)、アパート(家賃は五七五─一一二五ドル)を混在させている★三五[図28]。しかも最初の三五二世帯はミッキーマウスの誕生日に販売を開始したが、別荘化を避けるために、一年のうち九カ月以上住むことを義務づけた★三六。
ただし、住宅の外部はレトロスペクティヴだが、内部は最新のハイテク装備を行ない、ステルス建築のごとく分裂している。AT&T社がディズニー社の都市計画に共同参加し、セレブレーションをデジタル・コミュニティの「生きた実験室」に使っているからだ。AT&Tは、音声、ビデオ、データを伝達する広帯域のネットワーク・インフラストラクチャーを第一期入居者の家に設置し、コミュニティ内の住宅・学校・職場の「ヴァーチュアル・エレクトロニック・コミュニティ」化を推進する。そしてAT&Tの報告は、ホームセキュリティの進化、エネルギー管理、ホームバンキング、在宅投票、ヴァーチュアル・オフィスなど、考えられる限りのバラ色の未来像を描く★三七。
ウォルトは熱心なキリスト教信者の父から道徳的かつ保守的な態度を学び、同時に反共主義者(ソ連は公式にディズニー映画を追放したことがある)だった。実際、セレブレーションは中産階級のための「アメリカの伝統的リトルタウン」(ウィン・チャオ)であり、人種の多様性を掲げたにしては、ほとんどが白人になっている。ジョージ・カンターは、幸福なコミュニティが崩壊した現在、人々が過去の記憶を喚起させる大衆的な「ニュー・アーバニズム」を求めているという。だが、これは過去に居住する安全な避難所にすぎない。いたるところに監視カメラを設置し、セキュリティガードを雇うものの、「ディズニーの人々は、この街がゲートで囲われないと主張する。ウォルトも決して賛成しないだろう。しかし、ここにはどんな鋼鉄のゲートよりもしっかりと固く閉ざしたゲートが心のなかに存在している」★三八。一九九九年一〇月から二〇〇一年一月一日まで、エプコットではミレニアム・セレブレーションの祭りが開催されている。そして千年王国のような安息に包まれたセレブレーションは見えないゲートのなかで、次なるミレニアムの到来を祝福するだろう。

25──プロジェクトXの商業地域、1966 出典=Designing Disney’s Theme Parks

25──プロジェクトXの商業地域、1966
出典=Designing Disney’s Theme Parks

26──ワールドショーケースの イタリア・パヴィリオン 出典=Designing Disney’s Theme Parks

26──ワールドショーケースの
イタリア・パヴィリオン
出典=Designing Disney’s Theme Parks

27──アルド・ロッシ 「セレブレーション」の施設 出典=http://www.sjsu.edu/faculty/wooda/ building.jpeg

27──アルド・ロッシ
「セレブレーション」の施設
出典=http://www.sjsu.edu/faculty/wooda/
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28──セレブレーションの住宅 出典=http://www.sjsu.edu/faculty/wooda/ morehouses.jpeg

28──セレブレーションの住宅
出典=http://www.sjsu.edu/faculty/wooda/
morehouses.jpeg

本連載は今回をもって最終回といたします。なお、本論考は「10+1 series」としてINAX出版より今秋刊行される予定です。

註 
★一──B. Dunlop, Building a Dream, Harry N. Abrams, 1996.
★二──Five Architects, Oxford Univ. Press, 1975.
★三──C. Moore, ed., Los Angels, Hennessey + Ingalls, 1998.
★四──B・トマス『ウォルト・ディズニー』(玉置悦子ほか訳、講談社、一九八三)。
★五──http://www.mainichi.co.jp/news/selection/archive/
199911/03/1103m144-300.html
★六──『朝日新聞』一九九九年一一月二七日。
★七──松葉一清「パリ、ラスベガス4──ディズニー的日常」(『朝日新聞』一九九九年九月九日)。
★八──『新建築』一九八三年六月号。
★九──★一と同じ。
★一〇──D. Harvey, The Condition of Postmodernity, Blackwell, 1992.
★一一──M・ブラックウッド監督『ARATA ISOZAKI 一九八六─九一』(デルファイ研究所)。
★一二──B・トマス『ディズニー伝説』(日経BP社、一九九八)。
★一三──K. A. Marling, Designing Disney’s Theme Parks, Flammarion, 1997.
★一四──★一と同じ。
★一五──“Disney Portfolio”, Architecture, 1991, June.
★一六──磯崎新『磯崎新の建築三〇』(六耀社、一九九二)。
★一七──鈴木博之『現代建築の見かた』(王国社、一九九九)。
★一八──D. Ghirard, Architecture after Modernism, Thames and Hudson, 1992.
★一九──中川理『偽装するニッポン』(彰国社、一九九六)。
★二〇──拙稿「アポカリプスの都市」(『10+1』No.17. INAX出版、一九九九)。
★二一──『ブルータス』一九九七年一月一五日号(マガジンハウス)からの引用文を一部改変。
★二二──拙稿「ハイウェイとサバービア」(『二〇世紀建築研究』INAX出版、一九九八)。
★二三──J. Heimann, California Crazy, Chronicle Books, 1980.
★二四──J. Baeder, Diners, Harry N. Abrams, 1978. J. Baeder, Gas, Food, and Loging, Abbevills, 1982.
★二五──J. Heimann, Car Hopes and Curb Service, Chronicle Books, 1996.
★二六──A. Hess, Googie: Fifties Coffee Shop Architecture, Chronicle Books, 1985.
★二七──奥出直人「マクドナルドに学べ」(『ユリイカ』一九八七年一二月号)。
★二八──G・リッツア『マクドナルド化する社会』(正岡寛司監訳、早稲田大学出版部、一九九九)。
★二九──McDonald’s Today, No.21,1996.
★三〇──藤田田「勝てば官軍」(『朝日新聞』一九九九年一〇月九日)。その後、藤田はトイザラスとも契約し、一九八九年に日本トイザらスを合弁で設立した。
★三一──『朝日新聞』一九九九年八月二三日。
★三二──M・エリオット『闇の王子ディズニー』(古賀林幸訳、草思社、一九九四)。
★三三──J・テイラー『ディズニー王国を乗っ取れ』(矢沢聖子訳、文藝春秋、一九九〇)。
★三四──“Commodified Nostalgia in Disney’s Celebration” (http://www.sjsu.edu/faculty/wooda/celebessay1.html).
★三五──http://celebration.nm1.net/#WHAT
★三六──C. Wilson,“Disney gets real” (http://detnews.
com/menu/stories/21095.htm).
★三七──http://www.att.com/press/0795/950726.soa.html
★三八──G. Cantor, “New Urbanism projects revive the past” 1995 (http://detnews.com/EDITPAGE/SAT1028/
CANTOR.html).

*この原稿は加筆訂正を施し、『終わりの建築/始まりの建築──ポスト・ラディカリズムの建築と言説』として単行本化されています。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>『10+1』 No.20

特集=言説としての日本近代建築

>コーリン・ロウ

1920年 - 1999年
建築批評。コーネル大学教授。

>ジョン・ヘイダック

1929年 - 2000年
建築家。クーパー・ユニオン教授、ニュ−ヨーク・ファイブの一人。

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>フィリップ・ジョンソン

1906年 - 2005年
建築家。

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>ジャン・ヌーヴェル

1945年 -
建築家。ジャン・ヌーヴェル・アトリエ主宰。

>鈴木博之(スズキ・ヒロユキ)

1945年 -
建築史。東京大学大学院名誉教授、青山学院大学教授。

>グローバリゼーション

社会的、文化的、商業的、経済的活動の世界化または世界規模化。経済的観点から、地球...

>ジェーン・ジェイコブス

1916年 - 2006年
作家、ジャーナリスト。

>松葉一清(マツバ・カズキヨ)

1953年 -
建築評論。朝日新聞編集委員。