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警察/都市(ポリス)の頽廃──亡霊的暴力批判論 | 田中純
Decadent Police/Polis: A Critique of Spectral Violence | Tanaka Jun
掲載『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築, 2000年06月発行) pp.2-9

1 家族の警察

一九九九年、埼玉県の女子大生が交際関係のあった男性とその実兄らによって中傷ビラを撒かれるといった嫌がらせを受けた挙げ句、桶川駅前の路上で刺殺された。上尾署の担当警官は、ストーカー被害に関する被害者や家族の告訴を取り下げるよう要請したほか、調書の改竄すらおこなっていたという。この事件を典型として、民事不介入の原則に縛られた警察の、ストーキングや家庭内暴力に対する対応は一般に鈍いとされている。こうした状況を改善するために、例えば警視庁では「交際を拒んでいる者に不安を覚えさせる行為の防止に関する条例」と名づけられたストーキング防止条例を検討している。その目的は「警察の相談体制の確立、中止命令等の行政措置を定めることにより、『個人の生命・身体・財産の保護』を図ること」★一にある。それは、交際を拒んでいる者に対し、性的な言動をおこなったり、無言の電話をかけ、つきまとったりして不安を覚えさせないことという遵守事項を設け、これに違反した行為について相談を受けた場合、警察署長などはその行為者に必要な勧告をすることができるものと定めている。行為者がこの勧告に従わずにストーカー行為をおこなったときにはさらに、当該の行為を中止ないし防止するための必要事項を命じることが可能である。
一般世論の感覚からすれば当然であり、むしろ迂遠なものとさえ思われるこうした勧告や命令措置も、警察署長の介入権限を民事にまで拡大する点で問題を孕まないものではない。事実、警視庁が開催しているストーカー問題対策研究会では、「一般私人の行動の自由を、裁判所の判断を得ないで、行政の判断による『命令』という形で制約する制度を設けることは、多少、慎重に考えた方がよいのではないか」★二という懸念が表明されている。それによれば、このような制度は、公安委員会や警察署長が一般私人の行動の自由を制約しうる権利を暗黙のうちに持っていることを前提としており、司法と行政の役割分担の原則から外れている。また他方では、警察内部の腐敗が問題視されている現在の状況下で、このように警察のなかだけで手続きが完結してしまう制度をあらたに作ることに対する危惧も同じ場で語られている。
ストーキングや家庭内暴力、あるいは幼児虐待といった私的領域における暴力行為に対して迅速な中止や防止が求められるとき、そこに実効性のある介入をおこなうことができるのは警察のほかにはないと考えられている。しかし、そのような介入の権限を認めてしまうことは私的領域に対する警察の過剰な侵入を招きかねない。警察は司法によって律せられた領域のみに活動を制限することはもはやできないのだが、恋愛や夫婦関係、あるいは親子関係といった領域に直接介入する手続きをいまだ見出しえていないのである。これは警察にとってのジレンマであると同時に、介入を必要とせざるをえない市民にとってのジレンマでもある。
日本の警察制度は明治初頭にフランスの警察を模範として整備された。そのための司法制度調査団の一員であった川路利良はパリ・コミューン鎮圧直後の第二帝政下で、この時期に確立され、規模を急速に拡大していた警察機構を目の当たりにしている。第二帝政期の二〇年間に官僚の数は一・五倍、兵力は現状維持のままだったのに対し、警察官の数は二・五倍に増大したという。独裁制は暗殺や陰謀を防ぐために強力な警察力を必要とした。警察は非日常的な暴力機構である軍事力とは異なり、日常生活の隅々に浸透して秩序維持をおこなう。川路が学び取ったこのような近代警察のシステムは、封建的軍事力である武士団の解体、軍隊と警察の機能分化、警察による日常的秩序維持の制度化といったプロセスを経て、日本においても確立されていった。一九〇五年の日比谷焼き討ち事件や一九一八年の米騒動などを経験した警察は、ロシア革命のような社会革命を未然に防ぐため、国民の内部によりいっそう浸透すべきことを意図して、「民衆の警察化と警察の民衆化」★三を標榜した活動を展開してゆく。大日方純夫はその過程を次のように総括している。

「警察の民衆化」は社会政策的な側面をふくみながら、「民衆の警察化」と一体のものとしてすすめられた。すなわち、一面でデモクラシー状況に対する警察の改善、政治警察・官僚警察の改良をはかるという側面をもちながらも、他面では、より深く民衆のなかから秩序の維持をはかり、デモクラシー状況を下から掘り崩していこうとするものだったのである★四。


こうした「民衆の警察化」のひとつの表われが、関東大震災後における「自警団」による、朝鮮人虐殺をはじめとする暴行である。そして、第二次世界大戦へと向けて警察は権限をさらに拡張し、他方では民衆相互の監視体制が強化されてゆくことになった。
このような警察国家のシステムは一九四五年以降に解体されている。一九四七年に公布された警察法に基づく警察は、衛生問題などまで取り仕切る行政機能をもっていた戦前の警察とは異なり、きわめて限定された治安事務のほかには、司法警察事務のみを担当する機関となった。しかし、大日方によれば、一九七〇年代からは「警察権限の膨張と警察基盤の拡大」が始まっているという。一九七二年発表の警察庁警察運営に関する総合対策委員会報告は、次のような二つの特徴をもっている。

第一は、「国民の要望に即した警察運営」を掲げて、公害規制・交通政策・暴力取締・少年警察などの領域に警察活動を拡大しようとしたことである。「国民の要望」にこたえるためには、消極的・事後的な取り締りではなく、積極的に事前に予防していく活動が必要だとした。予防のためには、警察の権限は膨張していかざるをえない。
第二は、「国民との連けいの強化」を主張していることである。外勤警察の機能を強め、CR(コミュニティ・リレーションズ)活動を本格化させながら、警察のもとに住民を組織化しようとした。それは、国民を警察の側にたぐり寄せて、警察の基盤を拡大していこうとするものであった。CRとは、家庭・職場・町会・PTAなどの「生活共同体」に対する働きかけのことをさしている★五。


大日方はこのような志向に「警察の民衆化と民衆の警察化」を目指した一九二〇年代の反復を見ている。たしかに一九七〇年代初頭の警察機構の指針決定に際しては、権力の側からする監視と規律の要求が、一九二〇年代と類似した「民衆化」を警察にもたらそうとしていた傾向は認められるにしても、冒頭で見たように、その後の日本社会はむしろ警察権限の積極的な「膨張」を求めざるをえない状況に立ち至っている。「生活共同体」の解体は、より細分化された個人ないし家族の私的領域に対する警察の直接的な介入を促進している。もはや警察ないし国家権力による一方的な民衆の警察化が問題なのではなく、私的領域における暴力を管理しうるような警察機能の転換が必要とされているのである。
ジャック・ドンズロが『家族の警察=秩序維持(La police des familles)』(邦題『家族に介入する社会』)において、フランス社会を対象として示したように、一九世紀以降の近代民主主義社会における家族形態の変化は、公的なものと私的なものが入り交じって雑種化した「社会的なもの」の領域が成立する過程に対応している。その徴候のひとつは一九世紀末に登場し、二〇世紀に入って影響力を急速に増した家庭訪問員・専門相談員・指導員などの「ソシアルワーカー」である。既存の司法・福祉・教育の装置に「付録のように」つながった存在として現われたこの職種は、望ましい養育を受けておらず、危険に曝されている子どもと、非行に走る危険な子どもという二種類の子どもに対するきわめて近代的な病理学的関心を代表している。「司法と刑罰への依存を少なくするという意志を出発点にして、ソシアルワークは、劇的な事態、警察の行動を予期する代りに、精神医学・社会学・精神分析の知識に基づき、法という世俗的な腕の代りに、生活相談員が差しのべる手を代置する」★六。ソシアルワーカーは、対象となる家族に定期的に接近し、その成員ひとりずつに質問して、家族の生活を実際に検証する「社会的調査」の担い手となる。そこで得られた情報は、例えばドンズロが「社会的なもの」の特徴的な「場面」として描き出す少年裁判所における審判の重要な論拠とされる。ソシアルワーカーは司法、児童精神医学、そして教育機関の三者が構成する未成年者のための保護複合体と家族とを媒介するのである。
この複合体の頂点に位置する少年裁判所は、未成年者に刑を言い渡し処罰する司法機関であるというよりも、その未成年者の「管理」を主たる仕事としている。こうした犯罪予防の意志ゆえに、少年裁判所における審判は公開されない。

少年裁判所は、慎重に処罰の稀薄化を行なうのであり、処罰を集中しようとするのではない。予防的な措置は、犯罪者に明白な烙印を押さずに囲い込むことを求める。少年裁判所が行なうさまざまな制裁のなかで、刑務所に入れるということは、原則としては例外である。刑務所に入れることになっても、多くのばあい執行猶予がついているか、監視された自由な状態に置かれることになる。教育的な措置が確立されるのは、処罰の中止という機能をもつ、この開かれたくぼみにおいてである★七。


少年裁判所は犯罪に対して判決を下すのではなく、それに代えて、個人に対する審査をおこなう。子どもは心理学者や精神科医によって検査され、ソシアルワーカーによる家族についての調査が実施される。日本の少年法もまた同様に、「少年、保護者又は関係人の行状、経歴、素質、環境等について、医学、心理学、教育学、社会学その他の専門的知識特に少年鑑別所の鑑別の結果を活用して」★八調査をおこなうことを求めており、その方針は「処罰の稀薄化」による未成年者の教化的管理に向けられている。
少年裁判所(家庭裁判所)や少年法は、「社会的なもの」の領域における家族の管理装置であった。ソシアルワーカー(日本であれば保護観察官、保護司、児童福祉司または児童委員)は国家警察に代わる「家族の警察」となって家庭に介入し、私的なものと公的なものとの雑種であるこの領域を組織化する役割を担ってきたのである。しかしながら、少年犯罪の凶悪化とされる事態の進行によって、少年法の改正が唱えられている現在の状況はむしろ、少年法における「処罰の稀薄化」を問い直す方向にある。これは少年法や家庭裁判所の審判だけにとどまる問題ではなく、未成年者の保護=管理複合体全体にわたる失調と言うべきだろう。警察機能は「家族の警察」という秩序維持装置への転換によって家庭の私的領域に対する介入をおこなった。家族はあらたに成立した「社会的なもの」の領域において管理されることになった。しかし、未成年者による犯罪的暴力の過激化は、保護=管理複合体の解体と国家警察の直接的な介入、さもなければこの複合体内部における管理の強化を求める世論を生み出しており、そこでは警察機能のよりいっそうの転換が要請されている。
ストーキング、家庭内暴力、幼児虐待、未成年者の非行といった一連の問題が位置する場が、もはや私的領域と公的領域に判然と区別できない、雑種的な「社会的なもの」の領域であるとすれば、この領域の秩序はどのような手段によって維持されるのか。暴力を用いた秩序維持がそこで必要とされた場合、原理的に言って公的な法によっては保証されえないその暴力はどのようにしてみずからを正当化しうるのか。現実的には、「社会的なもの」の領域における秩序維持もやはり、国家警察の介入を最終的には必要とせざるをえないのかもしれない。しかし、この雑種的中間領域における警察の権限は何ら明確なものとなってはいない。それはこの領域が警察の行使する暴力の本質にとって異質だからだろうか。だが、警察の行使する暴力の本質とはそもそもどのようなものか。

1──ストーカー殺人事件を報じる新聞記事 出典=讀賣新聞2000年4月20日朝刊

1──ストーカー殺人事件を報じる新聞記事
出典=讀賣新聞2000年4月20日朝刊

2──関東大震災時の自警団 (日本近代史研究会提供) 出典=大日方純夫『警察の社会史』(岩波新書、1993)

2──関東大震災時の自警団
(日本近代史研究会提供)
出典=大日方純夫『警察の社会史』(岩波新書、1993)

2 警察的コミュニケーションの呪縛

ヴァルター・ベンヤミンは「暴力批判論」において、法措定的暴力ゲヴァルトと法維持的暴力ゲヴァルトとを区別し、この二種類の暴力が反自然的に、「亡霊めいた混合物となって」現前しているさまを警察制度のなかに見ている。警察は法的目的のための一暴力であると同時に法的目的を広範囲にみずから措定する命令権をもつ。それは法規を発布するわけではないが、法的効力があると要求しつつ命令を発する。このような「法」が示すものは何か。それは「国家が、──無力ゆえにせよ、あらゆる法秩序に内在する連関のゆえにせよ──みずからの是が非でも達成したい経 験 的エムピーリシュな目的を、もはや法秩序によっては保障できない部分、まさにその部分にほかならない」。

それゆえ警察は、無数のケースにおいて、「安全のために」介入する。すなわち、そうした無数のケースにおいては、もしも警察が、法的目的との一切の関係なしに、諸法令によって規制されている生活を通じて、粗暴な厄介者として市民につきまとい、あるいは市民をそもそも監視までする、ということがなかったならば、そこにはいかなる明確な法的状況も存在しないのである。法は、場所と時とが確定された〈決定〉においては、ひとつの形而上学的カテゴリーを承認し、このカテゴリーにより批判を要求するものであるが、このような法[を考察する場合]とはちがって、警察制度の考察が本質的なものに出会うことは、まったくない。警察制度は、文明国家における、どこにも掴みどころがない、隈なく行きわたっている、亡霊めいた現象であって、これと同じく、警察制度の暴力も無定形である★九。


ベンヤミンは警察の「精神(Geist)」は、絶対君主制においてよりも、民主主義におけるほうが、よりいっそう有害であると言う。なぜか。絶対君主制では、立法上の絶対権と行政執行上の絶対権を統合した支配者の暴力を警察が代表=表象しているのに対し、民主主義においては、そのような代表=表象関係が存在しないからである。それゆえに、民主主義下の近代警察は「暴力というものの考えうる限り最も退廃した形態の証し」★一〇である。そして、近代警察が議会制・代表制的民主主義と不可分のものであるかぎり、近代警察における暴力の頽廃とは民主主義的権力の頽廃にほかならない。
ジャック・デリダはベンヤミンのこの一節に現われる「gespenstische(亡霊めいた)」と「Geist(精神/霊)」という二つの語の近接に注目している。警察は亡霊めいた精神/霊である。それを成り立たせているのは、制服姿で武装した警官たちの組織だけではない。

定義によって、警察というものは、掟(法律)の力があるところには必ず現にそこにあり、あるいは再現前させられる。警察は、社会秩序を維持する作用があるところには必ず現にそこにある──目には見えないこともあるが、しかし常にその効力を及ぼしている。警察は、警察としてある(しかも今日では、かつて以上に警察らしくまたは警察らしくなくある)だけではない。警察はそこにある。それは、都市ポリス現存在(Dasein)と同一の広がりをもつ一つの現存在のとる、形象のない形象である★一一。


警察の亡霊的分身は「不在的=現存在(Fort-Dasein)」としてあらゆるものに取り憑く。デリダは、警察が近代民主主義社会のもとで帯びるこの絶対的遍在性は、公共的空間と私的空間の両者を警察的なもので満ちあふれさせる、情報伝達やその監視と傍受のためのさまざまなテクノロジーによる効果であることを示唆している★一二。この社会においては、政治的なものと警察的なものとが広がりを同じくするという論理の一端を担うことなしに、市民を警察暴力から守ることはできない。なぜなら、そこにおける対抗的戦略は「警察を警察する」というかたちをとらざるをえないからだ。デリダはここで私生活の機密保護をめぐる技術を取り上げ、隠しマイクや電話盗聴、コンピュータ・ネットワークへの侵入などに言及している。都市ポリスの政治的空間全域に通信傍受網を張り巡らせ遍在化している警察というイメージは、暗号によってこの警察暴力に対抗しようとする、いわゆるサイファーパンクのパラノイア的なヴィジョンにも見出すことができる★一三。
法のないところで「安全のために」秘かに法措定的に行使されるものが警察の腐敗した暴力であるのだとすれば、私的領域ないし「社会的なもの」の領域への警察のより積極的な介入を求めることは、この暴力の頽廃した形態をみずからこれらの領域に導入し、警察という亡霊によって取り憑かれた政治空間を拡張する結果にならざるをえない。法による規制になじまないこうした領域における秩序維持を託す相手は警察しかないが、警察はそこで必然的に或る程度法措定的に振る舞わざるをえないのである。
法措定的暴力と法維持的暴力との混合を要求する「社会的なもの」の領域は、優れて警察的な空間であると言えるだろう。ジル・ドゥルーズはドンズロの分析を受けて、「社会的なものの上昇と家族の危機は、同じ基本的な原因の二重の政治的な結果である」★一四と述べている。家族というひとつの「内部」に訪れた危機は、監獄、病院、工場、学校など、あらゆる監禁の環境に蔓延した危機に通底している。ドゥルーズはこの危機をもたらした原因を「規律社会」から「管理社会」への移行に見ている★一五。工場に代わって「魂の気息のような、気体のような様相を呈する」、すなわち亡霊的な企業が従業員間の競争的敵対関係を通じて準安定状態のもとの管理を実現する。同様に生涯教育が学校に取って代わり、デイケアや在宅看護が病院に取って代わる。ドゥルーズは権力の三つの実践形態として君主型、規律型、そして「コミュニケーション」を操る「管理型」の社会を挙げている。君主型社会には単純な力学的機械を、規律型にはエネルギー論的機械を、管理社会にはサイバネティクスとコンピュータを対応させることができる。開放環境におけるこの間断なきコミュニケーションによる管理こそ、「社会的なもの」の領域にあまねく分散した亡霊的分身としての警察の任務にほかなるまい。
近代民主主義社会において、それが規律社会であったときからすでに、言論とコミュニケーションは警察的なものであることを欲望していた。『小説と警察』でD・A・ミラーはヴィクトリア朝小説の分析を通じて、小説という表象の技法それ自体が近代警察の行使する規律=訓練的な権力のシステムにどのように組織的に関わったかを論じている(ただし、その権力は規律型というよりもむしろ、管理型のものと呼ぶべきだろう)。一九世紀小説は自己と警察的なものを差異化し、いわば警察の存在を精神分析的な意味で「否認」して、警察との親近性を認めつつ自分はそれと無関係であるかのように振る舞うことで警察的なものを内面化し、自分自身を警察化した。そして、さらにそれは読者を警察的な存在へと教育していった。訳者である村山敏勝は、小説における/を通じたこの入れ子状に反復される警察化の構造を次のように要約している。

小説内世界において、作中人物たちは警察と自己とを区別しようとするが、しかし彼らは必然的に警察的であるしかない。小説の語りの次元において、語り手は警察的な作中人物たちと自己とを区別しようとするが、この区別も同じように頓挫する。さらに小説が消費されるとき、読者は警察的な小説と自己とを切り離そうとするが、そうすることでより良く警察的なものへ馴致されてゆく……★一六。


一九世紀の伝統的小説が果たしたこの警察化の機能は、小説というジャンルの衰退にもかかわらず残り、広い範囲の文化経験へと拡散している。ミステリーがいまだに大衆的な娯楽であることはもとより、TVドラマや映画を見ても、警察、警察的なものは相変わらず愛好される主題でありつづけている。警察的な行動様式、警察的なコミュニケーションはきわめて身近なものなのだ。われわれのコミュニケーション形態は知らぬ間に警察化されていると言ったほうがよいかもしれぬ。ストーキングとはそんな警察的コミュニケーションの一種ではないだろうか。警視庁はストーキング行為にあたる行為として次の四点を挙げている。

ア つきまとい、待ち伏せ、住居等関係場所に押し掛け、又は見張ること。
イ 文書その他の物件を送付し、又は住居等関係場所に配置すること。
ウ 電話その他の電気通信を行うこと。
エ 交際を拒んでいる者に関する内容の文書をその者が知り得る状態におき、又は当該内容の情報を電気通信設備を用いてその者が知り得る状態におくこと★一七。


ストーカーは被害者の尾行監視をおこなうほか、手配書めいたチラシやホームページによって被害者を中傷する。それは被害者に接近し、その肉体を所有するための手段にとどまるものだろうか。そうではなく、ストーカーはむしろ、この警察的コミュニケーションの過程それ自体のなかに倒錯的なエロスを見出しているのではないか。ここでそれを「倒錯」と呼ぶのは、倒錯的文学を代表するサドとマゾッホを念頭に置いているためである。西成彦が指摘するように、この両者における倒錯の過激さは「さまざまな警察のモデルを提供すること」★一八にあり、それによって彼らは通俗的な警察観に対して徹底的に異議を申し立てた。警察的である点で多くの一九世紀小説と通じ合いながらも、サドとマゾッホの作品はそれぞれ異なる仕方で警察的モデル、警察的コミュニケーションを局部的に肥大化させて畸型化したのである。法維持的にして同時に法措定的な警察暴力はそこで法の転倒に奉仕させられる。そのとき警察とは一方的な抑圧機構なのではなく、それ自身がエロスによって満たされた「窃視と尾行と潜行、密告と誘惑の装置」にほかならなかった。他方、同じく警察の倒錯的エロス化を志向しながら、ストーキングとは警察的コミュニケーションや警察暴力の最も頽廃した部分を稚拙に模倣したおぞましいパロディに過ぎない。
ドゥルーズによれば、サドとマゾッホがおこなったのはイロニーとユーモアによる法の逆転である。イロニーとはより高い次元の原理をめざして法を超越する運動であり、サドはイロニーによって制度としての無政府状態という矛盾した高次の原理へと法を乗り超える。一方、ユーモアとは法から諸々の帰結へと下降する運動をさす。マゾッホは法のこのうえない厳密な適用によって、それが期待されていたものとは逆の効果を生むことを示し、法をユーモラスに転覆する。例えば鞭で打つことは、勃起に対する懲罰であるどころか、勃起を誘発し、より強固なものにしてしまうのである。

マゾッホ的ユーモアとは次のようなものである。すなわち、かりに違犯するなら当然の帰結としての懲罰をこうむるだろうという危険によって欲望の実現を禁じるその法が、いまやまず懲罰を加え、その帰結として欲望の充足を命ずる法となってしまっているのだ★一九。


マゾヒズムとは警察的な管理のシステムに従順に従うかのような身ぶりによって、法を措定する暴力も法を維持する暴力ももろともに脱臼し、暴力を勃起のために奉仕させる策略にほかならない。警察的コミュニケーションはそこで汎エロス化される。法のない場所で秘かに立法し、「是が非でも達成したい経 験 的エムピーリシュな目的」を実現しようとする警察暴力のまさにその腐敗し頽廃した部分を狙いすまして、マゾッホは女性との間に倒錯した法としての契約を交わし、すすんでみずからを隷従状態に置く。法の転覆とはこの場合、警察的コミュニケーションの錯乱なのだ。 
マゾッホの父はオーストリア=ハンガリー二重帝国の警察官僚であり、レンベルクという町の警察署長を務めていた。マゾッホの作品にはガリツィアの歴史風俗のなかから拾い上げられた、告発、尋問、裁判、拷問、処刑といった諸々の警察的な主題が錯綜しあいながら共存している。伯母の情事を盗み見たために彼女に鞭打たれた少年時代の思い出を語るマゾッホの回想に触れて西が言うように、マゾッホ少年は恐らく、彼を取り巻いていた家庭環境そのもののなかに現実の警察と同じメカニズムが存在することを発見し、家庭を警察のミニチュアと捉えたのである。

警察官、暗殺者、罪人、浮浪者、密告者、囚人、死刑執行人、検閲官、調教師、看守、そして誘惑者、おとり……こうした社会的な存在の相似物は、どのような家庭のなかにも、かならず存在する。しかも、忘れてならないのは、このようなミニチュア化された警察機構のなかでは、ひとりの人間が、同時にいくつもの役をかけもつ場合がほとんどだということである。子供は、彼を取り巻く警察の規模が小さい分、なおさら複雑な権力の網の目にはりつけられるのである★二〇。


マゾッホにとっては家庭の内部につねにすでに警察があった。家族がすでに警察的なコミュニケーションのネットワークだったと言ってもよい。それはすなわちマゾッホ少年がみずからを「社会的なもの」のただなかに見出していたということである。子どもは「社会的なもの」の警察的なネットワークのなかで、この亡霊的な存在の裏をかき、その暴力をおのれの享楽のために利用する術数を学んでゆく。
フロイトの精神分析もまた家族の内部で働くこの警察的コミュニケーションのメカニズムを対象とした。しかし、そこで紡がれる物語の多くはオイディプス・コンプレックスを中心とするファミリー・ロマンスであって、警察小説ではなかった。ドンズロは無政府的な自由主義と独裁的中央集権制との二者択一を避け、市場への介入による調整を理論化したケインズの操作に類似したものを、社会的な規範と家族との関係をめぐるフロイトの思想に認めている★二一。精神分析はさまざまな規範の要求を家族の内側に注入する方法として機能し、その結果として家族の調節機構を強化したのである。フランスのように司法との制度的関係のなかに織り込まれた精神分析はそれ自体が、「社会的なもの」の雑種的環境における管理を担う警察的コミュニケーションの技法である。
「社会的なもの」の上昇とともに、その全域に隈なくゆきわたって遍在する、掴みどころのない亡霊めいた警察とは、書き記された法を機械的に実行する監視と処罰のシステムではなく、それ自身の内部で秘かに恣意的な立法をおこなう、気まぐれで信用のおけない暴力機構である。それはカフカが描き出したような、猥褻な享楽によって汚染され、一貫性が欠如した法のシステムとしての官僚制の典型にほかならない。警察の内部には何か猥褻で腐ったものがある。それは核心において腐敗している。しかし、この腐敗が法維持的でありながら法措定的暴力を行使するという警察の根源的な雑種性に由来するかぎり、それは警察をあらたな法によって拘束したり、警察を監視する機構を設定するといった「警察を警察する」措置によっては取り除きえない何ものかなのである。そして、警察があらゆるものに取り憑き、われわれの欲望とコミュニケーションを警察化することによって管理する暴力であるからには、同じ腐敗はわれわれの「都市ポリス」全域に拡がっていると言うべきだろう。
言論とコミュニケーションを通じた管理において警察化が「社会的なもの」の領域を覆って進行している以上、警察的なものに対する距離を確保するためには、そのようなコミュニケーションの編み目に空洞を穿つこと、あるいは、倒錯的なエロス化によって警察的コミュニケーションを変質させることといった抵抗が試みられるべきであるのかもしれぬ。なぜなら、法による規制が届かない領域において秩序維持の暴力をどのように行使するかという問いは、既存の警察モデルのみによって解かれるべきものではないからだ。家庭内で振るわれる暴力がもはや「社会的なもの」の保護=管理のシステムによっては制御不能なほど過激化し、警察暴力が秩序維持のために要請される事態と警察官僚制の腐敗とが、ちょうど同じ時期に顕著なものとなったことは、恐らくまったくの偶然ではない。それらはともに、遍在する亡霊的警察のコミュニケーション・システムそのものが陥った失調であり、われわれ自身が社会的コミュニケーションの根底において抱えている障害の徴候なのである。われわれの「都市ポリス」において警察という亡霊、この「形象なき形象」から逃れることがどんなに困難であるにせよ、「警察を警察する」対抗的暴力をどのように組織化するかを問うことなしには、警察的なものの核心における腐敗と頽廃は反復され、再生産されるばかりだろう。未聞の警察モデルを発明するために書かれなければならないのは、倒錯者のエクリチュールによるあらたな「暴力批判論」であるのかもしれない。

3──フジテレビ「踊る大捜査線」 公式ホームページより URL=http://www.odoru.com/home/wps/main.html

3──フジテレビ「踊る大捜査線」
公式ホームページより
URL=http://www.odoru.com/home/wps/main.html

4──映画「ケイゾク」ポスター TBS「ケイゾク」ホームページより URL=http://www.tbs.co.jp/keizoku/index_eiga.html

4──映画「ケイゾク」ポスター
TBS「ケイゾク」ホームページより
URL=http://www.tbs.co.jp/keizoku/index_eiga.html


5──バグダノフ男爵夫人ことファニー・ピストールの足下に跪く マゾッホ 出典=種村季弘『ザッヘル=マゾッホの世界』(桃源社、1978)

5──バグダノフ男爵夫人ことファニー・ピストールの足下に跪く
マゾッホ
出典=種村季弘『ザッヘル=マゾッホの世界』(桃源社、1978)

註 
★一──「交際を拒んでいる者に不安を覚えさせる行為の防止に関する条例」骨子(案)。警視庁ホームページより。URL=http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/seian/sutoka/jyourei.htm(二〇〇〇年四月二〇日現在)
★二──ストーカー問題対策研究会、第二回「研究会」における各委員の発言要旨。警視庁ホームページより。URL=http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/seian/sutoka/youshi2.htm(二〇〇〇年四月二〇日現在)
★三──これは一九二一年に警察官僚松井茂が雑誌『太陽』に発表した論説の題名である。なお、日本警察の成り立ちの経緯などに関しては、大日方純夫『警察の社会史』(岩波新書、一九九三)二一二─二一八頁、および大日方純夫「日本近代警察の確立過程とその思想」(由井正臣+大日方純夫校注『日本近代思想体系3 官僚制 警察』岩波書店、一九九〇、四六六─五〇〇頁)を参照した。
★四──大日方『警察の社会史』一六五、一六七頁。
★五──同、二二二頁。
★六──ジャック・ドンズロ『家族に介入する社会──近代家族と国家の管理装置』(宇波彰訳、新曜社、一九九一)一一三─一一四頁。
★七──同、一二七─一二八頁。
★八──少年法第九条(調査の方針)より。
★九──ヴァルター・ベンヤミン「暴力批判論」(ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』下、浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫、一九九九、二四八─二四九頁)。
★一〇──同、二四九頁。
★一一──ジャック・デリダ『法の力』(堅田研一訳、法政大学出版局、一九九九)一三七頁。
★一二──同、一三九─一四〇頁参照。
★一三──拙著『都市表象分析I』(INAX出版、二〇〇〇)所収の「暗号的民主主義──ジェファソンの遺産」参照。
★一四──ジル・ドゥルーズ「社会的なものの上昇」(ドンズロ、前掲書、二八二頁)。
★一五──ジル・ドゥルーズ『記号と事件──一九七二─一九九〇年の対話』(宮林寛訳、河出書房新社、一九九二)二九二─三〇〇頁参照。
★一六──村山敏勝「訳者あとがき」(D・A・ミラー『小説と警察』、村山敏勝訳、国文社、一九九六、二九七頁)。
★一七──「交際を拒んでいる者に不安を覚えさせる行為の防止に関する条例」骨子(案)より。
★一八──西成彦『マゾヒズムと警察』(筑摩書房、一九八八)八六頁。
★一九──ジル・ドゥルーズ『マゾッホとサド』(蓮實重彦訳、晶文社、一九七三)一一二頁。
★二〇──西、前掲書、六七頁。
★二一──ドンズロ、前掲書、二七三─二七五頁参照。

*この原稿は加筆訂正を施し、『死者たちの都市へ』として単行本化されています。

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年生
東京大学大学院総合文化研究科教授。表象文化論、思想史。

>『10+1』 No.20

特集=言説としての日本近代建築

>ヴァルター・ベンヤミン

1892年 - 1940年
ドイツの文芸評論家。思想家。