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同潤会大塚女子アパートを読む | 西川祐子
A Reading of the Dojun-kai Otsuka Women's Apartment | Nishikawa Yuko
掲載『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) pp.30-31

連載第一回でふれた一九七六年設立の元祖ワンルームであるメゾン・ド・早稲田は、早稲田大学の近くにある。メゾン・ド・早稲田だけでなく、周辺には明治にはじまる下宿屋の歴史見本のような建物が散在しており、界隈の全体が下宿屋博物館のようだ。明治以来書生の育成をつづけてきた学校の隣接地域だということであろう。
同潤会が戦前一九三〇(昭和五)年に建てた大塚女子アパートメントは、お茶の水女子大の近くにある。大塚は書生に対する女学生、そして戦前のことばでは職業婦人の育成をつづけてきた学校の隣接地域である。大塚女子アパートは同潤会が建てたアパートメントハウスのなかでも、建物全体が独身者用であることと、都営賃貸住宅であるところに特色がある。コヤ→ヘヤ→ルームという部屋の文化研究における発展段階でゆくと半世紀あともどりするのだが、これも元祖個室群集合住宅のひとつである。
じつはわたしは一九九八年春、メゾン・ド・早稲田を探したその足で大塚女子アパートを自分の目でたしかめるため地下鉄丸の内線の茗荷谷駅で下りた。地図の上で調べたときには、お茶の水女子大学との距離がよくわかっていなかった。キャンパスとアパートはほとんどお向かい同士なのだということを確認したときにはひとつの発見のように思った。部屋文化の発達は学校教育と深い関係がある。むろんこのアパートの住民がすべてお茶の水女子大学の卒業生であるということではない。だが部屋を考えるときには、部屋に入る人材が社会によってどう育成されたのか、また社会でどのように働く人たちなのかということをあわせて考えなければならない。昭和のはじめ、電話交換手、タイピスト、教師、ジャーナリストなど技術や資格をもつ女性の職場進出があり、大塚女子アパートは職業婦人のお城と呼ばれた。今は使わないことばである「婦人」には中流という含意がある。職業婦人には年季奉公や賃仕事のかたちではなく月給が支払われていた。
メゾン・ド・早稲田の場合も大塚女子アパートの場合も、現に住まわれている建物なのだから、内部におじゃまするわけにはいかない。玄関前の石の階段と彫刻をほどこした石貼りの円柱、土台のコンクリートが苔むすところをつくづく眺め、大通りの向かい側の喫茶店からファサードや建物全体の威厳のある重量感をたしかめることで満足した。入り口あたりの掃除はゆきとどいているし、一階の道路わきの貸店舗も開業しているようだ。厚い壁に囲まれた部屋の並びの内側には中庭があるはずである。設計図によれば、中廊下式で部屋は道路側と中庭側に並ぶ。食堂、浴場、応接室から屋上のサンルームまで、共用部分が広くとってある。一日二四時間の生活に必要なすべてがそろう設計である。大塚女子アパートの居住コンセプトは快適と安全であった。築四分の三世紀後の時点では快適の保証はむずかしいと思われたが、少なくとも視覚的にはコンクリートの壁による防衛という形で安全は守られている印象である。
この男子禁制の女子アパートにカメラが入り、テレビ番組がつくられたことがあった。NHK教育テレビ、「現代ジャーナル──建物が語る時代 第二回大塚・女子アパート」である。一九九一年五月一四日に放映されたものの録画を、最近わたしは教室で学生とともに見ることができた。優れた番組である。案内役のシャンソン歌手、推理小説作家の戸川昌子は戦後このアパートの管理人となった母親とともに五階の五一一号室四畳半の住民であった。彼女が白墨で空室と書かれた部屋の扉の鍵をあけて入ると、すべては出た時のままである。つくりつけ家具の中に敷かれた古新聞の日付は二五年前であり、部屋の中では時間が止まっている。埃が積もり曇った鏡台に戸川昌子の涙ぐんだ表情が映る。
東京都はどの時点からか建物の修理をしない方針をとったらしい。エレベーターは止まり、地下の食堂、大浴場が廃墟となっている映像が画面に映る。一五〇余の個室のうち、約三分の一が空室で、九〇人の住民の平均年齢は一九九一年現在で七〇歳ということであった。むろん建設当初からの住民はすでになく、住民の多くは戦後の入居者であり、かつての戸川昌子もふくめて、東京空襲の被災者、旧植民地からの引き揚げ者などが、焼け残った鉄筋コンクリートの建物に避難所をみつけて働きながら自らを養い、混乱のなかで戦後を生き延びた。そのなかから選ばれた四人の住民、登場人物がみずからのライフ・ヒストリーを語る。第五話の主人公は亡くなったピアニスト志願の女性であり、遺されたピアノと遺品が、大半をこの部屋で過ごした彼女の生涯をことばよりも雄弁に語る。
授業は文化人類学科のジェンダー研究の時間なので、建築史とはちがい、住民が設計の意図を超えていかに住むかに焦点をあてて考える。映像というテクストに受講生たちは鋭敏に反応していた。戸川さんは埃が厚く積もっている空き室に靴をぬいで上がっていた、彼女にとっては今もこの空間は部屋なのだとわかったと言う。自転車を室内に持ち込む彼らなのに、土足をはばかる感覚が残っている。ピアノの上の茶托に不安定に傾いておかれたままの湯呑みが映る。長年小さすぎる茶托をつかう無理、四畳半にピアノという無理、四畳半に最後まで住むという無理を貫き通す意志力、そうせざるをえない状況を視聴者は撮影者の意図以上に読みとる。
昭和初期に大学卒業者の初任給より一〇円多い月給五〇円以上の収入があることが入居資格で、月一〇円であった部屋代が一九九一年現在三六〇〇円という説明が流れる。高級アパートが築六〇年で低所得者住宅となったのだ。東京都はなぜ修理をしないのか、部屋代をあげることができないと修理ができないのかという受講生からの質問が多くでた。建物は一〇〇年でももつのだ、でもカタチが流行にあわなくなったり、家賃の採算がとれなくなったりして壊されるのだと初めてわかったという感想があった。日本社会はとくに社会的消費がめまぐるしく行なわれる社会である。
去年まで女性専用マンションに住んでいて同性同士の気楽で陽気な雰囲気を楽しんでいたという女子学生が、五〇年後には現代のマンションも廃墟になるのか、いや、もともと建物が三〇年以上もつようにはつくられていないと言いだした。部屋は性別なしの原則にしたほうがよく回転する、同じ屋根の下の同質集団はうまくいけばいくほど抜けられなくなって固定してしまうのでは、という意見もあった。男子禁制のはずなのに、インタヴュアーの声と、ちらと映ったカメラマンの腕は男性のものだった。これって女性は孤独に強いんだという男性の驚嘆と畏怖の視線でできている映像作品なんじゃないかという感想がでる。そして一同がそろって圧倒されているのは出演している高齢者の自己管理の能力、貫禄と品位である。彼らのことばではキレイ、スゴイとなる。
番組は最後に「もう一人じゃない、孤独と二人連れだから」というジョルジュ・ムスタキのシャンソンが流れて終わるのだが、ここで受講生の意見が分かれた。孤独をひきうけるのは立派だという感想と、それは番組制作者のおしつける美学であって、自立が孤独になるのならやっぱり寂しいはずだという感想である。鍵のかかる部屋と部屋との交流が共用空間に見事に設計されているから、部屋の自立が長期にわたって成立するのだが、同時に建物の全体がそこだけで完結していて、しかも守り一方に設計されているところから問題がおこるのだという意見は、ネットワーク世代ならではのものである。この世代は、自立とは他者と向きあうことであり、他者たちとの交流によって支えられるということを学びはじめている。
共有空間が少ないワンルーム・マンションでは住民の交流はむずかしい。住民は短期逗留型の生活を送り、入れ替わりが激しいと思われる。大塚女子アパートの場合は、たっぷりとった共有空間を使って交流が活発に行なわれたにちがいない。だが、もう一段上のレヴェルの社会との交流は、保護という名目で断たれている。受講生のなかに、僕はこの建物のたたずまいとモダンなデザイン、そして住民が気に入った、できることなら住みたいのに、という男子学生がいた。移住型生活と定住型生活が、人生の門出にいる人間と終着近くにいる人間が寄り集まることのできる空間はどうやったら創り出せるのだろう。

1、2──大塚女子アパート 筆者撮影

1、2──大塚女子アパート 筆者撮影


3──大塚女子アパート1階平面図 出典=『東京人』no.115(都市出版株式会社)

3──大塚女子アパート1階平面図
出典=『東京人』no.115(都市出版株式会社)

>西川祐子(ニシカワ・ユウコ)

1937年生
ジェンダー研究、日本とフランスの近・現代文学の研究、伝記作家。

>『10+1』 No.19

特集=都市/建築クロニクル 1990-2000