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ジョージ・ソロスの「開かれた社会」「超資本主義」の〈脱資本主義〉的運用? | 熊倉敬聡
George Soros's 'Open Society' Application Of "Hyper-Capitalism"? | Kumakura Takaaki
掲載『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) pp.28-30

投機家そして慈善家として世界的に有名なジョージ・ソロスが、一九九八年、『グローバル資本主義の危機』★一という本を出した。一九九七年のアジア経済危機から翌年のロシア経済破綻に至るまでの歴史的状況を背景に、グローバル資本主義システムの本源的不安定性・脆弱性を分析しつつ、彼の唱える「開かれた社会」への展望を述べた本である。それらの危機により、人々が世界経済の行く末に大きな不安を抱いていた時期だっただけに、この本はアメリカ合衆国内外で大きな反響を呼んだ。この短い拙稿では、しかし、彼の世界経済分析を学問的に吟味したいのではない(所詮、経済学に暗い私にとってそれは不可能である)。そうではなく、彼言うところの「開かれた社会」の思想が、私の目下考えている〈脱資本主義〉とどのように関係するのか、あるいはしないのか、それを見定めてみたいのである。
ソロスの考えによれば、八〇年代後半から九〇年代前半にかけての旧ソヴィエト連邦と東欧の共産主義体制の崩壊、そしてやはり八〇年代のレーガン、サッチャーの規制緩和政策により、七〇年代からその兆しを見せていた金融資本の国際的流動は、地球規模のうねりとなりグローバル資本主義システムを形成した。だが、金融資本がこのように急速にグローバル化するなか、政治体制は基本的に「国民国家」というナショナルな次元にとどまっており、したがってその流れを政治的にコントロールすることが原理的に不可能となっている。数少ない「国際」的調整機構であるIMFやG7も根本的な処方箋をいまだ施せないでいる。そんな国際政治の立ち後れを後目に、グローバル資本主義はますます猛威を振るい、いまや単に経済のみならず人々の生活のあらゆる領域にまで浸透しようとしている。しかも、「市場原理主義者」(古典派経済学的なレッセ・フェールによる市場の予定調和的均衡をいまだ信奉している人々)たちが信じ込んでいるのとは異なり、このシステムは原理的に不均衡・不安定・不確定をその動因としているため、それをうまく操縦できなければ、やがて人類は自らが生み出したシステムにより自滅を余儀なくされてしまう。それを回避するためにも、いまやそれをコントロールしうるグローバルな政治機構の創設が急務である。
如上の議論と並行して、ソロスは、やはりグローバルなスケールで「開かれた社会」を作り上げていくことが緊急な課題であると言う。いまや本来、市場価値とは無関係なはずの社会的価値(文化、教育、医療、環境など)にまで、グローバル資本主義は浸透し、社会のすべての幸福をGNPで計ろうとしている。そのような社会的価値をいまこそ資本の論理から取り戻し、別な原理に基づいた社会(=開かれた社会)の構築に向けて地球規模で努力しなくてはならない、と彼は提言する。ところが、この著作あるいは彼の他の著作を読むにつけ、この肝心の「開かれた社会」の概念が曖昧模糊としていて何とも捉えがたいのだ。カール・ポパーの「閉じられた社会」(魔術的あるいは部族的あるいは集産主義的社会)と「開かれた社会」(個人が自らの行動を自己決定できる社会)★二の延長線上に、彼の思い描く「開かれた社会」とは以下の通りだ。「開かれた社会」はまず、(彼の議論全体の「哲学」的前提をなす)「不完全理解fallibility」(「われわれが生きるこの世界に対するわれわれの理解は本質的に不完全である」)と「再帰性reflexivity」(「われわれがある出来事に参加し、そしてその出来事について思考するとき、その思考はその出来事に積極的な影響を与える」)★三に基づいている。敷衍すれば、個人の、世界に対する理解は常に完全かつ絶対ではありえない、つまり常にある程度「間違って」いるため、その「間違い」が、(仮に絶対的に)真ないし善と思って行なったことにも(知らぬ間に)入り込んでいる。したがって、われわれは互いに協力し合って、その「間違い」を社会的に意識化し、絶えず是正していかなくてはならない。ソロスの「グローバルな開かれた社会」とは、この努力を(たとえ非常に難しかろうとも)地球規模で行なっていこうとするものである。ソロスの所論からすると、歴史の現段階での最大の「間違い」とは、グローバル資本主義システムの不確定性そのものであり、またそれをコントロールしうるグローバルな政治体制の不在であろう。したがって、その是正は何よりもそのような政治体制の創設によるシステムの相対的安定化であり、またそれと並行して、グローバル資本主義の脅威にさらされている社会的・人間的諸価値(戦争の回避、環境の保全、人権の尊重等々)の擁護となろう。そして、彼は結論する。「開かれた社会」とは、「参加型民主主義と[相対的に安定化した]市場経済」を両輪とした、アメリカ合衆国独立宣言で表明されている原則を尊重する社会にほかならない、と★四。確かに尤もな話である。しかし、これでは、政治と経済と人間性に関する「近代」の価値観を、しかも非常に素朴なやり方で投影したにすぎないのではないか。結局、彼の「哲学」的議論はどの著作でもこれ以上深化しない。自ら「挫折した哲学者」と形容する所以でもあろうか。
ところで、「哲学」的議論はさておき、ソロスは周知の通り、この素朴で曖昧模糊とした「開かれた社会」を信念として世界的に自らの財団のネットワークを作り、いわゆる「慈善活動philanthropy」を展開している。一九七九年から主に旧ソ連・東欧に向けて開始された活動は、いまや中南米、南アフリカ、モンゴルなどに及んでいる。活動内容も(例えばアメリカ合衆国内の活動を例にとれば)公共安全、青少年・移民支援、教育問題、女性問題、政治資金のシステム改善、はたまた激しい批判の対象ともなったドラッグ研究、死の研究に対する支援など非常に多岐にわたっている。その支援総額は、ネットワーク全体で四億二千八百万ドル(一九九七)に及ぶという。
このような活動全体はいったい何を意味しているのだろうか。確かに、単なる売名行為だとか、あるいは慈善活動の名の下に新たな市場を開拓しているだけだ、という批判も耳にする。しかし私には、それ以上の歴史、なかんずく資本主義の歴史からみて、ある重大な意味があるように思えてならない。それは、いまや資本主義がますます実体経済から離れ、国家権力からも解き放たれ、投機のレヴェルでいわば「超資本主義」化しつつあるとき、その、一個人の生にとってもはや消尽しきれぬ貨幣価値の「余剰」をどのように処理するか、「スーパーリッチ」たちの倫理的選択の問題のように思えてならないのである。勿論、あくまでビジネスに再投資して自らの生活に還元しない方法や、あるいは美術品収集を含めた非社会的蕩尽も可能である。しかし、ソロスのように、資本主義的ではない社会的価値の擁護ないし創造に向けて「余剰」を費やすことも、あるいはそのような行為こそ今後の人類の幸福にとって(それを人々が望むならば)ますます重要になってくるのではないだろうか。これは「超資本主義」の〈脱資本主義〉的運用とも呼べるものではないだろうか。
だが、このような倫理的選択にも問題がないわけではない。なぜなら、このような選択、行為が可能なのは、世界でごく限られた資本主義的特権者だけなのであり、同時に彼らの「施し」を受ける数多くの人々の「貧しさ」を(直接・間接的に)作り出しているのもまた彼らにほかならないからである。「市場への一参加者として、私は自らの利益を極大化しようとする。一市民として、社会的諸価値に関与する」★五。彼ら特権者たちはこのような「分裂症」から永遠に逃れられない。
私には、資本主義の〈脱資本主義〉化にあたって、全く別な次元の可能性があるように思われる。それは、人々の現在の生活、労働の様式を根本的に変容させるヴェクトルである。その議論は次回に譲りたい。


★一──George Soros, The Crisis of Global
Capitalism: Open Society Endangered, New York: Public Affairs, 1998. この本は、ジョージ・ソロス『グローバル資本主義の危機──開かれた社会を求めて』(大原進訳、日本経済新聞社、一九九九)として翻訳されているが、現在筆者が米国在住のため翻訳本が入手しがたく、以下引用は原書からの拙訳による。
★二──Karl R. Popper, The Open Society and Its Enemies, vol.1, Princeton: Princeton University Press, 1962, p.173. この本も、カール・R・ポパー『開かれた社会とその敵』第一部(内田詔夫+小河原誠訳、未来社、一九八〇)として翻訳されているが、前述の理由により、引用は拙訳による。
★三──Soros, op.cit, p.4.
★四──Soros, ibid., p.95.
★五──Soros, ibid., p.xxv.

*この原稿は加筆訂正を施し、『脱芸術/脱資本主義論』として単行本化されています。

>熊倉敬聡(クマクラ・タカアキ)

1959年生
慶應義塾大学理工学部教授。フランス文学、現代美術、現代思想。

>『10+1』 No.19

特集=都市/建築クロニクル 1990-2000