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『わいわい音頭』──野村誠と老人たちの愉快な「作曲」 | 熊倉敬聡
Wai Wai Ondo: Joyful Compositions by Makoto Nomura and Old Folks | Kumakura Takaaki
掲載『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) pp.31-33

私は、五月のとある日、相鉄線三ツ境駅にほど近い、さくら苑という特別養護老人ホームに行った。「作曲家」──わざわざ「」をつけるには訳がある──野村誠のある「作曲」プロジェクトを見学するためである。
彼はそこでどんな「作曲」をしているのか。──ホームのロビーのテーブルの上には、さまざまな楽器が雑然と置かれている。タンバリン、ハンドベル、マラカス、太鼓、音の出るおもちゃ、などなど。野村は「作曲家」らしく(なく?)鍵盤ハーモニカを携えている。そこに、三々五々老人たちが集まってくる。ほとんどの人が車椅子だ。
野村が「そろそろ始めましょうか」と言うか言わないうちに、老人たちはもう思い思いに楽器で音を出したり、歌詞とも会話ともつかない言葉を発していたりする。彼らは『わいわい音頭』なる「音楽」を「作曲」中なのだ。野村はすでにここに数回足を運んでいて、音頭もだいぶ輪郭ができあがりつつあるようだ。

わいわいわい わわわわいわい わいわいいってる共和国
ほがらかに にこやかに わいわいいってるさくら苑
らっせらっせらっせら らっせらっせらっせら
月曜日には? 床みがき 心をみがいて床みがき……


しかし、この「作曲」は、通常の作曲の作業と大きく違う。「作曲家」は、自らの専門的かつ高度な音楽的知を結集して、作品を創造し、それをパフォーマンスの専門家たる演奏家に委ね、一般の聴衆に受容してもらうのではない。そこでは「作曲」は、現代音楽の作曲言語などに全く無知な老人たちが、障害などでおぼつかない手つきで「演奏」する楽器の調子外れの音や、会話とも独り言ともつかない言葉の断片などで編まれていく。野村はただ、「これでいいですかねえ」とか「このほうがいいですかねえ」とか時たま口を挟みながら、歌詞を確かめたり、メロディを鍵盤で弾いてみたりするだけだ。そこには「作曲家」という言葉から誰もがイメージする「威厳」などどこにもない。彼はだいたい老人たちの「孫」にあたる歳だし、格好もTシャツとGパンと、どこにでもいそうな若者の姿だ。
誰かが突然、何の脈絡もなく、炭坑節を歌い出す。すると、何人かがそれにつられて歌い出す。「なかなかいいですねえ」と野村さん。早速、『わいわい音頭』に炭坑節の断片が接ぎ木される。すると今度は、誰かが食べ物の話を始める。「火曜日の売店で、みつ豆食べたり、ところてん食べたり、ラーメン食べたり……」。それもまた引用される。「作曲」はこんな愉快な〈脱線〉だらけだ。「作品」の成就へとエネルギーを収斂していくような目的論的な思考は絶えず快くもはぐらかされ、脱臼させられる。誰かがつぶやく、「完成するって、さびしいから」。
野村誠は、京都大学理学部在学中の一九九〇年、集団創作バンドpou-fouを結成、活動を開始し、合わせて九三年から路上演奏を始める。九四─九五年には、ブリティッシュ・カウンシルの招聘によりヨーク大学に留学し、現地の小中学校で作曲のワークショップを行なう。九六年にはジャワ・ガムランと児童合唱のための『踊れ! ベートーヴェン』を作曲、インドネシアと日本で上演した。そのほか、水戸芸術館、パリ国立美術学校などでも意想外の「共演者」「楽器」とともに作曲、上演している。
そんな、従来の「作曲家」の在り方にラディカルにも無頓着な彼を、今回はアーツフォーラムという非営利組織がコーディネートし、老人たちとの「作曲」に出会わせたわけだ。
この横浜市にあるさくら苑のほかに、立川市にある高齢者総合福祉施設「至誠ホーム」でも、同様のワークショップを並行して試みている。今年の一月から始まったその二つのワークショップはいま第二ステージを迎え、今年の九月まで継続される予定だ。最後には一応「コンサート」が予定されているらしいが、野村のことだから、また意想外で愉快な〈脱線〉をしてくれることだろう。
ここで少し、彼の「作曲」の試みを理論的に考えてみたい。なぜならそこには、私が〈脱芸術〉と名づけている方向性の貴重なヴェクトルのひとつが感じられるからだ。
イタリアの思想家かつ小説家でもあるウンベルト・エーコは六〇年代「開かれた作品」という概念を提唱した。当時の芸術のアヴァンギャルドたちが、従来の「作品」という概念──芸術的労働を完成物としての「作品」に向かって目的論的に充当し、管理する在り方──に異議申し立てし、そこに即興などの「偶然性」を意図的にプログラムし、「作品」をその必然性の建築から解き放つ、そうした実験的実践をエーコが記号論的知見などを駆使しながら理論化したものだ。はたして、野村の「作品」も、このエーコ流の「開かれた作品」の一ヴァージョンにすぎないのだろうか。そこには「偶然性」など共通した要素もあるが、野村の試みはそこから大きくはみ出している。(さまざまな違いはあるが)最大の違いは、エーコの「開かれた作品」が美学的には「開かれた」ものでありながら、社会学的にはあくまで芸術のエリート集団という美学的言説の特権的少数者にしか関わりをもたなかった──エーコは「開かれた作品」の典型として例えばブーレーズなどの「現代音楽」の試みをあげている──のに対し、野村の「作曲」は、社会学的にも開かれている。というか、単に開かれているのみならず、そこではいわば美学的にも社会学的にも「作品」という概念自体へのラディカルな無頓着が作動しているのだ。そこにはしたがって、「作品」を解体するために意図的に偶然性をプログラムしようとするような欲望は皆無である。前もってシナリオは何もなく、すべては野村と老人たちとの「会話」から起こる。したがって、その会話が生起する物理的・社会的環境にあるあらゆる要素に「作曲」は開かれている。音は、何も「楽器」の出す音に限らない。テーブルの角でも、車椅子の肘掛けでも、音が出さえすれば何でもいいのだ。また「歌詞」も意図的に作品に向けて「文学」的に選ばれた言葉である必要はない。ふと思いついた「炭坑節」でも、会話の断片でも何でもが「歌詞」になりうるのだ。
それならこれは単に最近はやりのコラボレーション、一風変わった組み合わせのコラボレーションにすぎないのだろうか。否。もしコラボレーションというなら、そこでは世代横断的な、トランスヒストリカルなコラボレーションが作動しているというべきだ。それは美学的・社会的のみならず、歴史にも「開かれて」いるのだ。老人たちの「記憶」を形作る個人的な、あるいは超個人的な歴史の断片が、「野村誠」というメディウム(媒体=霊媒)を通して、現在と出会う。その出会いの痕跡がここでの「作曲」にほかならない。したがってそれは、反復のテクノロジーに固執する「伝統芸能」とは違う。それは「記憶」と「現在」との不断に生成するコラボレーションなのだ。
しかし、彼らはなぜ共に「作曲」するのだろうか。彼らはこれを「慰問」とも「療法」とも思っていない。ではなぜか。彼らは「作曲」をしていると楽しいから、〈幸福〉だからやっているのである。老人たちのみならず、もちろん野村自身も。
ごく大まかに言って、近代の歴史的生産物である「芸術」は、「作品」の内的強度(intensity)を限りなく高めることによって自らを実現した。そして、その反動として今世紀初頭に現われた「反芸術」は、その存在理由を「芸術」の爆破、(あえて造語を作れば)ex-tensity「外的強度」に見出した。そこでは(「内的」「外的」のちがいこそあれ)つねに知的・感覚的強度(tension)が「限界的に」求められた。その結果、そのようなテンションを「限界的に」追求できない「大衆」は、ますます「芸術」そして「反芸術」の前衛から離れていった。しかし現在、このような「(反)芸術」の言説から逸脱する新たな試み、〈脱芸術〉とでも呼べるような試みが生起しようとしている。それはもはや、「(反)芸術」の知的・感覚的「限界主義」を求めない。それはむしろあらゆる物・者に開かれ、包み込むような「寛容な」環境の創造だ。誤解を恐れずに言えば、それはde-tension〈脱─強度〉としての創造である。が、それはテンションの限りない脱力のみを求めるのではない。それはむしろ知的・感覚的強度のあらゆる位相を積極的に寛容に肯定する立場である。そしてそのような脱強度としての脱芸術を動機づけるのは(この「作曲」の例同様)生の悦び、〈幸福〉にほかならないのではないだろうか。
まだ私の中でも漠然としているこの〈脱芸術〉を、これからの連載で探究していきたい(連載のもうひとつのテーマ「脱資本主義」については次回説明したい)。

野村誠アートワークショップ さくら苑

野村誠アートワークショップ さくら苑

*この原稿は加筆訂正を施し、『脱芸術/脱資本主義論』として単行本化されています。

>熊倉敬聡(クマクラ・タカアキ)

1959年生
慶應義塾大学理工学部教授。フランス文学、現代美術、現代思想。

>『10+1』 No.18

特集=住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在