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死んだふりをする人 | 小倉虫太郎
The Man who Pretends to be Dead | Ogura Mushitaro
掲載『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) pp.29-30

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『完全自殺マニュアル』に見られるように、「自殺」というテーマは、サブカルチャーの一部門として今日立派に自律し始めている。フリーライターの浅野智明氏によれば、つまり、自殺(未遂)を飯のタネにして生活している自殺ライターが生存できるほど「自殺」というテーマは、その読者層をすでに獲得しているというわけである。なるほど、インターネットで検索すれば、薬の量を微妙に調整した自殺(未遂)をネタにした日記の類のホームページなど珍しくないものとなっている。また中には、刃物で自分の手首を傷つけた絵(写真)をホームページに取りこんで公開している者もいる。こういった事態は、もしかしたら、ある人々にとっては、単に嫌悪感を催すだけのキワモノ的な話題として、また単に「甘え」として退けられるだけかもしれない。だが、そうとも言えないのではないか。彼/彼女たちは、単にナルシシスティックであるだけなのだろうか? ラカン的に言えば、暴力は、すべてナルシシスティックなものであるということになるが、現に自殺という自己に対する暴力を〈未遂の公開〉という別の手段によって抑制しているようにも見えるのは何故か。つまり、自殺未遂は、明らかに自殺(死)を遅延させ、相対化する、そのようなパフォーマティヴな試みともなっているのである。しかし、彼/彼女たちは、自殺未遂を方法化する途上においては、やはり「死」を志向していたのであり、自殺と未遂は、実際に紙一重のもので、行為の質として差はないのかもしれない(いずれにせよ、「死」は、イマージネルなもの以外ではないのだから)。

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当たり前のことだが、本当に自殺に成功した者は、日記も残せまいし、報告もできまい。しかし、本当に自殺に成功してしまった人だけが「本気」だったという言い方はできるだろうか──それもじつは分からない。また、自殺に成功することが単に勇気あることとして断言できるだろうか──それもできないだろう。自分の外側の現実が変革できないのなら、自分の身体に苦痛や刻印を加えることによって「生」の実感を回復する方向にシフトする──そのような社会学者の物の分かったような疎外論=状況論的な言い草も聞こえてきそうである。しかし、問題は、インターネットという媒介の発明によって、「自殺(未遂)」という私的行為が「パブリック」な表現行為として浮上してきたということである。それらはちょうど、カフカが「流刑地にて」において、近代以降は密室的なもの以外ではありえないはずの懲罰の執行を白日(テクスト)の下へと転倒し、デフォルメさせた試みにも通じているようにも思われる。「流刑地にて」の面白さは、《正義をなせ》という文字の囚人の身体への刻印を指揮していたはずの将軍が、この「懲罰」への倒錯的な欲望を押さえ切れずに、自分の身体に試そうとする点にある。他人を調教したいという欲望は、じつは、自己への調教の欲望の「投影」にすぎないのではないかという洞察である。さらに、「流刑地にて」において興味深いのは、例の懲罰機械は、将軍に対して文字を刻印せず、故障のすえ暴走してしまい、結局、将軍を殺してしまうというブラックな結末である。カフカは、人間の生を調教すること、つまり未来の時間を先取りし、身体に規律を加え、管理し尽くそうとする欲望──フロイト的に言えば「現実原則」の先にあるタナトス(死への欲動)を、逆しまに表現してみせたと言うべきであろう。この飽くなき身体への調教、あるいは未来の時間への先取りというテーマは、今日の第一世界においては、例えば女性のダイエットなどの現象に象徴させることができよう。この時のダイエットから拒食症へという二次的反応の特徴は、やはり「流刑地にて」の囚人から将軍へのポジションの転移のようなものとして説明できるかもしれない。

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ホームページに貼り付けられていたあの写真──血まみれの手首──は、私たち にとって一体、何であるのか? このことの考察を怠ってはならないだろう。実際に切られたあの手首は、あの後消毒され、手当てされただろうか? ホームページの写真を見ながら、私たちは、やはりあの手首とこの手首を二重化せざるをえないのである。それはまた、実際に手首を切った彼/彼女の手首とホームページ上のあの手首との二重性でもあるだろうし、死んだ彼/彼女と死んだふりをする彼/彼女との二重性でもあるだろうし、さらに、表現をする主体としての私と表現された対象としての私との二重性でもあるだろう。私は、インターネットという器そのものがラディカルであるとか、そのようにインターネットそのものに対して楽観的な観測をする者ではないが、やはりインターネットは、精神分析的な作用を、つまりトラウマの散種に資する援助の効果があることは確かだと思う。つまり、インターネットの現前性というものは、つねに時間を二重化させ、主体を倒錯させ、死が生に織り込まれる効果──別の言い方をすれば、現象の直接性と間接性とがお互いに入り組むような作用を及ぼしてしまうのである。つまり、例の「流刑地にて」の主人公である旅人のような、夢を見ているようでいて、なおかつリアルに感じているようなポジションに私たちをつれて行くのである。
さらにカフカのことを言えば、カフカの主人公たちは、寝たふりも含めてよく眠る者たちである。例えば、悪夢から覚める、毒虫となっている、会社に行けない//朝、目覚める、いつもの人が来ない、誰かが逮捕しに来る//「城」の宿に着く、すぐに眠り込む、そして起きる、人々が自分を注目している……etc。この眠る/起きる/眠るのスイッチは、「夢こそが真実である」、あるいは「現実とは不可能なものである」というラカン的テーゼの反復によって、デカルト的な〈世界の手前に置かれる主体=私、あるいは、主体=私によって表象される世界〉という構図を繰り返し転倒させることによって、むしろ不安化させるものである。逆に言うならば、夢(眠る)/現実(起きる)の混交によって、むしろ「我思う故に、我在り」にある二つの「我」の分裂を顕在化させるわけである。目が覚めて夢を見、眠りこけて現実に出会う時、世界は、「ほら(Da)」とか「このように(Da)」としか言いようのないオリジナル(起源)を欠いた現前性を強く示すことになる。

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ここに、あのインターネット上の手首の傷の意味がある。あの写真は、切られた傷を見せる。しかし、この傷は、当人を死に到らしめるのか、そうでないのか、見るものを宙吊りにするしかない。しかも、写真の時間とは、限りないシャッター時間の短さとして零秒に近いものであるが、決して零秒ではない。つまり、あの写真は、最も死(=零秒)に近く、しかも必ず死(=零秒)を避けるものなのである。また、あの傷は、切られたものの痕跡であるとともに、書き込まれた「文字」でもある。つまり、身体は、切り刻まれるとともに、書き込まれるものであり、生は、死につつあることを演じることによって生であり、傷つける者が、傷つけられることを知ることによって自己訓育のループが内在性の平面を彫琢していくのである。この時、この傷とあの傷は、つまりラカンの言う鏡像関係として投影し合っているのであり、まさに分裂した自我ではなく、分裂してこそ自我という、自我の鏡像段階的ヴァーチュアル性を表示してくれるのである。
しかし、だからこそ、今日「死」こそ人間にとっての最後のフロンティアである、などといった物言いには注意が必要なのである。このような言説は、老人差別や臓器移植、生涯学習といった傾向を助長するだろう。私たちは、資本主義のスピードに対して、「死」(本物)ではなく、むしろ「死んだふり」(ニセ物)を必要とするのである。生き生きと生きよう、などという標語には決して騙されてはいけない。私たちは、資本による身体の調教(先取りされる「死」)に対して、この「死んだふり」の技法(「死」を生の側に折り込むこと)を練り上げていくべきなのである。

参考文献
フランツ・カフカ「流刑地にて」(『カフカ短編集』池内紀編訳、岩波文庫、一九八七)。

>小倉虫太郎(オグラ・ムシタロウ)

1963年生
明治大学政治経済学部助教授。社会思想、台湾研究、日本文学。

>『10+1』 No.18

特集=住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在