RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.14>ARTICLE

>
都市の「音」/「耳」の論理 | 小沼純一
The Logic of the City's "Sound"/"Ear" | Junichi Konuma
掲載『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) pp.39-40

かつて詩人の天沢退二郎は、何かが「全体」に遭遇するさまを描出するにあたって、土のなかで目覚めた生物──モグラがイメージされていたのではなかったか──を例示した。土中で目覚めたものが目の前に見る壁、それこそが「全体」なのだ、というふうに。ここで「全体」を感じ取るのはほかでもない視覚、眼である。では、耳の場合はどうか。耳は「全体」に触れることができるのだろうか。否応なく目の前に迫っている土の壁は、それでも瞼を閉じれば、とりあえず遮られ、忘れたふりをすることができる。しかし耳の場合はその徹底した受動性のゆえに、一度現前したものを防御する手だてはない。しかし、ほんとうにそうか? むしろその受動性は、逆に、いつしかひとの耳が外界の音に対して選択的に働いてしまうことを許容していたように思われる。
いささか抽象的な言い方をしてしまったかもしれない。わたしがいまイメージしているのは、都市における音の「全体」像、個々の音ではなく、個々の音が積み重なってひとつの雲のようになっている、そんな音の全体である。
都市のなかにいるひとはほとんどの場合忙しく動いており、何らかの目的をもっているために、その遂行に集中する。「いま」はその遂行のための準備段階、もしくはそのプロセスである。交差点を渡ろうと信号待ちをしている「わたし」は、信号が変わって向こう側に渡る、それをもっとも近い将来の目的として、いまここに立っている。そうして行なうべきことはインプットされているから、頭のなかではちょっと別のことを考えていても、いざ行動を起こそうというときにも、何の苦労もなく「ごく自然に」移行することができる。
そんなとき、耳は特別何かをしているわけではない。ただ開いている。いつものように「受動的」に、ある。そのとき耳は「全体」に接してはいる。諸々の音がせめぎあう場に触れている。しかし、にも関わらず、耳は選択的にのみ働くのだ。必要な情報だけを咄嗟に聞き取り、それ以外の音は排除する。よく言われることだが、マイクでテープに録音するのと、ひとが聴くのとでは、事実かなり差が出てくる。マイクはひとのような指向性がないから、必要とする情報とノイズとを区別すること、両者に遠近法をもちこむことができない。ひとはと言えば、雑踏のなかでも、自分にとって必要な音はそれなりに特権的に把握しているものだ。
この選択的な耳の機能は、往々にして「全体」の把握を困難にする。視覚的な比喩を用いるなら、「目の前」の出来事に対処するべく、瞬間に心身が反応するために、耳はつねに無意識的に音の分節化を行なっている。自分が不要とどこかで感じている音については、もはやすでに宙づりにされている、あるいは排除されている。「全体」のもっている混沌に無防備に触れることは、逆に、自らの生存が危うくなる事態さえ招きかねない。

都市では、遠くからやってくる音が拾いにくい。ひとの耳は都市のなかで、つねに近距離の、すぐそばの音に真っ先に反応する。視覚でもそうだろうが、自分もしくは音源は「いきなり」近くなるのである。遠くからやってくる「何か」、あるいは、自分が動きながらばったりと出会う「何か」、どちらも音を発していると考えてほしいのだが、これらは音の少ないところならいざ知らず、都市環境のなかではゆっくりと徐々に「近づいてくる」プロセスは、そう簡単に把握できない。ひとは、自らに近いところから情報を処理していくことになるのだから。そうして、ほとんど「いきなり」、音源は現われる。
ヘッドフォン・ステレオをつけて歩いているときなどなおさらである。細川周平がいみじくも指摘したように、この機器は外界の音をシャットアウトなどしない。むしろゆるやかに外界音、自然=具体音を装着している耳へと送りこむ。それはもちろん歩きながら音楽を聴くという、一種「ながら」的なひとの動きに対して、その危険さを軽減する役割をもつという意図もあったろう。しかしそれは同時に、聴く側、「耳」の側のロジックを浮上させることにもなったわけだ。つまり、目的としている「音楽を聴く」ことのみならず、生活環境の具体的な音をも選択的に、「音楽と同時に」耳にするというような、両者がそのときどきに応じて自動的に遠近を入れ替える、そんな耳に内在する選択的機能を。
そのような意味で、たとえばスティーヴ・ライヒの『シティ・ライフ』のおもしろさを挙げることができる。この作品は、作曲者がニューヨークで出会った具体的な音をサンプリングし、それをアコースティックな楽器のアンサンブルと組み合わせるというものだ。具体音は単に素材としてあるのみならず、アンサンブルの発する楽音とともに、ひとつの架空の都市を喚起する。というのも、この作品「全体」が何に似ているかといえば、ほかでもない、ひとがヘッドフォン・ステレオをつけて何か音楽を聴いている、そこにヘッドフォンのスポンジを通して外界からはいってくる都市の音、具体的な音と楽器音とのシンクロ状態、さらに言えば、ヘッドフォン・ステレオで音楽を聴くという状態=環境そのものだからだ。そしてこれが逆に明らかにしているのはほかでもない、「耳」の選択性と、都市の音「全体」へと向かう耳の不可能性なのである。このように選択的な耳をもっている以上、そう簡単に都市の音環境、都市の騒音環境について、「ひと」の側から発言をすることはできないのではなかろうか。客観的に測定できるという機械を用いても、それは「ひと」の耳の選択性はもっていないのだから、何かが抜け落ちてしまうに違いない。いま、こうした都市の音についてもっとも無防備に接することができるのは、もしかしたら、そこで何かをする必要がないひと、緊急に何かすることが求められておらず、無防備に「全体」に接することができる立場にいる人たちではないだろうか。長時間立って話していることができずに、すぐさま地面に腰をおろしてしまう若者、昼間から通り過ぎるひとびとをよそに横になっているホームレス。もし本気で都市の音環境を考えることが必要だとすれば、こういった人たちの無指向的な耳こそをフィルターにしなければならないのではないだろうか。

>小沼純一(コヌマジュンイチ)

1959年生
音楽文化論。

>『10+1』 No.14

特集=現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築