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教育と学校 2──クエーカー教と近代施設 | 五十嵐太郎+大川信行
Pedagogy and the School 2: Quakerism and the Modern Institution | Igarashi Taro, Okawa Nobuyuki
掲載『10+1』 No.12 (東京新論) pp.36-38

本連載は再び学校の問題を論じ、近代施設の円環を閉じることにする。初回にとりあげたジョセフ・ランカスターによるモニトリアル・システムとは、教師マスター助教生モニターを使って段階的な監督法を実施し、全生徒の行動を透明に把握しようとする試みだった。では、そこは具体的にどのような空間なのか。教室はなるべく大きな未分割の長方形平面であり、片方の端に教師の机を配する。装置としては固定された長椅子を利用しながら、例えば、一八〇九年の手引書では、約三百人を収容する教室の教壇部分一五フィートを平らの床とし、生徒の席をよく見えるよう一対一五に傾斜したスロープにしている。これは大勢の人間が正面の舞台を見つめる劇場の原理を逆方向に利用したものだ。つまり、いかに多くの生徒を効率的に指導するかが問題の核心であり、その背景には産業革命による新しい社会秩序の編成を担う中産階級の増加があった。
このシステムに大きなヒントをあたえたのが、国教会牧師のアンドリュー・ベルが著した『教育の実践』(一七九七)である。彼はインドの慈善学校での教育体験から、いまでは当然と思えるようなものも含む、次の制度を確立していく。まず、だらだらとした環境を変えるために、家庭から生徒をきちんと切り離し、学校をクラスに編成し、時計を用いて一日を五つの授業に分割する。次にモニトリアル・システムの原型を導入。教室内では、成績順位によって生徒にペアを組ませ、コの字型に座らせた(一位と最下位、二位と下から二番目のように)[図1]。そして伝統的な体罰、鞭うちを否定し、生徒たちによる密告と陪審制を実施する。こうした教育訓練のモデルには軍隊と教会があったという。
以上が矩形(バシリカ式?)プランだとすれば、集中式のプランも同時代に考案されていた。ルドゥーの理想都市に予定された「教育の館」は、ギリシア十字の平面をもち、学校の中央ホールに礼拝堂を置く[図2]。それは病院建築を参照し、清浄な空気の確保や監視に注意を払うものだった。ただ理念的な中心を想定しているとはいえ、システマティックな教授法に結びつくわけではない。またベンサムの教育論『クレストマティア』(一八一六)では、パノプティコンの形式にベルとランカスターのシステムを取り入れた計画案を紹介する。一二角形平面の学校は、外壁に向かい床が上昇し、中央に位置する一人の先生が六人の助教生に囲まれ、九百人の生徒を指導する[図3]。だが、最終的に監視者の存在を不要とする、パノプティコンほどの完成度はない。そして生徒の配置に限って言えば、一八二六年にJ・ストートが、成績順に並べながら輪を作る、循環形式の教育を推奨している。
さて、ベルの熱狂的な言葉「一人の教師で千人ないしそれ以上の生徒を教えることができる」は、ランカスターと同様、エコノミーの原理を強調するものだった。が、むしろ後者は著作『教育の改革』(一八〇三)で有名になり、自ら各地で教育法の講演を行ない、ロシアやフランスなどのヨーロッパ諸国にまでその方法を広める。さらにアメリカでは、彼がクエーカー教だったおかげで、すでに一八〇四年にフレンド会を通して、教育法のパンフレットがニューヨークに送られており、翌年から各地で公式な教育法として認められた。一八一八年には本人も移住し、モデル・スクールを設立。すぐにアメリカの多くの主要都市で、このシステムが学校に適用された。これが素早く受け入れられたのは、やはり現地でも急激に人口が増えており、できるだけ多くの生徒を、できるだけ少ない教師で教える必要があったからである。そして一八三一年にフリー・スクール協会からマニュアルの決定版が刊行された。
結果から言えば、さほど長続きはしなかったにせよ、一時的にでも一九世紀初頭のアメリカにおいてランカスターの方法が広がった理由は、単に都市化に伴う人口の増加で片付けるのでなく、もう少し考察してみる余地があるだろう。これについてD・アップトンが思想的な面から興味深い論を展開している。その論点はおおむね次の二つに集約される。ひとつは、ランカスターによる徹底した単位化の思想と、同時代の社会背景やジョン・ドルセイによる貨幣概念の比較。もうひとつは、共和制における個人のあり方とクエーカー教の思想の比較である。特に後者は大きな問題提起となりうるものだが、この二点を補強する知見を加えながら、以下にそれぞれを詳しく見ていくことにしたい。
建築家でもあったフィラデルフィアのドルセイは、一八一八年に物質(重さや長さ)と経済(貨幣)の世界を単一のシステムに還元することを提案した人物である。つまり異なるモノの交換を可能とする制度を整え、世界を透明に把握しようという考えだ。アップトンは、こうした見えるものと見えないものをつなぐ体系的な秩序を初期共和制が空間イメージとしてもっていたことを指摘し、ランカスターの教育法が同じ構造であると言う。そこでは子供と知識の単位とその場所が、一:一:一に対応し、教室空間の中で、序列化され配置されている。彼は知識を単純な層状のシステムとみなし、すべてを構成単位にまで還元する。したがって、アルファベットを学んだ生徒は、続いて二文字の単語、三文字の単語を勉強するのだ。さらに大きな本は無駄だから、これを断片化したカードに変えて、必要な部分を各授業ごとに生徒に配分する。教室は学習機械である。当然、全生徒の動きは号令やベルで厳格に規定された。ランカスターの平面図では、生徒の配置を抽象的な点により表現していたことは象徴的だろう[図4]。ちなみに、生徒は学習到達度によって細かくグループに分けられ、成績を明確に可視化され、個人への報奨制度は競争原理を加速させた。とすれば、見えざる手のもと自由資本主義の競争を行なう市民社会の純粋なモデルが、ランカスターの教室空間に創造されていたとみなすこともできよう。
一八世紀後半に登場した新しいアメリカの共和制は、矛盾する二つの行動原理、自由と秩序を調和するべく、それぞれの個人において自己統制を求めることになる[図5]。この内的規制は、まさに個人の良心にもとづく信仰を確立したプロテスタンティズムに通じるものだが、とりわけその一派として出てきたクエーカー教が重視したものであった。一七世紀にイギリス人のフォックスが創立し、アメリカに移住してペンシルバニアを切り開いたクエーカー教は、すべての人間に働く神の力を信じていた。そして、聖霊によってあたえられた「内なる光」が構成する神と人間の直接的な接触に、信仰の中心を置く(彼らは自伝を多く残した)。アメリカに信者ランカスターの方法を導入したのがクエーカー教だったことは前述したが、個人に内部化された神の存在こそが社会秩序を維持するのに重要な考えだったことは言うまでもない。ここで、かつて浅田彰が比較した二つの教室が思い出される。ひとつは前近代のモデルとして正面に先生がいる教室。もうひとつは近代のモデルとして、どうやら後ろに先生がいるらしいけれども、振り向いて確かめられない教室。確かにランカスターは、パノプティコンと同型である後者の洗練度に達してはいない。だが、助教生を残して教師がひっそりと退場できれば、かなり近いモデルになるはずだ。そして助教生も隠れて教室が成立すれば、教師が生徒に内部化されることに成功するだろう。
結局、アメリカでは個人意識が強くなり、個人机が導入されたり(やがて子供部屋には学習机が設置されるだろう)、あまりにも理念的な教育法ゆえに実際の学習効果が思わしくなかったことから、一九世紀の中頃にはランカスターのシステムは廃れてしまう。しかし、クエーカー教が近代施設にもたらした衝撃はこれだけではない。一八世紀末にサミュエル・テュークは、狂人収容所に監禁された信者の死を契機に、施設の改善に奔走し、クエーカー教はイギリスでもっとも開放的な狂人保護院を独自に運営する。ここでは一方的に外部から強制するのではなく、患者がある程度の責任能力を引き受ける限りにおいて、それに応じた自由が認められ、秩序のための戒律を内面化するよう働きかけるのだ。加えて大川信行が指摘するように、一七七六年に監獄の収容者慈善協会をフィラデルフィアで創設したリチャード・ウィスターと、時間測定やノルマの設定による管理法を打ち出したフレデリック・ウィンスロー・テーラーは、ともにクエーカー教の関係者である。前者は同じ土地で後に確立された独居拘禁と労働を特徴とするペンシルバニア・システムの監獄に何らかの影響をあたえているだろう。そして集団から労働者を切り離して個々に目標への競争を課す、後者のテーラー・システムが工場を変えたのは言うまでもない。かくして施設は異なっても、そこに共通した精神構造を読みとれる。
自由と秩序に挟まれたまま、同じ方向に走り続けねばならない、生徒、狂人、犯罪者、労働者たちの誕生。新しい施設の網目の中から、近代的な個人は生まれた。それはまた一九世紀において自殺者の急激な増加を招く。フランスの世紀末では、学校に疲れた少年少女たちが現在と変わらぬ理由と方法で、すでに自殺を始めていたのである。
(I)

1──ベルの推奨したコの字型配置によるシステムの教室(1848)

1──ベルの推奨したコの字型配置によるシステムの教室(1848)

2──ルドゥー「教育の館」

2──ルドゥー「教育の館」

3──ベンサムによる『クレストマティア』(1816)の学校

3──ベンサムによる『クレストマティア』(1816)の学校

4──ランカスター方式の教室(1810) 点で示された生徒

4──ランカスター方式の教室(1810)
点で示された生徒

5──ボストンにおけるランカスター方式の教室 (1826年の『相互教育マニュアル』をもとに作成)

5──ボストンにおけるランカスター方式の教室
(1826年の『相互教育マニュアル』をもとに作成)

ウィトルウィウスからルネサンスの建築書を経てデュランに至るまで、ビルディング・タイプは常に建築家の思考の中で、ある単位を担ってきた。しかしそれは、少なくともデュラン以前までは、「建築」という大項目の中で建築家の手の術を天上のカノンへと至らしめるための作業単位でしかなかった。それは様式と無関係ではないだろう。個々のビルディング・タイプを絶対的表現にどこまで近づけるか。そこから先は様式論になってしまう。
一九世紀に入り、様式とビルディング・タイプはほぼ同時に回収不能な暴走運動に入った。折衷主義は、そんな状況下では革新的でありつつも総体としては古典的な抵抗に過ぎなかった。すでに運動家は建築を構築せず、システムを構築し始めていた(にもかかわらずペヴスナーは『ビルディング・タイプの歴史』を様式の円環に閉じ込めてしまう)。
そんなシステム構築の土壌に一宗教の一派が横たわっていることは、マックス・ウェーバーを引く前にビルディング・タイプの問題として検証すべき項目であろう。ただわれわれは、ここでまた宗教の円環にビルディング・タイプを閉じ込めることもできないのである。常に開放系の中で個々の分子の動きを見張ること。
増殖するビルディング・タイプの中で、われわれはほぼ無作為に七つのタイプを取り上げた。学校、病院、倉庫、住宅教会、監獄、動物園、工場。たったこれだけでもわれわれは、これらタイプを節とする神経の網目がそこに存在することを確認した。衛生の問題はグロテスクなまでの嬌態をもつプログラムを、すべての建築に要請するだろう。warehouseはwareだけとなり、場所の問題は時間の問題にすり変わる。オフィスだろうが工場だろうが、ヒトもモノも自分の居場所が無いことに気付くことになるだろう。タイプは分節を繰り返し、増殖するが、それは進化でも発展でもない。その記述の困難さは、逆に状態の開放性を意味する。図像学的博物趣味は常に未完成に終わる。文化施設は未完成を完成させる術と永遠に付き合わなければならないかもしれない……。
そして本連載も未完成をここで完成させることになる。方舟の中の七匹も、すでにバラバラだ。    (O)

参考文献
T. A. Markus, Buildings & Power, Routledge, 1993.
D. Upton, "Lankasterian Schools, Republican Citizenship, and the Spatial Imagination in Early Nineteenth-Century America", Jsah, Sep. 1996.
H. Rosenau, Social Purpose in Architecture, Studio Vista, 1970.
大川信行「教室内部の史的考察」(一九九三)。
安川哲夫「実際的教育の改革者A・ベルの教育=訓練思想とその実践」(『金沢大学教育学部紀要』三〇号、一九八一)。
菅野裕子「近代の学校建築に関する研究より」(『建築雑誌』一九九七年二月号、日本建築学会)。
M・フーコー『狂気の歴史』(田村俶訳、新潮社、一九七五)。

*この原稿は加筆訂正を施し、『ビルディングタイプの解剖学』として単行本化されています。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>大川信行(オオカワ・ノブユキ)

1968年生
建築家。

>『10+1』 No.12

特集=東京新論

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14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようと...

>菅野裕子(スゲノ・ユウコ)

横浜国立大学 大学院工学研究院 システムの創生部門・人もの空間のシステム 建築学コース 助教。