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自己修復する機械:工場──フォーディズムからトヨティズムへ | 大川信行+五十嵐太郎
Machines and Plants That Fix Themselves: From Fordism to Toyotism | Okawa Nobuyuki, Igarashi Taro
掲載『10+1』 No.11 (新しい地理学, 1997年11月10日発行) pp.33-36

私は建物はバラックでも良いから幾何ら金が掛っても良い完全な製作の出来る一通りの機械を買入れる事に努力しました


トヨタ自工の祖とも言うべき豊田喜一郎の言葉である。住宅と共に近代建築の黎明期では華々しく取り上げられた工場だが、技術の進歩に伴い、建築家が建築的な手法でその本質にまで食い込むことが難しい時代となった。既にトヨタ自動車が立ち上った時、工場のダイナミズムは規模やデザインの記号性よりも、精緻な生産システムに移行しつつあった。
大量生産という二〇世紀最大の発明ともいうべきシステムの総体、フォーディズムはT型フォードの発売と同時に鳴り物入りのデビューを果たした。その最大のイノベーションは組み立てラインというアイディアであり、そのための実験が一九一〇年前後に行なわれている。それまでの自動車工場では、組み立てる場所に部品を運んでいたのだが、ここでは建物の一方の端に最初に必要な部品を置き、シャシーの移動する線に沿って部品を次々に並べ、シャシー・フレームをソリに乗せてロープで引っ張って組み立て作業をする。車軸と車輪を取り付けた後はこれを利用してシャシーを動かすことになる。一方で個々の部品はそれぞれ組み立て作業(ラジエターにホース類を取り付けるなど)を行なっておく。一連の作業が短くすめばすむほどコストは下がり、スケール・メリットも増大するという円環。
「作業時間」は新しいテクノロジーによってもたらされた。一八八〇年以降、機械計時器は目覚ましい発展を遂げている。様々な鉄道標準時間帯を統一すべく「連動クロック・システム」なる電気制御時計が開発され、スレイヴ・クロックとマスター・クロックが何マイルも離れた位置で時を共有することが可能になった。「標準時」は以後絶対的な権威を得ることになるのだが、ここにも、それにより絶対的な権威を得た男がいる。フレデリック・W・テイラーである。
テイラリズムと呼ばれる彼の工場管理の手法では、まず工場に中央計画室なる全ての権限と情報が集中する場所を設定する。そして工場内の各職種別に工員を一〇─一五人ほど選び、作業の基本動作に要する時間をスレイヴ・クロックで測る。誤った運動、遅い運動、不用な運動をすべて取り除き、最も速い運動、一番よい用具を決定し、それを標準の作業系列とするのである。言うまでもなく、ここでかかる時間は中央計画室のマスター・クロックのもとにその開始と終わりが管理されるため、工場全体が言わば機械仕掛けとなって動く。ここでは工場が時計のメタファにもなり得ている。
時間は有効に使われるが、場所はむしろ浪費された。スケール・メリットの追求は、結果として大ロット生産を招き、一定の消費に対して波のある生産と過大な在庫を抱えることになる。工場内のある工程が時期と量についてバラついた形で部品を引き取ると、その前工程はどうしても人と設備に余力を持たざるを得なくなる。その悪影響は工場内部はおろか外注企業群の生産工程にも伝播する。結果としてその産業全体が、広大な倉庫とそれを管理する人間、伝票類を抱えることになってしまう。ここで我々は似たような問題が倉庫/物流センター、つまり流通業界にもあったことに気づかねばならない。その詳細は本連載の三回目に譲ることにするが、実は工場はその流通業界から、場所の経済とも言うべき影響を大きく受けている。
例えばスーパーを生産ラインに見立てるとどうか。客=後工程は、商品=部品を、必要な時に必要な量だけスーパー=前工程へ買いに行く。前工程は、すぐに後工程が引き取った分だけを補充する。物の流れをリアルタイムに把握し供給する流通界のPOSシステムの思考がここでも有効だ。まだコンピュータなどない一九五三年にこれに気付き、実践したのはトヨタの元副社長、大野耐一である。後に述べる他の手法と合わせて、ここにポスト・フォーディズムとしての「トヨティズム」が産声を上げることになる。
先の例でいけば、客が購入した品物をレジで打ったあと、購入された品物の種類と数を、現在ではレジと連動したPOSシステムが把握する訳だが、トヨティズムではこれを長方形のビニールの袋に入ったカード(「かんばん」と呼ばれる)に記憶させる。この紙切れが、大きく分けて「引き取り情報」、「運搬指示情報」および「生産指示情報」として、工場内及び外注企業相互間の情報として駆け巡ることになる。例えばスーパー・マーケット自身が隣接地に商品の生産部門を持っているとすると、店との間の「引き取りかんばん」と連動した「生産指示かんばん」によって引き取られた数量だけが作られる。「一枚の紙切れで、生産量・時期・方法・順序、あるいは運搬量・運搬時期・運搬先・置き場所・運搬具・容器などが、一目瞭然」(大野『トヨタ生産方式』)となる訳だ。
一般に製造業では仕掛計画表、運搬計画表、生産指示書、納入指示票といった帳票の形で、何を、いつ、どれだけかという情報が作られ、現場に流れる訳だが、これでは「間に合えばよい」という工程が組まれてしまい、早くできすぎた部品の整理に必要以上の人員を抱えることになる。また、旋盤工は旋盤しか扱わない、旋盤を五〇台も一〇〇台もまとめて配置するとなると、エレベータ計画時の台数算定のようにピーク時に合わせて計算するため、機械も人間もストックとして数多く必要となる。そのような条件のなかでは量産によってしか人件費は安くならず、償却負担を軽くすることはできない。勢い、大型の高性能・高速度の機械に頼るだけになってしまう。
トヨティズムでは逆に、工場内部はおろか外注部品をつくる下請企業を含めた全ての生産工程が、量は少なくても常に一定の生産が維持できるような施設配備を行なう。例えばコロナとカリーナを作る工場では、一つのラインにコロナとカリーナが交互に流れ、車種別にまとめた生産はしない。それどころかセダン、ハード・トップ、ワゴンの違いや、ボディの形、排気量、車格、変速方式、カラー、種々のオプションの組み合わせにより無数の、言わば全く違う車を一つのラインから産み出す。これでロットが小さくなり、生産のバラツキが最小限になる。一番厳しいのはプレス部門だ。ラインの流れの中で次々と変わる種類に応じて、プレスの金型を替える、いわゆる「段取り替え」を頻繁に行なわなければならない。トヨタ自工内部のプレス段取り替えは、昭和二〇年代、二─三時間を要していた。それが小ロットの生産を前提に改善していった結果、三〇年代に入って一時間を大きく割り込み、それが一五分となり、四〇年代の後半には三分にまで短縮され、今日に至っている。
「かんばん」は常に現物と共に使用される。例えばエンジンやトランスミッションなどのユニットの引き取りには、一定量しか積めない台車を利用する。「かんばん」は付けられるが、台車自体も同時に「かんばん」の役割を果たす。組み立てライン側のエンジンの数が基準数になると、エンジンを取り付けている部門が空の台車を持って前工程のラインへ行き、それと引き換えに必要なエンジンの積まれた台車を引き取る。ユニットの組み立てラインでは、物を必要以上に作りたくても空の台車がなければ完成品の置き場所がないので、自然に作り過ぎがチェックされる、という仕組みだ。
もう一つ例をあげよう。自動車工場では、運搬合理化のために、チェイン・コンベアが動いている。これに部品を吊り下げて塗装をしたり、組み付け用の部品をライン側へ供給するのだが、この場合も、「かんばん」がなければハンガーに部品は掛けられない。必要分の「かんばん」を付け、表示してある部品の数だけのハンガーが空けてあれば、必要な部品の円滑な引き取りと供給ができるようになる。
更に現在ではプログラムによって製造方法を容易に変更することができる生産システム、FMS(Flexible Manufacturing System)が構築され、CIM(Computer Integrated Manufacturing)の展開が本格化している。CIMを導入すれば計画、設計、製造、販売など各部門で部分的に行なわれてきた自動化が共通のデータベースに基づいて統合されるようになる。きめ細かな発注が可能になる訳だ。単に「イン・タイム」(間に合う)というのではなく「ジャスト・イン・タイム」に生産し、引き渡す。これによって場所の経済が達成されるのだが、トヨティズムにはもう一本、システムを支える大きな柱がある。それは「ニンベンのある自働化」である。トヨタの社祖である豊田佐吉(一八六七─一九三〇)の自働織機は、経糸が切れたり横糸がなくなったりした場合に機械が止まる仕組みになっていたという。現代でも工場のほとんどの機械設備には、例えば「定位置停止方式」、「フルワーク・システム」、「バカヨケ」その他、様々な安全装置が付加されている。現場の工員に裁量の余地を与えないフォーディズムに対して、トヨティズムは工員の自己規律と自主的判断を重視する。当然、管理の意味も大きく変わる。正常に機械が働いているときに工員は不要だ。異常が発生した時に初めて必要となる。ラインの止め方は工場ごとに様々であるが、例えばある工場では、紐を引っ張るとチャイムが鳴り、行燈掲示板が点滅し始める。一分以内にもう一度紐が引っ張られなければ、ラインは止まることになる。救援には黄色のボタンを押し、ライン・ストップには赤色のボタンを押す等々、労働者自身の判断でラインを止めることができる。結果、一人で何台もの機械が持てるようになり、工数低減が進み、生産効率は飛躍的に向上する。テイラリズムから始まり、フォードの工場に代表される従来の生産ラインが人間─機械の完全なシンクロとその機械的な集合を目指しているのに対し、大野耐一が意図したのは、工場全体が自己修正・修復を図るオートマトンとしての生成体だ。昨今、世界の各企業が認証取得に躍起になっている品質管理の国際標準ISO9000シリーズは、それをゆるぎないものにする自己修復のソフトウェアとして立ち上がったものだと言えるだろう。現実はそれほどスマートではないが、イデアにしか思えなかったものが、簡単にシステム/ソフトウェアとなってしまう時代が来ている。    (O)

1──ライン生産以前のフォードの組み立て工場 (Terry Smith, Making the Modernより)

1──ライン生産以前のフォードの組み立て工場
(Terry Smith, Making the Modernより)

2──ライン生産開始直後のフォードの組み立て工場 (Terry Smith, Making the Modernより)

2──ライン生産開始直後のフォードの組み立て工場
(Terry Smith, Making the Modernより)

もっと速くモア・スピード!」オープニングで時計が映しだされる『モダン・タイムス』(一九三八)において、TVモニター付き管理室の社長はこう怒鳴る。恐るべきことに、エレクトロ鉄鋼会社の工場は、生産効率をあげる目的で、流線形の自動食事機械を導入しようとまで試みた。ゆえに最後は、人間が機械化されねばならない(直喩として機械の部品、ネジにされかけた『銀河鉄道999』の鉄郎を想起せよ)。チャップリンは流れ作業のネジ締め運動を休憩時間も続ける。だから彼が壊れた自動機械になって、歯車と戯れ、メカニカル・ダンスを踊るさまは美しくもあるが、笑いを誘い、そして悲しい。これに関してレイ・チョウの論「ポストモダン自動人形オートマトン」は、他者の自動化が見世物性をもつことを指摘するが、働く日本人とロボットをダブらせたスティックスの〈ミスター・ロボット〉(一九八三)なども、その延長線上にあるだろう。
さて『モダン・タイムス』が近代という時代をよく描いているのは、工場に限ったことではない。動作がおかしくなったチャッブリンは、更正のために病院へ行き、退院後は無実の罪で逮捕され、囚人7号として監獄で過す(ここでも規律化された反復運動を強要される)。そして退所後は欲望の喚起装置であるデパートの夜警に勤務し、そこをクビになってまた工場に通う。つまり、工場→病院→監獄→デパート→工場という近代ビルディング・タイプのループを形成するのだが、同時にこれを逃れることが映画のテーマだった。したがって「人間の機械化に対抗する物語」は、街を背に、高速道路を歩きだすラストシーンを選ぶ。
とはいえ、グロテスクに機械化された身体の行く先は? 『快楽共犯者』(一九九六)のごとき、自慰機械に身をゆだねる人々がいるだろう。そしてホドロフスキーの『ホーリー・マウンテン』に出てくる、建築家が披露した自由都市シティ・オブ・フリーダムの構想。寝るためだけの棺桶状個室が並ぶ、透明な集合住宅だ(諸設備を省き、食事は工場で、排泄はトイレ車で済ます)。また同じ映画には究極のラブマシーンが登場する。電子棒により交接し、機械が機械を生むのである。    (I)

参考文献
桜井哲夫『「近代」の意味──制度としての学校・工場』(日本放送出版協会、一九九〇年)。
Frederick Winslow Taylor, M.E., Sc.D., The Principles of Scientific Management, 1919.
 大野耐一『トヨタ生産方式──脱規模の経営をめざして──』(ダイヤモンド社、一九七八年)。
Daniel Nelson, Managers and Workers - Origins of the Twentieth-Century Factory System in the United States, 1880-1920 , The University of Wisconsin Press,  1919.
Terry Smith, Making The Modern - Industry, Art and Design in America, The University of Chicago Press, 1993.
マイケル・オマリー『時計と人間──アメリカの時間の歴史』(高島平吾訳、晶文社、一九九四年)。
福井憲彦『時間と習俗の社会史 生きられたフランス近代へ』(新曜社、一九八七年)。
マイク・パーカー、ジェイン・スローター『米国自動車工場の変貌「ストレスによる管理」と労働者』(戸塚秀夫訳、緑風出版、一九九五年)。
山田鋭夫・須藤修『ポストフォーディズム──レギュラシオン・アプローチと日本』(大村出版、一九九一年)。

*この原稿は加筆訂正を施し、『ビルディングタイプの解剖学』として単行本化されています。

>大川信行(オオカワ・ノブユキ)

1968年生
建築家。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>『10+1』 No.11

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