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計画者のテクスト──ケヴィン・リンチのDuplex-Complex | 大島哲蔵
A Planner's Text: Kevin Lynch's "Duplex Complex" | Oshima Tetsuzo
掲載『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) pp.28-30

心血を注いだテクストの出版を目前に著者が亡くなるというドラマは、死神の非情さを思い知らされるが、ゆかりの者が手を尽くして故人が浮かばれる形で出版に漕ぎつけたなら、それは何よりの追悼となるに違いない。ケヴィン・リンチの遺著となった『廃棄の文化誌』(工作舎、一九九四年)は彼の死後にMITでの生徒だったマイケル・サウスワースが遺稿をアレンジするなかで完成したのだが、その意義はモーツァルトの『レクイエム』での経緯ほどではないにしても、決してささやかなエピソードとして片づけるわけにはいかない。現に批評子もリンチに興味を抱いていたものの、この魅力ある出版を知るまでは、改めて彼の仕事を振り返ることはなかった。
過去に幾つかの名著をものした高名な学者が、死の間際にその着眼点をシフトしたとすると、盛年期の論述への見方も微妙にズレてくるかも知れず、一般に主な業績と信じられているような「人々はいかに自らの居住する都市のイメージを形成するのか」といった都市空間の認識論や心理分析とは別の視点を時代の推移──ドロップ・アウト(ヒッピー)→軍拡競争→地球規模でのポリューション──のなかで募らせていた可能性が否定できなくなる。
確かに『Wasting Away』(Sierra Club Books, 1990)──むだに使い尽くす──という原題は都市計画学の牽引者で、三〇年の長きにわたってMITで教え、実地の地区計画の経験も豊富なリンチとしては意表を突いた感があり、本来自分がなすべき最終的な局面──都市の生態学(とくにその終末トリートメント=廃棄とリサイクル)を思想的に裏付け、実際面でケース・スタディを展開する──の端緒を仕上げようとした矢先の急逝であった。

タリアセン・コンプレックス

ケヴィン・リンチ(一九一八─八四)はシカゴで生まれイェール大学卒業後、一九三七年から三九年にかけてF・L・ライトに師事した。後年の彼が都市問題をリアリスティックに論じる一方で、突如として詠嘆的なトーンで自然と人間を取り巻く環境の調和や歴史的に形成された場所に寄せる思いを説いたとすれば、それはまずこの短いが決定的なライトとの出会いがもたらしたものだろう。《図面に向かうライトの回りに集う一五人の「使徒」》というタリアセンでの有名な写真(『アーキテクチュラル・フォーラム』誌の一九三八年新年号の口絵として使われた)で、導師の一番近くに密着しているのが若き日のリンチであり、また主著のひとつ『Site Planning』(初出一九六二年、第二版からの邦訳『敷地計画の技法』、鹿島出版会、一九八七年)の第三版(死の年の仕事)で二番目に現われる例図がライトのミラード邸だったりもするが、一年半でタリアセンを辞した際の「このままではのみ込まれて自分を見失ってしまう」という言葉からかえってその傾倒ぶりが偲ばれる。
彼に遅れること一〇年、一歳年かさのイタリア生まれの建築家がタリアセンに到着する。そのパオロ・ソレリもタリアセンの魔力に捕捉され、近く(北へ八〇マイル)の崖淵で「アーコサンテ」と命名されたコミュニティ実顕地の建造に乗り出す。ソレリは七八歳になる今もこの努力を継続中なのだが、リンチは『文化誌』のプロローグで彼に言及する。皮肉にもそれは廃棄のない、つまり自己完結した完全管理社会のネガ・イメージとして語られ、廃棄に満ちたもうひとつの未来青図(戯画化された高度産業都市)と対比され、「どちらも魅力的ではない」として斥けられる。
ソレリは自身の信条を集約して『アーコロジー:人間のイメージのなかの都市』(MIT Press, 1970)を出版するが、一方リンチは『都市のイメージ』(MIT Press, 1960, 邦訳版は品切れ)を世に問うた。同門の二人は「イメージの都市」と「都市のイメージ」という対極の道を進むことになった。しかし晩年のリンチが、それまで彼がひたむきに再生と取り組んで来た「廃棄され、すたれた場所」にも「廃墟と同様の魅力がある」と語るに至ったとすれば、果してどちらが過激なユートピアンなのだろうか。ちなみにブルース・ガフ(一九〇四─八三)も当地にやって来なかったコンプレックス患者である。共通の症状は「参加型コミュニティ愛好癖」なのだが、その雛型がタリアセンというプチ・コミューンに由来すると言ってもそれはど不当ではないだろう。

モダニズム・スペリオリティ・コンプレックス

イェール大学建築学科在学中(一九三五─三七)に主流を占めていたボザール派の保守主義に反発し、都市計画に興味を持ち始めていたリンチは、それでも故地での新勢力──IIT(イリノイ工科大学)でのヒルベルザイマー(三八年に着任)らによるモダニズムのアーバニズムには接近しなかった。これにはいくつかの理由が考えられる。基本的に彼は、すば抜けた個性が実現する芸術的な成果品にはそれ程執着せず、普通の人々が織りなす社会模様のポテンシャルを重視する傾向があり、この点でソレリやガフとは決定的に資質を異にしていた。シカゴのノースサイド(ミシガン湖の近く)で育った彼は、進歩主義教育でつとに知られたパーカー・スクールという高校に進み、在学中には社会思想の勉学に熱心だったという証言も残っている。それよりもこの時期が折しも「大恐慌」(一九二九─)と重なっていることの方が大きい意味を持つかも知れない。また当地での大立者ダニエル・バーンハム(一八四六─一九一二)が確立した都市の美的成就と、それに結合された市民生活の向上──『Plan of Chicago』(初出、一九〇八)──なる理念を知らなかったはずはない。さらに疎外された建築学徒に甘んじた時期には、いわゆるアメリカ都市社会学(シカゴ学派)の業績──E・W・バージェスらによる都市研究、特に『The City』(Univ. of Chicago Press, 1925)──の影響を受けなかったとは考え難い。そしてその研究の主眼は今ではすっかり評判が地に堕ちた「ゾーニング」──しかし当時としては地区の性格を特定してリアレンジする画期的な新手法だった──や階層・人種別のマッピングなどに向けられ、後にリンチの方法の基軸を構成することになる"Neighborhood"(近隣)の概念をも案件として提起していた。そうした素地を形成していた彼にとって、モダニズムの社会楽観主義(工業化と分配の平等化)や図式的な都市スキームが眉唾物に映じたとしても「さもありなん」だろうし、ボザール流のシティ・プランが、近代的な幾何学に焼き直されたトリックや両者に通底する宗派性を看破する洞察力は当然身につけていた。

Living Cityを超えて

時間が相前後するが、ライトが一九二一年以降暖めてきた理想都市(《ブロードエーカー・シティ》)の構想をモデリングしたのは一九三四─三五年の冬シーズンで、それはロックフェラー・センターで開かれた展示会のために用意された。この《デモクラシティ》は一二フィート(約三・六メートル)平方の巨大モデルに仕上がり、タリアセンの製図室に設置されていたから、これを日々眺めることになったリンチの心中はさぞ複雑だったことだろう。ガーデン・シティとアーツ・アンド・クラフト・シティが合体し、なおかつデザイン上は破綻を見せないそれは天才の証しであると同時に、どうしようもなく遅延した〈観念=都市〉の見本だった。恐らくその反動からか、タリアセンを離れたリンチは「実地技術を修得する」と称して土木・構造エンジニアリングを勉強したり、「生態学」をブレイ教授(河合健二のような人物らしい)のもとで学んだ。この体験は都市イデオローグとしてよりも都市テクノクラートとして生きようとする姿勢を写し出している。兵役に服した後、MITで都市計画の学位を取ったのはルイス・マンフォードの『The Culture of the Cities』(一九三八年、邦訳『都市の文化』、鹿島出版会、一九七四年)を読んだからだとも言われている。こうした経緯を辿った彼のテクスト(とくに『敷地計画』など)は技術書的な色彩を強めると同時に、トータルな都市のヴィジョンを自らに課しながら記述されることになり、そのBiocity(バイオシティ)とは当時の彼にとって、オーガニック・アーキテクチャーならぬオーガニック・シティ(ただし形態のではなく都市組織の)以外には考えられなかった。この結果、都市計画よりも計画都市が内包する問題地区のre-habitable rehabilitationと取り組む姿勢が生れた。
ライトは死の前年(一九五八年)に旧著を書き改めて『Living City』(邦訳『ライトの都市論』、彰国社、一九六八年)を出版したが、その末尾に「付録」として奇妙な引用文が登場する。
「ラルフ・ワルド・エマーソンの農業についての随筆より」と銘打ったそれこそ、アメリカ人の自然観を規定しつづけたオブセッション(強迫観念)であった。前掲書からその一部を引用する。

農夫の召使いは地質学であり、化学であり、石切場の空気や小川の水や雲の稲妻であり、虫の脱皮や凍てついた土を耕す鋤である。彼の生まれるずっと以前に、太陽は幾世紀にもわたって岩を砕き、土地を肥やし、それを光と熱に浸し、次いで野菜と森林でおおい、腐って草原の泥炭になるみずごけを繁茂させていった。
(谷川夫妻訳)


エマーソン(一八〇三──一八八二)はW・ホイットマンと並び称される「超越主義」の詩人でマサチューセッツを本拠に、ヨーロッパのロマン主義と東洋の超自然主義、アメリカの楽観主義と実用主義を独自のアマルガムに仕立て上げた。ライトはおろか前述のD・バーンハム、L・マンフォード、そしてセントラル・パーク(ニューヨーク)を計画実施したフレデリック・ロウ・オルムステッドなど、およそ彼の影響を受けないプランナー、理論家などいるはずもなかった。リンチも例外ではなく、土壌学や微気象学への傾倒ぶりなどはそのプレゼンスを反響させている。
このフロンティア、ロマンチシズム(その背景の一端は前号末尾の生井氏の「われアルカディアにもありき」にも窺える)の残滓こそ、晩年のプランナーに特異なテクストを遺させたモティベーションであり、Rynch(つまり私刑)というおよそ人柄と似つかわしくない名を持つ、だが都市という無法者に敢然と立ち向かったヤンキーを支えた屋台骨だった。
(おおしま  てつぞう/建築批評)

リンチの“ショット・ガン”(ヤンキー・ファンキー・ストリップ・シティ) 都市を手描きの模式図で示し、解説を加えるのが彼好みの方法だった。都市の認知は、通常の地図や数量データを介してではなく、プライマリーなパターン認識を通じてなされる──との確信が彼にはあった。

リンチの“ショット・ガン”(ヤンキー・ファンキー・ストリップ・シティ)
都市を手描きの模式図で示し、解説を加えるのが彼好みの方法だった。都市の認知は、通常の地図や数量データを介してではなく、プライマリーなパターン認識を通じてなされる──との確信が彼にはあった。

>大島哲蔵(オオシマ・テツゾウ)

1948年生
スクウォッター(建築情報)主宰。批評家。

>『10+1』 No.06

特集=サイバーアーキテクチャー

>都市のイメージ

2007年5月