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光と影の形象──写真と建築 | 安斎重男+ジュディス・ターナー+栩木玲子 訳
Figures of Light and Shadow──Photography and Architecture | Anzai Shigeo, Judith Turner, Tochigi Reiko
掲載『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) pp.17-23

安斎…僕がサブジェクトに選んでいるのはパフォーマンス、インスタレーションとか彫刻ですが、あなたの場合も自分のサブジェクトにしているものは他人がつくったものというか、建築という他のアーティストがつくったものですね。建築以外のものも撮られることはあるのですか?
ターナー…基本的には建築を撮っていますが、とくに最近では「冬の樹木」を撮るようになっています。多くは建築ですが、私は建築や樹木を彫刻として撮影しています。樹木の写真は公式には発表してはおりませんので、ここでは触れないでおいた方がよいのかも知れません。
安斎…建築を彫刻的なアプローチで撮影すると言われますが、とくに建築に関心を持った理由というのは?
ターナー…そもそもは純粋な直感と本能からでした。最初はニューヨークの街を歩きながら建築現場に転がっているいろいろな素材の写真を撮っていました。フォルムや構造に惹かれたからだと思いますが、それをピーター・アイゼンマンに見せたら、ビルディングを撮ったらいいと言われて建築に移っていったわけです。アイゼンマンの助言がなくても建築へ向かっただろうことは目に見えていますが、いちおう彼のおかげ、と言っておきましょう。
安斎…僕が写真を撮りはじめたときのことについて言うと、なかなかうまい説明が見つからないのですが、あなたがアイゼンマンに助言をもらったように、僕の場合も周辺のアーティストから受けたリアクションというのが大きく、褒められていい気分になり、結局そっちの方へずるずるといってしまったわけです。ただ、写真というメディアを現在選んでいますが、僕にとって写真というのは一番ではなく、大事なものの次にあるものなのです。ある意味では二次的なものであり大前提にはない。そういう意味であなたの写真観がどの辺りにあるのかということに興味があります。
ターナー…世界の見方について考えた場合に、私は世界をコンポジションとフォルムとして捉えているわけですね。建築はサブジェクトとして面白いのですが、「光と形」──光によって形がいかに変容していくか、形と形が侵入ベネレイトしあう、またはどのように並列ジャクスタポウズしたら面白いかということを考え写真を撮っているわけです。私は平面──それが交差しあう様──に興味があるのです。
はじめは確かに直感や本能に基づいて写真に撮っていて、それを他人に見せたところ好評でした。ピーター・アイゼンマンやジョン・ヘイダックがなぜ褒めてくれるのか自分ではよく理解できなかったのですが、今では直感から離れて写真を撮っていくようになったのです。
現像するときにも美しく現像されるに越したことはないのですが、それを暗室で操作してことさら美を強調したりするようなことは一切しないようにしています。ネガをプリントする場合にもストレートなかたちで、小手先だけで終わらないようにします。
写真を撮る場合、偶然性に頼ることを私は一切しません。厳しい姿勢だと自分でも思いますが、カメラの後ろに立つと緊張しますし、集中もします。ですからできあがったベタ焼きを見て驚くということはめったにありません。完璧さパーフェクションというものは絶対に到達しえないものだとは分かっているのですが、これは世界に、一種の秩序を作り上げるための苦闘なのです。
安斎…そのような写真の成立のさせ方は、他の絵画や彫刻の人達が素材を選ぶような、非常に芸術的な創作行為だと思います。僕の場合は写真の機能のさせ方というのは社会性を帯びた、俗っぽい言い方をすれば「情報」に近いような意味を写真にもたせる、いわば「関係の作り方」なのです。その場における物の関係を際立たせるために写真というものが必要なのです。造形的であるよりは物や空間のまったく新しい関係を発見してその場所にカメラを差し込んでいるような感じがします。あなたの話を聞いてみるともっと写真そのものが個人的なのです。そのところが大きな違いだと思います。
さきほど僕の作品を見ていただきましたが、例えば御影石を割ってその割れたところに顔写真が嵌まっている作品がありました。それを見てメイプルソープは写真と木を組み合わせたりいろいろやっているがこんなにうまくはいってないというようなことをコメントされていたのですが、ターナーさんのその辺の印象をもう少し詳しく聞きたいのですが。
ターナー…特にイサムノグチのシリーズは気に入りました。あれを見て実際にその彫刻を見ているかのような感覚が迫ってきましたし、またイサムノグチの肖像写真が大変良かったと思います。
安斎…僕のやり方は人間の可能性への興味に支えられています。ライフスタイルも含めて僕らアーティストは表現しているけれども、建築もパフォーマンスも人間もほとんど皆が同じレベルにあるのです。これはこういうふうにこれはこういうふうにというような方法論ではない。僕がイサムノグチの肖像を撮ったのはイサムノグチの彫刻を撮っても同じことで、できるだけそこに落差はもたないようにしている。それは何に支えられているのかと言うと、イサムノグチへの興味。それ以上でも以下でもない、客観的なスタンスです。
また写真にあまり感情を出さないということに興味があります。被写体に、写真で凸凹をつけることに興味をもっている普通の写真家のやり方では、非常に醒めた関係をもちにくい。むこうが仕掛けなければ、こちらが仕掛けるというような、そういうようなやり方に僕は興味がなくて、絡まないなら絡まないままの方がいい。だから非常に退屈な写真だと言われることが多いのですが、淡々としたシステムを作りその総体で発言する。斎藤義重の作品ではないが初めも終わりもない、いつも進行形で見せているという感じがします。
僕から見るとあなたの作品は、絵描きが絵を描くように一枚一枚マニアックに入っていく感じがする。逆に僕にはひとつの写真に対する興味というのはないのです。僕のあなたの写真に対する印象というのはアブストラクトなペインティングを見ている印象にすごく近いものです。

安斎重男氏

安斎重男氏

ジュディス・ターナー氏

ジュディス・ターナー氏

ターナー…しかし私は絵画を模倣するようなコンセプトをもっているわけではありません。
安斎…感受性が絵画的であるという意味です。密度が高いし、ステラのブラック・ペインティングを見るように、限定的で禁欲的な美しさというのが魅力だと感じています。さきほど光と影と形に興味があるとおっしゃっていましたが、それらは非常に効率よく写真の中に現われていると思います。そして、もうひとつ驚いたことは、あなたが自分でプリントをしないことです。ぼくはすべて自分でプリントしているものだと思い込んでいました。日本的に考えるとすべてに責任をもって、乾燥、仕上げまで目を配りながらフィニッシュするものだと思っていたのですが。
ターナー…私が自分でプリントをしないということを知っている友人から、プリンターも著作者として同列に扱うのかという質問をされて驚いたことがあります。基本的に私にとってカメラは道具であり、プリントに介入しないといっても、印画紙の選択や現像の仕方は非常に厳密な指示を出してありますので、自分の現像の一貫性というものは守られています。今までにも何人かのプリンターを使ってきましたが、いずれの場合にも問題が起きたことはほとんどなかったし、焼き直しというのも稀です。プリンターというのは技術者クラフトマンであってアーティストではないと思います。以前は私もプリンターと一緒に暗室に入って試行錯誤することもありましたが今はそんなことも無くなりました。たしかに現像液に浸すと像が浮かび上がってくる、一種魔法のような興奮する瞬間はありますが、やはり自分が興味をもつのは美しく現像することではなくてアイデアなのです。印画紙はいつもその作品に適した物を使おうとしてきましたが、それはイメージが単に表層にちょこんと添えられているというような印象を避けたかったからなのです。
最近の試みとして、「製版を使った写真(フォト・エッチング)の本」を出そうとしているのですが、製版というのは三五段階ものステップを経なくてはならないのです。その仕事ではわざわざマサチューセッツに住んでいるプリンターの仕事場まで行っていろいろな試行錯誤をしました。
ところで安斎さんの作品には一枚の写真で完結させるのではなく、何枚かでセットにして扱うというような作品があるかと思うのですが、私もシリーズには興味があってその辺りからの共通点は見出せないでしょうか?
安斎…ニューヨークの建物の壁を撮ったシリーズ写真があるのですが。
ターナー…ええ、いいですよね。
安斎…あれは一枚ずつ見せても意味がないと思います。本当は一〇〇枚ぐらいで見せたい。そういうふうに見せるのが僕の技術なんです。それは一枚の写真が他の写真を置くことによって新たな関係を生み出す。その関係性によってその写真が綺麗に見えたり、シリアスに見えたりするある種のゲームのようなもの、いくつかのものによってできる複雑な関係によって起こる新しい意味、そのことに非常に興味がある。逆に一枚の写真で「あっ」と言わせる事は苦手だと言ってもいいし、文字で書いたほうが早い(笑)。写真に自信が持てないということになるのかも知れないですね。写真を撮る以前の、観察するときにはエモーショナルな部分はあります。それをそのまま写真に引きずるということが果たして自分に適しているかどうか分からない。もちろん感情的につき動かされることなしでは仕事はできません。ただ、写真を「撮る」という行為に関してだけ言えば、被写体と自分との関係というものを醒めた状態においておきたいと思うのです。
ターナー…シリーズを、見ている人間が組み立てる、ひとつの写真とひとつの写真の間で失われたものを見ている人間が想像力を使って補充し、自分で作り上げていくことができるというそのアイデアは共感できます。
物事が進展していく様を見るのがとても面白い。例えばマイアミで撮られた、クリストが島を包んでいる写真はプログレッションが入っていてとてもよかった。
安斎…最近ある人に、君は写真を見せるよりも自分で一枚一枚紙芝居のように語った方が写真がうまく機能するのではと言われたことがあるのですが、行間というか、写真と写真の間から汲み取れるものもありますよね。
一番最初にあなたの写真を見たときに興味を持ったのは、視覚的なものが徹底的に追求されて印画紙のなかに込められているという気がしたからです。僕は建築ではない分野でもあなたはやれると思ったのですが、あえて建築を選んできたということが今日の話でよく分かりました。先ほどの冬の樹木を撮っているという話でも、逆にもっぱら建築を撮ってきたことが分かるような気がします。そのようなことからいうとあなたの写真は「建築写真」とは言えない気がします。建築についての写真でもない。あなたが興味のある光とフォルムのたまたまの素材であって、いわゆる日本の建築写真と言われるものとはかなり程遠い気がします。
ターナー…その点は正確にしておきたいのですが、私の写真の撮り方にも二通りあって、ひとつは非常に抽象的に撮ってしまう、一体何処の建築物から撮ったのかも分からないくらいに抽象性を強く打ち出した写真があります。それは建築家に依頼されたものではなく、私が非常に個人的に撮るものです。一方、建築家に依頼されたときは建築の何が特別なのか、その建築物の特徴をつかんで写真にしようとしています。私は各々の建物が違って見えて欲しいのです。
安斎…例えば僕の《トゥエンティ・ファイブ・トランスレイション》という作品は、二五種類の彫刻が置かれている二五種類の写真があってとてもタイトルが気に入ったと言って頂いた。あなたの前の仕事であるグラフィック・デザインから建築へと足を踏み入れるヴィジュアル的な好奇心のようなものがそこに見えるように感じます。僕自身もあなたも写真の教育は受けていないわけですが、技術的なところはミニマムに抑さえておいて、自分の最初のワン・アクション──そっちの方に寄っていった最初の気持──を大事にしながら仕事をしているなと感じられます。どういうふうにしたら美しいかということよりも、自分が目の前の対象物に対してどのような興味を示すかということを優先している明快さが感じられます。
ターナー…写真と目の前にある作品、アクトとの関係について言えば、私自身も興味があるのはアートに関するアイデアです。
また何かを認識するときの曖昧さというものに興味があるので、私の写真は、背景が前景となったり、前景が背景となったり、あるいはカーブがあたかも平らであるかのように写っていたり、縮尺や遠近感が乱れていたり、それは全て曖昧さアンビギユイテイなのです。それを建築を通して表わしてはいますが、もっと大きなヒューマンなものなのかも知れないし、もっと大きなパースペクティヴで捉えられるのかも知れません。
私は、非常に長い間にわたって建築を撮り続けているわけですが、建築を撮っていると「探検(quest)」という要素がぎっしり詰まっていて、だからこそこんな永きにわたって撮り続けているのだと思います。
また建築の写真を撮る行為は、それに個人的な解釈を与えることだと私は考えています。建築というものは非常に抽象的な行為なのですが、その抽象的なプロセスをもっと進めているのだという実感はあります。建築写真とはいってもそれは断片フラグメントであり、当然そのコンテクストから抜き出すという作業です。ひいては関係リレイシヨンシップからも抜き出すということになるわけですから、その段階で新たな意味、解釈を付け加えると同時にまた相反するその建築のエッセンスをも抜き出そうとしているのです。それは素晴らしい体験であって、だから写真を撮り続けているわけです。「写真なんかどれほどのものか」と思うことはありますが、私の扱っている概念は手ごたえのあるものですし、それはとてもリアルなものです、私は自分のことを浮わついた人間だとは考えていないものですから。
[一九九四年五月八日、神奈川県立近代美術館にて]

ベナセラフ邸増築、マイケル・グレイヴス設計、ニュージャージー州プリンストン、1979

ベナセラフ邸増築、マイケル・グレイヴス設計、ニュージャージー州プリンストン、1979

ハウスVI、フランク・レジデンス、ピーター・アイゼンマン、コーンウォール州コネティカット、1976

ハウスVI、フランク・レジデンス、ピーター・アイゼンマン、コーンウォール州コネティカット、1976

フィリップ・モリス・オペレーション・センター、デヴィス、ブロディ&アソシエーツ設計、ヴァージニア州リッチモンド、1982

フィリップ・モリス・オペレーション・センター、デヴィス、ブロディ&アソシエーツ設計、ヴァージニア州リッチモンド、1982

クーパー・ユニオン改築、ジョン・ヘイダック設計、ニューヨーク、1974

クーパー・ユニオン改築、ジョン・ヘイダック設計、ニューヨーク、1974

付記──八束はじめ
ジュディス・ターナーはアメリカの写真家である。多く建築を対象に手がけてきたが、極めて造形志向の強い作風で、いわゆる建築写真家とは大分趣を異にしている。
展覧会や個別の建築の撮影で度々来日もしているが、今回は、神奈川県立近代美術館で開催されていた安斎重男氏の展覧会を機会に、ともに現代芸術に関心をもちながら方向性としては対照的である安斎氏との対談がもたれた。

>安斎重男(アンザイ・シゲオ)

1939年生
写真家。

>ジュディス・ターナー(ジュディス・ターナー)

写真家。

>栩木玲子(トチギ・レイコ)

1960年生
上智大学専任講師。

>『10+1』 No.02

特集=制度/プログラム/ビルディング・タイプ

>ジョン・ヘイダック

1929年 - 2000年
建築家。クーパー・ユニオン教授、ニュ−ヨーク・ファイブの一人。

>八束はじめ(ヤツカ・ハジメ)

1948年 -
建築家。芝浦工業大学建築工学科教授、UPM主宰。