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新加被歌的路(シンガポール・ソングラインズ)☆一──ポチョムキン・メトロポリスのポートレート あるいは 三〇年のタブラ・ラサ | レム・コールハース+太田佳代子 訳+八束はじめ 訳
Singapore Songlines: Portrait of a Potemkin Metropolis... or Thirty Years of Tabula Rasa | Rem Koolhaas, Kayoko Ota, Yatsuka Hajime
掲載『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) pp.173-197

風水:もとの場所に居つづける限り地主の繁栄はつづくという古い中国信仰。
シンガポールのグリーンプラン:われわれはブルドーザを適正な場所に導きたい。
リー・クァンユー:シンガポールは多様で変化に富むものすごく大きな世界のなかのちっぽけな場所だから、機敏でなかったり、調整がすみやかにできなければ、消えるしかないだろうし、人々もそれを心得ている。
『ストレート・タイムズ紙』一九九〇年五月二七日


私はシンガポール港で八歳になった。上陸はしなかったけれども、臭いは覚えている。甘美さと腐臭、どっちも強烈だった。
去年再訪した時には臭いは消えていた。実際シンガポールは消え、掘り返され、建て直されていたのだった。完全に新しい街がそこにあった。

シンガポールにあるものほとんどすべてが、三〇年と経っていない。この都市は、三〇年にわたるイデオロギーの生産をそのまま形にしたものであり、残存するコンテクストによって汚染されていない。偶発と偶然を排除した体制によって舵とりされ、自然さえも完全につくり替えられている。それは意図以外の何者でもない。カオスがあったとしてもアンカーされたカオスだ。醜悪だとしてもデザインされた醜悪さだ。不条理だとしても意志にもとづく不条理だ。シンガポールは現代性の生態系という特殊な状況を示しているのである。

適応、革新、そして反映

新しいものは皆そうだが、それは嘲けられてきた。西欧の概念が徐々に衰弱しつつあるとはいえ、「われわれ」が究極の武器であるアイロニーの力を手離すことはないだろう。そしてその不釣り合いなほど大きな部分が今、この国土的には取るに足らないミニスパルタに向けられている。ウィリアム・ギブソンはここを「死刑ありのディズニーランド」と呼び★一、デヤン・スジックは「ヴァーチュアル・シティ」と呼ぶ★二。
こうしてわれわれがシンガポールをそのままに読むことを拒否する理由は、軽薄なものだ。都市の現代性をめぐるわれわれの理解は、そのもっとも洗練されたものでもオペレーション的なことがらとはまったく断絶しているし、都市が新たにつくられたと聞けば、それは到底疑わしく信用ならないと思ってしまうところまで、われわれの都市創造能力の欠如は内面化されている。シンガポールはオペレーション的なものの発作だ。だから、われわれの想像や解釈では、手に届かない。
シンガポールはアジアの都市としてはすこぶる「西欧的」であり、明らかに、暴走してしまった近代化プロセスの犠牲者である。われわれのなかに生じるのは、彼らが、ただアジア人ないしは中国人だというだけの理由で、それをお決まりの判じ物の範疇に留めておきたいという、植民地主義最後の遠慮がちな小発作的誘惑である。
こういった感覚は西欧中心主義的なミスリーディングである。「西欧的」というのはもはやわれわれだけに属するドメインではない。「西欧的」という言葉は、おそらくその本拠地以外の場所では、いまや普遍的な熱望を意味している。それはもはや「われわれ」が解き放ったのとは別ものであり、その成り行きについてわれわれが嘆く権利があるようなものではない。すでに長いあいだそれを自前のものとしてきた他者たちに対して──いろいろな感傷的な理由で──拒否する権利などわれわれにはもはやない、そういう自律的なプロセスなのだ。せいぜいのところ、われわれは子供たちに手渡したものが滅茶苦茶にされたといって嘆く親のようなものである。
シンガポールは少しずつ成長を続ける島で、北緯一度一七分、インドと太平洋を結ぶ最も重要な航路上に位置している。面積六五〇平方キロ、海岸線一四〇キロ──ベルリンの壁より二〇キロも短い。「ユニークな多民族性」★三をもち、七五パーセントが中国系、一五パーセントはマレー系、九パーセントはインド系である。それはリー・クァンユーというひとりの男の着想から生まれた。ひとつの島──領土境界線は明白だ──として、神話を形成する要素には欠けていない。小さい、脅かされている、保護されねばならない、有限である──飛び地だから──独特である、という具合に。
シンガポールが奇妙だということはありうる。五年前に明らかになったのは、旅行者数の上昇曲線が歴史保存物の下降曲線とほぼ交差しかかっているということだった。開発を急ぐなかで、歴史は完全に消し去られようとしていた。いまやロンダリングされた過去に、各種取り揃えられた性的オプションで──とりわけみごとなトランスヴェスタイト(服装倒錯)で──知られていた場所に、国家の後ろ盾をもつブジス・センターが、二本の「伝統風の」街路が交わるところに、できたての中国系ショップに囲まれて出現。通りのひとつは「マーケット」と呼ばれ、もうひとつの通りは多種多様のレストランが系統的に並んでいた。上の階はクラブが占めている。そのひとつ、ブームブームクラブでは、女装倒錯者っぽくした女性という風のトランスヴェスタイトの復活を待ち受けていた。
このブロックは超モダンだ。一見ばらばらな屋台が、裏では巨大な皿洗いのコンベアでつながっている。われわれの最初の旅行では、制御室に来いというのでいってみると、モニターだらけの壁があり、監視カメラでどのテーブルにでもズームアップして各屋台の取引を監視できるようになっていた。

恥でなく誇りから、それは見せられる。
犯罪がなくなるから、と彼らは考える。
それじゃあ楽しくないだろう、とわれわれは思う。


シンガポールは明らかに自由な国でははないが、では何が不自由なのか、いついかにして抑圧が起きるのか、どの程度の範囲に磁場(滅多に起こらない住民の団結)が広がっているのか、あるいは、もっと曖昧にいえば、「取引」の結果が何なのか、何が共通利害だと認識されているのか、それらを見極めるのは難しい。この三〇年にわたる、ジェットコースターのような開発の、無限の恩恵の見返りとして宙吊りにされた自由とはいったい?
シンガポールは、未来を築くという発想に対してほぼ普遍的に広がるペシミズムの荒野のなか、きわめて高性能の別格的存在として聳え立つ。明確に定義された野心、長期的な戦略、民主主義がその黎明期に生んでしまうゴミやカオスを許すまじという徹底した決意によってつくられた、現実に「不可能の文字はない」世界なのだ。
東西緊張の次のラウンドは以下の疑問をめぐるものになるだろう。民主主義は社会的安定を振興するのか腐敗させるのか?言論の自由は、それが生み出す社会的ゴミに値するものなのか?集団の健全さは個人の足かせのない自由以上に重要なのか?西欧人にはこうした権威主義は、規範からの一時的な転向ないし逸脱として映るのだが、実際はシンガポールで新しい規範が形成されつつあるといった方がよさそうだ。いわば、ハードコアの儒教主義に根ざす厚顔さ、アジアの近代化を煽ることとなる究極の効率性パワーの台頭である。「意見の対立、思想信条の衝突からよい政府と健全な経済が生まれるというアメリカ的な考えは、アジアにはない」★四。シンガポールはわが道を発展させてきた。「儒教のしぶとい生命力は、封建制の残り汁と民主主義の上澄みとのコンビネーションにある」★五。
シンガポールという坩堝は、最も期待できそうな成分からでさえ、毒にも薬にもならないものをつくり出しているようにみえる。私はシンガポールの逆錬金術を解読しようと努めてみた。その系譜を理解し、建築的ゲノム・プロジェクトを行ない、その建築的な歌の路ソングラインズを再構築してみようと試みた。
シンガポールの分析は当然一九六〇年代半ばのクローズアップとなるわけで、そこで当時の差し迫った人口動態が明らかとなる。その残忍なまでの数字は、あらゆる大陸において、前代未聞のスケールで新たな都市的量塊が建設されなくてはならなかったという圧倒的な必要性を示し、事実この三〇年ですっかり大人しくなった(あるいはまんまと抑圧された)都市計画学や都市更新Urban renewalという概念に、格好の論拠を提供しもした。
まるで世界中でシンガポールだけがこの警鐘に耳を貸し、しかもそれと取り組み、解決策を生み出したかのようだ。シンガポールは都市更新の極致である。三〇年前、アジアはたった二〇年で西ヨーロッパ全域に相当する量の都市的量塊をつくらなくてはならないかのように思えたが、その背景となった国家から都市への転換という課題に、シンガポールはみごと建設というかたちで答えた。
この生まれたての考古学を掘り起こす際に生じる、最も厄介な質問はこうだ。その差し迫った状況というのは、一体どこに埋まっているのか?

1──まったく新たなはじまりの基盤としての削り取られた地面

1──まったく新たなはじまりの基盤としての削り取られた地面

2──少しずつ成長する島 引用出典=都市再開発公社,Living the Next Lap, 1991.

2──少しずつ成長する島
引用出典=都市再開発公社,Living the Next Lap, 1991.

3──リー・クァンユーというひとりの男の着想がこの島を産んだ

3──リー・クァンユーというひとりの男の着想がこの島を産んだ

4──女装倒錯者っぽくした女性 引用出典=イワン・タン,Bugis Street Management.

4──女装倒錯者っぽくした女性
引用出典=イワン・タン,Bugis Street Management.

5──ハードコアの儒教主義に根ざす厚顔さ 引用出典=Li Fu Chen,The Confucian Way,London KPI,1987.

5──ハードコアの儒教主義に根ざす厚顔さ
引用出典=Li Fu Chen,The Confucian Way,London KPI,1987.

6──その住民たちの尋常ならぬ団結──課せられたものか、それとも「政策」の賜物?

6──その住民たちの尋常ならぬ団結──課せられたものか、それとも「政策」の賜物?

7──140年の英国支配の後の風景 引用出典=Living the Next Lap.

7──140年の英国支配の後の風景
引用出典=Living the Next Lap.

8──多層工場

8──多層工場

9──膨大な量の板状住居の連なり

9──膨大な量の板状住居の連なり

10──板状住居に囲まれた「タウンセンター」 引用出典=The first  Decade in Public Housing, Singapore: Housing and Development  Board,1969.

10──板状住居に囲まれた「タウンセンター」
引用出典=The first
Decade in Public Housing, Singapore: Housing and Development
Board,1969.

間奏曲

一九五九年、シンガポール──もと英国領──は自治を獲得する。その最初の国民選挙でリー・クァンユーは彼の人民行動党PAP(サブリミナルにはPAPA、DADみたいじゃないか?)と共に権力の座に押し出される。ニクソンはリーを「左に話しながら右を歩く」アジアのチャーチル★六と呼ぶ。三五歳ですでに彼は多くの戦略的アイデンティティを備えており、それは後に新儒教主義というイデオロギーの傘の下に結集されることになる。
一四〇年の英国支配の後、彼と彼の党が継承した島は散乱状態。(一八一九年にスタンフォード・ラッフル卿が入植して以来の)コロニアル様式の陸の孤島群と、みすぼらしい軍事基地と港が、巨大な人口過剰のチャイナタウンの中に埋めこまれ、背後には放ったらかしの湿地とジャングルが広がり、たまに農地があるかと思えば、その大部分が不法占拠住居で覆われているといった具合である。
「五〇年代にここを訪問した者はみな、極端に不安定な生活状況、人口の圧倒的多数の置かれた悲惨さに仰天した。[…]それだけではない。状況はさらに悪化の一途を辿っており、人口はうなぎのぼり、結核が蔓延、失業者は増える一方、住める住宅には人が溢れ返り、といったことがらのすべてが経済的不況を背景に拡がっていた[…]」★七。
まさにこの状況の悲惨さ──素材の品揃えの悪さ──が、間違いなく危機に瀕したこの「都市国家の卵」の政策の根幹をなすことになる。「PAPのイデオロギー体系の全般的特徴は、独立した島国として生き残りを図るという、根底の意志から派生している。生き残りという命題は、シンガポールが一九五九年に自治権を獲得して以来、国家政策の構造化、合理化の中核となってきたものだ。[…]その結果、多国籍資本、輸出志向の工業化政策の基盤となる科学・技術・中央集権行政に力点を置く、積極的に開発主義的な方向性をもつイデオロギーが生み出され、今に続いている」★八。
ハーマン・『次の二〇〇年』・カーンやアルヴィン・『フューチャーショック』・トフラーといった西欧の思想家/未来学者をアドバイザーにもつリーにとって、ポストコロニアル期とはあらゆる意味での新しい始まりであり、新しさの大洪水を意味する。リー政権は並ぶもののない熱意で近代化キャンペーンに乗り出していく。
直ちに島のかなりの部分が「脱自然化」され、工業のプラットフォームとなる。北西のジュロンでは、新しい巨大な港湾施設と結ばれた多層工場の広がる、巨大産業都市が整えられていく★九。
一九六〇年、住宅開発公社(HDB)が創設される。ここがシンガポールの未来のオーバーホールのための主要機関となるだろう。数カ月後、クイーンズタウン(計画人口一六万人)の建設が、中心市街地を外れた「処女地」(といっても不法占拠をクリアランスしたのだが)でスタートする。それは一見して建築的な質を欠いた、単に膨大な量の板状住居の連なりであり、熱帯への唯一の配慮か、バルコニーを連続させながら、整列した兵士のように並んでいる(所々に破調的な例外もあって、気を失った兵士のように人目を惹いているが)。そしてショッピングセンター、遊び場、宗教施設といった関心事生活の場、つまり、意味論的にはないがしろにされた義務を気が狂ったように履行させようとする場を無感動に囲い込んでいる。
クイーンズタウンは、「いわゆる『トータル環境』[…]の政策を反映し[…]各地区にショッピングセンターがあり[…]、映画館や商店街、レストラン、ナイトクラブ、日本庭園などが入ったタウンセンターがつくられ[…]第六地区にはスポーツコンプレックスが建設中である。住居棟のまわりの中心エリアや空地は造園を施され[…]小中学校の近くには[…]高層棟が配されている。地区の縦横を、バスが頻繁に時間通りに走っている。活気に溢れた社会の雰囲気がすでに形を表わしている。クイーンズタウンではすでに『居住が定着した』と言っていい」★一〇。
後年──一九八五年──HDBは認める。「公共住宅開発の初期段階では、シンガポールの住宅不足の解決が焦眉の急であったために、リサーチをする時間はなかった。プラグマティズムが先行していたと」★一一。
どんなプラグマティズムかと言えば、実用本意のアングロサクソン風だ。板状住居の連なりは純粋に量を誇示するものでしかない。悪名高い英国の公共団地がそうであるように、イデオロギーを剥ぎ取られたモダニティなのである。英国でのスラムから団地への移行がトラウマ的だったとすれば、中国風店舗付き住宅(店舗と工場と住居を一緒にして、中庭つきブロックに詰め込むタイプ)からシンガポールの高層コンテナへの移行はもっと無理矢理だ。というのも、アジア風から西欧風へという物質的な違いのみならず、新しい住民たちが家族関係や伝統、習慣などから切り離され、性急に別の文明を押しつけられるわけだから。板状住居はタイムマシンというわけだ。
第二のニュータウンであるトア・パヨーは一九六六年に完成予定をめざす。「事実上の処女地に建設されたために、道路システム、地区警察、ショッピング、タウンセンター、スポーツコンプレックス、タウンパークなど、全タウンが一体的に構想された」★一二。
一九六〇年代半ば、こういう自信は驚くに値しない。驚くに値するのはシンガポールのオペレーションの規模だ。まだ脆弱な新米国家が、いまや一八万人の都市をつくろうとしているのである。しかし、またしても、完璧ではない。「トア・パヨー・ニュータウンの土地利用計画を見ると、HD Bが試行錯誤的な実験に悪線苦闘していたことは明らかで[…]それは施設の不均等な配置にもあらわれている」★一三。こうして、突然憑かれたような生産熱と、「改良の余地」ありと思い始めた官僚意識との間で、つば迫り合いが続くことになる。

11─13──トア・パヨーの風景

11─13──トア・パヨーの風景

国連査察団

このヘラクレス的な、しかし概念的には未分化な状況のなか、一九六三年国連査察団がやってくる。
アメリカのチャールズ・エイブラムズ、日本の神戸進、そして、無国籍だが前はドイツ国籍であったオットー・ケーニヒスベルガーという三人の専門家がシンガポール政府に向けてレポートを準備し、『シンガポールの成長と都市更新』というマニフェスト風のタイトルをつける。この査察団には「島全体の開発に関して[…]都市更新に関する正しい戦略を提言するという具体的な目的」がある。
レポートは、当時も、そして今もなお一部「部外秘」である。
査察団がシンガポールを訪れた当時、都市更新という言葉は、比較的新しい造語である。「都市更新とは一九四九年に合衆国でその名前と勢いを得た一般用語である」★一四。「都市」と「更新」という何気ない二つの言葉の組み合わせは──建築家やプランナーの耳には心地いいのだが──一定の解釈の余地を残している。それは古いものの更新なのか、新しいものを通してのものか?それは誰が見ても「よい」役割を果たす(貧困や病気、過密などを鎮圧するような)ものなのか、それとも酷薄なまでの不安定さなのか?
三人の説明によると、「都市更新には、三つの不可欠な要素があるということは現在一般的に認められている。それは(1)保存conservation、(2)修復rehabilitation、そして(3)再建rebuildingである」。ついで彼らはシンガポールのジレンマを浮き彫りにする──それは一九六四年、確かにもうジレンマとしてあった。「こうした目標からすると、都市更新のプログラムが直面し解決しなければならない問題とは、その地域のある部分を保持する方にコミットするのか、あるいは取り壊して別のものをつくるのか、ということである。われわれの推薦するのは、シンガポールの特定の既存エリアの長所と短所をともに洗い出し、長所を構築・強化する一方、短所の方は除去していくよう努力することである」★一五。保存に字句を割いているのはリップサーヴィスなのか、それとも彼ら専門家たちは、自分たちが起動させようとしている変化が島の命運を封印することになるのを知っているのか?
まず、彼らはシンガポールが「都市更新計画を遂行しようとする最初のアジア都市である」とする。万一ラディカルな野心の達成が危ぶまれるところでは、彼らはこうも明言しておく──「この計画は、保存や修復を意図したものではなく、シンガポールが果たさなくてはならない役割を用意するべく都心部を近代化し、開発しようとする大胆な企てである」(この時点でシンガポールの人口は一六〇万、都市部の人口は九〇万であった)。
賭け金を増やすべく、国連査察団はまず人口問題の緊急性を強調する。「われわれは一九八二年までに少なくとも三四〇万の人口に備えなくてはならず、一九九〇年までにその数は四〇〇万の大台を越える見通しである[…]」★一六。これはつまり毎年、天文学的な数の住戸を新築しなければならないことを意味する。
涼しい顔で彼らはつづける。「シンガポールは急成長の都市であるから、整備よりも新しいハウジングが、開発よりも新しい開発が必要である。われわれがいかに都市更新に集中したいと思っても」──明らかに既存部分の更新のことをいっているわけだが──「古い住戸をひとつ壊すのに対し、五つの新しい住戸をつくっていかなくてはならないのである」。
この来たるべき大変動に備え、国連査察団は既存のマスタープランを批判する。その最新のものは、英国が一九五五年に手直しをしたものだが、それにはヴィジョンがないと彼らは言う。「これは後ろに田園地帯を控えた中規模都市のプランであって、メトロポリスのプランではない」と。
どのマスタープランもそうであるように──と彼らは書く──このプランも「根本的に将来展望が保守的であり、過去の遺産や諸制度の保存を計画全体の主目標とすることで事実上一致した社会」を前提としている。「[…]われわれ査察団は、シンガポールが『より柔軟なプラン[…]より前向きなアプローチ』を必要としている、という話を聞いている」★一七。
島の変化に必要なのは、マニフェストである。厳密な手続きと建設物のコントロールへの強調を旨とするこのマスタープランの代りとして、国連の専門家団は、よりファジーな指導概念の傘の下で「公共開発を導き、加速し、コーディネートしていきたい」と提案する。この指導概念はアクションプログラム★一八のなかにばらまかれることになるが、「雇用、シェルター、コミュニケーション、交通、教育、福祉、資本形成、貯蓄促進、コミュニティ開発、広報活動など、都市生活のすべての局面を扱うという意味では包括的であり」、最終的には「全島をカバーすることになるモザイク状のアクションマップ」に移しかえられることになる。
計画手段の三本柱──指導概念、アクションプログラム、アクションマップ──を定義した彼らは、次にそのターゲットを探す。「CBDは超高密度の商住混成地区(都市の実質大部分をなす中国風店舗付き住宅)に隣接している。建物と街路の過密度は世界中探してもなかなか見られないようなところにまで及んでいる。[…]査察団員の初期のレポートにもあるように、相当部分は取り壊しと再建の時期が熟している」。
自分たちがほとんど共産主義的な全権性を官僚機構に付与しようとしていることをおそらく意識したうえで、専門家団はその体制が民間企業によって歯止めをかけられ補完されていく姿を描く。「全シンガポール人にとって健全で快適な都市環境を[…]ディヴェロッパーの意欲やデザイナーの創意を削ぐことなく[…]保証するには、達成基準なり社会的原理が必要である[…]」。
彼らは指導概念の範囲を全島レヴェルにまで拡張する。「第一原理はシンガポール島とシンガポール市をひとつの単位として認めることでなくてはならない。われわれはこの島を、町と田園後背地という二つの異なる要素をもった地方とか地域とかではなく、空地を含むひとつの都市複合体として考えるべきである」★一九。
そして大胆にも、彼らは新しく用意された計画カンヴァスの上に──文字通り無の状態から──オランダ・モデルである「リングシティ構想」を広げる。「中央のオープンエリアのまわりにチェーン状ないしネックレス状に町が連なっているのが『リングシティ』である。このアイディアは、アムステルダム、ハーレム、ユトレヒト、デルフト、デン・ハーグ、ライデン、ドルドレヒト、ロッテルダムなどの主要な町が、中央に広がる平原の回りに大きなサークルを形成しているオランダから来たものである。この配置関係は、周到な計画の結果というより歴史的な諸力のもたらしたものだが、他の連担都市に比して明らかな利点がある。リングの個々の町はコンパクトで自立しており、個性と独自性を保っている。同時にどの町の住民も、オープンな田舎やあまり建て込んでいない都市部を自動車でさっと抜けられるので、他の町の施設も利用することができる。つまり、中小規模のコミュニティに暮らす生活の社会的利点を享受しながら(子供の教育にはとりわけ望ましい)、大型連担都市の商業的利点も享受しうるのである。『リングシティ』を形成する八つのオランダの町が、中央のオープンスペースに位置する国際空港ひとつで容易にアクセス可能、ということが重要なのだ」★二〇。
官僚の文章はしばしば退屈であり、このレポートも例外ではない。そこに力があるのは、このレポートが実際に発揮した効果をわれわれが知っているからである。このレポートが解き放ち、合法化し、悪化させ、加速し、鼓舞し、広げていく野心は、当局がそれまで明らかにしたことのないものである。
国連の専門家たちは都市更新革命の鼓吹者である。彼らのレポートは過激さをいや増すよう煽り、誇大妄想への近道をほのめかす(二〇年後、彼らの図式は実現化される。中央の保存部分は縮み、その回りで全島がニュータウンとなったのだ)。

14──いわゆるグリーン・ハート──中心としてのヴォイド──に囲まれたリングシティ 引用出典=OMA, Point  City.

14──いわゆるグリーン・ハート──中心としてのヴォイド──に囲まれたリングシティ
引用出典=OMA, Point
City.

15──シンガポール島に投影されたリングシティ 引用出典=Abrams, Kobe, and  Koenigsberger, Growth and Urban Renewal in Singapore, UN Report,  1963.

15──シンガポール島に投影されたリングシティ
引用出典=Abrams, Kobe, and
Koenigsberger, Growth and Urban Renewal in Singapore, UN Report,
1963.

16──シンガポール島、1958年

16──シンガポール島、1958年

17──同、1987年 引用出典=Singapore: An Atlas of the Revolution of Territory, Montepellier;  Reclus,1992.

17──同、1987年
引用出典=Singapore: An Atlas of the Revolution of Territory, Montepellier;
Reclus,1992.

タブラ・ラサ

国連レポートは認可され、シンガポールの官僚機構はプロメテウス的な事業にとりかかる。限界は島のサイズだけだ。シンガポールはタブラ・ラサの極致と考えられている。引き毟り尽くされた地面が、純粋なはじまりのベースとなる。
未開発状態のまま取り残されたシンガポールの唯一の資源は、物理的なもの、つまり土地と人口と地理的な位置である。貧困が売春を導くのと似たような理屈で、シンガポールの変化は、繰り返し繰り返し島の身体を資本にして構想される。国土──地面──はその最も成形自由な素材であり、国の住宅計画と国連のヴィジョンが、この国土をインフラストラクチャーとしてのマニフェストにかえる。シンガポール政治の展開がこの国土という羊皮紙に書かれては消され、書かれては消されていく。自らの手で国土を築いたオランダ人のように、シンガポールも売買と操作が身上だ。イデオロギーと人口と島──それしかない。このプロセスはニュータウン建設によって無邪気にはじまり、国連レポートで加速され、一九六五年の独立というシンガポール共和国の公式な発足によって過激化する。
最も強烈な抹消と変化のなかには、目に見えないものもある。英国の土地収用法の改訂により、「政府は、民間ディヴェロッパーのためのものも含め、国家発展のために必要とみなされるいかなる土地も収用できるようになった。[…]補償率は国家により定めることになっていた。[…]この法は明らかに所有権を定めたコモンロー(判例法)に違反するものである[…]」。
しかしHDBの言葉によれば、「取得された私有地の大部分は、不法占拠者たちが繁茂していた荒廃地ないし未利用地であり[…]政府は地主が[…]何の努力も伴わずして[…]大幅に上昇した地価を享受する理由はないとみなした[…]」★二一。実際、これだけラディカルな収用となると、どんな所有権も仮のものになってしまう。国家の手にかかれば、どんな土地でもいかようにもなってしまうのだ(ある敷地などは三〇年間で二度ならず三度までも再収用がなされた)。「一九六五──八八年の二〇年強の間に、一二〇〇もの敷地が収用の対象となり、人口の三分の一にあたる約二七万戸が移転させられた」。
過酷な変貌のさらなる証しは、新たにつぎ足された生  活  圏レーベンスラウムである。「一九五九年の島の全面積は五八一平方キロ。六五年は変わらなかったが、それ以降は着実に増大し、一九八八年には六二六平方キロとなった。一九 九一年にはおそらく六四〇平方キロ以上となるだろう。国家計画省の宣言によると、国土拡張はつづき、シンガポールの面積は二〇〇〇年には七三〇平方キロに達しているだろう」★二二(三五年間で三五パーセント増、これは割合でいくと、合衆国の面積にテキサス州、ジョージア州、カリフォルニア州を加えるのに等しい)。
この拡張は埋め立てによって行なわれ、島の地形は大幅に変わっていく。海岸線が延び、丘が消える★二三。シンガポールはより広く、しかしより平坦に、より抽象的になる(後にインドネシアから買い足された島々も、吸収され、移植されて、シンガポールの一部として地図に再登場することになる)。
全島を近代的で脱チャイナタウン化させる人口の再配置も計画通りに進行する。「一九五九年には人口の九パーセント以下しか公共ハウジングに住んでいなかったのに対し、一九七四年にはほぼ四三パーセントがHDBのアパートに居住し、八九年には八七パーセント、つまり二三〇万人に達した。もとの都心部を囲うように、二〇のニュータウンが一万六千ヘクタール、つまり国土の四分の一をカバーするに至った」★二四。
農地は転用され、宅地に姿を変える。海に押しやられた農民たちは、養殖業に転職する。
ニュータウンのローコストハウジングと旧市街地──というかその残滓──の都市更新は、いわばアルキメデスの通底管のように繋がっている。膨大な新築量が古いものを取り壊す余地をつくりだすのだ。一九六五年に政府が打ち出した都市更新策によれば、全島はやがてニュータウンに覆われ、シンガポール市はもとの姿を認識できないまでに更新されることになる。
シンガポールの一九六五年は、行動と思考の綱引きの結果、前者が勝利を得た時期である。公務員たち(シンガポールの官僚機構)は猛烈に行動的だ。黙示録の騎士のような彼らは、全島が開発されつくされ旧の姿を留めぬようになるまで、止まることを知らない。
彼らはあらゆる人々、とくに省察というものを必要とするというハンデを負った人々(つまりシンガポールの知識人たち)を、大なり小なり卑屈で受動的な立場ないしは共犯者の立場に押し込めてしまう。
欧米で教育され、いまだ第三世界/発展途上国のイデオロギーにとらわれた若い建築家たちは、政権の決意と能力を過小評価しており、奇蹟が眼前で起こっていることに気づいていない。そしてその不信感ゆえに、将来も政府の要請にだけは飛びつくことができない。それは彼らの六〇年代的感性に差し障るのだ。
六〇年代半ばには、都市更新の暗黒面への認識は一般的になり、タブララサに依拠した戦前モダニズムのヒーローたちの都市計画は信用を失墜していた。戦争が都市全体を根こそぎにし、そこで行なわれた無からの再建事業は、悲喜こもごもの結果を起こしていた。「魂が欠けていた」というのである。米国では、スラムクリアランスで変えられるのはぜいぜい物理的な状態くらいで、貧困の文化を変えることはできないのではないかという疑義が高まっていた。しかし衰亡する植民統治下で放っておかれたアジアの都市は、耐え難い条件下で生活を凌いでいた都市居住者と、地方からの流入者の両方を収容すべく、大規模な更新に向けて準備しなくてはならなかったのである。
「都市人口の跳ね上がりは、世界平和に次いで大都市の計画こそ、おそらく二〇世紀後半の人間に突きつけられた最大の課題であるという警鐘を明白に裏打ちするものである」と世界保健機構(WHO)は主張する★二五。「次の四〇年で、われわれは合衆国全体を建て直さなくてはならない」とリンドン・ジョンソン大統領もいい切る★二六。
数字の威力に比べれば、実際のシンガポールにあるものなど何ほどのこともない。予想される量と既存の実体に鍬入れしていく事業の間のテンションは激しい。
言い抜け的なコンセンサスが広がっていく。都市更新、ただしタブララサ抜きの更新。新しい出発、ただしゼロからではない出発。
「コスモポリタンな混成を考えるとき、機械的な順番で除去し、破壊し、新しいものに置き換えていくといった無配慮な更新ほど、非都市的かつ非生産的なものはない」と、槇文彦は一九六四年に『Investigations in Collective Form(集合体を求めて)』という、小さいが影響力のある本のなかで書いている★二七。この本はそれまでほとんど西欧が独占してきた議論の場に登場してきたアジアからの最初期の発言だった。
しかしシンガポールでは、まさに槇の指摘したことがモットーさながらに扱われ、新生共和国の青写真になっていく。つまり、除去し、破壊し、新しいものに置き換えるというディストピア的なプログラムに。
変化の錯乱状態のなか、島は培養皿と化している。実験的プロトコルの下で成長しうる社会的建築的文化の移植のための研究室のような状況が、巨大なクリアランス、平坦化、拡張、没収などによって整えられた。そこには先行する実体などない。シンガポールはタブララサの実験台になったのだ。
全島を黙示録的な人口推移の仮説のもとに変化させるということは、明らかに島の小ささや恒久的な土地不足と好対照をなすもので、普通なら、地域を大事に使っていったり、長期間にわたってゆっくりと実行に移すべき理想──指導概念──を定義すべきとなるところだ。だが、このヘラクレス的大掃除の本当の意味は、この島が丸ごと変えられると思われている以上、決定版というものは存在しないということなのだ。第一の変化の波が去った後もさらなる転用や新たな破壊がなされ、第二の波、第三の……。
シンガポールの現政権のような政体は、それ自体がひとつのラディカルな運動である。それは、儒教的なエートス、国連の支援、経済的野心、差し迫った人口動態などを即興的にハンダ付けした「パッチワーク的マニフェスト」に基づき、都市更新という言葉を倫理上の戦争に変えた。それは「緩く構成されたコンセプトの複合体系であり、支配集団がボディポリティクスにおいて問題解決に当たっているあいだ、時とともにさまざまなコンセプトのネットワークを拡張していく。しかしながら、この拡張するコンセプトのネットワークは、完全にランダムというわけではない。むしろ、少数のコア・コンセプトからの拡張である」★二八。
シンガポール政権は、恒常的な不安定性という状態を敷く。五月革命の時の学生の「永久革命」に似ていなくもないが、儒教的なアジェンダがそこにはついている。「普通の人々は敷かれた道を辿るようにできているが、それを理解するようにはできていない」★二九。選び取られた人間の基本的欲求は充足させながら、選び取られなかったもの──伝統、定着性、連続性など──は一貫して浸食していくという、全面にわたって両義的なオペレーションが行なわれる。それは絶えず変動している状態perpetuum mobile、つまり、与えては取り上げ、徹底的に根絶するという、決して方向の定まることのない状態である。
モダニズムの中核的な方向性をまったく欠いたまま、隣接して、空も地平線も見えなくして建っているすべての新しい高層ハウジングでは、どんな逃げの余地も締め出されている。シンガポールでは、どの眺めも善良な意志に遮断されているというわけだ。
「五〇万以上のユニットが完成しているという圧倒的な現実は、政府の実績としてつねに覚えておかねばなるまい。広範囲にわたる公共ハウジング・プログラムは、現政権に国全体の生活条件を改善するという公約を果たす能力があることの強力なあかしであり、ひいてはイデオロギー的な象徴ともなっている」★三〇。
今では究極の資本主義環境をつくったことで知られる共和国が、実は全国土を疑似社会主義体制に変換させるところからはじまったとはいったい?  島丸ごとをひとつのハウジング・プロジェクトにしてしまうというやり方が、政権による人民の「涵養」のあり様を最も赤裸々に示している。それは「人民に広く与え、群衆体multitudeに手を差し伸べよ」★三一という、儒教の格言どおりである。
謎として残るのは、遥かによさそうな条件下でも失敗した近代住宅の戦略が、どうして(ここシンガポールで)急に「うまくいき」うるのか──その発祥の地とはまったくかけ離れた地理にある島において、もともと想定されていたシナリオとは無縁の人々にとって──ということである。それはより大きな権威主義かもしれないし、アジア的メンタリティの計りしれなさかもしれない、その二つの間で、謎は宙吊りにされたままだ。

18──人口分布  1957年と1980年

18──人口分布  1957年と1980年

19──アパート建設量の推移

19──アパート建設量の推移

20──シンガポール島の断面 1958年と1987年

20──シンガポール島の断面
1958年と1987年


バルト的な石板スレート

一九六七年にロラン・バルトは『モードの体系』を公刊する。一見恣意的なファッションデザイナーの仕事──縁が上がったり下がったり、ウエストがあったりなかったり、生地が荒かったり贅沢だったり──によってつくり出される意味作用の体系の分析である。一九七〇年には日本文化の表象を解読する『表象の帝国』を公刊。どちらも一見言葉では言い表わせないものの仮面剥奪作業である。あるいはそれ以上に、彼の方法は、最終的には計りしれなさ自体をひとつの記号として記述する。
シンガポールはおそらく最初の記号論的国家だ。バルト的な石版というか、一様で滑らかな表面をもち、そのうえで政治的なテーマなりミニマルな意味論的なかけらなりが、観測気球のように出たり入ったりさせられる、アクティヴであると同時にニュートラルでもあるようなフィールドなのだ。シンガポールはマキャベリ的な意味論──既存のものの解読ではなく、政治的な意味を先回り的に構築していこうとする──によって運営されている。それが招来する領土は、「表象の帝国」ではなく「意味論の帝国」である。
アメリカは自らを坩堝と言い表わしたが、そこへいくとシンガポールはエスニック「料理」である。食材は混ざらないようわけられている。代わりにあるのはアイデンティティの操作であって、それを通して各々の文化──民族とか宗教的な遺産など──に払われる敬意が、近代文化のシリアスな要求──より大きな自由に向けられた──を回避するためのアリバイになっている。
各々のアイデンティティが、かつて行なわれた文化の根絶とまったく同様の能率性でもって周到に空にされた器になっている。(圧倒的な量の衛生的な新しさのなかに辛うじて残っているチャイナタウンの、「ブルドーザが見落とした道路」に純粋な社会破壊──野蛮な再文脈化によって意味を変えられた、最も身を堕したシニフィアンのひとつ──を感じさせられるのはショッキングな体験である。やりすぎの映画セットさながら、それは、汚く怠惰で腐敗してドラッグ漬けじみたという意味で「トロピカル」に、つまり絶対的な他者に見える)。
意味論的な孤児のなかには教育も数え上げられる。言語にさえもタブララサというものはあって(「英語と同じようには母の国の言葉を話せないと思うと涙が出るよ……」★三二)、シンガポールでは誰もひとつの言語さえ完璧に話せない。しかしグローバルなコミュニケーションの名の下に、この抹消はつづけられる。「一九八七年以来、英語はあらゆる学校で第一言語となっており、中国語やその他の母語は第二言語である★三三。
どうでもよさそうなことへの禁忌(チューインガム)とシリアスな刑罰(死、鞭打ち)というシンガポールの悪名高い制度は、記号として見なければならない。ネヴァダ州がかつて、法律の最大限の棚上げによって放縦な風土というアイデンティティをつくり出したのに対して、シンガポールは真反対の方向──厳しさ──で法をリデザインし、それが極めて安価かつ効果的に世界規模の広告効果を果たしている。
近代化の純粋形態であるシンガポールでは、モダニズムの諸力はどれもモダニズムの要求に抗する形で存在する。シンガポールのモダニズムはロボトミー化されている。つまり、モダニズムのフル・アジェンダのなかから機械的で合理的なプログラムばかりを採用し、一方の芸術的、非合理的、制御不能的、転倒的野心を捨て去ることで生まれる流線型的「滑らかさ」を基盤とする環境のなかで、かつてない完璧さにまで織り上げたものである。苦悩なき革命というわけだ。

建築的背景

六〇年代半ばは、建築に信頼が置かれていた最後の瞬間かもしれない。いまやピークに達したかに思える都市更新は、都市計画者の業務範囲を幾何級数的に拡大していた。一致するところ、都市デザイナーは「形態を付与し、秩序を知覚し貢献するという役割を与えられ」ている★三四。同時に都市更新には、その前提に関する疑いもつきまとう。その遂行が全面的な間違いとなる可能性もあるのではという感情が。クリストファー・アレグザンダーの言葉を借りるならば、「われわれは世界を、小さなガラスとコンクリートの箱にだけ人が住んでいるような場所にしてしまうのではないかという見込みが、多くの建築家への警鐘ともなり[…]」★三五。
チームXはCIAMの中核的なヴィジョン/モデルを人間化しようとして、部分的には非西欧のもの──アフリカの村、イエメンの砂漠の町──やその他外国に連なるものの注入を行なう。エジプトからざわめきが聞こえ、クリストファー・アレグザンダーもインドの村で自分の理論を試す★三六。
批判的に理想を反転するためのイデオロギー的基盤が用意され、そこでは、第三世界の目鼻もつかないような集塊が、不毛な近代化への解毒剤を提供するかのように感じられている。未開発なものの「価値」は反物質主義のイデオロギーを擁するものとして捉えられ、中国、ベトナム、アフリカ、インドなどの「汚されていない」土地──個人主義的に原子化された西欧より集団主義的な文化──から教訓が引き出される。新しい概念は、より繊細で、わかりにくく、ストイックにみえるアジアから収穫される。
六〇年代半ばはまた、白人男性的な戦前のモダニズムに対して、モダニズムの中心的ドグマのまわりに生じはじめたエディプス的な小ぜり合いに参入すべく、「エキゾチックな」文化から「他者」たる建築家たちが名乗りを上げた時期でもある。究極的なグローバル化の途上で、西欧文明は周縁において思想家たちをつくり出し、またその存在を認めざるをえない。
六〇年代前半の最もエキサイティングな運動は日本のものである。加速し不安定な状況のもとで膨大な量をこなさなくてはならないという義務への新たな覚醒が、メタボリズム運動を後押しする。それは日本の思想的エリート──丹下、黒川、槇、磯崎──の緩やかな連合であり、有機的、科学的、機械的、生物的、ロマン的(サブライム)なヴォキャブラリーを結びつけた。丹下健三の東京計画は、まったく新しい教義が即座に説得力をもつかのように登場し、人々をあっと言わせる。三〇〇〇年以上の建築史上初めての、非白人の前衛である。
これらの建築家たちがエキサイティングなのは──そしていかにもアジア人らしいのは──ヨーロッパの同時代建築家と異なり、戦前のモダニストたちを駆り立てていた量──集塊──という中心的な課題から目を逸らさないからだ。
ヨーロッパの従兄弟たちが小さなスケールを洗練させ再発見するのに対し、アジアのメタボリストたちは──人口動態の圧力を意識し、鼓吹されすらして──それとは別の、より豊かで自発的で自由なかたちで混雑を組織化する途を考える(逆説的なことに、細部がなく、ひたすら量を積み上げるだけであったシンガポールの実践主義的で無思慮なHDBニュータウンは、生物学でいえば甲状腺発達異常を起こした政府がつくり出した、いわばデカダンのモダニズムともプロト・メタボリズムとも読むことができる)。
『集合体を求めて』で、槇──合衆国で教育を受け、教えてもいた──は明らかにアジア的な存在感を示している。当時の本の多くと同じように、槇の小冊子も、大なり小なり一貫した思想的な考察が、それを説明する大なり小なり理論的なプロジェクトという具体例で示されるという体裁のものである。理論と図版のどっちが先なのかは何ともいえない。
日本人のハーヴァード卒業生として、槇は二つの世界を胯にかけている。彼の論文はものごとの挟間を巧みにつく。「CIAMオリジナルメンバーの理論家たち」とは一線を画して彼は書く。「いまやわれわれは都市社会をさまざまな力が関わり合うダイナミックなフィールドとして見なくてはならない。都市社会とは互いに独立した変数のセットであり、どの変数も急激に拡張し、無限の連鎖のなかにある。諸力のパターンのなかに導入されるいかなる秩序も、ダイナミックな均衡状態──時間とともに性格を変える──に寄与する[…]。
われわれの都市は流動的で可動である。そのあるものは、本来の意味で場所と考えることは難しい。はっきりとしたはじまりも終わりもないようなものが一体、場所になりうるだろうか?確かに都市の特定の部分が場所だと考えるのが普通だろう。都市の各部分をより適切に分節し、まだ目鼻もついていない塊にエッジらしさ、ノードらしさをあたえることができるなら、われわれは、大都市という複合体を、『イメージできる』とは言わないまでも、理解しうるようになったとは言えるだろう」。
初期モダニズムの厳格さは、いまやそれ自体が宣告していた不安定性によって足下を崩されている。「現代都市に新しい形態概念を探求する理由は[…]近年、そうした問題自体があまりにも大きく変化しているからだ。われわれの都市社会は、(1)驚くほど多様な組織や個人の共存と衝突、(2)社会のフィジカルな構造における先例のない急速且つ包括的な変化、(3)コミュニケーションの急速化、(4)テクノロジーの進歩とそれが地域文化に与えるインパクト、によって性格づけられる」。
これらの条件においては、固定観念に固執する都市計画にはもうあまり期待できない。国連の専門家たちが示唆した通りである。「そうなるとわれわれのここでの関心は『マスタープラン』ではなく、『マスタープログラム』だということになる。[…]マスタープログラムにおける物理的な相関物として[…]時間の支配に応じるという意味で『建物』とは異なる『マスター・フォーム』というものがある」。
こうした解釈から、槇は「集合体」をつくり出す──その名前自体、西欧的実践の個人主義に対する秘かな反駁であるわけだが。「集合体とは、建物やそれに類するものの集合──都市の一部──を指す。しかしながら、ばらばらの関連ない建物の寄せ集めではなく、一まとまりになるだけの理由を有する建物の集まりである」。
槇によれば、それには三つの種類がある。コンポジショナルフォーム、メガストラクチャー[訳註:原文ママ。槇原文ではメガフォーム]、グループフォームである。
あきらかにコンポジショナルフォーム(「昔も今もあまねく受け入れられ、実践されている」)にはそそられない彼は、メガストラクチャーとグループフォームに魅せられている。「メガストラクチャーは都市あるいは都市の一部のあらゆる機能を収容するような大きな枠組みである。[…]それは人為的につくられたランドスケープである。[…]都市デザイナーがメガストラクチャーに惹きつけられるのは[…]それがマッシヴに群をなす諸機能を秩序づける正当な手だてを提供するからだ」。しかし槇は懐疑的でもある。「メガフォームは、それがもし急に廃れてしまった場合は[…]都市社会にとって大いなるくびきになるだろう」★三七。
槇が本当に親近性を覚えるのは、「諸要素が極度に差異化された共通の形態的・機能的ファクターをつくり出し、それが次にコネクターのなかで展開していくような」グループフォームである。「要素は枠組みに依存するのではなく、むしろそれらと枠組みの間の有機的な相互依存性のなかにひとつの集合を形成する[…]」★三八。
これらの諸カテゴリーの共存が、ひとつの新しいアーバニズム、新しい都市として考えられている。「理想は、一種のマスター・フォームのようなものが、新しい均衡状態へ移行しながら、しかも視覚的な一貫性と長期的に持続する秩序を維持することである」。
チームXのように、槇もまた結合にこだわっている。マスターフォーム──「弱い」一貫性をもった形態──を実現するべく、彼は提案する。「リンク。リンクする、あるいはリンクを解くという行為は、コレクティブフォ ームをばらばらの要素から形成するにせよ、繋がった要素から形成するにせよ、必ず行なうことである。操作的な形としては色々なリンクの仕方がある。物理的に繋がったリンクとか、示唆的なリンクとか、ビルトインのリンクとか。[…]この考え方で言えば、都市システムの拡張の速さが物語っているのは、できたばかりの部分とまだ構想されてもいない部分の間にさえ、何らかの連結手段がなければならない、ということになる。要するに、『開放系のリンク』とでも呼ぶべき何かが必要なのだ」★三九。
彼は、「グループフォームで最も重要なファクターは[…]公共空間という媒体の扱い方」だと考える。それは──鍼療法にも似て──「有機的な公共の場所を都市中の交通の要所に創りだせば、都心部のリハビリテーションに重要な影響を与えることになる。[…]都市デザイン的に見れば、われわれはシティ・コリドールシティ・ルーム、そして交通の乗り換え地点を、都市の戦略的な場所につくり出さなくてはならない。ついでわれわれはこれらの重要拠点が都市のエネルギーの発生源になることを認識しなくてはならない。建築家はシティ・コリドールやルームの使われ方にはタッチしないのだ[…]」★四〇。
それについで、槇の小冊子は現代のさまざまなプロトタイプをリストアップする。それらはすべて、散逸するアイデンティティの蓄積としての建物であり、都市はもののコンポジションとしてではなく「ことが起こるひとつのパターンとして」記述されている。
これらのプロトタイプは、プログラムを与えられた「ショッピング・ウォール」から「地域ショッピングセンター」(複数階のショッピング機能に公共機能が加えられた、半固定的な基盤)、さらには大阪の堂島再開発プロジェクトという、二つの大きな吹き抜け──シティ・ルーム──をもち、オフィス、住宅、アートセンターなどさまざまなプログラムを重ね合わせた巨大な公共基壇(下層階)/ショッピングセンターまで、規模はさまざまである。ダイアグラムはこれを都市の新しい「器官」であるとし、そこを人々が「血液のように循環する[…]」かのように表わしている。
最後に、「東京の中心街近くの急行乗換えターミナルに沿った」一〇〇メートル×一〇〇〇メートルの敷地のためのK(錦糸町)プロジェクトが登場する。これは「中小の店舗、ローカル及び急行バスのターミナル、卸売りデパートからなる複合ビル(シカゴのマーチャンダイズマートのようなもの)に教育および社会施設がついた建物で[…]この概念は全体として一定の柔軟性を保ちながら、デザイン原理の本質的な概念を保持する『マスタープログラム』のあり様を示唆するものである」。
最も重要なのは、槇の理論そのものよりも、地域によってさまざまな建築の議論が起こることを彼が予想していたことなのだが、逆説的なことには、いったんグローバルに散種された結果、その通りとなる。彼は慎重に予告する。「来たる十年のうちに世界のさまざまな場所で地域的表現が探求されるようになり、それが建築とプランニングにおける最も重要で魅惑的なテーマになるだろう」。地域的表現というものをそのように捉える槇のプロジェクトは、悪びれることなく「ショッピング」に取り組んでいる。アジアの文脈では、ショッピングは単なる消費主義の狂騒ではなく、都市生活のまっとうな本質部分であって、その装置はアジアにおいてアゴラに相当するものだ。それは国際建築の新しいルーツを指し示す、ひとつの記号である。槇はドライに記す。「ル・コルビュジエは都市的な建築をつくり出す人間性を『空気』と『緑』と『太陽』に限定したが、グループフォームの推進者たちは、そのリストに無数の営みが加えられうると考えている」★四一。


意味論の帝国 21──アジア村

意味論の帝国
21──アジア村

22、23──チャイナタウン各々の文化に払われる敬意 引用出典=Sentosa Press Kit.

22、23──チャイナタウン各々の文化に払われる敬意
引用出典=Sentosa Press Kit.

24──どうでもよさそうなことへの禁忌 撮影=Ines Vente

24──どうでもよさそうなことへの禁忌
撮影=Ines Vente

25──小さなガラスとコンクリートの箱 ドローイングソール・スタインベルグ

25──小さなガラスとコンクリートの箱
ドローイングソール・スタインベルグ

26──非西欧的なソースの注入 引用出典=バーナード・ルドフスキー『建築家なしの建築』

26──非西欧的なソースの注入
引用出典=バーナード・ルドフスキー『建築家なしの建築』

27──丹下健三「東京計画1960」 引用出典=Fumihiko Maki, Investigations in Collective Form, St. Louise: Washington University School ofArchitecture,1964.

27──丹下健三「東京計画1960」
引用出典=Fumihiko Maki, Investigations in Collective Form, St. Louise: Washington University School ofArchitecture,1964.

28──槇文彦

28──槇文彦

29──槇文彦 「コンポジショナルフォーム」

29──槇文彦
「コンポジショナルフォーム」

30──同「メガストラクチャー」

30──同「メガストラクチャー」

31──同「グループフォーム」 引用出典=Fumihiko Maki, Investigations in Collective FormおよびJapan Architect.

31──同「グループフォーム」
引用出典=Fumihiko Maki, Investigations in Collective FormおよびJapan Architect.

32──槇文彦「錦糸町計画」

32──槇文彦「錦糸町計画」

33──同「シティルーム」

33──同「シティルーム」

34──同「堂島計画」

34──同「堂島計画」

35──同「錦糸町計画」 引用出典=Maki, Investigations in Collective FormおよびJapan Architect.

35──同「錦糸町計画」
引用出典=Maki, Investigations in Collective FormおよびJapan Architect.

SPUR

一九六五年、SPUR(シンガポール計画及び都市調査グループ)がウィリアム・リムとタイ・ケン・スーンによって結成される。エキスティクス、つまり人間居住科学(Science of Human Settlements)創設者のドクシアデスに影響され、ジャクリーン・ティルウィ ット(リムのハーヴァードでの教官)に鼓舞された彼らは、「シンガポールにおけるフィジカルなプランニングは、公衆もそのプロセスに参加することで強化されるだろう」という信念をもつに至る。 
SPUR。この名前は新しい動機と刺激を示そう、しかも同時に中心線から外れた一本の道──劣等感というわけではなく──を認識してもらおうという大望を表わしている。
SPURの立場──シンガポールの建築的知識人を糾合した──は最初から不安定だ。現実に行なわれつつあるラディカルな変革の実験に関与はしたいものの、批判的な立場は離したくない。SPURは、彼らが代弁者を自認する「環境に関することがらに対して無自覚で意見をもたない人々」と「効率的で攻撃的な官僚機構」との間にいる。
政府の行動がはっきりと目に見えるようなものであるにもかかわらず──破壊と建設に関していえば──その青写真はこれまで秘匿されてきたし、その意図は内部の人間にしか知らされてこなかった。SPURはこれに抗議する。「国連のレポートは一般公衆には接することができなかった[…]。計画は承認されて初めて公表されたが[…]それでは参加するには手遅れである」。
この情報的空白のなかで、二〇人の固定メンバーと二〇人の暫定メンバーよりなるSPURは自前の調査をはじめ、公的なディスカッションやトーク、フォーラムに参加し、シンポジウムを組織し、新聞に手紙を送り、政府機関にさまざまの提案書を提出し、政策への対案を発議し、シンガポールという都市更新の実験に対する大々的な関与と直接参加への熱心な申立てを組織する。
彼らは「SPUR 六五──六七」と「SPUR 六八──七一」という二つの出版物を生み出すが、いずれもデータ、議論、分析、批判、インパクト調査をまとめた、圧倒的な資料大系である。全一八〇ページのうち図版は僅か三枚ということに示されるように、建築雑誌としては硬派のトーンによっていた。
SPURを拠点に──しばしばそれは第二の政府のようだった──タイとリムは、イデオロギー的にはパブリックセクターを定位置とし、政治参加へのたぎる思いを抑えながら、政府に対し「あまねく公衆の批判に耳を貸し[…]市民のプライドと責任感を促すよう」求める。彼らを待ち受けるのは残酷な運命だ。政府は、火花を散らすような実験のフィールドにおける線審の立場に、彼らを甘んじさせることを決める。
彼らが新しい海岸高速道路のデザインに関してコメントすると、HDBの副総裁チュー・ロイ・フーンから尊大な答えが返ってくる。「建設的なコメントは、高速道路一本、インターチェンジひとつをスタディして性急に結論できるものではない」。こう言ってわからなければと──この革命には内側か外側かの二つの立場しかないわけだが──SPURのメンバーであるエドワード・ウォンは告げられる。「ウォン氏あるいは彼のグループのメンバーの誰であれ、数ある公共開発プロジェクトのチャレンジに参加したいと思えば、それを妨げるものは何もない。必要な資格をもち、政府あるいはHDB事業のための公共事業委託申請をしさえすればよいのだ[…]」。
SPURが提起するテーマ──歴史、状況、コミュニティ──はいずれも、近代化の過程からのみ取り出すことができ、純粋さを主張したり、減速させたりしうるといった、デリケートなものである。しかしタイとリムは主張する。「われわれは創造的なフェーズにいるのだ。創造的なイメージをつくりだすには、ただ計算尺や数式やコンピュータを使うだけのテクノクラートやエクスパート以上のものが必要だ。われわれに必要なのは詩人や未来空想者ヴィジョナリーなのだ。詩的な現実こそ、すべてを包みこむ」と。
頭に血が上った政府が全島のメタボリズムを加速させる一方、SPURは省察の時間を主張する。「われわれは分岐点に到達した。ここで一休みしなくてはならない。この分岐点を一気に飛んで、これまでの量的なアプローチから、全環境の質的獲得という、より不明瞭な領域へ踏み込むためには、休みが必要なのだ」。一九六六年、彼らは自らのシンガポール計画代替案を打ち出す。「わがグループは[…]「アジア都市の未来」において、都市開発にむけた「都市の理想」のいくつかを説明した」★四二。
一見すると、このスケッチはあの時代のメガストラクチャー・ファンタジーを大胆に模倣したかのように見える。「住宅が空に向かって突き出し、その下にあるオフィスや役所や教育センター、劇場、オープンスペース、余暇センターなどで人々がハミングしながら生活を営んでいる、そんな都市を想像してみてほしい。そこではさまざまなセンターが互いにリンクされている。[…]夜は都心部の娯楽センターや文化センターが煌煌と光る。[…]物売りや屋台のいない清潔な公園や通りがあったらどうだろう?側溝にまったくゴミがなかったら?それが明日のアジア都市なのだ」。
アジア的なものがないのにははっとするが、それこそ思う壷である。彼らが規定したテーマを見ると──「折しもアジアで人口爆発が起こっている今、将来この惑星の一部であるわれわれの国の人間の住処がどうなるのかという問いを、われわれ一人ひとりが問わないわけにはいかない」──「アジア性」は、SPURにとってさえ、情緒的な気晴らしでしかない。「都市は発展の結果である。ローカルな性格とローカルなアイデンティティを保持したいのは山々だが、一方で、われわれは近代生活に必要なものが何かを見誤ってはならないし、工業化の道とそうでないものを見間違えるという過ちを犯してはならない」。同じ人口動態を考えるにも、まさに避けて通れないのが密度である。「都会的なセンスを少しでも理解する人なら、真の都市とは混雑した都市であるということに同意するだろう。この場合、混雑とは車のそれではなく、さまざまな活動が無数に関わり合い、そこに引きつけられる人々の混雑をいう。[…]高層建築が一般的となり、もはや例外ではなくなる」★四三。この新しい密度──HDBのハウジングブロックはその皮切りでしかない、高層建築の爆発──こそ、アジア的なものなのだ。
この一点において、SPURと政府は完全に意見が一致する。時には、リー・クァンユーすらSPUR風の空想を操ることもある。彼はSPURの代案を並べた展覧会でこう公言する。「一九六三年に住居問題が山を越してからは、われわれのターゲットも当然ランクアップしました[…]」★四四。
六〇年代後期、排除され続けてきたSPURのフラストレーションは鬱積していた。傍観者の立場に押し止められてきた彼らは、「ワッツ、アムステルダム、パリ」の同時多発的な政治爆発を見て、これこそ反体制勢力がこれから世界的に飛び火していく徴候だと捉える。
リムが『切迫した都市危機』のなかで「農民反乱、市民戦争、革命」について書く時、シンガポールで暴動が起こらなかったことへの苛立ちや不信感が隠しきれないでいる。それは、一斉蜂起を期待されていた第三世界が、まさに自分の裏庭で牧歌的風景に変貌してしまったことへの焦燥であるという。
この読み違えは残酷な逆説を示している。つまり、最も進歩的な建築家が後進性を恒久化したい気持ちを感情的に抱き、またそれに劣らぬ忸怩たる思いを、政策の成功に対して抱く、ということだからだ。彼らは政府の政策の失敗を予言したが、その魅力を過小評価していたのだ。彼らは人々の抵抗性や非腐敗性をもともと過大評価し、それが実はどうやら無頓着らしいとわかると、信じられないという面持ちで頭を抱え込む。

36──SPURの第1号  新しい刺激

36──SPURの第1号  新しい刺激

37──ウィリアム・リム(1993) 撮影=ダニエル・カスター

37──ウィリアム・リム(1993)
撮影=ダニエル・カスター

38──タイ・ケン・スーン(1993) 撮影=ジェニファー・シグラー

38──タイ・ケン・スーン(1993)
撮影=ジェニファー・シグラー

39──「アジア都市の未来」 引用出典=SPUR 65-67.

39──「アジア都市の未来」
引用出典=SPUR 65-67.

40──68年5月のシンガポール 引用出典=Singapore: Next Lap, Singapore:Times Editions,1991.

40──68年5月のシンガポール
引用出典=Singapore: Next Lap, Singapore:Times Editions,1991.

41──68年5月のパリ 引用出典=Sunshine Photographics Netherland, 1958.

41──68年5月のパリ
引用出典=Sunshine Photographics Netherland, 1958.

SPURned(足蹴にされて)

深く心を揺さぶる、穏やかならぬ真実。それは、政治家がひとつの解決策を想像し、実行に移したとなると、失敗を予期した建築家が修正しようと待ち構えていることなど歯牙にもかけられない、ということだ。すべてを消されたシンガポール島の平面は、巨大なメタボリックな荘園のごときもの、あるいは政府の遊び場となった。三〇年後から振り返って見ると、狂騒的な密度をもった彼らのプロジェクトのなかには、ほとんどアヴァンギャルド的、メタボリスト的な光彩を放っていたものもある。
八〇年代の終わりになって政府はついに態度を和らげるが──一応目標は達成されたということだろう──リムとタイは、保存に関しては遅まきながら政府に勝利したと、この時初めてほっとする。『第三世界の都心部における高層ビルに抗して』の反予言者的な著者であるリムは、それが自分の声がようやく聞き届けられたからだと思っている。しかし、もはやブルドーザーをかけるものがほとんど残されていないのも真実だ。

ビーチロードのメタボリズム

一九六七年のこと。六〇年代も終わりに近づいている。「住居問題」は「峠」を越えている。シンガポール市再建を始める用意は整っている。政府は、都市再開発公社Urban Redevelopment Authority(URA)──前身である都市更新局Urban Renewal Departmentほどは白々しくない名前だ──を通して「敷地販売Sale of Sites」プログラムにとりかかる。シンガポール市一新の機が熟した今、私企業も息を吹き返す。国連からやって来た「トロイカ(三頭立て馬ぞり)」のアドヴァイスを入れて──「シンガポール人全てにとって快適な環境を保証し[…]しかもデザイナーの創造性やディヴェロッパーの意欲を削ぐことなくそれをやるために」──中核ビジネス地区CBDにより大きな敷地──そのほとんどが長方形、一万平米程度、特別変わった条件なし──が確保され、収用され、ついで入札で売却される。「民間企業セクターに商業開発を保持することが、経済的にもイデオロギー的にも必要だった」★四五。これまで溜まりに溜まっていた商業的及び建築的野心は、ついに発散可能となる。後背地を経て、シンガポール市域が無から築き上げられることになる。
最初の年は一三の敷地が、次の二年間には三二の敷地が売却される。これら第一回の売却分から、少なくとも一〇のプロジェクトが立ちあげられ、それだけでシンガポールはおそらく六〇年代の建築理論を最も充実したかたちで実現させたショーケース、いわば都市サイズのミュージアムになる。二つの場所に──大通りといった方がいいか──海に面したビーチロードのゴールデンマイル★四六と、ユートンセン道路(ニューブリッジロードと平行し、チャイナタウンを突っ切っている)があっという間に姿を現わす。いずれも実験的な建築/都市計画の傑作であり、マスター・フォームの浮上として捉えられなくてはならない。つまり厳格なマスタープランの枠からはみ出した、より柔軟な新しい都市的条件が、連続的な都市開発というかたちでつくり出される、そんなプログラムの集積と。
ビーチロードとピープルズパークに、タイとリムの共同設計事務所「デザイン・パートーナーシップ」は、新しい「シティ・コリドール」のプロトタイプを導入する。それはメタボリストの「シティ・ルーム」の実現例であり、アジア的近代性を都市に適用した最初の例でもある。彼らはロンドンのAAでチームXに接し、ハーヴァードで槇に接する。そのハーヴァードでリムは「土地利用や開発、地域経済[…]に関する理論的知識[…]キャッシュフローに市場研究、販売・リース戦略、はたまた需要供給分析──事実、およそ開発経済に関することのすべて」を仕込んでいた。
一見、ブルータルな基壇の上にブルータルな板状高層ビルが建ったという感じのピープルズパーク・コンプレックスは、要するに中国風繁華街の濃縮版であり、中国的ショッピングの細胞マトリクスに基づいた三次元の市場──近代運動風チャイナタウン──である。
この塊の中には二つ、相互に連結されたヴォイドがつくられており、リムは次のように説明する「二つのアトリウムが相互連結されており[…]それは当時、まったく新しい、大胆なコンセプトであった[…]われわれが『シティ・ルーム』と呼んだメインアトリウムは、日本のメタボリスト・グループのアイディアから鼓吹されたものだ」。槇は工事中に現場を訪れて言う。「僕らが理論をつくり、君たちが現実に建てたというわけだね[…]」★四七。
この成功には両義性がなかったわけではない。学のある建築家たちがいまや、シンガポールのラディカルな都市更新に参加している。それなのに、このプロジェクトによって、かつてピープルズパークであったチャイナタウンの一部が取り壊されたのである。このプロジェクトの正当化のために、古いものにケチがつけられる。「一ヘクタールに渡って広がる、あばら露店の市場。この市場自体は非常に活気があったが、混み合っており、雨の時は不快だった」と政府は苦しい弁解をする。新しい建物は「三一階建てで、楽しさと活力に溢れ、古い市場の雰囲気をうまく再生している。[…]全部で二六四戸が二五フロアの板状ブロックに収容されている。六フロアの下層部には三〇〇以上の店舗、オフィス、レストラン、コーヒーハウス、六三三台分の駐車場が入っている[…]」★四八。
このコンプレックスのイデオロギー的次元は、それが「結合リンケージ」の起点を形づくることで強化されている。同じ通りにある、同じく第一回売却分の「ピープルズパーク・センター」が、ング・リー・センによって建てられている。下層部の四フロアに二万五〇〇〇平米のショッピング・スペースが収まり、さらに二〇フロアのアパートと一万平米のオフィスを擁している。ピープルズパーク・コンプレックス同様、このセンターもシティ・ルームをもち、二者の中間にあるフードセンターと結ばれている。「ノード」の一部だというわけだ。あらゆる方向にブリッジが出ていて、歩行者は遮られずに歩いて行ける。全体としてそれらはマスター・フォーム、つまり槇風シティ・コリドールの起点を形成している。
建築としてみると、これらのコンプレックスはさして洗練されているとはいい難い。マレヴィッチのアルキテクトン・熱帯版といった風だし、剥き出しのコンクリートの角材が気楽に集められた感じである。しかし、一九七二年のユートンセン通りは、世界でも最もイデオロギー的な都市街区のひとつだ。そこではまごうかたなきアジア的な価値感が体現され、どの方向にでも拡張と結合が可能な状態になっている。
ビーチロードの海岸線と平行して、同様の「メタボリスト風マイル」が伸びている。ザ・プラザ(デザイン・メタボリト・アーキテクツ)だ。二二階建てのゴールデンマイル・タワー(ゴー・ハック・シュアンの設計チーム)──「これもランドマークで[…]内部空間の形とヴォリュームを反映して、形態とマッスを複雑にアレンジしたコンプレックスである。構造体の中身も仕上げも同じ打ち放しコンクリートだが、コーナーやエッジを丸くし、サッシュのディテールも丸くすることでソフトに見せている」。一八九六席の映画館、二〇〇のショップ、一六層のオフィスタワー、五三九台のパーキングが合体している。
一番端にあるのが、イデオロギー的にも建築的にも最も先進的なもの──ウォー・ハップ・コンプレックス(後にゴールデンマイル・コンプレックスと改名)──である。これはもはや各部分がばらばらではなく、一六フロアが斜めに張り出した多目的のコンプレックスに一体化されている。「このビルはステップ・テラス式であり、このデザインを採用したのはシンガポールではこれが初めてである。これにより、オフィスからは空と海のパノラマが遮られることなく臨め、日の当たる小さな庭がテラスにできる。さらに北西側が階段状になっているから、上の階の床が下の階に影をつくり、日中の日差しから守ってくれる」★四九。ここには三七〇のショップ、五〇〇台の駐車場、オフォスが収容されている。
ゴールデンマイル・コンプレックスは初めて実現されたアジア発のメガストラクチャーである。一九二八年、ワルター・グロピウスの謎めいたヴォーンベルク(住居丘)プロジェクトとして発案され、一九六〇年代には丹下が(まずボストンのMITの学生とのスタディ、ついで東京計画で)ヴォリューム自体を二つに割り、その結果モニュメンタルな内部を抱え込むデザインによって板状建物の直線一本ヤリ的状況にもの申す(ついでポートマンのアトランタ・マリオットのアトリウムや、そこまでではないにせよドミニク・ペローのマルヌラヴァレのESIEEビルという最近の例にも、その反響が見られる)というかたちで再発見された、ひとつの夢。
メガストラクチャーはモダニズムの方正なヴォリュームの時代に終止符を打つ。もともとあった戦前の建物は、一枚岩で謎めいていてニュートラルでありながらもほとんど無限に多様性を吸収できたが、今では──ヒューマニズムの名の下に──シンボリックなアクセス性、理解、感覚、開放性を求めるプレッシャーが強まっている。まるで巨大なバールを使うかのようにパーツを切り離し、板状建物をこじ開け、二つに割ったものをモニュメンタルな逆A字型に組み立て、タワーを捻ることで、新しい集合性を開示し、中が見えるようにしている。
建築は、理解しうるものになる(失望への重要なステップというわけか?)。
熱帯では、このように中を開放してみせる手法は、隠れた内部を良好な気候がもたらすそよ風に当てたいという、ごく自然な、エコロジカルな願望とすら見なされうる。屋内は隔離されるのではなく、ところどころで外と接し合う状態、つまり最大級の都市的浸透性だけがある。
これらのプロジェクトにおいて、シンガポールの中心部は近代的アジア・メトロポリスの原型として理論化されている。都市は、相互に結合された都市の部屋(urban chambers)の体系というわけだ。伝統的に街路生活に制約を与えてきた気候は、屋内を都市の出会いの起こる特権領域にしてきた。ショッピングは「この土地で」一定のステータスにつきまとう強迫観念となったが、この理想化されたコンテクストにおいてはそれだけでなく、時には顕微鏡的ともいえる無限に多様な機能を散りばめたアマルガムをなすこととなり、その中では店舗の一つひとつが都市生活を構成するプログラムのモザイクの「機能単位functoid」になっている。
六〇年代後期、シンガポールの建築家たちは──ル・コルビュジエ、スミッソン/チームX、そして槇に由来する自覚的にアジア的な思考、アジア人としての自覚や自信といったものの影響を一緒くたに混ぜ合わせながら──巨大な近代的基壇ソックルの野心的な作品を具体化し、明確化し、実際に建てたが、そこには最も伝統的なアジア風街路生活ストリート・ライフが満ちあふれ、いくつもの結合リンケージが隅から隅までを連結し、近代的なインフラストラクチャーが全体を支え、中にはバベルのような多層の駐車場もあり、アトリウム風の空間が貫通し、多目的タワーを支えている。それは都市の多元性を収め、建築の中に都市生活を英雄的に取り込んで強化したものである。そして、こうした多層都市とメガストラクチャーの神話は、建築の規範となりえ、あるいは規範となるべきだが、そうなることが実際は稀なのは、それよりも遥かに豊かな状況にある「われわれ」が却下し、捨ててしまったためである。

42──ニューブリッジ・ロード地区開発モデル(1967) 引用出典=The first Deacade in Public Housing.

42──ニューブリッジ・ロード地区開発モデル(1967)
引用出典=The first Deacade in Public Housing.

43──ピープルズ・パーク・コンプレックス「敷地販売」紙 引用出典=Urban Redevelopment Authority, Chronicle of Sales Sites.

43──ピープルズ・パーク・コンプレックス「敷地販売」紙
引用出典=Urban Redevelopment Authority, Chronicle of Sales Sites.

44、45──ピープルズ・パーク・コンプレックス 撮影=ダニエル・カスター

44、45──ピープルズ・パーク・コンプレックス
撮影=ダニエル・カスター

46──ビーチロード地区開発モデル(1967) 引用出典=The first Deacade in Public Housing.

46──ビーチロード地区開発モデル(1967)
引用出典=The first Deacade in Public Housing.

47──ウォー・ハップ(現在ゴールデン・マイル)コンプレックス、デザイン・パートナーシップ 撮影=Ian Lloyd Productions

47──ウォー・ハップ(現在ゴールデン・マイル)コンプレックス、デザイン・パートナーシップ
撮影=Ian Lloyd Productions

48──ゴールデン・マイル・コンプレックス、内部見上げ

48──ゴールデン・マイル・コンプレックス、内部見上げ

49──同、断面図

49──同、断面図

50──現在のシンガポール  停止した動画のひとコマのような 撮影=Ian Lloyd Productions

50──現在のシンガポール  停止した動画のひとコマのような
撮影=Ian Lloyd Productions

51──いつでも次のフォーメーションに移れる状態 撮影=ジェニファー・シグラー

51──いつでも次のフォーメーションに移れる状態
撮影=ジェニファー・シグラー

プロメテウスの二日酔い──次の周回

シンガポールは、人で溢れかえるひとつのチャイナタウンから、チャイナタウンのある都市に変わった。いよいよ完成か。
しかし、タブララサの劇場(だったもの)として、今のシンガポールは、静止した動画のひとコマのような、ストップをかけられた動きがいつでも次のフォーメーションに移れる状態にあり、それ自体の存在感は薄い。つねに次の状態へと変形しつづける街なのだ。
タブララサの恐ろしさは、一端そうだとなると、既存の居住地が消耗されていいことになるばかりか、将来の利用にも暫定性が与えられ続け、永久に仮のものとなるというところにある。そうなると、これを最終的なかたちに、という提案は──どんなに凡庸な建築形態も、この幻想をもとに構想されるが──ありえないということになる。タブララサは建築を不可能にする。
シンガポールの不安定な現実がもちこむ焦躁感は、幾何学的安定性の不在によって一層煽られている。末梢する勇気があるからといって、島のステータスの決定条件となる、つまりマンハッタン・グリッドのような、中身とは無関係の自律的アイデンティティとなる新しい概念的な枠組み──指導概念?──が生み出されたわけではない。シンガポールの増殖する幾何学は、その建築的実体のほとんどである普通にモダンな、格子一点張りのスーパーブロックどうしをうまく共存させなくてはならなくなると、限界を超えてしまう。シンガポールの「プランニング」──現前するものの総体にすぎないが──は、バティック模様と同じように形がない。わけもなく突然現われたり、何の前触れもなく急にキャンセルされたり消去されたりもする。この都市は不完全なコラージュであり、あるのは前景だけ、背景はない。
おそらくこの幾何学の欠如は典型的にアジアのものだ。東京がその永遠のサンプルである。しかし、それがほとんどワールドワイドな現代的状況と一体どう繋がっているのか?パリを包囲しているのはアジア的なリングだろうか?ピラネージのローマのフォーラムは中国風だろうか?あるいは、「他者」の文化、「他者」のスタンダードの不完全性に対するわれわれの寛容性は、ポストコロニアルな見下しのカモフラージュなのだろうか?
これらビルの集塊が明確な全体像を結ぶことに抵抗するために、外観──都市性の古典的なドメイン──は、それがアジア的であるにせよないにせよ、謎めいた屋内とか、些細な要求の氾濫とか、パブリックアートとか、熱帯風につくり直されたランドスケープとかのコマーシャルな氾濫の残骸に見える。
量のマニフェストたるシンガポールは、酷薄な矛盾を曝け出す。物質的な増大が膨大だと、全体の効果がどんどん非現実的になっていく。窓の暗い感じ──黒、時には紫のガラス──によって、鉄道模型のランドスケープのように抽象性が増し、一体建物の中が空っぽなのか、あるいは移植された儒教的生活が詰まっているのか、見分けのつけようもない……。
巨大な実質性にも関わらず、シンガポールはポチョムキン的メトロポリスのままであり続ける運命なのだ。
これはローカルな問題ではない。われわれはものをつくれても、それをリアルにできるとは限らない。シンガポールは、新しい量が古い量を圧倒する臨界点であり、それによって活性化されるにはあまりに大きくなり過ぎ、しかも自身の活力を発達させるには至っていない。計算上からいえば、二千年期はこのような魂を欠いた実験の時代となるだろう(われわれが三〇年間の自己憎悪の眠りから覚醒するということでもない限り)。
その金字塔的な達成の後でシンガポールを苛んでいるのは、プロメテウスの二日酔い現象である。アンチクライマックス的な感覚が明白にある。「完成された」バルト的国家は、その奢侈な実質にスーパーインポーズする新しいテーマ、新しいメタファー、新しい記号を必死に探し求めている。焦点は外敵から内なる悪魔へとシフトした。そしてその内なる悪魔への疑心暗鬼の度合いは、これまでの類を見ないようなものだ。
リーは一九九〇年に引退したが、院政を敷く。彼の後継者ゴー・チョクトンは、超効率的な要塞都市から、もっとリラックスしたスパルタ状態への移行を敢行しなくてはならない。
いまや移行と、修正と、マージナルな調整と、「新  し  い  方  向  性ニュー・オリエンテーションズ」の時代である。都市計画の次は「余暇化」だ。「シンガポール人はいまや、生活により高級なもの──芸術、文化、スポーツなど──にあこがれている」★五〇。
近年、情報・芸術省がつくられたことは示唆的である。その大臣であるイェオが警告する。「奇異に思うかもしれないが、われわれが二一世紀も競争力を保つためには、楽しさというものを真剣に追求しなくてはならない……」。
シンガポールは特性のない都市だ(おそらくそれがデコンストラクションの、さらには自由の最終形態なのかもしれない)。しかしその発展──その歌の路──は続く。啓蒙的な戦後の国連トロイカに始まり、遅蒔きながらのCIAM崇拝の表明、加熱したメタボリズム的メトロポリスと来て、今は儒教的ポストモダニズムのようなものに支配されており、初期のブルータルな板状住宅もシンメトリーな装飾で修復されている。
八〇年代には世界的な消費熱がシンガポールのイメージを不愉快なカリカチュアへとねじ曲げた。つまり都市全体がショッピングセンター化しており、ユーラシア的な野卑さの饗宴であり、品格や威厳のかけらもない都市であるというわけだ。しかし、ニー・アン・シティのようなターミナルプロジェクトにも、かつてのイデオロギー的生活の痕跡は残り、けばけばしいポストモダニティの光沢(御影石、真鍮、煉瓦)の下に潜伏している。そのポストモダニティは、新しいレトリックによれば、アジア的生活のみならず、長城やパゴダ、紫禁城等々、アジア的美学の再現に基づいている。しかし、形や装飾の下に見えるそれはいまだに驚異的な都市機械であり、一一階に贅をつくしたパーキングデッキがあったり、色々なアトリウムがあったり、みごとに細分化された売り場があったりして、そこでナイキとシャネルが、ティンバーランドとタイフードが出会う。ターボ付きのメタボリズム。
歴史、とりわけ植民地時代の歴史は現在も利用されている。皮肉にも、歴史と認められうるものはそれしかないからだ。骨折って正面を修復したラッフルズホテルは、背後にクローンを複製し、そこに元の本体を遥かに上回る容量のショッピングセンターを入れている。
忘却から蘇ったのはポール・ルドルフである。この都市のどこかに、彼のアメリカでのプトロタイプがひとつ──それは六〇年代、スチールのスケルトンにモービルホームを積み上げるというコンセプトで始まった──コンクリートで実現されている。
一九八一年、彼はビーチロードの実験に参加していた──おそらくそれとは知らず。あるディヴェロッパーのためにこのアメリカ人は、シンガポール人の同業者にコンタクトすることもなく、メタボリズム的なプロジェクトをデザインする。不整形に膨らんだポディウムの隣に、回転形のコンクリートタワーが立ち、独立したアトリウムの初期の事例となる。それは一三年後に実現されたものの、外装はアルミで、捩じれたタワーは金属製のぎざぎざのコーンにとって代わられるが、その「アメリカ風アトリウム」はアジア版のそれよりももっと空っぽである。
シンガポールの都心部は超高密になっていくだろう。計画局の最上階に置かれた市全域の模型は、ディテールのない、単純な形でほぼ覆いつくされている。新しい埋め立て地では、ボッタ風とかスターリング遺作風とかといったコンテクスチュアリズム的な傑作群が掉尾を飾っている。しかし、環境がないのに、一体どうやって環境に意識的な建築ができるというのか?
懸念(抑圧された?外からもちこまれた?)がもったいぶって浮上してくる。なかでも最も油断がならないのが歴史の消滅に対するものだ。「われわれの豊かな遺産を保存し、探求すべしという声が高い[…]」。
ゴーは自分の統治は(「ヴィジョン一九九九」よりも上の)次の周回であると位置づけた。一九九〇年一一月の宣誓のなかで、彼はこう宣言する。「シンガポールがうまくやっていくには、助け合いの心構えが善民たちにできていることが必要不可欠である。私は国に奉仕せよと、彼らに呼びかけよう。彼らが前進しないとするなら、われわれにどんな将来があるというのだろうか?だから私は仲間の市民たちに合流を呼びかけたい、次の周回をともに走ろう、と……」★五一。
しかし、彼の名(ゴー)とは裏腹に、トラックを何周もするマラソン同様、疲れが予め約束されている。ゴーの「次の周回」は、一緒にランニングマシンを走ろうという呼びかけのようだ。
「次の周回」とは、概ねシンガポールのアイデンティティへの働きかけのことを意味している。「われわれのヴィジョンは[…]この島の『島らしさ』──ビーチとかマリーナとかリゾートとかが増え、たぶん遊園地もあり、魅力的な海岸線へのアクセスもあり、街がより間近に水際を抱えていて、それが島の遺産を象徴している──を強めていくことである。シンガポールは緑に覆われ、人間によって手入れされ、自然の成長を保護し、水がランドスケープに一体化するような所になるだろう」★五二。全体として、シンガポールは「すぐれて熱帯的な都市に向けて」躍進していく位置にある。
なにごとも相対的に考え直す──深刻にではないにせよ──ムードのなかで、まず率先して再生されるべくもの、時には過去を遡ってでもそうすべきものは、自然それ自体である。「われわれの努力はすべて、開発と自然のバランスをとることに向けられている。[…]そうした場所は他所にもあるが、往々にしてわれわれも過剰開発をやりがちだった。場合によっては、時間を巻き戻し、建物を撤去し、昔の植生を蘇らせる必要のあるケースもある」。まるで「自然」が次の開発プロジェクトであって、タブララサのメカニクスを逆説的な反転ギアに投げ入れるかのようで、ほとんど不気味ですらある。開発が済んだら、エデン。
一九六三年、すでにリー・クァンユーは、これから開始される都市更新プログラムに向けた予防的な補償として「個人的に植樹キャンペーンを張っていた」という。「あらゆる道路、空地、開発用地に、積極的な植樹が行なわれた」。
都市更新の強化と並行して一九六七年には「田園都市」キャンペーンが開始された。それは「共和国に緑の外套を着せ、燦然たる自然の色で覆おうとする美化プログラム」★五三だった。
さあ、国は「公園ネットワーク」の完成を目前に控えている。「公園結合システム」を通してシンガポールを「全面的な遊び場」化しようという野心的なネットワークの完成を。
世界的に、ランドスケープは新しいイデオロギー媒体になりつつある。建築よりも人気が高く、より多面的で、つくりやすく、同じ意味内容をより微妙な形で、より崇高な風に伝えることができるのだから。また、三次元というよりも二次元であり、より経済的、より寛容で、意図的な書き込みは遥かにしやすい。
シンガポール気候のアイロニーは、熱帯の熱と湿気が相俟って、全面的・無差別的に空調された屋内の快適さに閉じこもることはいたしかたないという完璧なアリバイをつくり、しかもそれが唯一残された伝統的正統性であり、それによってシンガポールは今も熱帯であり続けている、ということだ。室内がショッピングのエデンになるのに相応して、戸外はポチョムキン的な自然──熱帯を象徴する植物、ヤシの木、灌木などのプランテーションが、熱帯気候それ自体の助けにより、装飾と化す──となる。
「すぐれて熱帯的である点」の「熱帯」は一種の罠、概念上の行き止まりであり、そこでは隠喩と直喩が引き分け試合を演じる。シンガポール建築のすべてが熱からの離陸であるわけだが、建築と気候のアンサンブルこそはシンガポール建築の頂点と考えられている。
残る唯一の熱帯的正統性とは、一種の加速する衰亡、コンラッドいうところの腐敗である。まさにその熱帯性への抵抗ゆえに、シンガポールの頑さも説明できる。「それはジャングルに呑み込まれるのではないかという深く初源的な恐れ、より完璧で、より鍛練され、常にベストであることによってのみ回避できる運命に呼応するものだ[…]」★五四。
ついにアイロニーの手の届かないところまで到達したこの島は今、外縁となるビーチを整備中である。「X年までには、埋め立てと再計画によってアクセス可能な海岸線がほぼ倍増するだろう。アクセス可能でないエリアはその分減る。われわれにはビーチやプロムナード、マリーナ、リゾート等々をつくり出す機会が豊富にある」。
シンガポールはいまや意図された田園風景となる。前都市計画局長リュー・タイカーが私に囁く。「六八年の五月のようだよ」。それはかすかな修整である。「鋪装を剥がした後にはビーチが」ではなく、「鋪装を施した後にはビーチが」。

52──「新しい方向性」のダイアグラム 引用出典=Singapore: Next Lap

52──「新しい方向性」のダイアグラム
引用出典=Singapore: Next Lap

53──オーチャードロードのショッピング・センターのアトリウム 撮影=ジェニファー・シグラー

53──オーチャードロードのショッピング・センターのアトリウム
撮影=ジェニファー・シグラー

54──都市再開発公社に置かれた都心計画の模型 筆者撮影

54──都市再開発公社に置かれた都心計画の模型
筆者撮影

55──植樹キャンペーンを張るリー・クァンユー 提供=Singapore Parks and Recreation Department

55──植樹キャンペーンを張るリー・クァンユー
提供=Singapore Parks and Recreation Department

56──開発が済んだらエデン 提供=Singapore Parks and Recreation Department

56──開発が済んだらエデン
提供=Singapore Parks and Recreation Department

57──戸外はポチョムキン的な自然に

57──戸外はポチョムキン的な自然に

58──室内はショッピングのエデンに。ラッフル・シティ(1993) ともに筆者撮影

58──室内はショッピングのエデンに。ラッフル・シティ(1993)
ともに筆者撮影

59──鋪装を施した後にはビーチが。アイロニーを超えた動き

59──鋪装を施した後にはビーチが。アイロニーを超えた動き

あとがき:転移(メタステーシス)

結局のところ、シンガポール・モデル──これまで見てきたように、体系的に繰り返された完全な質的変貌の総体、それがシンガポールを実質的にあらゆる都市的状況のなかで最もイデオロギー的なものとしている──はアジア中に転移されようとしている。組織としての輝かしさ、強制収用の成功の目覚ましさ、そして人間変革、過去のロンダリング、在来文化の操作での成功は、さらに多くの人口を抱えた新興都市部の絵を描く──そして建設する──人々にとっては、抗しがたいモデルなのである。だんだんとシンガポールは中国の実験室を自称するようになる。今の中国の強面を取り去る役目を果たしながら。
数字は赤裸裸だ。前都市計画局長で今は民間のオフィスにいるリュー・タイカーは言う。「中国人口の八〇パーセントは今も地方にいる。その四分の一が次の二〇年間で都市部に移動すると──ほとんどありえないほど低い見積もりだが──すべての都市の実質が倍になる計算だ」。
デコンストラクティヴィスト・モデルも、現在一目置かれている他のどんな主張(って、そもそも何だ?)も、こうした状況ではさして魅力を発揮しそうもない。シンガポールはアピールに不可欠な「権威、実行力、ヴィジョン」をかっきり必要な分量だけ備えている。誰も名前を聞いたこともない、シンガポールのあまたの建築事務所で、中国の未来は用意されている。これら数えきれないほどの新都市で唯一生き残ったタイポロジーは超高層ビルである。コミュニズムの図像破壊に続く第二波は、もっと効率のよいラッダイト主義であり、これが中国人の「欲望の島」ゆきを幇助する。欲望の島、つまり市場経済──から西洋の退廃と民主主義と乱雑さと混乱と残酷さを引いたものへと。
非対称の震源地であるシンガポールが外に自己投影され、本土の各地に新たなシンガポールが生まれていくだろう。そのモデルは中国の近代化を刻印していくだろう。
二〇億人が間違っているなどということはありえない☆二。

出口

シンガポールの箴言。帰りのチケットのコンファームを忘れないように。

付記:筆者はウィリアム・S・M・リム、タイ・ケンスーン、チュア・ベンヒュイ、リュー・タイカーの各氏が割いてくれた時間と省察に感謝するものである。しかし、このテクストで表明されたアイディアと意見はあくまで筆者個人のものであることを断っておきたい。

Title: “Singapore Songlines: Thirty Years of Tabula Rasa” in S, M, L, XL, 010 Publishers, 1998.
Author: Rem Koolhaas
© Rem Koolhaas All Rights Reserved

訳註
☆一──「途」の原語Songlinesは、アボリジニだけが知っている街道のことをいう。余人には見えないが、彼らにはその街道の一つひとつに固有の歌が聞こえ、それを辿っていけば目的地に到達できるのだという。
☆二──大開放政策に際しての小平のキャッチフレーズ。

原註
★一──William Gibson,  “Disneyland with the Death Penalty”, Wired sept.-oct. 1993.
★二──Deyan Sudjic,  “Virtual City”, Blueprint February 1994.
★三──公式スローガンになっている。
★四──リー・クァン・ユー。
★五──Lim Chee Then,  “The Cofucian Tradition and Its Future in Singapore: Historical, Cultural, and Educational Perspectives”,Young Mun Cheong, Asian Traditions and  Modernization, Times Academic Press,1992, p.214.
★六──Richard Nixon, Leaders, New York: Warner Books, 1982, p.311.
★七──Jean-Louis Margolin, 1989, Rodolphge de Koninck, Singapour/re: An Atlas of the Revolution of Territory, Montpellier: Reclus, 1992, p.25に引用。
★八──Chua Beng-Huat,  “Not Politicized But Ideologically Successful: The Public Housing Programme in Singapore”, International Journal of Urban and Regional Research 15, no.1, 1991, p.27.
★九──このエッセイを書いている時点で、シンガポールはロッテルダムを抜いて世界最大の港湾都市となった。すでに機能性では世界一である。
★一〇──First Decade in Public Housing, Singapore: Housing and Development Board,1969, p.18.
★一一──Aline K. Wong and Stephen H. K.Yeh, eds., Housing a Nation: 25 Years of Public Housing in Singapore, Singapore Housing and Development Board/Maruzen Asia, 1985.
★一二──First Decade in Public Housing, p.26.
★一三──Wong and Yeh, Housing a Nation, p.95.
★一四──Charles Abrams, Kobe, and Koenigsberger,
 “Growth and Urban Renewal in Singapore”, report to the UN, 1963, p.7, p.109.
★一五──Abrams, Kobe, and Koenigsberger,  “Growth and Urban Renewal in Singapore”, pp.121-122.  ゴシック部は引用者による。
★一六──Abrams, Kobe, and Koenigsberger,  “Growth and Urban Renewal in Singapore”, pp.9-10.  ゴシック部は引用者による。一九九四年のシンガポールの人口は二七〇万に達している。
★一七──Abrams, Kobe, and Koenigsberger,  “Growth and Urban Renewal in Singapore”, pp.9-10.  ゴシック部は引用者による。その “The Silent Assumption of British Planning”の節全体の調子は驚くほど反植民主義的、反英国的である。
★一八──人民行動党の政治的スローガン。
★一九──Abrams, Kobe, and Koenigsberger,  “Growth and Urban Renewal in Singapore”, pp.59, 16, 12, 61.
★二〇── “Growth and Urban Renewal in Singapore”にも記されているように、リングシティという用語はヤコブス・P・ティーソ教授が “Metropolitan Planning in the Netherlands”, Conurbation Holland, UN, 1959で使用した彼の造語である。オランダでは中央の平地はグリーンハートと呼ばれている。  “Growth and Urban Renewal in Singapore”, p.63.
★二一──Chua,  “Not Depoliticized But Ideologically Successful”, p.29.
★二二──De Koninck, Singapour/re, pp.84, 37.
★二三──「六〇年頃にはジュロン地区はいまだ[…]三〇──四〇メートルの丘陵地だった。八〇年代初期にまでには、ほぼ完全に削り取られていた。De Koninck, Singapour/re, p.44.
★二四──De Koninck, Singapour/re, P.88.
★二五──World Health Organization, Donald Canty,
“Architecture and the Urban Emergency”, Architectural
Forum, Aug.-Sept.1964, p.173
★二六──President Lyndon Johnson,  Donald Canty,  “Architecture and the Urban Emergency”.
★二七──Fumihiko Maki, Investigations in Collective Form, St.Louis: Washington University Press School of Architecture, 1964, p.34.
★二八──Chua,  “Not Depoliticized But Ideologiccally Successful”, p.26.
★二九──Confucius, The Analects 孔子『論語』VIII/9, trans.D. C. Lau, Lim,  “Confucian Tradition”.
★三〇──Chua,  “Not Depoliticized But Ideologiccally Successful”, pp.35-36.
★三一──Confucius, The Analects, VI/30, Lim,  “Confucian Tradition”所収。
★三二──リー・クァン・ユー。Ian Buruma,  “Singapore”, New York Times Magazine, June 12, 1988, p.58.に引用。
★三三──「多くの中国語の伝統的な教科書は、生徒たちのこの言語の習熟度の低さのゆえに使われない」。Lim,  “Confucian Tradition”, p.58.
★三四──Maki, Investigations in Collective Form, p.3.
★三五──Christopher Alexander,  “A City is Not a Tree”, Architectural Forum, April, 1965.
★三六── “Notes of the Synthesis of Form” の序文で、ピーター・ブレイクは、アレグザンダーが「インドに数カ月滞在し、小さな村落の計画に携わったのだが、アレグザンダー自身それをツリーとして組織してしまったと今では認めている」と書いている。
★三七──Maki, Investigations in Collective Form, pp.3, 34, 4, 5, 6, 8-11. ゴシック部は引用者による。
★三八──Fumihilko Maki, “The Theory of Group Form”, Japan Architect, Feb. 1970, pp.39-40.
★三九──Maki, Investigations in Collective Form, pp.11, 27-40.
★四〇──Maki,  “The Theory of Group Form”, p.40.
★四一──Maki, Investigations in Collective Form, pp.82, 84, 85, 23, 21.
★四二──SPUR 65-67, pp.1-2, 29, 34, 38, 52.
★四三── “The Future of Asian Cities”, Asia Magazine, May 1966, pp.5, 7, 8.
★四四──Lee Kuan Yew, SPUR 65-67収録の講演。
★四五──Chua,  “Not Depoliticized But Ideologically Successful”, p.30.
★四六──海岸からの距離はその後の埋め立てによって遠くなった。
★四七──William Lim, Cities for People, Singapore: Selected Books, 1990, p.8.
★四八──Urban Redevelopment Authority, Choronicle of Sale Sites, 1967, p.25.
★四九──Urban Redevelopment Authority, Choronicle of Sale Sites, p.30.
★五〇──The Next Lap, Singapore:Times International Press, 1991, p.101.
★五一──The Next Lap, p.3.
★五二──Urban Redevelopment Authority, Living the Next Lap: Towards  a Tropical City of Execellence, 1991.
★五三──Lee Sing Keng and Chua Sian Eng, More Than a Garden City, Singapore: Park and Recreation Department, 1992, p.8.
★五四──Buruma, “Singapore”.  室内の条件が徹底されすぎることによって反転が起きる場合もある。つまりウィンドウ・ディスプレイのように見るので、窓ガラスを通した外部が珍しいもののように見える。

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