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20 Years Before 1960. And Now──内田祥文から見える今の世界 | 金子祐介
20 Years Before 1960. And Now: Today Seen by Yoshifumi Uchida | Yusuke Kaneko
掲載『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) pp.114-120

Uchida who?

最近のインタヴューで、レム・コールハースに対して磯崎新が「彼がもう少し長く生きていれば丹下健三の最大のライヴァルになったであろう」と語ったという。この「彼」とは昭和二一(一九四六)年に夭逝した内田祥文である。大正二(一九一三)年生まれだから丹下と同年であり、ライヴァル、友人として親しく交わったといわれる。内田の父は日本の建築アカデミーを長く支配した構造学者──都市計画家内田祥三であり、一二歳年下の弟に構法計画の権威でもある建築家内田祥哉がいる。もう一人の丹下という呼び方に相応しい日本建築界のサラブレッドともいうべき家系の出である。こうした内田への再評価は、どのような歴史的布置のなかで展開されたのだろうか? 白井晟一が磯崎をはじめ川添登や原広司によってライヴァルとされたように、内田もまた、死してなお日本建築界にその影響力を留めている丹下健三を神話化すべく呼び起こされたのだろうか。しかし、白井が建築家=表現者として丹下のライヴァルと位置づけられたのとは違い、芸術的感性に優れていたと弟子の伊藤鄭爾に評価されたにせよ、内田は作品としての建築を残したわけではない。彼は都市設計者として、丹下の先駆として位置づけられるべき存在なのだ。丹下自身、後述する内田の「大都会の改造・東京改造計画」に大きな刺激を受けたと書いているが、それはデザインだけではなく東京の現実に対するリサーチを伴っていたという点で後の丹下研究室の仕事のスタイルを先駆している。また、これも後述する大同の計画において、彼は父祥三、丹下と戦後の日本の都市計画を牽引した高山英華と共働している。この計画もまた、やや遅れた丹下の大東亜建設記念造営のコンペ案とともに、「東京計画一九六〇」を先駆している。先に結論めいたことを書いてしまうと、丹下や内田は国民国家という枠組みのなかで都市、具体的には東京の膨張の問題を考察した建築家だった。つまり「50 Years After 1960」というリサーチの歴史的側面を考察するには欠かせない人物なのだ。

二〇一〇

二〇一〇年に近い今、良くも悪くも東京は大きな成長を遂げた。今や東京はスカイスクレーパーの針の山となっている。この光景を格差社会の象徴と指摘し非難する人もいる。昨今活躍しているアトリエ系建築家も、渦中にいるにもかかわらず、冷ややかな眼差しで膨張した東京を見つめている。彼らは東京の膨張よりも、コンパクト・シティやシュリンキング・シティといった問題を考えることに興味があるようだ。東京で活動をしているにもかかわらず、「国家」という枠組みにおいて東京を考えるよりも、地方都市の疲弊を改善したほうが意味があると考えているのだろうか。「国家」は国内政治だけでは成立していない。とりわけこのグローバリズムの時代にあっては、国際的に産業社会のなかで競争しているからこそ枠組みを担保できる。今の建築家たちはこうした枠組みには興味がないようだが、現在の国家は「よき日本人」により理想化され、一元化された田園都市的なイメージなどではない。つまり公共圏における不均衡が「国家」を形成している。「国家」とは「正しさ」のない世界である。そんな世界において、一方向だけを見ていることはある種の逃避でしかないのではないか? そのような状況下であるからこそ、ここでは、「もうひとりの丹下」内田祥文の仕事の考察を通して、東京の膨張を理解するイマジナリーモデルを模索してみたい。

一九四〇

「20 Years Before 1960」、つまり内田が仕事を始めた一九三〇年代から四〇年代にかけて、一九三〇年代の東京は、日露戦争に続き第一次世界大戦での軍事特需を境に大正末期から始まる人口流入によって二〇一〇年の今の状況を先駆していた。渋谷や新宿の盛り場が副都心と化す。また、銀座にデパートができたことによってモボ・モガが登場し、景気の向上に拍車をかける。その欲望に魅かれ、人々は農村を捨て東京に集まってきた。今も昔も変わらない都市を生成する欲望の構図である。その結果、良くも悪くも「持てる国」日本が東京に出現した。だが、正確には、日本=「持てる国」ではなく、東京=「持てる国」という構図であった。当時の日本に国土計画という概念が存在しなかった。石川栄耀によれば、「自分がNational Planningの名前を初めて眼にしたのは一九二四年のアムステルダムの国際住宅及都市計画会議★一に於いてである」という★二。このことからは同時に地方計画という名前が存在しなかったことも示唆される。つまり、満遍なく日本全土を計画する規範がなかったのだ。その結果、近代化に伴い誕生した国家という枠組みの外に置かれた地方は衰退していった。それに反比例するように「持てる国」=東京が量的にも地理的にも拡大を見せることとなった。こうした状況は今の日本の状況と何ら変わりはない。
ただ、二〇一〇年の建築家たちとは違って、膨張した東京を危機的状況と察した一九四〇年の建築家たちはその変化に対処すべく立ち上がる。特に、一九四〇年から建築学会の展覧会に付随したコンペで住宅問題が三回にわたって取り上げられたことは特徴的な出来事である★三。三〇年代においては国家を象徴する記念碑的な建造物にしか目を向けていなかった国内のコンペが、四〇年代になると若手の建築家を支援すべく、当時は国家の理念とは直接的に関係のないものとされていた集団住宅地計画やアパートメントハウス、さらに独立住宅といった内容を取り上げはじめた。また、敗戦後には、東京都は住宅難に対応すべく復興都市計画コンペを実施している。こうしたコンペの課題にも表われているように、三〇年代そして四〇年代という時代は、当時起こった東京一極集中の結果生じる量の問題の解消を課題としていた。地方計画を含めて「国土」をどのように考えるかも課題となる。そして、一九一〇年代から四〇年代初頭にかけて日本が海外に作ってきた植民地という名の実験都市で培った産業と人口の適正配分を国内で機能させるための核の役割を東京が担うこととなった。戦前・戦中の実験の成果が戦後の東京で計られたのである。
こうした状況に対し答えを出すべく開催された国民住宅コンペ(一九四一)で谷内田二郎と組んで一等を勝ち取ったのが、本稿の主題である内田祥文であった。この案は、丹下が前川事務所で一九四〇年に設計した岸記念体育館にデザインが似ていることで後世の歴史家たちに取り上げられるが、彼が「天皇を絶対浮動の中心とする血縁的、精神的共同体」と国民住宅を考えていたように、「国家」と建築がいまだつながっていたことを示す時代の提案であった。

東京改造計画

内田は日本大学を卒業後、東京大学大学院で高山英華らと都市の研究を続け、一九四一年に紀伊國屋で開かれた「新しき都市」展に、東京をモデルケースとした計画を多くのリサーチと一緒に発表している。「大都会の改造・東京改造計画」と題するこの計画こそ、丹下が大きな影響を受けたという仕事である。この展覧会は一九四一年四月号の『新建築』に内田による編集で特集が組まれている。
特集の前半部は、ル・コルビュジェの《輝く都市》やエベネザー・ハワードの《田園都市》、フランク・ロイド・ライトの《ブロードエーカー・シティ》といった近代的な都市計画を中心に、ゲルマン的な原始住居からヴィトルヴィウスの理想都市などの古代および近世にかけての都市計画に遡り、都市の形態とその規模の関係を形態的に分析したものを並置している。この後に発表される「理想都市」という論考に展開されていく研究であった。丹下が東大で行なった講義もこの内容と極く似ているが、この「理想都市」論は、終戦後の一九四五年に立ち上げられた社会運動組織・国土会(メンバーは内田祥文をはじめ丹下健三、武基雄、市川清志、吉阪隆正など)の雑誌『国土』に掲載される予定であった★四。その過程で、内田が当時教鞭をとっていた日本大学の研究室で急死した(一九四六)こともあり、一旦刊行が中断されるが、その後、日本建築文化連盟と名前を変えた国土会が『計画 planning──建築文化の基本的問題』という名前で雑誌を復刊し、そこに掲載された。当時、内田が戦災復興都市計画委員として関わっていたこともあり、そこで集めた海外都市計画の事例と前述の「大都会の改造・東京改造計画」の際に集めた都市計画事例をもとに洋の東西を問わず都市計画の諸理念が描かれていた。「世界の中心軸の複数化によってヨーロッパ近代を超克しようとする」試みであり、社会運動が建築の理想を作り上げていくという思想が盛り込まれていた。
後半部では、その分析と思想背景をもとに当時の東京一極集中状況にどのように対応すべきかが四つの試案として提案されている。コンパクト・シティ的な案もあるが、最終的に四案から内田たちが選んだ一案は、関東をひとつの経済圏として考え、都市機能を分割せずに副都心群で環状の市壁を作り、市壁間を高速鉄道や高速道路で結び、市壁の内側に入ってからは地下鉄やバスを使い丸ノ内や新橋などの経済的な中心部へ人口の流れを作ろうとする、ロンドンの都市計画や今のモスクワの都市計画にも似た巨大都市構想であった。ジャン・ゴットマンの「メガロポリス」の思想とは少し規模が違うにせよ、プロト・メガロポリス構想と読むことも可能な特集でもあった。
内田たちのリサーチによると、当時の東京は七〇〇万人まで膨張していたという。「交通のために二時間の通勤時間が取られる郊外を作るのであれば(…中略…)東京の都市機能と同じものを地方に計画するべきだ」というのが最終的な内田の結論だった。東京の都市機能とは、丸ノ内を中心に、池袋・新宿・品川など今の副都心で環状の圏域を設けその中に納まる機能である。幕張や埼玉など東京の中枢機能と同じ機能を持った衛星都市を関東に散在させ、東京都内で機能が膨張し対応しきれなくなった際にはそれに対応していくというヴィジョンだった。すでに、副都心や新都心という考え方があったのである。
とくに、東京の圏域として考えられた副都心や新都心において、内田が高層化の問題の検討(七──八階程度の計画、今でいうところの中層建築について)を行なっていることは注目に値する★五。都心高層連積住宅と名づけられた都心部タイプの住居棟の配置計画は、ル・コルビュジエのルダン型住居に影響を受けている。その背景として、内田はポール・ウォルフの「防空方法として有利なのは帯状都市即ち亦通路に沿って長く連結した都市形態である」という文章を引用し、帯状(線状)に積み重ねられた高層住宅と高層化の結果として建築物周囲にできあがっていく緑地(空地)を積極的に使用していくことも念頭に置いている。
この計画の後に内田が濱田稔の影響を受けて書いた学位論文でもある『建築と火災』(相模書房、一九四二)には、高層化の理由が述べられている。この本は、敵国からの空襲の脅威に対応すべく、日本の木造建築の欠点や構造別に建築火災の被害を検証し書かれた。太平洋戦争下での焼夷弾による日本の都市の被害を念頭に、都市の不燃化とそのためのインフラ整備を訴える内容であった。平時の建築火災の歴史も書かれているが、戦時における防災が中心で、防災という視点が戦後の都市を形成するアルゴリズムになっていたことを物語っている。「大都会の改造・東京改造計画」における都市の高層化の理由も防災にあると書かれている。先年の森美術館での「ル・コルビュジエ展」でも、空爆の危険への対処として、高層をベースとする「輝く都市」としてパリを改造するドーローイングが展示されていた。昨今の九・一一以降の超高層化への問題意識(シンボリックなものは標的になりやすい)とは異なり三〇年代風で面白い。ちなみに戦争末期に東大の建築学教室が米軍の空爆(これには滞米中のアントニン・レイモンドがアドヴァイスをしていたという)のパターンのリサーチをしており、丹下とともにこれに参加をしていた下河辺淳がしたパターン解析の精確さが進駐軍を驚かせたというエピソードがある。
内田のこの東京計画は、その後、西山卯三の『新しき国土』計画などに影響を与えた。東京大学工学部建築学科に代行で来ていた内田の研究室に特別研究生として出入りしていた丹下にも少なからず影響を与えたとしても不思議はない。しかし、内田における計画の理念を知るには、もう少し時代をさかのぼろう。

大同都邑計画

内田の影響を受けたひとりに、後に磯崎と川上秀光とともに八多利也を名乗って建築界を賑わせた伊藤鄭爾がいる。まだ建築史家になるとは決めていなかった伊藤は、東京大学工学部建築学科に代行で来ていた内田の研究室で(先に挙げた内田の論考の題名と同じ題名の)「理想都市計画論」を卒論のテーマにしている(この時期の内田の学生には後のメタボリスト大高正人もいる)★六。後に伊藤が『建築学体系2 都市論 住宅問題』★七のなかで書いた「日本都市史」の項目における植民都市「大同都邑計画」(一九三八)の位置づけは、内田の仕事の原点を見るとともに「通史」としても面白いので紹介しておく。
伊藤の論考は、一九三〇年代の歴史的背景を述べ、二〇年代から続く日本のアジア植民地化政策以降グローバル化していく日本の状況のなかで、一九三八年に内田とその父・祥三、高山英華、関野真吉の四名によってなされた大同の構想を論じている。大同は伊東忠太によって雲崗の石仏群として日本に紹介された歴史的な場所でもあった。伊藤は、大同の都邑計画の時代背景を、一九二九年に起こった世界恐慌を皮切りに、金本位制をやめブロック経済化していく先進各国の状況に対応すべく、当時から稀少であった資源の西欧列強との争奪戦として語っている。ほかにも大陸で行なわれた前川國男の「上海住宅計画」や坂倉準三の「新京南湖住宅計画」(両方とも丹下が関わっている)、土浦亀城の「安東及吉林住宅群計画」を例に挙げ、当時の日本の技術水準の高さを示しているのだが、ほかの計画に比べて「大同都邑計画」が国土計画の重要な起点として位置付けられていることに注目しなくてはならない。この構想は、高山の「われわれは侵略という意思はなくて、要するに王道楽土というような意味で行ったわけでしょう。五族共和、石原莞爾やなんかの薫陶を受けた若い連中で、ほんとうにそういうつもりで行っている人もいましたよね。だけど大勢は全部逆の方にいっちゃった」というナイーヴな言葉にも表われているような、西欧文明に対するアジア文化共同体(大東亜共栄圏)を設立するためではなく、新たな生産都市として作られたのである。
「大同都邑計画」は、先に述べた震災復興計画のために集めた海外の資料などをもとに計画された。そのなかでも、ハワードの《田園都市》とトニー・ガルニエの《工業都市》の影響が大きい。「大同都邑計画」は、既存の都市を囲うように新都市を放射半月環状に配置する計画となっている。影響を受けたとされる二つの計画とは形態的には異なるように見えるが、《田園都市》は、発展段階の必要に応じて金太郎飴のように継続的に反復されるその住居ブロック単位(内田はここに父祥三の意見を入れて風土的な住宅をデザインした)や★八、母都市(中国人の旧都邑)の中心市街地ほどのサイズの衛星小都市(工業都市ないし鉱業都市など。三万人程度の都市)の構想に、《工業都市》は線状都市のパターン(大同は湾曲させているが)にそれが見られる[図1・2]。そもそも高山はロシアの線状都市に関心をもち、卒業設計(一九三四)の「千葉漁村計画」もこのパターンによっている。「東京計画一九六〇」もまた線状都市として構想されているが、こうした成長=膨張する都市のアイディアは、先に述べた「大都会の改造・東京改造計画」のなかの東京のモデルプランでもすでに応用されていた。大同都邑計画は、こうした多くの可能性を秘めたものであったにもかかわらず実際の完成を見ることはなかった(一部のみおそらく原型から大きく変更して着工するがすぐに中断)が★九、東京の諸プランの実験場となったのである。これらの計画は『建築雑誌』や『現代建築』に発表されているが、現在東京の公文書館に保存されている内田祥三文庫には、これらに発表されていない大同の都市全体の鳥瞰図がある[図3]。それは「東京計画一九六〇」の二〇年前の前身と考えるに相応しい偉容を示している。

1──大同工業衛星都市試案 都立公文書館・内田祥三文庫所蔵

1──大同工業衛星都市試案
都立公文書館・内田祥三文庫所蔵

2──住宅地区計画図 都立公文書館・内田祥三文庫所蔵

2──住宅地区計画図
都立公文書館・内田祥三文庫所蔵

3──大同都市計画パース鳥瞰 都立公文書館・内田祥三文庫所蔵

3──大同都市計画パース鳥瞰
都立公文書館・内田祥三文庫所蔵

夭折

戦争直後の東京では、石川栄耀の『帝都再建方策』(一九四五)★一〇を基に銀座・新宿・浅草・渋谷・深川などの地区を取り上げ、数年に渡って都主催で戦災復興都市計画コンペが行なわれている。内田も弟・祥哉と市川清志と三人で参加している。そのいくつかに勝つ。丹下も銀座の復興計画などに勝っているが、新宿・深川のコンペでは内田に負けている。二度とも二位であった。ちなみに新宿の計画案は、新宿西口から淀橋浄水場にかけての地区、つまり今でいうところの新宿新都庁舎の敷地に東京都庁舎を含む業務地区を作る計画であった[図4]。丹下が後にコンペで勝ち取った新都庁舎の計画よりも規模の大きなものであり、東京を機能させるための新都市の可能性を戦後すでに新宿に見ていたことの意義は大きい。

内田の弟祥哉はわれわれのインタヴューに対して以下のように語っている。「そう、都庁を新宿にもってくるという話が出ていた時のコンペですね。僕の兄貴は夜通し苦労していました。僕も一緒に悩んでいましたね。それで一等になる。(…中略…)新宿のコンペをやって直後に死んだんです。記憶が定かではないけど、新宿のコンペの結果が発表される前のことだったと思います。くも膜下出血でした。今だったら処置が早ければ治るんだろうけど。気づいたときには日大の研究室で倒れていたんです。僕は親父と一緒に行きましたけど瞳孔が開いていた」。戦争直後の極度に貧しい栄養状態に過労がたたったのであろうという。戦後の日本はもうひとりの丹下健三をこのようにして失った。

4──戦災復興都市計画案(新宿)一等案 出典=石田頼房『未完の東京計画──実現しなかった計画の計画史』(筑摩書房、1992)

4──戦災復興都市計画案(新宿)一等案
出典=石田頼房『未完の東京計画──実現しなかった計画の計画史』(筑摩書房、1992)

70 Years After 1940

話を現代に戻そう。磯崎も一九三〇年代について語るに際して「自らの態度が転向ではなく戦前・戦中・戦後と続く問題を生きていることを提示したい」と述べているが、歴史を眺めてみることは現在と内田が生きた戦前の思考がどのように繋がっているかを知ることなのである。だから、今まで見てきた内田の生きた時代と現代の都市と政治の類似点をここで整理してみよう。
戦時下における内田の「大同都邑計画」や坂倉らの満州の都市計画が資源確保のための植民地政策に関わっていたのと同じように、世界は環境問題という名の下でエネルギー問題を通して環境資源の争奪戦を行なっている。今や二酸化炭素など負のエネルギーの売買まで行なわれている。いわゆるグローバル企業は中国やインドといった工業後進国に工場を立地し現地の低賃金の労働力で利潤を上げている。第二次産業だけではなく、大学という教育の世界においても、人材という資源を確保すべくグローバルマーケットができあがりつつあり、海外とくに第三国に分校を立地させ、内面的な植民都市化を広げている。コールハースのYESプロジェクト[図5]を石原莞爾の最終戦総論の構図[図6]と重ねて考えても構わないが、見えない場所で植民都市のネットワークが広がっているのだ。今や資本を「持てる国」と「持たざる国」の戦争にも見えるアメリカと EU連合によるブロック経済化の波は、ソ連がEUに変わっただけで、三〇年代から四〇年代当時となんら変わりはない。小泉政権以降の日本も、ケインズ型の社会主義的公平配分の政策からハイエク型格差肯定の自由主義的政策へと方向転換を行ない、自由という名の下の弱者切捨ての世界が生まれた。六本木ヒルズなど超高層ビル建設に伴う大規模な再開発は、格差図式の典型である。また、後発先進国である中国やロシアの経済力の向上に伴う都市の高層化も、目を見張るスピードで今や日本を追い抜こうとしている。昔の日本がイギリスやソ連そしてアメリカの近代化を模倣したように、中国やロシアも今の日本を模倣して拡大の一途をたどっているのだ。
こうした九〇年代以降の冷戦体制の崩壊の淵源を三〇年代にたどる批評家や歴史家は少なくない。金子勝は三〇年代に起こった第一次グローバリズムを参照することで九〇年代以降の輸入一辺倒の経済問題を解き明かそうとしている。吉見俊哉も戦後を規定していく福祉行政国家=統制経済による官僚独裁という三〇年代の問題と現在の地平を重ね合わせてみている。山之内靖の一九三〇年代から始まるとされている総力戦体制についての論考も資源獲得型の武力戦争と昨今の経済戦争を重ね合わせてみている。柄谷行人の『〈戦前〉の思考』や福田和也の『日本の家郷』もそのひとつだろう。彼らの発言は、冷戦体制の崩壊によってアメリカの庇護のもとにブロック化されていた社会が細分化しアメリカが日本の経済的な競争相手として浮上したことによる緊張から発せられている。彼らは、「思想と実践という形式(アンリ・ルフェーヴル)」が区分できない時代状況への突入を切実な問題として捉えている。表面的には経済を語っていても実際は経済の話ではない。経済を問うなかで戦後政治体制における「国家」意思が問われているのだ。
こうした類似点は、国際競争力を強化すべく立ち上げられた新たな「国家」を考えるうえでのキーである。ただ、建築や都市を通して変容するグローバルランドスケープは、「国家」を代償する視覚的でヒロイックな形を持たなくなっている。内田の言うところの「天皇」のような存在でひとつの理想共同体として統一することはできなくなっている。針の山と化した大都市のプロファイル(どこにでもある風景ではなく、どこにでも置き換えられる風景としてのインターナショナル化)は、コールハースのBIGNESSでも述べられているように、建築家個人では答えの出ないものとなってきている。無闇にアルゴリズムを使用した生成変化する都市形態(欧米の観光客にアジア的と賞賛されたカオスな都市の現状肯定)を弄ぶのではなく、どのような政治下でどのような都市であるべきなのかという理念が求められている。現実が多様化し暫定化しているなかで、「東京一極集中」という新たな都市の構想が立てられるのか否か、という選択が突きつけられている。「持てる国」=日本の立場が問われているのである。それにもかかわらず、昨今の日本の建築家の都市への眼差しは保守的あるいは保身的にコンパクト・シティ論一色だ。ただ、コンパクト・シティの論考自体が悪いと言っているのではない。三〇年代から四〇年代にかけて時代がもっていた思想の多様性がないことが問題なのだ。今や都市は、あるレヴェルでは内田の見た理想都市よりも、丹下の「東京計画一九六〇」よりも先を行っているのだから、東京の膨張という現状に対峙し何らかの答えを出すことも必要だろう。それが、建築家に今求められている重要な仕事なのではないのだろうか?

5──世界を国の有力な発言者の言動により、左系と右系に区分けした図 引用出典=AMO, OMA/REM KOOLHAAS/&&&│SHIMON BRPWN, JON LINK, Content AMO ATLAS, TASCHEN, 2004.

5──世界を国の有力な発言者の言動により、左系と右系に区分けした図
引用出典=AMO, OMA/REM KOOLHAAS/&&&│SHIMON BRPWN, JON LINK, Content AMO ATLAS, TASCHEN, 2004.

6──最終戦争に向けて、空間がブロック化し、総力戦体制へと向かう図 引用出典=石原莞爾『戦争史大観』(中公文庫、2002)

6──最終戦争に向けて、空間がブロック化し、総力戦体制へと向かう図
引用出典=石原莞爾『戦争史大観』(中公文庫、2002)


★一──IFHP(International Federation for Housing and Planning)。一九一三年にエベネザー・ハワードを会長にして作られた国際田園都市・都市計画協会。後の国際住宅・都市計画連盟。この会議の第七回大会(一九二三)に参加した内務省都市計画局員・飯沼一省はregional Planningを地方計画と訳し日本に持ち帰る。
★二──石川栄耀『国土計画──生活圏の設計』(河出書房、一九四二)。
★三──近江榮『建築設計競技──コンペティションの系譜と展望』(鹿島出版会、一九八六)。
★四──国土会は土地の国有地化を目的とし結成された。それに賛同した戦後の建築諸団体と一九四七年に新日本建築家集団(NAU)として合併することとなる。内田はこの年に夭折したため不参加。高山英華は初代の中央委員長となる。
★五──一九三〇年当時のソ連では、スターリンの五カ年計画体制下において、建築や都市もブロック経済化のなかでの形態が模索されていた。ゲ・エフ・クズネーツォフの講演会記録によると、大パネル式工法により大規模建築とくに高層建築を量産するシステムを作ることにより社会主義リアリズムの思想の実現を建築によって図ると記述されている。
★六──「戦後建築史家の軌跡〈第七回〉伊藤ていじ」(『建築史学』四二号、建築史学会、二〇〇四年三月)建築史小委員会活動報告にて中谷礼仁がインタヴューしているなかで伊藤は内田について回顧している。
★七──『建築学大系2  都市論・住宅問題』三─二三〇頁に収録。前半部は西洋都市史、後半部が日本都市史となっている。伊藤はここで日本都市史の最終到達点(近代的な都市の理想)として大同都邑計画を位置づけている。
★八──『現代建築』誌上で行なわれた「大陸建築座談会」(日本工作文化連盟主催)で、内田は「大陸建設は百年二百年計画ぐらいで戦争が終われば資材も沢山になるのでしょうから、まあ今造るのはバラックみたいなものを造って置くか、そうでなければ良い計画をして置いて、其の一部分だけを今造って、将来全部を造ると云うことも出来るだろうと思います」と述べている。
★九──「大同都邑計画」の本案は関野克の大同民家の実測調査をもとに当時東大の大学院生だった浜口隆一の兄や日大の学生網野武・富田陽一郎の助言により図面化されている。
★一〇──石川栄耀による「帝都復興改造計画案」(東京都都市計画課)を要約すると、地方計画により東京都の総人口を三〇〇万人程度に削減し、それに関東近郊の県庁所在地を衛星都市としたひとつのクラスターネットワークを作り、巨大都市圏ブロックを構成するというものである。とくに、広域コミュニティを形成するために、緩和計画を用いて宅地の狭小化を防ぐ法制度への提案も行なわれている。

>金子祐介(カネコ・ユウスケ)

1978年生
芝浦工業大学博士課程在籍。理論批評、インテリアデザイン史、建築史、都市デザイン史。

>『10+1』 No.50

特集=Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

>原広司(ハラ・ヒロシ)

1936年 -
建築家。原広司+アトリエファイ建築研究所主宰。

>輝く都市

1968年

>フランク・ロイド・ライト

1867年 - 1959年
建築家。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>アルゴリズム

コンピュータによって問題を解くための計算の手順・算法。建築の分野でも、伊東豊雄な...

>前川國男(マエカワ・クニオ)

1905年 - 1986年
建築家。前川國男建築設計事務所設立。

>吉見俊哉(ヨシミ・シュンヤ)

1957年 -
都市論、文化社会学。東京大学大学院学際情報学府学際情報学教授。

>中谷礼仁(ナカタニ・ノリヒト)

1965年 -
歴史工学家。早稲田大学創造理工学部准教授、編集出版組織体アセテート主宰。