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空間の開発・環境の制御──一九六〇年前後の浅田孝と高層化研究・人工土地・極地建築 | 菊池誠
Space Development and Environmental Control: Takashi Asada and the High Rise City, Artificial Land, and Extreme Architecture in the Early 1960s | Kikuchi Makoto
掲載『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) pp.96-103

都市計画はひとつの工学的な技術体系として(…中略…)物的・実体的な諸施設の配置・構成を手だてとし、個別的・社会的なもろもろの空間や構築物を媒介として、都市社会をコントロールしようとする総合的な制御科学の体系であるといってよいだろう。
浅田孝『環境開発論』


1  爆発するメトロポリス

一九六〇年代に書かれた都市の問題に関する論述に目を通していると、奇妙に現在の状況を想起させずにおかない一節に出会って、逆向きの既視感とでも言うべきものを感ずることがある。たとえば、都市計画家・浅田孝が、「ハイマートロスでアウトローだが高所得の人々が住む特化された地域が現れてきたことなどを含む新しい種類の都市問題が台頭してきている」と書いたのは一九六四年のことである★一。浅田は『環境開発論』の序文でも、情報化を背景として都市に人口と経済活動が集中する状況のなか、「そのうえ老齢人口の急増、若年労働力の急減という二重の難問を三〇年後にひかえて、もう後戻りはゆるされていないのだ」と記した。そこに述べられた「三〇年後」から、今日さらに一〇年が過ぎようとしている。
これも同書のなかで触れられていることだが、米誌『フォーチュン』は一九五七年から五八年にかけ六回にわたって「爆発するメトロポリス」と題するシリーズ特集を行なった。合衆国の多くの大都市が再開発ブームに入りつつあった時期に、豊富な写真やグラフィックによって都市開発が引き起こす諸問題を読者に投げかけ大きな反響を呼んだ。その最終回に掲載された論説「ダウンタウンは大衆のものだ」は、当時『アーキテクチュラル・フォーラム』の副編集長であったジェイン・ジェイコブスによるもので、のちにロックフェラー財団の援助を受けた研究成果として、『アメリカ大都市の死と生──都市計画の失敗』(一九六一)がまとめられた。浅田は雑誌掲載時からジェイコブスの論説には目をつけていたわけだし、その邦訳書のあとがきのなかで、訳者黒川紀章は、七年間にわたった翻訳の期間中、浅田から「相当な時間を費やして、こまごまとご注意をいただいた」旨、書き記している。
ところで、現在、東北芸術工科大学図書館に、蔵書の一揃いが寄贈された浅田文庫がある。浅田が参画した都市計画や建築の問題に関する各種委員会の報告書や、都市や国土についての統計資料、計量経済学に関する書物などが多数あって興味深いが、そのなかにローマ・クラブによる『成長の限界』の英語版のほかにも、E・F・シューマッハーの『スモール・イズ・ビューティフル』が三冊(英語版、邦訳ハードカバーとペーパーバック)含まれていたのは多少意外な感がなくもなかった。開発優先主義批判も視野に入れた全方位的な関心を有していた証しとは言えるが、浅田ら一九六〇年前後を主導した計画者・技術者の良質な思考のなかで、開発のテクノロジーは今日そう思われがちなように非人間的なものとして否定的に捉えられることはなかったであろう。当時、専門領域を越えて広く影響を与えたノーバート・ウィーナーの『サイバネティックス』や、その一般向け姉妹編『人間の人間的用い方──サイバネティックスと社会』の邦訳書は──『人間機械論』(池原止戈夫訳、みすず書房、一九五四)というそっけない訳題ではあるが──一九五〇年代半ばに刊行されている。ウィーナーにとってもそうであったように、この頃浅田らによって考えられていたことは、「ビッグネスは制御不可能である」というレム・コールハースのテーゼ──それ自体は今日の状況に対する正当な知見に基づく開き直りだと思うが──とは逆に、環境の開発は技術的・制度的に制御可能であり制御されるべきだという思考であったように思える。

多くの領域を横断的に活動した浅田孝だが、ここでその経歴を簡略に記しておく。浅田は一九二一年生まれ、一九五一年に東京大学大学院を修了後、五八年まで東京大学丹下研究室の主任研究員を務める。また戦災復興院嘱託として、丹下の戦後最初のプロジェクトでもある「広島市復興都市計画」(一九四七)を含む復興都市計画に参画、実作者としての丹下健三の協力建築家(一九四六──五八)として、《広島平和会館原爆記念陳列館》(一九五二)、同《本館》(一九五五)や《図書印刷原町工場》(一九五五)、《香川県庁舎》(一九五八)などの建築プロジェクトに携わっている。《広島平和会館》や《香川県庁舎》は鉄筋コンクリート造の表現によってこの時期の丹下の代表作であるが、図書印刷の工場は中央部に二列に並んだ鉄筋コンクリート柱で航空機の翼断面のような約九〇メートル長の鉄骨トラス梁の屋根を支えて、ガラス周壁との間に広い無柱空間をつくりだす。設備も含めてきわめてシステマティックなアプローチが空間を創り環境を制御することの率直な表現となっているところに後の浅田の展開の萌芽を見たい気に駆られる。「この計画を担当した浅田孝は、美や技術よりは社会や生産のシステムに関心が強く、設計から建設まで全過程をひとつの生産システムとしてとらえ、推進した」と藤森照信は書いている★二。これらの仕事と並行して、一九五四年に日本建築学会高層化研究委員会委員を務め、一九五六年には南極基地施設のシステム設計・製作監理に従事した。丹下研究室を離れて環境開発センターを設立(一九五九)した後、一九六〇年東京で開催された世界デザイン会議の事務局長を務め、横浜の「こどもの国」計画・設計(一九六一)や高速自動車道の道路標識のシステム設計(一九六二)に携わり、一九六二年に建設省の委託によって日本建築学会に設けられた人工土地部会の部会長を務めるなど、都市や国土の建設のためのさまざまな技術開発と制度設計に携わった。一九九〇年没。
批評家川添登が半ば反語だがと断りつつ評したこの「建てない建築家、書かない文明評論家、教えない教師」は、一九六〇年前後に最初の大きな波頭を持つ戦後日本の国土と都市の開発をめぐる大きな潮流の「ハブ」の役割を担っていた。

2  三次元的土地利用──高層化研究

一九五四年から五五年にかけて、日本建築学会は高層化研究委員会を設け、都市再開発をめぐる問題について総点検を行なった。ここでの研究が、その後現在にいたる都市再開発関連の法整備につながる重要な道筋を作った。幹事のひとりは高山英華、浅田孝は委員として参加し、報告書の多くの部分を執筆している。
当時、丸の内地区など東京都心の容積率は最高六〇〇パーセント程度だったが、法規制の上限九〇〇パーセントまで漸進的に増加していくであろうとすでに予測されていた。これに対し、「このような状態は都市の適正な建築密度から考えて好ましくないことは明らかであり、現行法規による高度制限=形態制限のみではこの事態をさけることが不可能と考えなければならない(…中略…)都心部の土地利用の集約化を私的にも公的にも合理的な方向に誘導し、同時に将来の都心部に於ける無統制な高層高密度化の傾向を是正するためには、高度制限を建築計画的に高層化可能限度まで容認するも、都市計画的には容積率を減少せしめるような何らかの規制方法が必要であると考えられる」と述べられている★三。高さ三一メートルの制限がかけられたまま低層・過密な状態に開発・建設が行なわれることは好ましくない。これを制御する規制の方法としては建築物の絶対高さ制限は妥当ではないとされるのである。わが国における建築物の高さ制限については、一九一九年四月に公布された市街地建築物法によって、建築物はすべて一〇〇尺(三一メートル)を越えるべからずと規定されており、これが長期にわたって日本の都市のスカイラインを決めてきた。浅田は別稿で述べている。

私がここでいわんとするところは、この一〇〇尺という何の技術的・社会的・経済的根拠もない規定のドグマティックな性格が、いかにわが国の都市構成を非近代的なものに押し止めたか、ということである★四。


この研究委員会報告書にも掲げられ、後に『環境開発論』にも収められた「同一敷地におけるオフィス・ビルの空間形態のちがいによる収益力比較」の図[図1]では、都市部の事務所建築の実態調査に基づく平面効用算出の計算式を使って、旧丸ビルおよび同一敷地に仮想した高層化ビルとの比較を行なっている。それによれば、容積率約六〇〇パーセント前後の旧丸ビル(八階建)と四〇〇パーセントの高層化ビル(一七階建)では、オフィス・フロアにおいてほぼ同じ収益力であり、単位賃貸面積あたりの実効収益力は高層化ビルが一七パーセント増となる。「しかも投資総計について二〇〇%少なく、敷地は七〇%近くが全然手つかずに残っている勘定で、もっと効果のある利用のために留保できるのであるから、高層化による建設コストの上昇分を見ても問題にならぬほど有利である」と浅田は述べている★五。
ここで浅田の関心となっているのは、執務空間としての生産性の問題であり、より高い生産性をもたらすことができる建築の平面形、立面形というのはどういうものかということである。この報告書中、「三・二節  建築計画的にみた限界」において、「対象とする業務建築にあっては、仕事の能率すなわちむつかしくいえば第三次産業としての生産性の高い空間でなければならない」と述べられているが★六、オフィスビルという建築型を分析例としていることから当然とはいえ、第三次産業を重視する視点は注意を引く。
同じく「三・三節  経済計算からみた限界」では、建築ことに事務所建築の市場性の特徴として、緩慢だが振幅の大きい景気変動に見まわれること、生産量制限が不可能に近いこと、収支のバランスする点はかなり高い位置にあることなどが分析される。そして次の諸要件を満たすためには高層化は必然であるとされる。

(一)土地に対して建物を建てることからする制約をできるだけ少なくして、土地の将来性を保存する。(建蔽率少なく、高く重ねる)
(二)市場の変動に対して、絶えず供給の側のトップにあるような実質的魅力と能率と質とを均一に確保すること。(専用化を高める)
(三)長い耐用年数の期間中におとずれる、社会の発展の結果としての需要の変化に即応しうる転用性を確保すること(平面の規格化、フレキシビリティーの確保)★七。


報告書の結論は、絶対高さ制限を緩和して、容積制限を中心とした形態規制を行なうべきである、スーパー・ブロックによる開発を促進させる、特に業務ビルにおいてはこうした総合的な施策が有効に働くというものであった。
浅田が主張した事項はその後順次実現の方向に向かった。基準法の一部改正で「特定街区」規定が設けられ絶対高さ制限を超えて建築しえるようになり、ついで「容積地区」の制度創設、容積の種別ごとの規制を廃止し、特定街区の指定の際、個々具体的に容積率を定めるようにした。上述の一〇〇尺の絶対高さ制限は、一九六三年の建築基準法改正により撤廃され、このことはとくに都市部において三一メートルを超える高さの建物の出現をうながしたのである。
ところでこの前後の時期に東京都庁綜合計画[図2]が、丹下の下で大谷幸夫、磯崎新、黒川紀章の担当によりまとめられている。実際に建設された有楽町の旧都庁舎の敷地と後背地を併せ用い(すなわちスーパー・ブロックである)、議会棟も大型化されているが、後背地に地上二一階建て、つまり当時の高さ規制を大幅に超える高さの事務棟を増築するものである。この計画が行なわれたのが一九五八年、ということはすなわち、上述した学会高層化委員会での検討を十全に踏まえたうえでのものだ──ちょっとうがった見方をすれば、同委員会の検討結果を世に問うパイロット・プランの位置づけを与えられているようにも思える。さらに言えば、こうした研究と計画は丹下研究室による東京計画一九六〇の中央軸上に連なるオフィス地区(高さ一五〇メートルから二〇〇メートルとされていた)の構想へと流れ込む源流をなしていると捉えることができるのではないだろうか。

1──同一敷地におけるオフィス・ビルの空間形態のちがいによる収益力比較 引用出典=浅田孝『環境開発論』(SD選 書、1969)

1──同一敷地におけるオフィス・ビルの空間形態のちがいによる収益力比較
引用出典=浅田孝『環境開発論』(SD選
書、1969)

2──丹下健三「東京都庁綜合計画」 撮影=村沢文雄

2──丹下健三「東京都庁綜合計画」
撮影=村沢文雄

3  三次元的土地利用──人工土地

土地という資源を最も有効に利用しようとするならば、それを平面的にではなく立体的に利用することを目論むのは必然だろう。一九六二年から、建設省の委託により建設技術研究補助金をうけて、日本建築学会大都市問題委員会に「人工土地部会」(部会長:浅田)が設けられ、「人工土地方式」による都市再開発手法の研究がなされた。研究は報告書『人工土地──成立条件、効果および計画』(一九六三)にまとめられているが、報告のうち計画的側面については川上秀光、構造的検討は木村俊彦、経済的側面は田村明が執筆担当し、具体例として大高正人が大手町地区および坂出市、槇文彦が金町地区および堂島地区における人工土地の応用を検討している。
人工土地とは、建築物を始め都市的設備やオープン・スペースなどの基礎となるべき半永久的なスラブを、一種のインフラストラクチャーとして架構し、この下に地区の必要な都市装備や公共施設を集約化して設け、上には各種建築群をオープン・スペースとともに計画的に配置するものである。これを有効に機能させるために、既存街区の枠組みを超えたスーパー・ブロックの考え方と併用されることになる。当時すでにニューヨーク市に見られた高速道路敷の上部に高層住居、バスターミナル等の建築施設を建設していく方式は、ここにいう人工土地の実例として、今後の再開発の一方向を示すものだとして報告書でも言及されている。また、ここで検討例とされた坂出市人工土地計画[図3]は、坂出駅から坂出港にいたる主要道路に面した商店とその裏宅地に存在する民間スラム地域総面積一万二六九〇平方メートルを再開発し、人工地盤下に商店、貸店舗、駐車場、倉庫等を、上に改良住宅を設けるものとされており、その後実際に建設された坂出市人工土地は大高正人の代表作のひとつとなったものである。
第六章の計画例の「大阪堂島地区・東京K地区計画」の節のなかで(ということは槇の執筆)、「アーバン・デザインからすれば、人工土地方式は、広義には、三次元的方式(Three dimensional Land Use)の一つの形態であり、又、デザインからみれば、上述のOptimum Control Mechanismを積極的に取入れるものでありたい。既に堂島計画に於いて述べた如く、K計画に共通して云えることは、共に、もしも必要とあれば、公共投資の部分、及び民間投資の部分が、水平・垂直方向に於いて区分しうる機構を内蔵していることである」と述べられている★八。
「人工土地は、一見単なる下駄バキビルの連続と形態的には類似しているが、なお根強く残る私所有権の絶対を、むしろ土地あるいは空間上の使用価値におきかえ、抽象的な法律上の権利を具体的な経済価値としての利用権へと転化したことに、これと異なる質的意義がある」と第四章に述べられているが、担当章の分担からこの一節は後に横浜市の都市計画を主導する田村明によるものであろう★九。旧来の制度に縛られた土地利用の概念を超える三次元的な開発の可能性を探る問題意識は前項に述べた高層化研究と共通する性質のものである。
ところで、後年のことになるが、浅田が率いる環境開発センターが一九七一年にまとめた『大規模海面埋立による宅地の大量供給に関する調査報告書』が前記の浅田文庫に残されている。
そのなかでは、さらに一歩進めたシステムとして、「海面利用の住宅供給のためには必ずしも『埋立』が不可欠のものでは無く、海に直接ピアを立て、プラットフォームを海面上に支えて海上都市をつくること、更には、浮上させること」などの提案がありうること、「住宅建設には埋立造成を必ずしも前提とはしない」という観点を導入すれば、先に述べたように少なくとも建築工事を埋立事業と一体的に平均して施工する工法は、技術的にも問題は少なく、この程度の大規模建設期中の利子負担の軽減からいっても有利で、海深が大きくなればなるほど、また地盤が悪いほど現実の利点は大きく埋立住宅地開発事業を名実共にシステム建設事業として一歩前進させる意義は大きい」という記述が見られる★一〇。これはいわば人工土地のアイディアを海上に適用したものと見なすことができるが、「東京計画一九六〇」はまさにこのようなピアおよびプラットフォームによる海上都市として構想されていた。一九六〇年を挟む何年間かの期間に建築学会等においても研究が積み重ねられた高層化と人工土地という空間開発・三次元的土地利用の構想が、丹下健三ら卓越したデザイナー・チームによって視覚表現を与えられて、「東京計画一九六〇」という時代の里程標のようなプロジェクトが成立したと見ることもできるように思われる。

3──大高正人《坂出市人工土地》 引用出典=『日本建築家全集18  大谷幸夫・大高正人』(三一書房、1970)

3──大高正人《坂出市人工土地》
引用出典=『日本建築家全集18  大谷幸夫・大高正人』(三一書房、1970)

4  極地環境の制御と携行家屋の開発

前二項とはちょっと毛色を異にするが、環境制御と空間開発に関わる浅田の仕事の多岐性を示す一例として南極の昭和基地の設計・開発がある。
一九五七年に始まる国際地球観測年に日本は戦後はじめて、国際共同事業および国際条約──南極大陸に関する限りすべての領土権を放棄するという南極条約──に参加・加盟した。浅田は一九五六年に日本の南極観測事業の設計部会主任として南極基地施設のシステム設計・製作監理にあたることになる。丹下研究室の外での浅田の最初の設計プロジェクトが、零下六〇度、風速八〇メートルという極地の自然条件のもとでの集団居住と科学観測のための器、それも部品で携行されて極地環境でもすばやく組み立てられるシステマティックな家屋づくりだったわけである。この南極観測隊携行家屋[図4]は、世界の南極観測隊建物のなかでも、最も安価につくられ、最も軽量で組み立てが容易であることによって世界の注目を集めた。
『建築雑誌』一九五七年一月号の「南極建築特集」で報告されているが、日本建築学会に作られた南極建築委員会には、委員として浅田のほか、武基雄(幹事)、井上宇市、川合健二、内藤多仲、武藤清、吉阪隆正らが名を連ねる。井上と川合は丹下の数々の建築に関係した設備エンジニアでもあった。
また同誌には、浅田による記事「日本観測隊の携行家屋の設計および製作について」とともに、極地建物の建設仕様条件、バックミンスター・フラーによるダイマクシオン・ハウスなどのプロジェクトを強く想起させる円形平面の初期案、木製パネル組立方式による実施案の図面および仕様が五〇頁にわたって掲載されている。初期案のひとつは設備ダクトなどに使われていた螺旋管の製作方法を応用して、基地建物を現地で短期間にオートメーションで建設しようというものだった。持ち込まれたアルミのロールから、カイコがマユを紡ぎだすように外殻をつくる金属板が繰り出され接合されながら、螺旋状に円形建物を作っていく。浅田は、単位空間あたりの表面積が小さい、つまり熱損失が少なく、重量と資材量に比し堅牢でまとまった大きい空間がとれる円形平面家屋は極地建築として優れると考えていたが、結果的には採用されず、実際に居住する観測隊員の側から住み慣れた矩形プランの家屋を望むという要望に沿ったものが実施案となり、木製矩形パネルを楔型締め具で連結する工法が採られた。
実施案から想起されるのは、コンラッド・ワックスマンとヴァルター・グロピウスにより一九四二年から開発されたジェネラル・パネル・コーポレーションのためのパッケージ住宅システムであるが、部品のプレファブリケーションと現場でのアッセンブリーの性能問題が、ここではさらに苛酷な環境条件のもとで考え抜かれた。ところでワックスマンは一九五五年に来日し、東京工業大学において若い建築家・デザイナーを集めて、ゼミナールを開いていた。このワックスマン・ゼミナールのオーガナイズにも浅田孝は関わっていた。

4──南極昭和基地携行家屋 引用出典=『建築雑誌』1957年1月号(日本建築学会)

4──南極昭和基地携行家屋
引用出典=『建築雑誌』1957年1月号(日本建築学会)

5  オーガナイザーとしての計画者

すでに記したように、多面的な実践家であった浅田はほかにも一プランナーの枠に収まりきらない活動を行なっている。
浅田は、一九五五年に、『新建築』誌(当時、川添登編集長)の編集顧問となり、「原爆下の戦後一〇周年記念号」をまとめた。同誌には、原子物理学者の武谷三男と行なった座談会記録が掲載されている。異分野との知的交流としても興味深いが、「技術は労働手段の体系である」とする当時流布したマルクス主義流の定義に代え、「技術とは人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である」とする見解を唱えた武谷の技術思想に、都市計画者としての浅田が共鳴するところがあったのかもしれない。
戦後復興期の日本建築界のさまざまな動きをまとめたこの号は建築雑誌史上でも時代のランドマークとなるような号であると、今日の目から見て思われるのだが、こうした出版物の企画編集を主導するところにも、浅田が一プランナーにとどまらない多面的な活動家として実践を試みたことの一端を垣間見ることができる。
また、浅田は、前項に記した南極昭和基地施設のシステム設計・製作監理を終えた後、一九六〇年に東京で開催された「世界デザイン会議」の組織・事務局長として担ぎ出されている★一一。
「来たるべき世紀=その全体像」をテーマに掲げるこの会議で、開催初日の招待者基調講演「デザインに関する考察」を、ハーバート・バイヤーが行なっている。一九二〇年代にデッサウのバウハウスでグラフィック・デザインの工房を率い、その後アメリカに渡ったバイヤーは、コロラド州アスペンの開発にもコンサルタントとして関わるが、この地でアスペン国際デザイン会議が一九五一年から開かれている。「世界デザイン会議」はいわばその東京版だが、丹下がその前年にマサチューセッツ工科大学の学生を指導して作ったボストン湾上の海上都市「二五〇〇〇人のためのコミュニティー計画」をプレゼンテーションし、菊竹清訓や黒川紀章らメタボリストが参加したこの会議によって、建築を含む日本のデザイン界が一挙に国際化する契機となった。また、この会議を通じて「グラフィック・デザイナーたちはその任務とする専門分野がこれまでの広告宣伝といった狭いコマーシャル・アートの立場から、もっと広いコミュニケーション・デザイン(伝達デザイン)の新しい分野に向かって、その努力を拡げてゆかなければならないことを確認している」と浅田は述べている★一二。こうした認識が、さらにその後、高速自動車道の道路標識のシステム設計を推進するという浅田の立場に連続していくのだろう。
『環境開発論』の編者解説のなかで川添登は、浅田の方法が建築家個人の創造的行為を技術・科学的方法論や社会的組織に可能な限り置き換えていくものだと評した。「一般に技術や組織は、非人間的な傾向を強めると考えられているが、浅田さんのそれはまったく逆であって、そうした方法を通じて、さまざまの能力をもった多くの個性的な人材を投入する道をきりひらいていく」、それは分業化を推し進める「生産の論理」ではなくて、地域社会と連携し技術として本質的に包括的・綜合的であろうとする「建設の論理」によるからなのだとも、川添は述べる。 
浅田自身は同書序文末尾でこう書いている。「都市というような、統計学的スケールの全体環境の変革をなしとげようとするためには、神話とドグマの世界に逃げ込むのではなくて、より前向きの健康で新しい道具──時間と空間、機能と構造、数量と価値、などに関する諸科学の統合──と、大衆社会状況に見合う開いた個性の職能のさまざまのチームワークの組織とを骨格に据え直さねばならない。これこそが環境創造の生成システムとなり得るに違いない」★一三。浅田の活動した六〇年代からすでに半世紀近くを経て、今日の私たちは、「より前向きの健康で」のくだりに見える楽観主義をそのままには受け容れにくいかもしれない。だが、「時間と空間、機能と構造、数量と価値、などに関する諸科学」が統合された「新しい道具」と「チームワークの組織と骨格」を火急に必要としているのは、一九六〇年の浅田孝たちである以上に、五〇年後の私たちなのではないだろうか。


★一──「都市の開発とヒューマン・リニューアル」(『都市問題』一九六四年二月号、東京市政調査会)。後に『環境開発論』(SD選書、一九六九)にも収められる。
★二──藤森照信『丹下健三』(新建築社、二〇〇二)二三五頁。
★三──『昭和二九年度建設技術研究  都心部における建築物の高層化に関する研究報告(四)  II.都心部の一般建築物の高層化に関する研究』(一九五五)一頁。本報告書(全五章)のうち一──四章が浅田担当となっている。
ちなみに、日本建築学会高層化研究委員会は、委員長:笠原敏郎、幹事:高山英華、入沢恒、高層化問題点グループ委員会:横山不学、浅田孝、渡辺藤松、市川清志、小宮賢一、田中好雄、本城和彦、青江邦良である。
★四──『環境開発論』一七六頁。
★五──「管理中枢としての業務空間」(『環境開発論』一九〇──一九二頁)。初出は一九六五年(『カラム』第六号)である。
★六──『都心部における建築物の高層化に関する研究報告(四)』八頁。
★七──同、一三──一五頁。
★八──日本建築学会大都市問題委員会小委員会人工土地部会報告書『人工土地──成立条件、効果および計画』(一九六三)五六頁。
★九──同、四三頁。
★一〇──環境開発センター『大規模海面埋立による宅地の大量供給に関する調査報告書』(一九七一)一三一頁。
★一一──一九六〇年五月一一日から一六日にかけて、東京サンケイホールを会場として開催された同会議については、『建築雑誌』一九六一年三月号に報告されている。
★一二──『環境開発論』一二七頁。
★一三──同書、一七──一八頁。

>菊池誠(キクチ・マコト)

1953年生
芝浦工業大学システム理工学部環境システム学科教授。建築家。

>『10+1』 No.50

特集=Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960

>黒川紀章(クロカワ・キショウ)

1934年 - 2007年
建築家。黒川紀章建築都市設計事務所。

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

>藤森照信(フジモリ・テルノブ)

1946年 -
建築史、建築家。工学院大学教授、東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>槇文彦(マキ・フミヒコ)

1928年 -
建築家。槇総合計画事務所代表取締役。

>川合健二(カワイ・ケンジ)

1913年 - 1996年
エネルギープランナー、設備設計家。

>バックミンスター・フラー

1895年 - 1983年
思想家、発明家。

>ヴァルター・グロピウス

1883年 - 1969年
建築家。バウハウス校長。

>バウハウス

1919年、ドイツのワイマール市に開校された、芸術学校。初代校長は建築家のW・グ...