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『空間へ』《お祭り広場》『日本の都市空間』 一九六〇年代における都市論の方法をめぐって | 磯崎新+日埜直彦 聞き手
“KUUKAN E", “OMATSURI HIROBA", “NIHON NO TOSHIKUUKAN": On Urban Theory Methods in the 1960s | Isozaki Arata, Hino Naohiko
掲載『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) pp.187-197

都市をイヴェントとしてとらえる視点

日埜直彦──前回はおおよそ五〇年代を視野として、当時のモダニズム一辺倒の状況のなかで考えておられたことについておうかがいしました。一方にモダニズムの計画的な手法ではフォローしきれない生々しい現実があり、しかしモダニズムの均質空間の限界を感じつつそれを超える論理が見当たらない状況でもあったわけですね。
今回はそうした問題のなかから後に繋がるひとつのきっかけとなった「イヴェント」についておうかがいできればと思います。出来事、あるいは『日本の都市空間』(彰国社、一九六八)では「かいわい」という言葉が出てきますが、そういう「モノ」ではなく「コト」への関心です。少し先回りして言うと、その関心はその後《お祭り広場》(一九七〇)や《パラディアム》(一九八五)を導き、そして最近ではトリノオリンピックのホッケー競技場や福岡のオリンピック・プロジェクトへと、つながっていきます。そうしたイヴェントの場としての空間、とりわけその由来について具体的にお聞きできればと思っています。
『空間へ』(鹿島出版会、一九九七)にまとめられた論文のうち、初出が一番早い論文「現代都市における建築の概念」は「状況1」「状況2」「方法1」「方法2」という組み立てになっています。「状況1」では都市の不確定で不定形な活動について、「状況2」ではそうした都市を構造化している道路に代表されるような枠組みについて概観し、それに対して「方法1」では「状況1」に対応してその内在的なシステムの発見の必要性、「方法2」ではご自身のジョイント・コア・システムを取り上げながら都市にある種の秩序を与える都市施設の必要性を説いておられる。
この論文に典型的に見える、「不定形なもの」とそこに「形を与えるシステム」という二項対立的な構図はその後の論文でもしばしば見られます。
磯崎新──「現代都市における建築の概念」はモロッコの住宅やポーラス(多孔質)状のものなどいろいろヴィジュアルを並べて、それに文章をつけたものです。当時、都市のテクスチャーは単純なソリッドのものではなくて、このようにポーラスでアンフォルメルな形態を取りうると考えて、ポロシティの原型を探していたと思います。
日埜──そういう不定形なものへの関心は急速に変貌を遂げつつあった東京の現実と重ねて捉えられていたかと思いますが、それに対して都市に形を与えるシステムが提案されています。そこで「不定形なもの」とはつまるところイヴェントであり、「形を与えるもの」はシンボルないしシステムと言い換えることができるのではないでしょうか。
磯崎──あの論文の三年後に書くことになった『空間へ』の「都市デザインの方法」の最後に「霧状の流れ」が出てくるのですが、「方法1」ではイメージをさらに抽象化させて、都市をモナドあるいは点の集合ととらえています。点が動くと流れと濃度が生じます。それらを数学的に形式化するとどうなるかと考えていました。正直なところ僕は数学に強いわけではない。近代経済学で数学的な解析をやっていることなんかは知っていても手がでない。丹下研では僕の次の世代の山田学や月尾嘉男などがこの領域に入っていきました。僕は、どこかで、代数より幾何が好きだったと言った記憶がありますが、関心が都市とか万博へと移っていきました。イヴェントとしての万博、つまり理論的解析よりも、デザインとして手を動かすほうが向いているような気もしていました。だからスコピエの再建計画に意図的に関わろうとした。丹下健三さんはその両方をやっていたわけですが、そのうち具体的な仕事として《お祭り広場》などに関心が移っていきました。形態のシステムから生活のシステム、実際に生きているもののシステムへと移りました。いま指摘された僕の初めての都市論になるものを読み返してみると、稚拙な思いつきにすぎないんだけれど、不定形や偶発性に関心を示していたのが、イヴェントとして都市をとらえる視点につながっているかもしれませんね。だから、不定形には常に関心があったと思います。美術が描き出そうとしていたアイディアとつなごうとしたんでしょうね。問題は分析のための道具でした。ひとつのシステムでも社会的制度でもよいのだけれど、そこに流動しているものをひとつの道具を用いて描き出したとたんにスタティックになる。スケッチして描けるのはひとつのイメージしかない。この問題をどう処理するのかは、最大の難問です。例えば、揺れ動いているイメージが仮に生まれたとしても、これを、固定されたものに置き換えないと具体的な図面にならないわけです。ある瞬間を切ったときにその断面が見えます。そのフィックスされたものでしか計画へ持ち込めない。イメージを具体的な都市計画の領域に写し取るのはこんな手続きです。ゾーニング、道路計画などのパターンは全部スタティックなものです。一〇年、一〇〇年単位で考えなければならないわけですが、イメージの出現は瞬間です。このズレが大きくて、決めると身動きができないけれども決めないと具体化しない。これが最大の矛盾です。だがここから始めざるをえない。それを状況対方法という対比でとらえようとしていたのだと思います。「都市デザインの方法──シティ・インビジブル」(一九六三)も同じ構成で、結局CIAM対 IFHP(国際住宅都市計画連合)という対比で見ている。「現代都市における建築の概念」は、イメージの現実化をどのようにしたらよいかという趣旨だったんですね。当時はアーキグラムはやっとミニコミのパンフレットを発行し始めた頃だから、世界的に都市に対する新しい提案をするのに参照できるものはなかったのです。六四年の段階で、アーキグラムは活動をいったん打ち止めにした。その年の『アーキテクチュラル・フォーラム』の最終号に、アーキグラムのイメージが最後のページに掲載されました。これがアーキグラムが世間に伝わった最初だと思います。アーキグラムとは六四、六五年に接触が始まりました。その頃僕は外国の街をまわっていましたが、人工的、古典主義的なものよりも、自然発生的な村落などから見えるものを探していた。だから地中海・イスラム、非西欧的アジア、前西欧的なエジプトなんかが関心事でした。

日埜直彦氏

日埜直彦氏

磯崎新氏

磯崎新氏

両義性とシュルレアリスムの方法

日埜──「ジョイント・コア・システム」と後の《お祭り広場》を比べてみると関心の移動が感じられます。「ジョイント・コア・システム」の場合はヴィジュアルとしても街並みに対して、それを突き抜けるように屹立する構造物の印象が強い。それに対して《お祭り広場》の場合は上のスペース・ストラクチャーは比較的プレーンでその下の空間、イヴェントの起こる場が重要視されてきているように感じます。アーキグラムの場合も、例えば「ウォーキング・シティ」から後のテント構造物に至る流れにそれと並行するようなところがあるかもしれません。
そしてちょっと飛躍があるかもしれませんが、この構図は前回のインタヴューで出てきた岡本太郎さんと瀧口修造さんの対照と関係づけられるのではないかという気がします。つまり対立をそのまま受け止める対極主義の岡本とシュルレアリストの瀧口という構図です。「孵化過程」はモンタージュの技法を使っていて、プレゼンテーション全体としてシュルレアリスム的な印象を受けます。だからといってそれを瀧口修造につなげるのは強引かもしれないのですが、そのシュルレアリスティックな傾向から、矛盾のぶつかり合いをそのまま肯定する岡本太郎の対極主義へというグラデーションがあるように思うわけです。
磯崎──メガストラクチュアとして既存の都市と対立する構図から、既存の都市の内部の活動を活性化させるソフトな被膜へとプロジェクトの目標を転換させた契機は? という指摘ですね。そのとおりにシフトしていきました。これが、対極主義よりシュルレアリスムへという日本アヴァンギャルドの隠れた文脈に関わっていないかというご意見には、今のところちょっと答えがみつかりません。そうかもしれない。だけど僕は方法の違いよりロジックの共通性に注目していたという気がします。後になって自覚してきたのにすぎませんが、可視化されたアクチュアルなイメージより、潜在しているヴァーチュアルなもののほうがよりリアルではないか。それを突きとめることがプロジェクトだと考えるようになりました。
瀧口さんのシュルレアリスムも、岡本さんの対極主義──彼流のアヴァンギャルドですが──の方法論も、矛盾を抱え込んでいるという点では同じです。太郎さんは自我も引き裂かれ、社会も引き裂かれるという状態から見えてくる対立、対極を言おうとし、社会主義リアリズムとモダニズム、政治的なものと非政治的なものを対立したまま同時に共存させて、そこでの対立するテンションを重視していたのだと思います。弁証法は、そのテンションをいかに解消して段階を上げるか、ということです。しかし上がってしまうとテンションがなくなってしまう。僕はそのテンションのほうが面白いと思っていました。だから弁証法に抵抗していて、太郎さんの方法論は面白いと思っていました。
シュルレアリスムさえもがその手がかりにしていた両義性、あるいはあいまいさへの関心がはっきりしてきたのは六〇年代末くらいだと思います。あいまい、アンビギュイティという語にはぼんやりしたものというイメージがありますが、アンビギュイティは両義的という訳語にうかがえるように、ひとつに見える言葉のなかに、二つの意味や対立するものが同時に入っている状態と言えます。偶然、ウィリアム・エンプソンの『曖昧の七つの型』(思潮社、一九七二)という本を見つけました。エンプソンは戦前に東大でも講義をしていたことがあるのですが、この本は詩学についての決定的な本だと言われています。その前にヴェンチューリの『建築の多様性と対立性』(原著一九六六、SD選書、一九八二)が出版されたのですが、ここでヴェンチューリは事例をアトランダムに引き、何が対立で、何が矛盾かと述べています。ある意味で対立は対極と近く、矛盾はひとつでありながら、肌別れするものがなかにあり、それが分裂していく。対立と矛盾がタイトルになったこの本に関心を持ったのですが、この問題をどう考えたらよいかわからないうちに、エンプソンの『曖昧の七つの型』を読んだわけです。そして『建築の解体』(美術出版社、一九七五)の「ベンチューリ論」では、『曖昧の七つの型』と対比して整理した一覧表を作りました。「対立と矛盾」と同じような形で、シュルレアリスムはある意味で両義性を視覚化したものと言えると思うのです。ネイティヴの友人からアンビギュイティは「あいまい」という日本語ではきちんと言えないので両義性と訳すのがよいと聞きました。両義性というのは、ある記号がひとつの意味だけをもっているのではなく、互いに矛盾した複数の意味をもっていることです。それが、あるときにはひとつの意味で現われ、別なときにはほかの意味が現われる。確固としたものが見えないから、「あいまい」という日本的表現になる。さらに言うと、あいまいというぼんやりしたどっちつかずのものではなくて、ここには明快なロジックがあって、ロジックそのものが内部で対立し、分裂する要素を含んでいる。それがアンビギュイティです。そうするとシュルレアリスムも同じだと思いました。日本では、シュルレアリスムを幻想絵画に分類してしまう傾向がある。幻想は単なるロマン主義にすぎない。対立が起こり矛盾した意味をもつことが本来のシュルレアリスムです。シュルレアリストの方法は、言葉の伝統的な用法、イメージのクリシェを突き詰め、それが通念として持っている意味から逸脱していく要素や内容を秘めていることを明らかにすることです。これがアンビギュイティ、あるいはシュルレアリスムの原則だと思います。そう考えると、マン・レイたちが柔らかいものとトゲトゲしたものが重なっているもの、あるいは対立するもの両方をもち、裏表があるものを探していたことがわかります。シュルレアリスムに関心があった人たちのなかでそのことを感じていたのは瀧口さんだけでしたね。後続の人たちでさえシュルレアリスム=幻想という理解をしていました。だから日本ではシュルレアリスムは情念のような非論理的なものになってしまった。これはまったく読み誤りです。日本人はしばしば海外の事象を受容するときに、それを受け取る過程で読み誤っている。シュルレアリスムも同じです。「太郎は下手な抽象で、シュルレアリスムではない」と、当時は言われていましたが、じつは太郎さんの対極主義もシュルレアリスムです。六〇年前後はそんな状況でした。僕もそのなかで現実に存在している都市と、これに対処する実際の方法、この具体的な手段をどう扱うかということを考えていました。そういう外の状況と『空間へ』の初めの部分はつながっていると思います。入り乱れたポーラスで、ねじれた都市空間はそのなかのひとつとしてありうるのではないかと考えていました。要するに、ポジとネガのように対立してあるのではなく、ねじれて重なり合っているということです。
もうひとつは、動くということです。動くということは別の意味で言うと、目で見て動くことではなく、時間の経緯として観察すれば、都市が時間とともに変わっていくことです。時間を一〇年、一〇〇年単位で考えればコンスタントに変わっていて、その成長過程を見定めることが可能だろうと思いました。そして、この変化を極端に追い詰めていくやり方がありうると考えていました。目標なんか定めなくていい。成長要因(複雑系でいう創発的形質)を突き詰めて、これを強引に加速させる。そして結局これはラディカリズムに到達する方法論ではないかと思い始めたのです。とことん追い詰めると、行き詰って自爆せざるをえない。だから六〇年代の初期のネオ・ダダイズム・オルガナイザーズをはじめとするさまざまな美術や音楽は先の見えない自爆するイメージが多かったわけです。

六〇年代における美術界の問題構制

日埜──イヴェント、不定形なものには、一方でごく日常的な継起的変化があり、他方で偶然的、突発的な事件があります。例えば「かいわい」とはどちらかといえば前者にあたり、日々の日常的な出来事に当時関心があったように思うのですが、次第に突発的なもの、いわゆる事件、偶発性に移っていくという関心の移動もあったのではないでしょうか。それはネオ・ダダの事件的なたくらみなどと並行して出てきたものだったのでしょうか。
磯崎──一九六〇年が頂点になる日本でのアヴァンギャルドの運動をゆさぶったのは、アクション・ペインティングだったとも言えますね。その一〇年ほど前、ジャクソン・ポロックがブレイクスルーしたものです。大画面を床にひろげて、バケツにアクリリックの絵具をいれて、画面上にドリッピングする。この制作シーンの写真が流れてきたときは衝撃的でした。「アトリエが闘技場になった」と言われたりしたのです。ドリッピングされた絵具の飛沫の痕跡、不定形、偶発性、無意識。西欧で絵画を成立させていたいくつもの基準が吹きとんだのです。
日本人で最初のアクションペインターはパリにいた今井俊満で、一九五七年に彼が友人サム・フランシスとジョルジュ・マチューをつれて帰国。この二人がメディアのなかでパフォーマンスを繰りひろげた。草月流の勅使河原蒼風が彼らにコミッションした大作が、丹下健三設計の旧草月会館のSACホールを長い間飾っていました。このSACホールは六〇年代を通じて過激化していくパフォーマンスの上演舞台になりました。こんな場がないと既成のシステムと相容れない新しい芸術運動は容易じゃないのです。いま芸術領域での六〇年代再評価はEXPO’70に、とりわけ《太陽の塔》に集中しているけれど、その前史として、SACの活動がもっと取り上げられていいと思いますね。アクション・ペインティングは学生や卒業したての若いアーティストを直撃しました。篠原有司男(ギューチャン)のゴミを叩きつけた《こうなったらやけくそだ!》という作品に瀧口修造さんが注目する。工藤哲巳の擬似ペニスが増殖する作品(草間彌生より先でした)を東野芳明が「反芸術」と呼んだ。これが六〇年前後のひとつの問題構制になりました。反芸術論争です。さまざまな議論や対論があり、都市デザイナー磯崎新までが、パネリストになる。この論争は針生一郎が宮川淳の説を「芸術の消滅不可能性の原理」と呼んだあたりで決着した。簡単なことで、反芸術といえども芸術だ、というポストモダン的なロジックによるパラドクスです。ついでながら、世間が一九六〇年に注目するであろうということを予測して、水戸芸術館で、私のキューレートした「日本の夏──こうなったらやけくそだ!」展(一九九七)はギューチャンのタイトルをいただきました。この展覧会で、私の幻の作品と呼ばれている《新宿ホワイトハウス》(一九五八?)が再現されました。三間立方体に一間幅のメザニンのついた箱だったことは記憶しているのだけれど、手元には何の記録もありません。建築物なんてたわいないもので、アイディアとそこでの事件の記憶は残っても、実体は消えたり崩れたりしている。どれを建築と呼ぶのか、まあ、あの頃は半世紀後の運命なんて考えもしませんでしたからね。
ところで、このアクション・ペインティングは、次第にパフォーマンスそのものになり、絵を描くかどうかは関係なくなってきます。六〇年を境にして、それ以前は作品を作るためのアクションだったのが、作品を作ることが目的から外れて、アクションそのものに変わっていった。当時、その動きは新鮮に見えました。街頭にデモに行くこともボクシングをしながら絵を描くこともパフォーマンスで、身体の動かし方そのものが作品になったのです。作品の概念が変わったといえます。音楽やダンスはパフォーマンスです。映像はみな動きます。都市も動いているのではないか。
最近、フルクサスが再評価され、注目を浴びています。一方では大阪で五〇年代から吉原治良のリードで活躍をし始めた「具体美術協会」の活動も国際的な研究が進んでいます。ここでは美術作品をアクションと結びつけました。フルクサスは音楽家の集団で音のつくり方を根底から変えようとしました。このような動きは直接の関連はなくとも世界同時多発です。だがこのようなことを議論をする人は建築界にはいませんでした。メタボリズムはモダニズムの連続のなかで組み立てられたメソッドで、生物学的なイメージを都市とつなげようとした。そこから僕が考えていた議論が出てくるとは思えなかった。それで建築よりも美術や音楽といったほかの領域の動きのほうが刺激的だった。フルクサスの音楽家たちによるジョン・ケージに由来するグラフィック・スコアは、都市の視覚的構造分析に使えそうだし、「反芸術」派のイメージは、都市に流れる時間を反転するような廃墟と未来都市とつながっている。こんな具合の連想がいくらも見えるでしょう。これは単純に僕がこんな事件のただ中にいて、身体的に巻き込まれていたためです。とはいっても同じことをやっても仕方ない。建築家として、これを都市や建築の領域に移転させ変形しなければならない。

1──「日本の夏」展で行なわれた、「ジョイント・コア・システム」を石膏で固めるパフォーマンス 引用出典=展覧会カタログ『日本の夏──1960─64』(水戸芸術館、1997)

1──「日本の夏」展で行なわれた、「ジョイント・コア・システム」を石膏で固めるパフォーマンス
引用出典=展覧会カタログ『日本の夏──1960─64』(水戸芸術館、1997)

2──《新宿ホワイトハウス》を再現した「日本の夏」展会場 撮影=齋藤剛 写真提供=水戸芸術館

2──《新宿ホワイトハウス》を再現した「日本の夏」展会場
撮影=齋藤剛 写真提供=水戸芸術館

都市を計画することの矛盾

日埜──建築家として形を与えなくてはいけないという大前提が、基本的な困難としてあったでしょうね。結局形を与えようとする限り、何に対してその形が現われるのか意識せざるをえないし、そうなると「プロセス・プランニング」のような、やはりイヴェント、プロセスをシステムが追従するという構図になる。
磯崎──都市や建築を計画をすることには本質的な矛盾がひそんでいます。都市はたえず変化・成長している。それに対して、ひとつの像を案出して投企(プロジェクト)するわけですが、そのとき使える手段はすでに法制化されているシステムにすぎず、無数の制約の下にある。ここでつくられたプランを現実の都市に投げ込もうとしても、もうその相手は先へ向かって変化している。手遅れになっている。とはいっても操作可能なのは、そんなシステムでしかない。いたちごっこになって、常時変更を迫られるが追いつかない。しかも、その投企を、上から一挙にやればファシズムだし、下から民主的にやろうとすれば、まとまったイメージは消え失せる。本質的なアポリアなのです。だけれど、これらを壊さなければならない、というのが当時の気分でした。では何から始めるか、モダニズムがもっていた思考構造を批判することしかない。モダニズムでは、目的がユートピアとして設定され、それに向かってすべてを編成し、移行させようとし、前衛は全体の先端にいる牽引者です。例えば絵の場合でも、どのようなイメージを画面につくるかが目標としてあり、その目的に向かってすべてを編成して、前進させる。ところが、イメージが消え、目的がなくなった場合でも、ツールそのものは作動している。勝手に作動させてよいのではないか、と思っていました。アクション・ペインティングのポロックが再評価されるのはその部分だと思います。ところが美術批評家や歴史家は、ポロックは作りながらイメージが浮き出るようなものを作ったではないか、精神分析的な意味で、隠れたイメージがそういう形で表現された、と言います。表現はオープンエンドではなくて、収斂する目標があるのだというわけです。その目標ばかりを言うのがスターリニズムです。ヒトラーは「千年王国」と言った。「大東亜共栄圏」は侵略目標ではあったけれど、ユートピアのかけらもなかった。元来日本人は時間軸上の未来を想像するのはまったく苦手であって、無時間的な距離感に置き換えてしまうくせがあると思っています。例えば西方浄土よりの来迎仏。この日本的な特性にとらわれているなどとはまったく思ってもみなかったけれど、いまとなってみると、目的に向かって命をかけるなんて、何だかダサイよ、と感じていたことは確実ですね。
ついでながら、そんな未来についての思考に関わって、あの頃、二冊の本を挙げていました。ひとつはダーシー・トムソンの『成長と形態』(邦訳=『生物のかたち』東京大学出版会、一九八六)、もうひとつは、テイヤール・ド・シャルダンの『現象としての人間』(みすず書房、一九六四)。前者は翻訳も出てポピュラーになっているけれど、後者はいまだにミステリアスに思えて、しょっちゅう想起しています。とりわけ、人間の意識は何百万年か後に現われるω点でひとつの宇宙意識に集約されていくというヴィジョンで、これは確実にSF作家アーサー・クラークに影響を与えた。そんなユダヤ的終末論から生まれてくる構図が、いつの間にか僕にとっては、その対極にあるものとしての日本的思考形式への関心に連なっていくように、今となっては思えます。先回、「日本の都市空間」について話したとき、どうして日本の都市を扱うようになったのかについてはふれる余裕がなかった。ひとつだけここで補っておきたいのは、日本的な都市パターンの整理などは、ユダヤ・キリスト教的な西欧の近代的思考の視点から、異質性、固有性のあるものとして選びだそうとしていました。おそらくあの仕事がいまだに参照されるのは、その後のデザイン・サーヴェイが、単なるニュートラルな記録でしかなくなったために、逆に浮び上がってくるのだと思えます。
そこで、目的=テロスについてですが、この背後にその後も僕を悩ませ続ける主体、もしくは自我の問題が含まれているのですが、これはまだこの時期には表面化してない。『建築家捜し』(岩波書店、一九九六)の「他者としての建築家」のテーマはこれを補填する作業でもありました。まあ、単純化して言えば「目標が消えた、どうすればいいのか」ということです。つまり目標を外した場合何ができるのかという問いです。「手法論」(『手法が』鹿島出版会、一九七二)を考えるようになって、その核になるコンセプトは自動生成、すべてが目的が定まらずにそれでも作動している状態を成立させることです。とすれば何のためにやっているのかと批判される。それには逆に、じゃ、何故ほっておいても都市や建築ができるのかと問い直さねばならない。作られること自体を目的、枠組みに設定しなければならなくなります。モーターが回転する場合、それは自動車を動かすという目的があるのですが、その目的がなくても回転します。人間でもそういうものを作動させる要素がDNAに仕込まれている。生成論としての都市論です。このような都市論は八〇年代にあらためて議論されます。六〇年頃は経済学などが通用した確率論的方法論はまだなかったので、とてもプリミティヴにやっていました。初期未来派やデュシャン、レイナー・バンハム第一機械時代の理論とデザイン』などに見られる、あの頃の機械の理解の仕方、イメージの作られ方にしばられていたんですね。

エンバイラメントの会と《お祭り広場》

日埜──差異の自己生成ということになってきますが、そうなると確かに弁証法のプロセスとはまったく異なるヴィジョンになってくるでしょう。当時サイバネティクスに対して関心を持たれていたようですが、これも同じ文脈にあるのでしょうか。
磯崎──「見えない都市」(『空間へ』所収)の結論的な部分で「サイバネティック・エンバイラメント」と呼んだ箇所があります。保護膜、互換性、可動装置、人間─機械系、自己学習、と五項目を取り出して、これが都市空間の特性となるだろうと予測めいた表現にしてありますが、この項目は実は《お祭り広場》の予備的スタディから導き出し、その一般化をねらったものでした。ノーバート・ウィナーの『サイバネティクス』は五〇年代末に翻訳が出た記憶がありますが、それの前史のようなものにオートメーションがありました。テーラー・システムと呼ばれた流れ作業のなかから人間の手を借りずに自動的な生産をする。こんな、いずれロボット生産に連なる一種の技術的革新が現われた。それをソフトな環境論に拡げていこうとしたわけですね。ここで言うエンバイラメントは当然ながら「空間から環境へ」展(一九六五)の「エンバイラメントの会」と関係があります。《お祭り広場》の装置空間のスタディにあの会のメンバーを巻き込んだのだからその関連は明瞭でしょう。自動生成と言うとちょっとおおげさで、自動的作動と言ったらいいのかな。「都市の設計は、まったくボタン戦争のメカニズムに似ている」(『空間へ』三九二頁)と言ったりしていましたから。
日埜──『日本の都市空間』で、ヴァナキュラーなものへの分析上の架橋として、シンボルという言葉が出てきます。本の構成から見ても、二章の「かいわい Activity Space」と三章の「ひもろぎ空間  Space-Time Value」、四章の「象徴となる symbolizing」は繋がっていて、それは基本的に歴史・時間的なものと関連づけられています。『空間へ』に「ジョイント・コア・システム」の柱がギリシア神殿の崩壊した列柱とモンタージュされている図像がありますが、こういう視点の取り方が面白いと思います。
ちなみに「象徴となる symbolizing」というふうにタイトルを動詞にしているのはどういう意図があったのでしょうか。
磯崎──つくられる、生成するというのが最大の関心事でした。応用する、あるいは物事が自然に広がっていく、浮き上がっていく、自らが変わっていくという、一種の生成論です。変化する都市を観察することはアカデミックにやれるだろう。だが、その変化の過程に、計画者、デザイナーとして、主体的に介入するにはどうすればよいのか。こんな単純な問いかけをもっていました。何しろ初めて現場に入り込む。その手がかりを捜していたんですね。
日埜──シンボルという言葉は今で言うならばサインですね。
磯崎──あの頃は記号論はなくて、シンボルの哲学というとカッシーラーのテクストでした。記号論が出てきたのは六〇年代後半です。バルトたちは五〇年代に記号論らしいものを手がかりにしていましたが、建築における記号論はジョージ・ベアードが編集した論集だったと思うのだけれど、名前は思い出しません。ウンベルト・エーコの論文なんかも入っていたような気がするのだけれど、僕の書庫は数カ所に分散しているので、確認する方法がない。ともあれシンボルという用語には、意味論的に多重の負荷がかかっている。もっとニュートラルでモナド(これにも負荷がある)のようなもの、数量操作に耐えうるようなコンセプトがないのか、こんなところで、僕の使い方も迷っています。

見えない都市の表現方法

日埜──『日本の都市空間』での「かいわい」という言葉は、そのほかに列挙された項目とは少々異質ですね。ほかの項目は日本的美学の型としていかにもありそうなのですが、「かいわい」というのはそもそも型ではない。そういうなかに敢えてこれを並べられているということは、逆に意識されてこの項目を立てられたのではないかと思います。どうしてそこに目が向いたんでしょうか。
モダニズムのシステムが捉えそこねた空間の様相という意味で、今から見ればこれを入れる意義はわかりやすいのですが、そのきっかけが何だったのか興味があります。
磯崎──例えば銀座界隈というときに、銀座を地図上でマークしてみても、そのエッジからアクティヴィティがはみ出しているのではないか。しかもアクティヴィティには濃淡があり、これを表現できる手段はなかなか見つかりませんでした。社会的に制度化され、法制化もされている都市計画の手法では取り出すことができないけれど「かいわい」と言えばぱっとわかる。こういうすごく単純な思いつきでした。都市の「にぎわい」とか「盛り場」といった呼び方は普通に使われていて、私たちはそれでぱっとひとつの状態を想起できるじゃないですか。だがそれを図示することは不可能です。言葉による表現のほうが、都市をデザインしたり解析するときに使える手段よりはるかに豊かなんですよ。おおげさに言うと、記述不能なものを記述するにはどうしたらよいのか。こんなプリミティヴな問いを抱えて議論したりしていましたね。
そんななかで浮んできたのが、カミの招来の方式です。「ひもろぎ」という場を設定して、儀式がなされる。このとき、一定の手続きでカミがここに招かれたことになっている。だけれど冷静に観察しても、その場に何の変化も起こっていない。だけれど感知できる。いずれ僕はこれを「ひ」のはたらき、と考えるようになったけれど、こんな文化人類学的な知識は当時持ち合わせていなかった。折口信夫を読むようになったのもずっと後のことです。
「かいわい」をある都市活動のなされている領域の概念としてとらえれるとすれば、一定の場に、何かもやもやしたスピリット(ひ)のようなものが立ちこめていて、動いている、こう考えたらよいのではないか。ただしその周辺の輪郭はぼんやりして伸縮している。さらにはその内側は渦状に動いて濃淡がある。そこで「シンボルの濃度と流れ」といった表現が精一杯、という具合でした。いま考えると、あの頃は、使う用語、その表現手段、すべてが決まっていなかった。例えばここで場と言ったとしても、当時正確に定義できなかった。そのうちアリストテレスからトポスという言葉が取り出されて大はやりしました。だけど僕は、トポスをこんな領域概念に用いるのには納得いかなかった。そのうちプラトンからコーラが取り出される。西田幾太郎もここに眼をつけていました。デリダの「コーラ・ル・ワーク」が建築界ではやってきた。このコーラのほうに僕はより近い解釈をしています。数量化し、システム化する方向がもちろんあったけれど、僕は、むしろ概念化しイメージ化することにより関心をもっていた、そんな具合だったと思います。
日埜──都市計画が捉えそこなう都市の現実ということですね。しかしそういうイメージを客体化しようとすれば都市計画とは違うヴィジョンを客体化する方法が必要になってくるでしょう。
磯崎──都市計画は統治する枠組みのための手段にすぎないし、手段にしか使えない。だから常に上から与えられる。しかし現実は枠組みのなかで変わっていくものです。演劇的なものやパフォーマンスがスタティックな図面をつくるより、より都市のデザインに近い表現方法なのではないか、と思ったりしたのです。だから都市計画論でもデザイン論でもなく、何か別のものなんです。
編集部──シュルレアリスムは戦前にも日本に入っていて、六〇年代に隆盛したと思うのですが、日本のシュルレアリスムの学者や詩人、例えば澁澤龍彦さんなどとの交流はなかったのですか?
磯崎──そんなに密接ではなかったけれどときどき議論した記憶はあります。澁澤龍彦はバタイユの建築論に近いような視点をもっていて、建築に対してはアンビヴァレントだった。建築家としての磯崎は撃滅されねばならない相手なのです。酔っぱらって、明け方まで、支離滅裂な議論をした記憶はあります。僕はその頃、サドの妄想はまさに構築的で、これを建築的と言うべきだと思っていたのだけれど、彼は具体的に建ちあがったすべての建造物は障害物にすぎず、建築家はそれに手を貸しているだけだと酔っぱらってしゃべる。こちらは、そんなもの建築じゃないという、まあ水かけ論でした。
日埜──なるほど情景が思い浮かびます(笑)。

3──《お祭り広場》 引用出典=椹木野衣『戦争と万博』 (美術出版社、2005)

3──《お祭り広場》
引用出典=椹木野衣『戦争と万博』
(美術出版社、2005)

4──「ジョイント・コア・システム(孵化過程)」と崩壊したギリシア神殿 引用出典=『空間へ』

4──「ジョイント・コア・システム(孵化過程)」と崩壊したギリシア神殿
引用出典=『空間へ』

七〇年代以降のイヴェント論

磯崎──ここで、最初に日埜さんから問題提起されたイヴェント論のその後についての概略を述べておきます。
「かいわい」とか「ひもろぎ」など日本の都市空間に見出そうとした霧のようにゆれ動いている状態をひとつの場としてとらえる視点に、「ひ」という広義のカミ/ヒトの核にあたるものを導入することで「間──日本の時空間」展を組み立てたことは話しましたが、それは六〇年中期においては、チャンス・オペレーション、パフォーマンスなど境界領域に現われた表現方式にも連なっていくものでした。
そのうちEXPO’70の準備が始まる。私なりの理解では、「反芸術」論争の終結した後に「空間から環境へ」展が編成される。これがいわゆる「万博アート」へ状況を移行させた契機のように思えます。《お祭り広場》の予備的スタディをやったのが、「エンバイラメントの会」のメンバーたちでした。
《お祭り広場》というネーミングは京大の西山夘三さんのチームによるものです。すぐれて日本的なお祭りとすぐれて西欧的な広場がここで強引に接続させられている。この言葉が出てきたときには正直いって戸惑いました。だが、あのEXPO’70が後世に残したのは、この言葉ひとつではなかったかと思うほどにいまだに使われている。都市のなかにイヴェントの発生する場をつくり上げる、こんなそれ以後誰も疑うことのなくなったコンセプトが、妙なかたちで誕生したのです。
僕たちの側からこれに対応したのは、《お祭り広場》をサイバネティック・エンバイラメントとして編成することでした。先に述べたように、保護膜、互換性、可動装置、人間─機械系、自己学習、と五項目の特性を取り出したのですが、六〇年代が回復されようとしてきた九〇年代以後のコンセプトとして再生されているように思いますが、何よりその契機になったのはイヴェントとして都市の活動を取り上げるということだったのです。オリンピックと万博で日本は復興した姿を世界に示した。四〇年後に中国がそれを反復しています。結果としてそうなったので、六〇年代にオリンピックやEXPOが社会的な起動力を与えてくれるなんて考えも及ばなかったのじゃないかな。
この《お祭り広場》の提案は、当初のエンバイラメントの会のスタディを僕が受け継いで、丹下さんを中心にした基幹施設の設計チームに提案した段階のものを、先ほどのようなコンセプトに整理したのですが、具体的な設計段階でもう一度再編される。僕は装置の設計に集中することになる。これが精一杯でした。
最初に構想したときに比較して、おおざっぱで荒っぽいものになった。まあそれがEXPOなんだとも思いますがね。
七〇年代は結局「間」展にいきつくような日本的なもののなかに「ひ」を捜すといったいくらかスタティックなスタディに集中していましたが、ニューヨークで《パラディアム》をやることになって、一挙に「アート&テクノロジー」の時期のアイディアの回復をはかった。この小屋は年中開業している《お祭り広場》みたいなものです。一年間のうちにヤンキースタジアムの総入場数を上回る観客がつめかけたことになっている。身体を動かして参加すること、これが当たった原因だと思います。
だから八〇年代にパフォーマンスに対する関心から演劇的な仕事にインヴォルヴすることになります。《利賀山房》(一九八二)が片方の極とすれば、《パラウ・サンジョルディ》(一九九〇)のようなアリーナがもう一方の対極ですね。こんな例を挙げてみると、どうも建築家としてのまっとうな道を通らずに、常にそのはずれの崩れた部分ばかりを追いかけている。八〇年代にアメリカでやった二つの仕事、《パラディアム》《チーム・ディズニー・ビルディング》(一九九〇)の二つは、正統派の建築家のやるべき仕事ではないと見られていたのです。僕にしてみると、だからこそ、異形のデザインが可能になったと思います。
世紀の変わり目頃になると、あのサイバネティック・エンバイラメントの諸項目が生きてくるように見えますね。サステイナブルなんていう古めかしい常識があらためて取り上げられると、あの五項目で充分なんです。トリノの冬季オリンピック用の《パラホッケー》(二〇〇四)は、《お祭り広場》のコンセプトの再利用です。とはいってもいまふうに工夫していますけれど。

ポスト・クリティカル状況

日埜──モダニズムの内部からそうした流れが生まれてくる過程について、ここ数回にわたりおうかがいしているわけですけれど、ずいぶん見通しがよくなってきた気がします。
ところで他誌の論文でポスト・クリティカルという言葉を使っておられます。批評性のある言語によってアクチュアリティに爪を立てていくような手法が無効になっている現在、ということでしょうが、面白い見方だと思いました。一方には批評性が惰性を帯びつつあるということもあるのかもしれませんが、むしろこんなおかしなカタチの建築がつくれるし、とりあえずそれが面白いからよいではないかとでもいうような状況が蔓延しているように感じます。
磯崎──かなりイージーなものでも意外に通用していますよね。そのほうが売れる。だから今はキッチュのほうがよいのかもしれません。タイポロジーというのはクリシェをつくり上げることなのだから、視点を変えるとキッチュになる。昔はキッチュをいかに解体して、再編成するかということを考えていたけれど、今はそのままでいい、面倒なことをやらずに型にはまったものを凝ったりせずに使うほうがよいと思っている人が増えたのではないですか。今は僕はいろいろマスタープランのコンペに付き合わされるけれど、アンビルトになっているストックのありネタをうまく合わせてまとめて出すほうが今に合っているようで、そのほうがどうも当たる傾向にある。フレームの組み方の問題もあるかもしれないけれど、建築や都市計画の場合は相手がいるわけです。文学や思想は相手がないから、言いっぱなしで、よいか悪いかは別な人が批評して議論しなければいけない。建築や都市はリアリティがあったかなかったか、それだけで決まるわけだから、勝負が早いわけだし、単純と言えば単純です。その代わりロングスパンになる。この一〇年間で状況や方法が変わった気がするけれども、建築は完成するまで最低でも五年や一〇年はかかるわけだし、都市ならその何倍もかかる。あるアイディアがあっても、状況が変わるから三年後にはまったく違うことをやっていなければいけない。だから今作られているものは、その時間は持たないと思う。六〇年代初め頃は、都市のほうが早く変わろうとしていて、それにどう方法をつくるかという問題があったけれど、今も似たようなことかもしれない。
ポスト・クリティカルについてはいずれまとめて語る機会があると思いますが、単純に「前衛的」という評価基準が一九六八年に死んだように、「批評的」という評価基準が9・11(日本では一九九五年)以後やはり消えているという状況認識です。最近、鈴木忠志について書いた「地下から根拠地へ、そして世界を漂流する演劇者」(『演出家の仕事──鈴木忠志読本』静岡県舞台芸術センター、二〇〇六)で、「ケチャップのかわりに生の血が流れている」と表現したのですが、そんな気分が充満してきたとき、都市光景もまた変わって見えるのではないですか。
今日の話を整理すると、六〇年頃のメタボリズムのような建築の生成・変化の技術論に、僕は「プロセス・プランニング」論で対応しようとしたけれど、そこから取り出せたのは、「切断」することによって固定化せざるをえないという自家撞着してしまうロジックでした。そこで、都市のイヴェントの立ち現われ方に焦点を当てることによって、生成の別の側面を引き出す。これを「サイバネティク・エンバイラメント」としてテクノロジカルな展開をはかって、広義に都市を演劇的なパフォーマンスの場に見立てる。そしてEXPOやオリンピックのような都市イヴェントに関心をもった、こんな具合になったのかもしれません。
相変わらず、プロジェクトすることとは、都市に事件を引き起こすことなのだと信じているので、このあたりもまたあの時期の生成論の名残りなんだとも見えますね。
[二〇〇六年一〇月一四日、磯崎新アトリエにて]

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年生
磯崎新アトリエ主宰。建築家。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.45

特集=都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?

>日本の都市空間

1968年3月1日

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

>CIAM

シアム(Congrès International d'Architecture...

>アーキグラム

イギリスの建築家集団。

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>メタボリズム

「新陳代謝(metabolism)」を理念として1960年代に展開された建築運動...

>レイナー・バンハム

1922年 - 1988年
建築史。ロンドン大学教授。

>サステイナブル

現在の環境を維持すると同時に、人や環境に対する負荷を押さえ、将来の環境や次世代の...