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五旗会、『現代建築愚作論』、 スターリニズムからの脱却 一九五〇年代における建築運動とその思想性 | 磯崎新+日埜直彦 聞き手
Goki-kai, GENDAI KENCHIKU GUSAKURON, Breaking Away from Stalinism: Architecture Movement and Ideology in the 1950s | Isozaki Arata, Hino Naohiko
掲載『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) pp.169-176

戦後の日本建築界

日埜直彦──今回は一九五〇年代を視野としてお話を伺いたいと思っております。当時の建築の世界においてモダニズムに対する信頼は揺るぎないものだったと思いますが、しかしそれにほころびが見え始めるのもまたこの時期でしょう。結局のところモダニズムに対する距離感が醸成されてその果てにポストモダニズムというコンセプトに至るとすれば、この時期にその発端が見えるのではないかと思います。とりわけ磯崎さんのお仕事をざっと眺めた時に、その兆しはまず都市的な文脈において現われ、次いでそれが建築の問題として捉えられていく流れがあるように見えるわけですが、「空中都市」(一九六一)や「見えない都市」(一九六六)に至るこの関心は、一九五八年あたりから八田利也の名で共同執筆された『現代建築愚作論』にすでに見られます。「小住宅バンザイ」がこの本についてはよく取り上げられますが、むしろ重要なのは都市をアイロニカルに見ていく視線がここにまとめられたいくつかの論文ではっきり出ていることではないかなという気がします。
モダニズムに対する距離感と言えば、一九五六年に結成された五期会のこともお聞きしたいところです。「フリーアーキテクトの主体性」という問題意識がそこで問題とされ、モダニズムの英雄的な建築家像とは異なるオルタナティヴな建築家像がそこで模索されていたわけですが、実情はどうも良くわからない。磯崎さんはそれと関わりながらどんなことをお考えだったのでしょうか。「五期会」による総評会館の共同設計は、格好としてはグロピウスらのTAC(The Architects Collaborative)★一にもいくらか似ていますが、まったく背景が違いますね。
磯崎新──近代芸術、近代デザイン、近代建築といったモダニズムとして括られているものが、それが運動体とどのような関係があるかと見ることによって、戦後の近代建築の流れの捉え方がまったく違ってきます。個人で仕事をやっているアーティストがいる、それがイデオロギーを中心にしてグループになり、そこから共同の運動体ができる。それがモダニズムの基本形です。そしてその運動を先導するのが前衛です。近代建築史において、歴史を運動史だけで書いてしまう場合もあります。例えば美術なら印象派、立体派、シュルレアリスムという流れで書いてしまう。そこに入っていなかったものは歴史から落ちてしまう。それは美術だけでなくデザイン、建築にもあることです。
いろいろなかたちで戦争中をすごした建築家が、終戦直後すべてをご破算にして新たな建築運動を組み立てるため、一九四七年にNAU(新日本建築家集団)が結成されました。そのNAUを主導していたのは日本共産党だったと思います。僕が大学に入った頃はもう NAUはなかったので解体した理由はわからないのですが、推定すれば、NAUの背景にいたアカデミーの人たちは左翼イデオロギーを持っていた。そこで当時の日本共産党の分裂が当然影響したと思います。当時日本共産党は国際派と所感派★二に分裂していました。国際派は宮本顕治や志賀義雄でおそらくスターリン派、所感派は徳田球一、野坂参三で中国寄り、毛沢東派です。そして最終的には所感派が国際派を排除していく。その結果正統的なマルクス主義の研究者が追い出されていく。これがNAUにも影響したと思います。その後僕がまだ学部の学生だった朝鮮戦争の頃になると左翼はだんだん孤立して、山村工作隊★三として山村や農村に入っていくようになり、僕のまわりにもそれで行方がわからなくなった人もいます。同じことが二〇年後には赤軍派として繰り返されるわけです。農村が都市を包囲するという毛沢東の考えに基づいたものでしょう。

1──《総評会館》(1934) 引用出典=松井昭光監修、本多昭一『近代日本建築運動史』(ドメス出版、2003)

1──《総評会館》(1934)
引用出典=松井昭光監修、本多昭一『近代日本建築運動史』(ドメス出版、2003)

2──八田利也『現代建築愚作論』(彰国社、1961)

2──八田利也『現代建築愚作論』(彰国社、1961)

前衛の模索

磯崎──僕はその中でアヴァンギャルドをどのように理解すべきかと思っていました。アヴァンギャルドは建築ではあまり例がないのですが、美術では瀧口修造の『近代芸術』(一九三八)が最初のヨーロッパの前衛美術建築情報でした。同時にヨーロッパの前衛を真正面から引き受けてフランスから戻ってきた岡本太郎によって、日本的な前衛のあり方が模索されていました。岡本太郎は、芸術の前衛と政治の前衛が複雑に絡み合っていることはわかっているけれど自分は芸術の前衛に絞り込んだと見てもいい。
当時アンデパンダンには日本アンデパンダン(一九四六年設立)と読売アンデパンダン(一九四九年設立)の二つがありました★四。日本アンデパンダンは政治的前衛を組み込む社会主義リアリズム、読売アンデパンダンは純粋モダニズムをそれぞれ志向したアーティストが参加していました。そういう対立があるなかで岡本太郎の「対極主義」は注目していい。対立をひとつに統合するために正・反・合という弁証法段階を経ていくという、ヘーゲル的なロジックがイデオロギーにかかわらず、重視されていました。岡本太郎はそのロジックを崩して「対極主義」を打ち出した。対立するものは対立したままにしてしまえというものです。その間の張力、テンションのほうが重要で、具象と抽象、政治的前衛と芸術的前衛を対立したままにしておく。瀧口さんはアンドレ・ブレトン、シュルレアリスムを正当的に受け継ごうとしたので、太郎さんがやっていたことと本当は近かったのだけれど、ポジションは明確に対立していました。僕は丹下さん経由で太郎のほうに近づいていきました。その頃岡本太郎が属していた「夜の会」(一九四八年結成)★五には花田清輝や安部公房、勅使河原宏がいました。それに対して瀧口さんの周りにはアナーキーな若い連中がいてそれぞれ動きが違うわけですが、当時は明確にわかれていなかった。

五旗会の成立

磯崎──その頃総評会館を共同設計でつくることになりました。建築家が集団で設計をするのですが、集団で設計をすることの定義もないから手探りなわけです。まだ日建や日本設計といった大組織事務所がない時代です。官庁営繕に属していた建築家が中心に集まりました。設備や構造は できるのですが、問題はデザインです。議論してプランはできるけれど、デザインは誰がやるかが決まっていないので手が出ない。議論でやるといってもやりようがない。僕は一番若かったので書記で議事録をとっていましたが、同じ頃に稲垣栄三が中心になって建築史研究会が東大にでき──背後には太田博太郎がいたのですが──、その時も「お前は書記だ」と言われました(笑)。総評会館のデザインに誰も手を出さないので、芸大のデザインの先生で自殺した中村登一さん★六がスケッチを持ってきて、それで決まってしまった。丹下健三の研究室で僕の大先輩である浅田孝さん★七にそのことを報告したら「お前ら、共同設計と言いながら、結局丹下健三のコピーではないか」、それが浅田孝の総評会館に対する批評でした。当時は壁でやるか、柱を見せるかが問題で、壁で組むとバウハウス調で、フレームを見せると日本風になり、丹下さんはフレームに絞り込んでいました。総評会館のデザインでは、フレームの間を壁で埋めているけれど、それが見えているからバウハウスと日本風が合体している。フレームが出ているので丹下健三のコピーではないかと僕も未だに思います(笑)。だから浅田さんの批評は当たっていた。
そういうなかで五六年に五期会が成立しました。五期会は大高正人さん★八がまとめたと思います。それで大谷幸夫さん★九に声をかけ、あとはジャーナリストの宮内嘉久さん★ 一〇や平良敬一さん★一一、『国際建築』の編集をしていた田辺員人さん★一二、そういう人たちが周りにいました。顔ぶれを見ればわかりますが、前川事務所と丹下研と芸大の研究室にいた人たちが中心で、それから建築界で戦前の左翼の系列の人たちがいて、その一番の長老が大日本インキ化学工業の川村記念美術館を設計した海老原一郎さん★一三です。そういう事務所にいる連中がだんだん繋がっていきました。それから当時の日本共産党文化部に建築界対策本部ができ、秘密に国際情勢を議論をする会合にも僕は面白がっていっていました(笑)。共産党が建築界をオルグするための細胞です。おそらく共産党細胞のつもりだったんだと思います。
日埜──NAUは日本共産党的なもの、当時の言い方で言えば代々木的なイデオロギーと親和性があったと思うのですが、五期会の場合は少し事情が違ったのでしょうか?
磯崎──五期会では政治的イデオロギーが消えていました。辰野金吾の世代が第一期、佐野利器、内田祥三らが第二期、岸田日出刀、前川國男らが第三期、丹下健三、大江宏らが第四期で、五期会は五世代目であるという意味で、参加したのは二〇代から三〇代はじめの建築家やジャーナリストでした。僕はその時に機関誌に書いた原稿で吊るし上げられたことがあります。現在の社会、世界ではビューロクラシーが強力にできていて、共産党も建築界も同じです。当時、共産党は毛沢東主義、知的な連中はスターリン主義という対立がありながら、それをまとめて一本にならなければいけないという概念、公共的なものを組織的に平等な立場で議論をしながらデザインを民主的に組み立てるという概念が、ヒエラルキーをもったビューロクラシーだと思いました。集団でやる、組織でやるには、そこにビューロクラシーが成立してなければならないわけです。それに対して中井正一★一四の『委員会の論理』、つまり委員会で決めたものが決定になるというロジックがあります。しかしそれは実際には役に立たない。だから建築家はビューロクラシーの組み立てに入らなければいけないというグループが出てくる。しかし一人の建築家、一人のアーティストはそれとどのような関係があるのかという問題について何となく嗅ぎつけ、機関誌に総評会館の共同設計時の際のビューロクラシー批判を書いたわけです。ところが五期会には宮内嘉久さんたちの組織の論理があり、その論理によって運動体に変えていくというイメージがありました。僕は組織などはどうでもよくて、よいものをつくったが勝ちという単純な論理で書いたので、五期会から除名されるくらい問題になりました(笑)。要するに僕は組織原則を認めていない。経済的にも組織に所属しなければいけないにもかかわらずデザインは個人の仕事ではないかという、矛盾を抱えていた。組織と個人の関係はそういう面でしか断ち切れないと思います。僕はそうやってビューロクラシーや組織を批判して、図面がよければそれでよいという話です(笑)。それで吊るし上げられて、後に宮内さんから、「お前がああいう行動をとったので五期会は行き詰まった」と怒られました。
グロピウスと一緒にやったTAC(The Architects Collaborative)は共同設計を標榜していました。ところが実情はそうではない。グロピウスがハーヴァード大学で教えていたときに優秀な学生を集めて設計のチームをつくり、手伝いをさせたというのが実際のところです。だから共同設計の理論や、共同することで何かが生まれるといった幼児的とも見える初心の議論なんかなかった。

磯崎新氏

磯崎新氏

丹下健三批判と『現代建築愚作論』

日埜──グロピウスの場合は、倫理的なモダニストとしてヨーロッパでやっていたわけですが、アメリカに移ってからはむしろ世俗的な事情と折り合いをつけざるをえなかった。そうしていかにも六〇年代アメリカ的な作品ができてくるわけですね。五期会の場合はこれとまったく違う事情があったはずですが、その運動の標的としたものは何だったのでしょうか。
磯崎──先行世代の丹下批判をやりたいだけです。それが五期会の使命だったのです。丹下さんの弥生的弱さ、貴族性を、縄文の土着性、民衆という角度から批判していました。丹下さんは縄文と弥生をまとめて取り込んでできたのが桂離宮だという論文を書きます。それで統合された日本ができたというロジックが組み立てられる。弁証法を言わなければ筋が通っていたのに、弁証法を言うからそれらが辻褄が合わない。これはむしろ時代の限界で、なにしろマルクス以前のヘーゲルの弁証法のロジックが絶対的だというのは当時は普通のことでした。僕はビューロクラシーがつくられる組織原則は、単細胞的建築家の関係に全体と個、民主的代議制などの解決不能な問題が潜んでいると思ったけれど、それは簡単に説明がつかない。議論にできなかったのです。なんとか問題を嗅ぎわけて自己防衛していくほかにはなかった。
日埜──丹下さんという突出した人物の周辺にいろいろな対抗的な場ができて、錯綜した状況、錯綜した人間関係のなかで、みな右往左往して議論していたというわけですね。
磯崎──そういう状況の中で伊藤ていじ★一五──戦争が終わる直前に大学を出て助手になりましたが、胸を患って一〇年くらい入院していました──がやっと回復して「狂い咲きの桂離宮」(『建築文化』一九五六年一一月号)を書きます。民家研究、書院造、数寄屋造、寝殿造という宮大工のつくりの系統の議論は昔からあったのですが、五〇年代半ばになると、農村の住宅の研究、実際に農村に行き、小屋組をのぞいたり、農村の大工の組織、宮大工の系列との関係などを調べるようになります。伊藤ていじさんはそういうことを頭に入れて、桂離宮を、非正統的なものが正統的なシチュエーションに突然出現したという捉え方をしました。その頃僕は丹下さんの研究室に入り、丹下さんより少し上の高山英華さんの研究室にいた川上秀光★一六と組むようになったのが「八田利也」の成立です。この頃は大学や建築界では長幼の序列なんかはっきりしていて、簡単なことも気安く言えない。それでやぶれかぶれでつけたのが「八田利也」というペンネームです。この名前をつけたのは僕ですが(笑)、伊藤ていじさんは日本の建築史の裏をよくわかっていて、川上も日本の近代都市が専門だったので都市論の資料を集めていました。僕はデザインをやっていたのだけれども、ほぼ役割が決まって、川上は資料集め、伊藤ていじは執筆、僕はキャプションをつくる(笑)。『現代建築愚作論』のようなタイトルのキャッチフレーズづくりの役割もありました。
『現代建築愚作論』が都市論なのかということと関連して、当時考えていたことは、ひとつは東京が変貌していく現状をどう分析するかということがあります。もうひとつは、交通計画やコントロール手法など今使われている手法は一九世紀頃にドイツで組み立てられた都市計画手法が入ってきたものです。その頃、伝統的な都市計画の手法が、建築基準法、都市計画法のような法律を成立させました。ついでどうやって使うかという計画手法になってきた。一方でCIAMがアテネ憲章をもっている。片方で IFHP(国際住宅都市計画連合)という国際的な都市計画の連合体がある。これは水と油みたいなものでした。戦後の再建計画はあらかたこの組織がつくっていて、CIAMはほとんど排除されていた。CIAMも戦後の都市の状況に対する提案をいろいろしました。例えば『ハート・オブ・ザ・シティ』としてまとめられた第八回会議(一九五二)などがあります。戦後の再建への参画を意図していたのです。高山さん、丹下さんの都市に対するメソッドの違いと同じような対立が世界にもあったわけです。組織も同じで、CIAMが片方にあり、他方にIFHPがありました。こういう二つの組織対立があったのです。大学を出て官庁にいって都市計画に関わるならば、コントロール手法的にやるしかないけれど、これは使いものにならないと私は思っていました。五期会側の批判はもちろんありますが、丹下さんの姿勢に対しては、都市論上でも批判があったのです。デザインでは縄文ではないと言われ、組織上では目の上のこぶになっていました。丹下さんはそれだけのキャラクターだったのだと思います。
ちょうどその頃、金寿根★一七が朝鮮戦争で兵隊に取られたあげく、脱走し、密航で日本に来て芸大を卒業して、東大の高山英華さんの研究室に籍をおいていました。僕は金寿根とはデザイナーとして付き合うことになった。高山研と丹下研とは何となく違うようなことをやらなければいけないという暗黙の仕切りがあったのですが、そんなのは付き合いに関係ない。彼は韓国の国会議事堂のコンペに当選し、帰国しました。その後の活動は空間社など、よく知られていますね。彼は韓国の近代をひとりで背負わねばならなかった。べらぼうに忙しいスケジュールでも、仕事場に泊まり込んまで、自分の命の痕跡を残そうとした。オリンピックスタジアムが完成に近づいた頃ガンの治療で来日したとき対談した記憶があります。それが彼の最後の建築についての言葉になったと、その後彼の同僚たちから聞きました。

「都市デザインの方法」について

話を戻すと、『空間へ』(鹿島出版会、一九九七)の「都市デザインの方法」という章では二つの都市の方法の関わり合いについて整理しました。その二つの方法というのはシステムモデルとイマジナリーモデルで、システムモデルはゾーニングやグリッドパターンで、イマジナリーモデルは空中都市のようなものです。この論文で最後に「霧状の流れ」と都市を抽象化して取り出しています。書いているうちに自分でもわけがわからなくてそこまで飛んでしまった(笑)。この論文を転載する時に理屈に合わないのでこの部分を削ろうと思っていたのですが、現在になるとこの部分しか残す理由はない(笑)。本文はシステムとイマジナリーという相補性と集約した都市デザインの方法的展開のなかでの二つの流れで、組織的にはビューロクラートのもつ方法と、CIAMのようなモダニストのもつ方法の対立の延長線上にあります。この状況は今日ではもっと溝が深くなっている。私はイマジナリー側に立ち続け、アンビルトをつくり続ける。具体的な提案も、多かれ少なかれ似た結果になる。
結局われわれの世代の最大の問題は、スターリニズム的なマルクス主義を金科玉条にせざるをえなかったことです。僕は違和感があったけれど、その違和感の表現方法がみつからなかった。当時そういう形で共産党を批判的に捉えていたのが吉本隆明★一八だと思えました。彼にはナイーヴなところがあって、都市に住んでいる自分の視点から、あるいは実態から全体を理論化するというところが徹底している。だから一種のアジテーション理論になるので全共闘には伝わっても、アカデミズムの理論とは相容れない。徹頭徹尾、彼はそこに文学者として立場を据えたせいだと思います。
あの頃東京ではつじつまの合わないことばかり起こるわけです。上からシステム論的に、法的に制御されている都市がありますが、現実の東京はめちゃくちゃになっている。そうかといってイマジナリーモデルも入り込む隙間もない。だから東京に対する考えが明瞭な形をもちえないことを背景にして、『現代建築愚作論』では都市の辻褄の合わなさをひたすら批判的に指摘していたのだと思います。都市は理論で動いていると考えられていたのですが、理論を超えて現実のほうが乱暴に動いていたのです。

日埜直彦氏

日埜直彦氏

『現代建築愚作論』における都市論

日埜──そういう中でイマジナリーモデルとかシンボル、あるいはイヴェントのようなヴォキャブラリーが獲得されていく、当時はそういう段階だったんですね。
結局のところモダニズムのシステムモデルには根本的にドグマティックな性格があったと思います。ある形式を理想として掲げ、それに則って計画するというトップダウンな指向モデルですね。それはある意味で効率のいい実用的な計画手法でもあったでしょう。それに対してイマジナリーモデルはそういうふうには使えないわけで、しかしそういうふうにしか捉えられない剰余が現実にあることを意識するわけですね。そこにはモダニズムのドグマティックな性格と、ポストモダニズムと後に呼ばれた世界観の対比が既に現われていると言ってもよいのではないでしょうか。
『現代建築愚作論』にはシニカルな視点──それは諦念のようなものでしょうけれども──があり、それ自体も当時の建築に関わる言葉としては特異なことだったのではないかと思います。何か閉塞感を吹き飛ばす一撃として、刊行されると騒動になるような反響を引き起こしたようですね。「よくぞ言った」とか「言いにくいことを言ってくれた」というような反応もあったと思いますが、もちろん拒否反応もあったでしょう。こういう文章は書き手は確信犯だからそういう騒動は願ってもないところでしょうけど、メディアの編集者はこういう書き方を最初から予期しているものなんでしょうか。
磯崎──『現代建築愚作論』の仲間と一緒にやった仕事は、最初は署名なしでしたが、だんだん署名を入れるようになりました。例えば当時『建築文化』の「日本の都市空間」(一九六三年一二月号)なども一緒にやりました。「何ページやるから勝手にやれ」という感じでした。しかし僕たちはこれを書いた結果として起こることがわかっていない。建築家も編集者も誰もわかっていないという状態でした。
その頃国際建築学生会議という組織があって、五四年にローマで展覧会と会議をやるから日本から代表を出せという依頼がありました。僕が東京側をまとめて、京都は、京大の西山研の絹谷祐規さん★一九が代表でした。その後絹谷さんは交通事故で亡くなってしまったのですが、生きていれば関西の建築界は今とはまったく違っていたと思われていた人です。その頃に学生会議のガリ版の機関誌に匿名で「近代建築批判」を書いたことがあります。批判の主眼はなぜモダニズムを突き詰めていくと、均質空間ができ上がるのかというロジックをつくることでしたが、結局均質空間批判しか書けなかった。ミース的空間、すなわち弥生的空間ではなく、ル・コルビュジエの少しねじれた空間のほうが面白いという単純なことです。この論文が当時の日本共産党を批判していると読める部分があったらしく、西山さんの研究室が反論を書きました。でもこれは匿名だったので喧嘩にならず、後に西山さんたちに「実はあれは僕が書いたんです」と言ったら、「なぜ署名しなかった」と言われたりしたんですが、スターリンも偽名で原稿を書いていたじゃないですか。あの論文は僕の初めての近代建築論で、見つかれば面白いかもしれない。
日埜──そう書きながらも、モダニズムの延長線上に自分のやることはないとはっきりとおっしゃっていますよね。
磯崎──かなり初期の段階で、均質空間に対して疑問をもったからかもしれません。
日埜──都市論においてイマジナリーということと均質空間とは対比的にリンクしているのでしょうか?
磯崎──若干リンクしています。丹下さんがつくっている空間は多かれ少なかれミース的な均質空間です。それに対して別の見方も身近にあったわけです。だから、事が起こったときにすぐに理論化するのは無理で、勘でやる以外しょうがない。理論化には時間が必要です。『空間へ』の「都市デザインの方法」はそのあたりのことを整理したものです。エピグラムは『ドン・キホーテ』から引用したのですが★二〇、それでこの本のすべての型が決まった(笑)。大学はこういう論文を書いていても受け取ってもらえないことはわかっていました。調査をやってデータを積み上げた実証主義的な裏付けがないと論文になりません。それを何のためにやるのかと思って、だったら大学は出ようと決めたんです。この文章なんかは大学でも使えると思っていたのですが、当時は誰もそれを評価してくれなかった。

吉本隆明、ミース的空間、スターリニズム

編集部──吉本隆明さんが詩人の戦争責任を言って登場し、花田清輝と論争したりしていました。それはちょうど五期会が結成された頃だと思います。建築家の戦争責任ということは話題にならなかったのでしょうか。
磯崎──僕より少し上の宮内、平良、田辺員人の世代は戦争責任論を言っていました。それは丹下さんに対する感情的な批判でした。丹下さんは戦争中の話は一切口を閉ざして何も言わず、別の世界で起こったことだという姿勢でした。唯一、戦争中に自分はこのようなことをやった、ときちんと言ったのは西山さんくらいでしょう。西山さんの「食寝分離論」は大阪の長屋を研究して、食寝分離できないと日本は近代化できないというものです。西山さんは政治的な立場からは反モダニストに見えるけれど、方法は純粋モダニストでした。
当時の日本史では石母田正★二一の影響は猛烈で、一種の民族主義、民族独立、反米などの闘争はここにつながっているような感じでした。僕が最後に思ったことは、話が割り切れすぎているということでした。筋がすっと通り過ぎて終わってしまうので、いつもリフォルムしなければと思いながら読んでいた。おそらくそれが六〇年代初め頃スターリニズムからどのようにもう一度きちんと抜け出すかという議論につながったと思います。つまり、初期マルクスの読み直しです。マルクスの曖昧な部分をエンゲルスが整理して唯物史観をつくり、さらに整理されてスターリンの言語論などが出てくる。だから論理はどんどん明快になってくるけれど、それはどこかおかしい。決定的なあるものが全体を支配するミースの空間とスターリニズムと今日名指されている明快な社会構造のロジックは、どこか似ているのです。いずれ、物質空間、上方からの貫通性などと整理されていく空間的構造的な特徴は、イメージのうえで通底しているように思いました。二〇年ぐらいかかって世界中の思想家たちが言説を積み上げ、いまやっとパースペクティヴが生まれ始めている。こんな事態をすぐに了解しろったって無理ですよ。こんなときは、嗅いをかぎつけねばならない。プロジェクトを組んでみること、その結果のほうが有効です。現実の都市も運動体も壊れていました。だが、この二つの透明な明快な理論はすごく魅力的です。丹下さんはそういう透明性、明快さが好きで、建築の空間論も書いていますが、その時参照するのがゴシックです。ゴシック的象徴空間と言っている。ゴシックは天に向かう透明性を狙っているわけで、丹下さんはその崇高性を意識していた。だから雑物があったり壊れたりしてはいけない。スターリニズムの効用は間に雑物が入らずに貫通する強さです。これはヒトラーのファシズムにもあります。ヒトラー=シュペーアの第三帝国ベルリン計画の古典主義的透明性はいったんひっかかったら離れえませんよ。リヒャルト・ワグナーの祝祭劇場が建築における均質空間の達成だと僕は書いたことがあり、いまだに歴史家から認知されているとは思わないけれど、こんな連鎖はイメージの通底によって浮かび上がるのです。僕はこれにやられないようにしなければいけないと考えていた。五〇年代初頭に期待されていた構造的明快さ──これはスターリニズムだと思うのですが──から抜けるにはもはやロジックではなく、実作でいかねばなるまい。アカデミズムがばかばかしく思え始めたのはその頃からです。
[二〇〇六年八月八日、磯崎新アトリエにて]


★一──The Architects Collaborative。ヴァルター・グロピウスが亡命先のアメリカで一九四六年に設立した共同設計事務所。作品=《ハーヴァード大学大学院》(一九五〇)、《マコーミクビル》(一九五三)など。
★二──一九五〇年、第二次世界大戦後の日本共産党の革命戦略に対するコミンフォルム(欧州共産党情報局、共産党国際情報局)からの批判をめぐり、批判に反論する主流派=所感派、批判を受け入れる反主流派=国際派に党内は分裂した。
★三──一九五〇年代の日本共産党の武装闘争路線に基づき組織された、非合法武装農村ゲリラ組織。
★四──日本アンデパンダンは共産党の主導により一九四六年に創設。読売アンデパンダンは一九四九年、読売新聞社主催の「日本アンデパンダン」展から出発し、五七年の第九回展から「読売アンデパンダン」展と改称。
★五──一九四八年に設立された前衛芸術研究会。発起人は花田清輝と岡本太郎で、椎名鱗三、埴谷雄高、野間宏、佐々木基一、安部公房、関根弘らが会員・オブザーバーとして参加。同会からは「アヴァンギャルド芸術研究会」「世紀の会」など、多くの芸術運動が派生していった。
★六──一九一五─六九。建築家。戦後建築界の民主化運動の中心的人物。作品=《九段コーポラス》(日本初の分譲マンション、一九五九)、《日本信販本社ビル》(一九六四)など。
★七──一九二一─九〇。都市計画家。五八年まで東京大学丹下研究室主任研究員。丹下研究室では《広島平和記念館》(一九五五)、《香川県庁舎》(一九五八)などの設計に携わる。著書=『環境開発論』(鹿島出版会、一九六九)など。
★八──一九二三─。建築家。「世界デザイン会議」の準備を契機に結成されたメタボリズムに、浅田孝、川添登、菊竹清訓、黒川紀章、栄久庵憲司、粟津潔らとともに参加。作品=《坂出市人工土地》(一九六八)、《千葉県立中央図書館》(一九七〇)など。
★九──一九二四─。建築家。作品=《国立京都国際会館》(一九六六)、《金沢工業大学本館》(一九六九)、《千葉市美術館・中央区役所》(一九九五)など。
★一〇──一九二六─。編集者。『新建築』編集部、『国際建築』編集部を経て宮内編集事務所設立。『国際建築』『建築年鑑』『風声』『燎』『前川國男作品集』などの編集に携わる。著書=『廃墟から──反建築論』『少数派建築論』『前川國男 賊軍の将』など。
★一一──一九二六─。編集者。『国際建築』『新建築』編集部を経て、『建築知識』『建築』『SD』などの創刊に立ち会い、編集長を務める。七四年建築思潮研究所設立、『住宅建築』創刊。共訳書=バーナード・ルドフスキー『人間のための街路』など。
★一二──一九二七─。専門は地域計画。『国際建築』編集長を経て、東京家政学院大学学長。
★一三──一九〇五─九〇。建築家。作品=《憲政記念館》(一九五八)、《川村記念美術館》(一九九〇)など。
★一四──一九〇〇─五二。美学者。京都大学哲学科美学専攻に学び、その後独自の美学理論を構築。三三年京都帝国大学教授滝川幸辰に対する思想的弾圧事件への反対運動では中心になって活動。代表的な論文として「委員会の論理」(一九三六)があるほか、『中井正一全集』四巻がある。
★一五──一九二二─。伊藤鄭爾。建築史家。主な著書=『中世住居史』『日本デザイン論』『民家は生きてきた』『谷間の花が見えなかった時』『日本の蔵』『日本の工匠』『日本の庭』『宮廷の庭』『借景と坪庭』『重源』など。共著=『数寄屋』など。
★一六──一九二九─。都市計画。著書=『巨大都市東京の計画論』『都市政策の視点』など。共著=『新建築学大系 都市計画』『都市計画教科書』など。
★一七──一九三一─八六。建築家。ソウル大学中退後、日本に渡り、東京藝術大学で吉村順三に師事。東京大学大学院在学中、韓国国会議事堂コンペに一等入選、以来、韓国建築界の重鎮として活躍。作品=《空間社屋》(一九七一)、《オリンピック・スタジアム》(一九七七)、《馬山聖堂》(一九七八)、《京東教会》(一九八〇)など。
★一八──一九二四─。詩人、評論家。文学者の戦争責任や転向を問う一方、既成左翼の思想を批判し、戦後の学生運動に大きな思想的影響をもった。著書=『文学者の戦争責任』『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』『心的現象論序説』『最後の親鸞』『マス・イメージ論』ほか。
★一九──一九二七─六四。建築計画。五三年京都大学工学部建築学科卒業。住宅問題・都市計画・地域計画が専門領域。オランダで不慮の事故により客死。著書に西山研究室編・絹谷祐規著の『生活・住宅・地域計画』がある。
★二〇──

もうまっぴらだ! とドン・キホーテがひとりごとをいった。こんな輩に何か特にふさわしいことでもやらせようなんで、まるで砂漠のなかで説教するようなもんだ。この事件には、よっぽど強力な魔法使いが二人もいりこんでいるに相違ない。互いが互いのたくらみをぶちこわしている。


★二一──一九二一─八六。歴史学者。古代、中世史を唯物史観の立場から研究。著書=『中世的世界の形成』『歴史と民族の発見』『日本古代国家論』など。

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年生
磯崎新アトリエ主宰。建築家。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.44

特集=藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。

>安部公房(アベ・コウボウ)

1924年3月7日 - 1993年1月22日
小説家、劇作家、演出家。

>バウハウス

1919年、ドイツのワイマール市に開校された、芸術学校。初代校長は建築家のW・グ...

>前川國男(マエカワ・クニオ)

1905年 - 1986年
建築家。前川國男建築設計事務所設立。

>CIAM

シアム(Congrès International d'Architecture...

>日本の都市空間

1968年3月1日

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>ヴァルター・グロピウス

1883年 - 1969年
建築家。バウハウス校長。

>メタボリズム

「新陳代謝(metabolism)」を理念として1960年代に展開された建築運動...

>黒川紀章(クロカワ・キショウ)

1934年 - 2007年
建築家。黒川紀章建築都市設計事務所。