RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.44>ARTICLE

>
先行建築学のすすめ バイパスとしての藤森式都市建築保存論 | 清水重敦
Lead to Pre-Existing Architectonics: Fujimori-type Preservation of Urban Architecture as Bypass | Shimizu Shigeatsu
掲載『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) pp.120-125

建築の保存には理論など不要である。ただ実践あるのみ。折に触れて、藤森照信はこう語っている。確かに、藤森が正面から保存について語った論考を目にすることはほとんどない。
筆者は、日本で建築保存の概念が生まれた明治期の様相について研究をしている。これまで何度か藤森の指導と助言を受けてきたが、藤森が問う内容はいつも、保存の概念そのものではなく、保存概念の生成に関与してきた建築家である伊東忠太、長野宇平治らの建築観についてであった。建築保存の概念生成は、近代建築史の問題であり、建築と保存の境界を問うことを常に念頭に置いて研究を進めているので、我が意を得たり、と思う面もあるのだが、それにしても保存そのものについて、藤森がいかに考えているのかを問うてみたいものだと、毎度思わずにはいられない。
今回、藤森の過去の著作を繙いてみたところ、いくつか保存について語られたものがあることに気づいた。ひとつは、一九七四年の「建築は如何にして死してきたか」、もうひとつは、一九八三年の「建築保存再生学科入学のすすめ」である。この二つの論考には、藤森の保存への距離の取り方が明確に表われているように思う。のみならず、そこからは、藤森による一九七〇年代以来の近代建築史への独特のアプローチが、そもそも保存への藤森流の取り組みにほかならないものだったようにも見えてくるのである。

建築の生と死

一九七四年に、『新建築』五〇周年記念の別冊で「日本近代建築史再考──虚構の崩壊」という特集が組まれた★一[図1]。村松貞次郎、近江栄、山口廣、長谷川堯の四人の建築史家による論考を中心とするもので、近代建築史叙述自体が近代主義を補強してきたという構造を、「虚構の崩壊」というやや大仰なフレーズであぶり出そうとしたものであった。この特集の終わりのほうにさりげなく、当時東大の大学院生であった藤森が建築探偵仲間の堀勇良とともに建築の死についての記事を寄せている。直接に保存を取り扱うものではないが、筆者には、この論考が保存論そのものである、と感じられる。
この記事が書かれた一九七四年は、都市建築、とりわけ明治建築の保存問題が本格化しつつある時期であった。『都市住宅』では年間テーマとして「保存の経済学」を掲げていたし、『新建築』でもちょうど同時期に長谷川堯による明治建築等の保存に関する連載「歴史的空間の現在」が掲載されていた★二。そもそも、保存問題とは、建築が死を直前に控えた際に、その死への抵抗として起こされるものである。ゆえに、いかに建築を生かすかという問題設定がなされるわけだが、当然それ以前に、いかに死すのか、という問いもありえよう。そこを対象化したのが藤森と堀による記事である。記事は、「建築の生と死──明治・大正・昭和」と題されており、同一の敷地で建て替えられた建築の写真を二代、三代と並べ、建て替えを通して建築の生と死を問う、という狙いになっている[図2]。とはいえ、ただ建築の写真を並べただけでは、建築のデザインが時代と共に移り変わっていく相が描き出された、というだけで終わってしまいかねなかったろう。その末尾において藤森が「建築は如何にして死してきたか」と題する一文を寄せ、記事全体に一定の角度を与えている。そこでは建築の死因として、「自然死」「事故死」「誤診死」「刑死」等が挙げられている。「事故死」は災害による死や道路拡幅による交通事故、「誤診死」は価値の存続に対する誤認による死、「刑死」は帝国ホテルに代表される保存運動への見せしめなどによる死である。確かにどれも思い当たる節があろう。さらには「理論死」として、山田守設計の東京中央電信局が、機能主義建築は機能の終わりと共に死すべき、という論理の下に死していったことを挙げている。これなどは、一九九〇年代に戦後建築の保存問題が浮上したときにも再び繰り返された。
もちろん、建築の死因分析が、なにか新しい建築理論と直結するわけではない。けれども、この分析は、いかに建築の死因がばかばかしいものかを顕わにしている。いずれの場合も建築の死因は人の側にある。いや、老朽化による「自然死」は老衰のようなもので、建築そのものが持っている寿命ではないか、という意見も当然あろうが、一〇〇年経っても使い続けられる建築というものには、本質的に寿命という概念は存在しないのかもしれない。さらに言えば、千年以上が経過してから「復元」という方法で蘇る建築すらある。
すなわち、建築の死とは、人による死の強要にほかならない。
建築を擬人化して、建築の死、という問題が設定されるわけだが、そもそもこの問題設定こそが問題なのである。藤森は、もちろん気づいていただろう。建築の死や死因なんて、個別にいろいろとあるけれど、結局は人間の誤解やエゴの結果でしかないのだと。しかも、建築の死に引き続いて、新しい建築がその死を無視するかのように建てられる。こうして、建築家も建築を殺すことに荷担している、と言いたかったのだろうか。この記事では、建築に死は存在しないか、あるいは生と結びついた形でしか死は存在しえない、ということを言っているように思われるのである。
なぜ保存をするのか、という問題設定により、開発者に立ち向かおうとするのが、この時代の保存運動の定番のスタンスであった。しかし、それが基本的には負けを前提とした勝負であるがゆえに、藤森は興味を覚えなかったのかもしれない。藤森はこの論考において、そもそも保存へのアプローチ自体を問うている。それは保存問題を発生させる根源を問う、建築の存在論的考察であった。建築史研究を開始するにあたり、まず町へ出て、現実の風景を構成する建築との直接の対話から始めた、建築探偵の方法論も、建築存在の根底を見直す作業としてここに重ねることができるだろう。

1──『日本近代建築史再考』の表紙 引用出典=『新建築  50周年記念臨時増刊号  日本近代建築史再考──虚構の崩壊』(新建築社、1974)

1──『日本近代建築史再考』の表紙
引用出典=『新建築  50周年記念臨時増刊号
日本近代建築史再考──虚構の崩壊』(新建築社、1974)

2──「建築の生と死」の誌面構成 引用出典=『新建築  50周年記念臨時増刊号  日本近代建築史再考──虚構の崩壊』(新建築社、1974)

2──「建築の生と死」の誌面構成
引用出典=『新建築  50周年記念臨時増刊号
日本近代建築史再考──虚構の崩壊』(新建築社、1974)

保存はモダニズムとの関係においてのみ成立した

藤森をして、保存運動に直接関与させず、保存の根源を問う姿勢に向かわせた理由は、どこにあったのか。一九六〇年代以降の都市建築保存問題の系譜が、その問いに答えてくれるように思う。
今日における都市建築の保存は、一九六〇年代の景観論争に端を発し、七〇年代になって本格化した運動にその起源がある。六〇、七〇年代における保存は、赤煉瓦に代表される明治建築の保存がその中心となった。三菱一号館の保存問題に代表されるこの時期の運動は、建築観の根幹に関わる論点を提出した点で、それまでの保存運動とは一線を画すものであった。というのも、明治建築の保存を訴える行為自体が、近代主義へのアンチテーゼとなりえたからである。先述の「虚構の崩壊」に端的に表われているように、七〇年代前半という時期は、近代主義批判百花繚乱の時期であった。モダニズム建築は、そもそも様式建築批判によって自らの位置を見出していっただけに、その立脚点の揺らぎと、否定された様式建築の復権とが、カードの両面のごとく同時に起こったわけである。明治建築の保存は、そのためのひとつの道具立てとして声高に主張されることとなった。歴史の再構築と明治建築の保存運動とは同じ位相にあった。
藤森世代の研究者は、この時点から研究を開始した。虚構の崩壊とは、彼の師である村松貞次郎の世代の研究者にとっては足元を揺るがす大変動だったとしても、後に続く世代にとっては、虚構も崩壊も意味をなさない。近代主義批判に直結する保存運動という行為も、その意義については認めていたにせよ、すでに古くささが感じられるものだったのかもしれない。
続く八〇年代には、七〇年代の運動の成果を受け継ぎつつ、並行して議論されていた町並み保存と歩調を合わせることで、都市建築保存の方法論がひと通り出揃うこととなった。しかし、世はバブル、開発の奔流は保存の声を押し流していった。都市建築保存への運動は、ポストモダンの流行にも絡め取られて、理論的深化を見ることなく、単発的な運動の集積としてただただ積み重ねられていった。
七〇年代、八〇年代と続けられてきた都市建築保存運動の系譜とは、建築物の価値を再評価することにより、保存を達成しようとする運動であったとまとめることができるように思う。保存運動が、建築の評価の刷新という観点と結びついている限り、そこではある特定の時代の建築のみが対象化されることとなる。藤森らによる建築探偵も、建築物の価値の再評価のための活動だと言ってしまえば、七〇、八〇年代的保存運動のひとつの位相として納まってしまうことになる。だが、彼らには、悉皆的調査という方法の徹底による、建築認識自体の更新を目指す姿勢があった。こうしてみると、保存運動というものは、藤森世代以前の方法論による建築運動だったと言えるのかもしれない。
九〇年代以降は、保存をめぐる状況がいよいよいびつになってきている。バブル崩壊は、逆にいわば保存バブルを用意しつつある。ただし、都市中心部の再開発はますます隆盛を迎え、一方では、モダニズム建築、戦後建築が更新時期を迎えつつあるという認識が出始め、破壊の対象となってきた。わけても神奈川県立音楽堂・図書館に代表される戦後建築の保存問題は、保存の理論を徹底的に鍛えさせるできごとであった。しかし、そこでの理論化も、結局は建築の評価の刷新、という方法を継続するものだったように思われる。
モダニズムや戦後建築の保存に関しても、藤森からの声はあまり聞かれなかった。まだ歴史化されない対象に保存を云々することはできないという、歴史観に関わる態度の問題かも知れないが、やはり七〇、八〇年代の保存運動を引きずったなかに九〇年代の保存運動もあった、ということなのであろう。
ここまでの保存運動は、特定の時代に建設された建築の価値の下落、ないし意味の喪失がまずあり、それを再評価しようという機運に乗じて、その保存を主張することで、保存運動自体を建築学の方法として措定するものだった。そこには大きな物語としての「歴史」が前提として存在している。その「歴史」とは、近代主義を巡る評価の変転にほかならない。近代主義評価との距離において、保存の対象も自ずと決まってくることになるがゆえに、保存の対象は、ある特定の時代のものにならざるをえなかった。
二〇〇〇年代に至って、都市建築の保存は、大きく転換したかに見える。建物を使い続けることを前提として都市を考える、という態度が、定着しつつあるように見えるからである。また、文化資源としての建築という認識、あるいは活用を基軸に据えた建物の利用、そしてコンバージョン、リサイクルなど、寿命問題を乗り越えうる考え方も定着しつつある。登録文化財制度が順調に機能していることも、この状況と相互補完の関係にあろう。しかし、実際には、各所に歪みを抱えている。歴史の継承という大義名分の下に、歴史的建造物を破壊してレプリカに置き換えたり、失われた過去の建築を復元するために現存する歴史的建造物を破壊することなども現実に起きている。
近年の都市建築保存をめぐる状況は、建築物を保存してきた個々の活動の蓄積が、今、目の前にある建築物に対する認識の転換という形で実を結んだものである、と、一面では言えよう。しかし、そのすべてが必ずしも保存運動の成果として獲得されたものとも言えない。端的に言えば、不況が後押しして、建物を長く使う考え方が一般的であるかに見えるようになってきたということでもあり、この状況がいつか再び反転する可能性もあろう。
さて、藤森がとり続けてきた方法を、以上の保存運動の流れと重ねてみると、「保存」そのものから距離を置きながら、保存の根底にある問題構造をあぶり出そうとしてきた、と読むことができるように思う。近代建築批判にも、不況による建築状況の変化にも流されず、一貫した態度で保存と対峙し続けているところに、方法的強靱さを見ることができる。

作らない建築学

藤森によるもうひとつの論考は、一九八三年の『建築知識』別冊のキーワード集「保存再生につよくなる用語」に掲載されている★三[図3]。特集を監修した藤森は、保存再生に関わるキーワード群を大学の講義科目に見立て、「建築保存再生学科」を誌上開設する、という形で保存を巡る状況を提示した。講義は、フィールドワーク、歴史・意匠、憲章・法制、計画・都市、構造・材料、経済・施工、設計演習、集中講義、研修旅行の九科目からなる、とのこと。本気の提案として受け取ろうものなら、冗談言うなとスルリと交わされそうだが、建築学科の講義目に匹敵する充実の構成で、そのまま学科として成立しそうにも思える。
そこでは、七〇年代の種々の保存運動の成果を得て、建築の保存が、単なる開発のアンチテーゼではなく、「より質の高い環境を創り出すための方法の一つ」となったという認識が提示されている。この時期に至って、建築を〈作らない〉人々である建築史家らの保存陣営が、活用・再生という〈作ること〉に目覚め、逆に建築を〈作る〉陣営が過去をいかに継承するかという〈作らないこと〉を実践し始めた、という認識が、藤森をしてこの特集を組ませたのだった。
藤森の予言が当たったのか、ここ数年の間で、いくつかの大学院に建築の保存に関する専攻が創設された。けれども、そこでの教育は、藤森の構想とは微妙ながら本質的な差異を持っている。あくまでも「保存」の陣営に立った教育がなされているように思われるからである。実際に大学、大学院でこうした学科、専攻を作ろうとすれば、ただ教養として教えるだけでは済まず、卒業生の就職口も用意されねばならないという現実もある。となると、すでにひとつの分野を形成している「文化財保存」の枠組みのなかに生きる道を探すのが、もちろん妥当であろう。しかし、「文化財保存」の枠組で教育を行なう場合、「デザイン」の教育が幾分おろそかになることが容易に想像される。建築を〈作らない〉「保存」の陣営と建築を〈作る〉陣営との間には、意図するしないにかかわらず、深い溝が横たわっているのである。
それだけに、藤森の提案する学科では、「設計演習」の存在が光ってくる。先述の長谷川堯「歴史的空間の現在」以降、保存に関わるデザイン手法が分析の対象とされ、建築家による保存デザイン、ないし必ずしもモノそのものを文化財として残すことに限らない、歴史継承のためのデザインが、意外に数多く試みられていることが知られるようになった。誌上学科では、ここにひとつのまとまりが与えられている。いわく、「イメージの伝承」「擬態のデザイン」「切り刻みのデザイン」「混在のデザイン」「並置のデザイン」「復元的再興」など。なかなか興味をそそられるネーミングである。
もちろん、「文化財保存」の陣営においても、デザインが不可欠であることは、修復に携わる技術者ならみなが認識しているところであろう。しかし、残念ながら、「文化財」の修復で求められるデザインと、歴史継承を目的としたデザイン一般とは、現段階では必ずしも連続してはいない。「保存」のデザインを総合的にとらえることができるとすれば、それは後者の枠組みの中で、前者を捉え返す、という視点が要求されよう。
こうしてみると、保存も結局はデザインの問題である、ということを藤森はここに堂々と宣言していることになるのかもしれない。すなわち、〈作らない〉建築学の主張である。すでに存在する建築物と都市空間を見つめることから、研究を始めなければならなかった藤森世代の、この段階でのひとつの着地点を、ここに見ることができる。
この考え方を少し延長すると、建築学とはすでに存在している建築、都市、環境と直接向き合って、デザインを施していく学なのだ、ということを主張するものとなりそうである。この論考では、藤森は「建築保存再生学科」を「誌上開設」するという、やや控えめな提案に留めている。けれども、その考え方は、今日に至っても有効であり続けているように思う。この点については、伊東忠太が一八九四年に発表した「日本建築術研究の必要及ひ其研究の方針に就て」という論考を連想させる★四。伊東の論考は一見、彼が専攻していた「日本建築術」がどのような範囲に及ぶ学であるか、ということを個人的に発表した文章のように思われる。だがよく読むと、当時の建築学である「造家学」そのものを、「日本建築術」という学科に置き換えるべきだ、という野心的な提案になっていた。藤森の提案には、伊東忠太のこの主張が透けて見えないか。保存学を立ち上げるべし、という話はよく聞くけれども、建築学を保存学に置き換えてしまえ、という主張は聞いたことがない。新鮮な響きがある。ただ、当然ながら、「建築」を「保存」に置き換えたとしても、そこには「文化財」の足かせを再び招いてしまうことになろう。問題は、建築と保存を繋ぐデザインのあり方にある。

3──「建築保存再生学科」講義科目表(目次) 『建築知識  別冊ハンディ版  キーワード50』特集=保存再生につよくなる用語 (建知出版、1983)をもとに作成。反転は藤森執筆

3──「建築保存再生学科」講義科目表(目次)
『建築知識  別冊ハンディ版  キーワード50』特集=保存再生につよくなる用語
(建知出版、1983)をもとに作成。反転は藤森執筆

先行建築学のすすめ

藤森による保存論は、「保存」の二文字を語らずに、その根底を問う作業を通して、逆に「保存」のあり方を浮かび上がらせるような方法を持っている。藤森自身のことばでは、「事後の臨床医学から、予防医学へ」ということになり、少し軽くなってしまうが、事は日本における「保存」のいびつな形態の本質に関わっている。
確かに、藤森の打つ手は、表面的には予防医学的なものとして解釈できる。建築探偵、建築学会ラブレター作戦、建築死因分析など、いずれも「保存」が意識化される前に、その芽を摘むための方策を講じたものとして受け取ることが、もちろん可能である。「保存」陣営の趨勢も、近年は予防医学的な方向に進みつつあるけれど、それはメインテナンスや管理に力をかけるべし、という段階に留まっているようだ。対して、藤森の保存論は、「保存」の外側を迂回し続けるバイパスのようでありながら、その本質を鋭く指摘しうる、という性格を持っており、一線を画している。
では、〈作る〉陣営としての藤森はどうか? そもそも〈作る〉行為は、既往の建築、都市、環境を殺して、新しい生を誕生させるものと言えるかもしれない。けれども、死と生を断絶したものと見るか、連続したものとみなすかにより、方法も、得られる答えも全く異なる。
藤森自身の手になる保存デザインについては、知るところがない。しかし、彼の新築設計は、新しい生に、自らの中に蓄積された死、あるいは建築の根源を埋め込むという方法論を持っているものとみれば、保存へのアプローチのあり方とどこかで重なっていると言えなくもない。
こうしてみると、その方法は、筆者も参加した「都市連鎖研究体+環境ノイズチーム」が、「先行デザイン」と名づけた方法論と重なってくるように思われる★ 五。デザインとはそもそも、先行して存在する事物や環境が生み出す問題に対する解決方法として定義されるものではないか、と、そこでは主張した。こう考えると、「建築」も「保存」も、先行デザインの一手法として成立するものであり、両者の間には特別な境界は存在しない、という認識の地平に立つことができる。もちろん、ここには発見的な主張を込めていたつもりだが、それこそ先行する研究者達の活動を丁寧に見直したとき、すでにこの発見の兆候が見られるわけである。藤森の保存—建築論とは、建築と保存の境界を乗り越えるひとつの先行デザイン、いわば「先行建築学」の手法であったと、筆者には思われるのである。
藤森の語り口を借りて、そっと、さりげなく、主張しておこう。「建築学」は、「先行建築学」へと脱皮すべきである。建築と保存の境界はもはや存在しない、という認識を再び確認し、「先行建築学」へと向かうことにしようではないか。


★一──『新建築  五〇周年記念臨時増刊号  日本近代建築史再考──虚構の崩壊』一九七四年一〇月(新建築社)。
★二──『新建築』一九七四年五月─七五年一二月、後に『建築の生と死』(新建築社、一九七八)という題で単行本化。
★三──『建築知識  別冊ハンディ版  キーワード五〇』特集=保存再生につよくなる用語(建知出版、一九八三)。
★四──『建築雑誌』九二号(建築学会、一八九四)。
★五──『10+1』No.37、特集=先行デザイン宣言(INAX出版、二〇〇四)。

>清水重敦(シミズ・シゲアツ)

1971年生
独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所。文化遺産部 景観研究室長/建築史学、建築保存論。

>『10+1』 No.44

特集=藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。

>藤森照信(フジモリ・テルノブ)

1946年 -
建築史、建築家。工学院大学教授、東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...