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クラブ、あるいは〈現われの空間〉 | 五野井郁夫
Club, The Space of Appearance | Ikuo Gonoi
掲載『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間, 2005年06月発行) pp.148-149

都会の喧噪を避けてより大きな喧騒に身を投じてまで、なぜ人々はわざわざ東京のクラブにゆくのか。
暗くて閉鎖的な印象の強いクラブという空間は、現在はひかりに満ちて開かれた〈現われの空間〉であり、いまやグローバルな共時性とシンクロする場所となっている。そこには日常から逃避する以上の何かがあるのだ。だから人々はハコに向かう。体内時計をグローバリティに合わせる装置、クラブの現在を東京から眺めてみたい。

一九八七年の「The Second Summer of Love」以降、世界中のグローバル・シティではクラブというパーティの空間がハコの中から野外のレイヴへ、そしてストリートに氾濫する現象が日常化した。それに比べて東京では、かつてのベルリンのようにスピーカーを積んだ山車が路上を埋めつくすことで街中がクラブと化す「ラブ・パレード」的現象はさほど見られない。だが、この東京という都市では国際線に搭乗せずともすぐにロンドンやパリやベルリンやイビザ、ニューヨークへ行ける。もちろん東京からトーキョーへも。
こうした地理を無視できる抜け穴、セカイへといざなうloop holeこそが東京のクラブである。地理的な距離と時間の無効化、現在の一歩先にゆくことをここでは〈壁抜け〉と呼ぼう。言うならば、クラブとは〈壁抜け〉のための手段である。Blue Mondayに行ってもそこはいつもFriday、FridayはHappy Friday、つねにパーティ。パーティにはドレスもレザーシューズも必要ない。PumaやAdidasでよい。
クラブやライブハウスはスピーカーの大音量が迷惑にならないよう、居住区域から若干離れて点在している。代官山や青山はもちろん円山町や歌舞伎町、西麻布、六本木といったホテル街や歓楽街、新木場のような閑散とした場所など多岐に分布している。これらは盛り場の宿命ゆえに、おおよそ警察が近い。最近ではデザイナーズホテルのラウンジもパーティに使用されつつある。
現在、最新のファッションや高級家具が世界中で最も集結しているのと同様、東京は世界で有数のヴァイナル集積地である。しかも日本の休日には世界中の有名DJらが東京のクラブにゲストDJとして一堂に会して曲を回すので、そのレンジの広さはCISCO RECORDSアルタ店の渡義行店長曰わく「ヴァイナルもゲストDJも世界一の豊富さと豪華さ」を誇っている。一〇年以上続いている老舗も日の浅いハコも世界の多様な音に満たされる。
世界のすべてが集まっているものの、一般の人々にとって東京のクラブはまだまだ疎遠なものである。その理由としては「クラブ=薄暗い空間」という不健全なイメージ、仕事に忙殺されて遊びに行けないという現実が挙げられる。またクラブに足を運ぶ人間にとっては、ニューヨークほど週末のアフターアワーが未だ充実していない点が東京のハコが抱える問題として映る。アフターなしでは余韻を楽しむことなく急にトーキョーからもとの東京に引き戻されてしまう。

日常という「平坦な戦場」から名誉ある撤退をして、ネットや雑誌、CISCOのようなレコード店で気になるパーティのフライヤーをチェック後、ハコのドアを抜けるとそこにひろがる空間は「クラブ=薄暗い空間」という固定的イメージとはさかしまに、ひかりのハコと音の洪水。ブラックライトやストロボ、カラフルなビーム、VJによる巨大なスクリーン映像は絶えずフロアとシンクロする。フロアは音にのまれ、セカイは音に満ちて、カンディンスキーがワーグナーのオペラで体験したごとく、まさに音は色を帯びて可視化される。

ひかりのハコでは従来のライブのような主体と客体の関係が反転する。すなわちスポットは演奏する側ではなくオーディエンスにこそ向けられる。クラブに来たオーディエンス(アナタ)自身がパーティの主役なのだ。音とカラダを次第にシンクロさせる。自分と合わない音の場合は他のフロアやラウンジに室内亡命すればよい。他人とのコミュニケーションとしてのダンスもまずは自分が楽しむためだから、踊り方に決まりはないしヘタでもかまわない。適度な暗さとひかりのハコという装置がうまくカヴァーしてくれるから大丈夫。それにDJが間断なく曲と曲をつなぐことで、場のムードを壊すことなく、音とヒトとセカイをつないでくれる。
さらにクラブとは既存の規範をもさかしまにする装置である。そこでは日常的な境界線の引き方の恣意性がつまびらかにされるのだ。ジェンダーもナショナリティも職業も社会的地位も年齢も(朝営業で酒類禁止のハコもある)、レズビアンやゲイを排除するヘテロセクシズムもあらゆる既存の規範から自由になる匿名性の空間。それは、社会関係に囚われないコミュニケーションが成立する開かれた〈現われの空間〉である。日常という集合からは逸脱した「非集合の集合」としてアノマリーを常態化するこの空間では、すべての境界線が無効化されるとともに現在の一歩先が見える。以上がトーキョーのクラブに見られる家族的類似性である。そんな〈壁抜け〉のためのloop holeが東京のそこら中にあるのだから、行かないままでいるのは勿体ない。

撮影=本山周平

撮影=本山周平

>五野井郁夫(ゴノイイクオ)

1979年生
立教大学法学部。立教大学法学部助教/政治学・国際関係論。

>『10+1』 No.39

特集=生きられる東京 都市の経験、都市の時間