「集合・問題」と「住宅・問題」
集合住宅というのは「わかりやすいようで実はわかりにくい対象である」とかつて『孤の集住体』に書いたことがある★一。
それからすでに何年か経っているし、現在も集合住宅の設計に関わりながら集合住宅の意味について考えているが、「集合住宅とはわかりにくいものだ」という基本的な見解は変わっていない。
ここでいう「わかりにくさ」自体がけっこう説明しにくいものであることを説明しなくてはならないところに、すでに集合住宅問題の難しさが反映されている。
設計という立場からいうなら、ここでいう「わかりにくさ」は設計行為に内在する基本的な問題なので、すべてのビルディング・タイプに共通する問題なのではないかという意見もあるかもしれない。つまり、病院も美術館も集合住宅も、設計の対象としてとらえるなら、その瞬間からメタレヴェルの思考を要請されるところがあるし、その点ではおなじように「わかりやすいようで実はわかりにくい」のではないかという議論である。
たしかに、設計行為には設計の対象を「仮象」とみなさなくてはならない部分があるし、対象を仮象とみなしたとたんにそれは「わかりやすいようで実はわかりにくい」という状態におかれるのもたしかに事実なのだけれど、病院や美術館には一般人の生活からいうなら非日常の部分が残っているのに対して、集合住宅はぼくたちの生活とあまりに密着しているので、かえってどこがわかりにくいのかさえわかりにくいというやっかいなところがある。この辺りの詳しい議論は前述の『孤の集住体』にゆずるとして、ここではそれを「集合・問題」と「住宅・問題」との二つに分けて考えて見ることにしよう。
「集合・問題」と「住宅・問題」というと単なる語呂合せのようだが、この二つが意外に集合住宅の問題点を明らかにしてくれる。集合住宅問題が複合的でわかりにくいのはそれが「住まい」であること、そして同時に、複数の住まいが「集合」しているところにあるからなのだ。これは問題点を明らかにするための便宜的な手段であって、この両者は相互に密接に影響しあっていることを忘れてはいけないのだけれど。
「住宅・問題」は個々の
ところで、これも言うまでもないことだが、「集合・問題」にしても「住宅・問題」にしてもすでに戦後五〇年間(あるいは住宅公団設立以来四五年間と言ったほうがよいかもしれないが)にわたって徐々にしかし徹底的に検証されてきた。一九五〇年には三五平方メートル程度しかなかった住戸面積(公営住宅51C型標準設計[図1])は一九六七年にはすでに約五九平方メートルと改善されている(67型標準設計[図2])し、そもそも公団住宅が標準設計による量の時代を脱した(一九七六年度)のもすでに四半世紀も前の話なのである★二。近年でも、省エネルギー化への対応(高気密・高断熱・ヒートアイランド防止)やユーザーの高齢化への対応(バリアフリー、ユニヴァーサルデザイン、車椅子・手すり対応などの住戸内の寸法の見直し)など集合住宅はいっそうきめこまやかな対応を進めているように見える。なるほど片廊下型に典型的な共用空間の貧しさなど未解決の問題がないことはない。しかし、パブリックスペースも植栽もしょせんは工事費用の問題なので予算さえあれば解決される(ところがその分の費用はじっさいにはなかなか予算化されないから実現できないだけだ)と感じている関係者も多いことだろう。あるいは、それを法制度の問題であると考える人もいることだろう。事実防災上の避難経路をどう確保するかは集合住宅設計の基本的な課題であるし、中廊下が床面積から除外されれば住棟の形式の選択肢が広がるのはたしかだからだ。
1──公営住宅51C型標準設計
2──67型標準設計
集合住宅ではデザインが評価されない
でも、そういったさまざまな改良や努力からは、現在公団住宅などの公営住宅だけではなく民間の分譲マンションなどにも共通して見られる一種の袋小路状態あるいは飽和状態(=集合・住・宅・問題)を説明することはできないだろう。たしかに、短期間に大量の住まいをある一定の(賃貸あるいは分譲)価格の範囲で建設し、供給することは可能になったし、住まいの居住性能(遮音、断熱、キッチンや浴室の設備、空調など)もあるレヴェルには到達した。この「ある一定の」レヴェルに達成感を感じることができるか、あるいはそこに問題点をみるのか。おそらく、僕たちはその両方を同時に受け止めなくてはいけないところにいる(それも集合住宅問題のもうひとつのコンプリケーションである)のだろうけれど、ここでは、現時点での大きな課題をいくつか指摘したい。
まずはじめに「デザイン」という問題を挙げたい。
わが国の集合住宅のデザイン性には定評がある。日本各地にばらまかれているステレオタイプの集合住宅(わかりやすい例で言うなら、四階建ての公営住宅群)はわが国の近代化の地方伝播を年代記的にトレース可能な貴重な証拠品ということもできるだろうが、今日では、それを文化的な「地雷」とまでは言わないものの、四階建て平行配置の古びた住棟が地方都市郊外の団地に建ち並ぶ光景は近代日本のめざした、均一化、標準化の悪しきシンボルのようにも見える。「ウサギ小屋」という批判は順風満帆の経済大国日本へのやっかみであるという風潮は当時にはなくもなかったように思われるが、その日本が重度の経済病に陥っている今日では、その批判の持っていた意味はもっと切実なものとして伝わってくる。だいたい、他国民から人間の住まいが「ウサギ小屋」よばわりされるのはナショナリストならずとも気分のよいものではないが、他国に行ってその地の住まいを目の当たりにすれば、その批判にはあながち理由がなくはないこともすぐにわかるし、かつて海外赴任を謳歌し、現地法人の提供する住まいの広さを競い合った企業戦士たちが今日では購入したマンションの値下がりに呆然とし、リストラに戦々恐々とする毎日なのである。ところが、皮肉なことに、今日の「ウサギ小屋」では高齢者対応など建築計画上の配慮の点では他国のそれと遜色ないし、床暖房や給湯設備など最新式の住宅設備は家電製品がそうであるように世界のトップクラスを自認できる状態にある。
ただ、建物の全般的なデザイン性が貧弱な点は一向に改善されていない。
大量供給という使命のもとで四階建ての中層住宅を必死で建設していた時代ならいざ知らず、集合住宅のデザインが今日でも変わり映えしないのはなぜだろうか。それにはすでに挙げたコストや防災にかかわる法制度の問題もあるだろうが、その最大の理由はデザインを評価しない(もしくはデザイン性が建物評価の下位ランクにしか位置づけられていない)という社会の基本的な姿勢にある。
集合住宅のように大量に建設されるものが都市景観にあたえる影響はとても大きい。それは誰しも理解のいくところだろうが、個々の建物のデザイン性を向上させることで都市景観を徐々によいものにしていこうという方策は、歴史的な街区の保存またはニュータウンの景観ガイドラインというような例外的な事例を除くなら、これまで日本ではとられてこなかった。高さ制限、容積率、日影規制などで都市の輪郭線はコントロールされてきたが、輪郭線の内側はおよそフリーハンドの状態だった。その理由には二つある。ひとつは、デザインの善し悪しは主観的なもので客観的な評価基準にのらないという判断で、それは建築全体に対する行政側の姿勢としては一貫しているものだ。デザインの善し悪しはデザインをわかる人間にはただちに判断のつくものなのだが、その根拠を説明しにくいところがあるのはたしかだ。また、デザインの善し悪しの判断が好き嫌いの判断と混同されるという誤解も度々生じるが、それが混乱を助長している。とはいうものの客観的な評価基準にのりにくいというだけでいっさい評価の対象から外すのは、仮想の地盤面に落ちる日影を事細かに制限する日影規制が不可思議なのとおなじように不可思議な事態ではないかと考えるのだが、いかがだろうか。
もうひとつの大きな理由として、集合住宅にはデザイン性は必要ないという「デザイン=ぜいたく」論が挙げられるだろう。デザイン=ぜいたく論の背景には、集合住宅のうちとくに公営住宅系には若者や低所得者を支援する福祉政策としての役割をあたえられていることが挙げられる。となると住まいに求められるのは人間の基本的人権を確保することで、身障者のための手すりは不可欠だが、建物の外観はおそらく、醜悪でさえなければオーケーだし、目立たなければもっといいということになる。
デザインに対するこの誤解と敵視は集合住宅の建設コストに直ちに反映され、集合住宅は徹底的なローコストで建設されなくてはならないという原則がうちたてられる。ローコストではデザインが不可能なのかというのはおそらく正しい指摘としても、それは程度問題で、現在の公営住宅の一般的な建設コスト算定の根拠には、住まいは人が住めればよいのだという徹底的な内向きの姿勢が支配しているばかりで、集合住宅が結果的には都市景観を作り出すこと、そのためにはいくばくかの追加費用が発生するのだという認識は含まれているようには見えない。したがって、残念なことだが、その根本的原因が解決されない限り、日本の集合住宅に特有の徹底的にアノニマスな景観が改められることはないだろう。
フレームワーク(枠組み)の問題
デザインが評価されないという問題にしても、ほとんど制度的な問題と一体化しているのがわかっていただけたと思うが、集合住宅問題の多くはさらに大きな制度的な問題(ここではそれをフレームワークと呼ぶことにする)とパラレルになっている。不特定多数のための住まいを大量に供給するという政策的な観点が必ず必要になるという点では、いわゆる住宅問題もここでとりあげている集合住宅の問題も共通している。だから、ポリシー・メーキング(政策決定)に決定的な影響を及ぼしうるような大きなフレームワーク(枠組み)を発見し、それを見据えない限り、集合住宅問題を解決するのは困難ということになる。
戦後の日本はこのフレームワークの設定がかなり巧みだった。かなり強引なところもあったが、日本社会が効率よく、急速な経済成長を達成できたのは、それに負うところが大きいだろう。ところが経済成長を達成し、豊かな社会が訪れたあとでは、それまでのフレームワークは必ずしも有効なものではなくなるし、旧弊で単に社会を拘束するものにもなりかねない。そんなことは自明のことなのだけれど、それまでのフレームワーク設定がうまく働いていた(ように見えた)だけに、それが現在わが国が陥っている困難の最大の理由であることは誰しもわかっているにもかかわらず、それをリセットするには勇気がいる。
家族と生活というフレームワーク・非核家族と生活の外在化
国民の住まいとして集合住宅を大量に建設すること自体が戦後の日本が選択した大きな枠組みのひとつだった。その目標を短期間に達成するために標準化、工業化といった手段がとられた。その時代と現在で決定的に異なるのはその目標がすでに達成されたということだけではない。達成された結果、社会自体が変容してしまったところにある。
それをもっとも端的に示すのが家族の変容だろう。
戦後の日本は「核家族こそが日本の新しい家族形式としてのぞましい」という核家族神話を信じたように見える。そのフレームワークにしたがって、核家族のための住まいを大量に供給したのが、いわゆる団地だった。核家族の住まいとして郊外の一戸建てと集合住宅の二つのメニューが考案された。ここでは戸建住宅については議論しないが、集合住宅の住戸の平面形を時代順にたどるなら、初期の公営住宅の代表例である51C型から、「七五平方メートル=3LDK」という典型的なマンションの住戸プランにまで、核家族神話が浸透していることに気づかされる。
ところが、統計を調べてみると核家族世帯は総世帯数の約六〇パーセントでしかない[図3](出典は平成七年度国民生活白書。ただし、将来予測部分は別の資料から付加した)。また、統計上は核家族世帯に分類される家族のなかでも、DINKSや子育ての終わったカップルの求める住まいは標準的な夫婦と子ども二人世帯とはちがうはずだ。もしそうだとするなら、「核家族以外の家族形態を住まいの設計の前提条件から排除するというのがかなり強引な単純化だったことに気づくはずだ。(…中略…)複合家族や単身者をもふくめた広い意味での家族を対象とした幅広い住まいづくりこそが今日もとめられていることなのではないだろうか」★三。
複合家族や単身者をもふくめた広い意味での家族を総称して「非核家族」と名づけた。核家族の住まいの形式については二〇世紀後半にかなりの検討がなされたわけだから、これからの集合住宅に求められるのは核家族以外の世帯=非核家族にも住みやすいような住まいの形式を見出すことではないだろうか、と考えたからだ。
最近の統計資料からはこの「非核家族化」がいっそう進行していることがみてとれる[図4]。東京では非核家族の割合がすでに六七・七パーセントに達している(ただし、前述の理由から夫婦二人の世帯は核家族でなく非核家族に分類した)。ニューヨークでは非核家族はなんと世帯数の七八・四パーセントである。
住まいの平面形に自由度の高い戸建住宅とは異なり、住まいをタテヨコに集積する集合住宅は住戸平面の制約が大きい(「スケルトン・インフィル」形式の集合住宅は設備スペースおよび設備シャフトの配置計画に自由をもたらすことで、タテ方向の自由度を拡大したが、両側に住戸が接することによる不自由度までは解決できていない)。統計の数字からは非核家族に焦点を当てた住まいの検討が急務であることはたしかであるとして、非核家族は単身者、DINKS、高齢者カップルなどの多様な家族形態の総称であるから、そのそれぞれにどのような住まいを提供したらよいのかというリサーチからまず始めなくてはならない。対象となる家族像として核家族を想定して一気に住まいの設計を進めることの可能だった時代とは作業の複合度がまったく違うのである。
家族が変わったのと並行して人々の生活も変わった。九時から五時までという標準的な労働時間ではない労働はすでに一般的に認知されるようになった(たとえばフレックスタイム)し、住まいと仕事場が一致するという変化(テレワーカー、ホームオフィスなど)も急速に浸透しつつあるように見える。
本来住まいの内側で完結していた生活行為が都市内部(つまり住まいの外部)の機能に置き換えられる場合が増えている。また、その逆の場合もある(たとえばメールオーダーによるショッピング)。
生活の基本行為が住まいの外に出ている外在化の顕著な例として食事が挙げられるだろう。「外食」はむかしからある言葉だが、今日では外で食事をするだけではなく、外から食が二四時間体制で住まいに届けられる(各種のデリバリー・サービス)。「ホーム・ミール・リプレイスメント」(家庭食にとって代わる調理済食品)がスーパーマーケット業界の新しい目標であるとされるくらい、調理の外在化は進行している。そういう家では、家庭の調理器具としては湯沸しポットと電子レンジがあれば充分なのだろうし、冷蔵庫の古い野菜で作るよりコンビニのショーケース型冷蔵庫に置かれているサラダのほうが便利のうえ、新鮮で、おいしいという人もいる。ただし、こういった変化を人間の嗜好の変化や商業サービスの充実という視点だけから見ていくのは誤りで、家庭から家庭生活を維持する専門家(主婦)が消滅しつつあることの反映であることも見逃してはならない。
ウォークマンの出現はそれまで住まいの中でしか可能でなかった音楽鑑賞が都市内に流出したことでも衝撃的だったが、音楽鑑賞がきわめて個人的な行為であるという意識を僕たちに刻み込んだ点でも画期的だった。その後、急速に普及した二つのメディア、携帯電話にしてもEメールにしても個人としての人間と他者とのコミュニケーション手段であることは共通しているから、個人が家族というフィルターなしで社会に露出される状況は加速化しているように見える。そういった状況下では「かならずしも生産のためでも、生活防衛のためでもなく、まして子育てのためだけでもない。むしろ情報のなかで生きるこれからの都市生活においては、個人を単位とするすまいとコミュニティを、積極的にかんがえていかなければならないのではないか」という上田篤氏の指摘(「個族住居」[『孤の集住体』所収])は正鵠を得ている。しかし個人を単位とする住まいとコミュニティをどう具現化していったらよいものか。
3──核家族は総世帯数の60%でしかない
4──東京/ニューヨークの家族形態
人口というフレームワーク・人口減少時代の住まい
二〇世紀は人口の世紀だったと言われている。統計(統計データは『世界百科事典』第二版[平凡社]に従う)によると、世界の人口が一〇億人に達したのが一八〇〇年頃、二〇億人になったのが一九三〇年頃、三〇億人になったのが一九六〇年頃、四〇億人になったのが一九七五年頃、五〇億人を突破したのが一九八七年頃で、六〇億人到達の推計年が一九九九年となっている。ちなみに、ぼくの見つけたもっとも最近のデータ(一九九六年)では世界人口は約五八億人となっている。二〇世紀は人口の世紀すなわち人口爆発の世紀だったのである。
人口増加の速度を一〇億人増加に要した年数で見ていくと、一〇億から二〇億まで一三〇年間、二〇億から三〇億まで三〇年間、三〇億から四〇億まで一五年間、四〇億から五〇億までに一二年間、五〇億から六〇億までが同じく一二年間ということになる。この人口増加には地域格差および時差があることはよく知られている。近代化を早く達成した欧米では人口増加のピークが二〇世紀の前半であったのに対し、発展途上国ではそれが第二次大戦後に生じ、それが二〇世紀後半の世界人口の爆発的な増加につながった。
日本はどうか。一九〇〇年に四三〇〇万人だった人口は一九五〇年には八三〇〇万人、一九九五年には一億二六〇〇万人と二〇世紀中は急速な増加を続けたが、推計によると二〇〇七年(もうすぐ!)に総人口が一億三〇〇〇万人に達したあとは減少に転じ、二〇五〇年には約一億人となり、二一〇〇年には六七〇〇万人(中位推計値)になると予測されている。あっという間に少子高齢化社会が現実のものになるのである。この現象はわが国固有のものではなく、二一世紀には世界のさまざまな国に重大な影響をもたらすことが予測されている。二一世紀前半にドイツの人口は一〇ポイント落ち込み、イタリアの人口は四分の一以上減少すると予測されている★四。
ながながと人口の話を続けたが、じつはそれが住まいの問題と直結しているからである。人口増加とその都市への集中という二つの要因は都市における住居の深刻な不足をもたらす。その解決のために、二〇世紀後半の日本は、半世紀前に近代化を達成したヨーロッパの事例を横目でみながら、規格化された集合住宅や住宅団地というかたちで、せっせと住まいを供給してきたのである。そこではどのようにすると効率よく大量の住まいを供給できるかという論理が最優先された。八〇年代以降には、日本の住まいに対する「ウサギ小屋」という批判に典型的に見られるように、その論理の矛盾が露呈したこともあり、さまざまな見直し作業が行なわれたことは周知の通りだが、それも人口増加と経済成長が続いている限りでは、それまでは露出されていた論理の上に薄くシュガー・コーティングした程度のものでしかなかった。
ところが、すでに記したように、二〇〇七年以降は人口が減少に転じると予測されている。二〇世紀後半に日本の住まいづくりを正当化した論理では人口減少時代の住まいの方向性を予測しえないのは言までもないこととしても、その代案が直ぐに提示されるとも思えない。だいたい、日本の歴史の中で、人口がこれほど急増したことも初めてなら(二〇世紀)、次の一〇〇年間で逆方向に転じる(二一世紀)のも初めてなのである。人間が都市に住むためには集まって住むしかチョイスがなかった人口増加時代の住まいと、人が集まる理由なくしては集まらなくても良い時代の住まいとはその成立基盤がまったく異なるから、集合住宅の持つ意味も当然ちがったものになるはずだ。
前項で引用した上田篤氏の「……情報のなかで生きるこれからの都市生活においては、個人を単位とするすまいとコミュニティを、積極的にかんがえていかなければならないのではないか」という提言はここでも有効に思えるが、どうだろうか。
ケーススタディ
以下に三つのケーススタディを示した。地方都市の中心市街地に立地する集合住宅の提案二件と都心居住のためのかなり大規模なプロジェクトである。
ケース1:プロジェクトT
法政大学渡辺研究室が群馬県から委嘱されて行なったデザイン研究である(担当:白川在)。富岡市の中心市街地の商店街に一階が商業施設と二階が共同住宅となった住まいを提案した。商業施設の背後は駐車場として、全国でももっともクルマ依存率の高い地域社会の商業施設利用者と居住者の双方に配慮した。二階にある居住者専用の「プライヴェートデッキ」がこのプロジェクト計画上のひとつの特徴となっているが、じつは区画整理にともなって、いくつかの土地を共同開発し、現在の住民以外にも、外部から新たな住民を招きいれるための受け皿としての住まいづくりがここでの主眼だった。地方の小都市では都市の離散化がすすんだが、それに中心市街地の衰退、居住者の高齢化が拍車をかけるかたちで、都市中心部の存在理由が脅かされている。中心部に住まいを導入することがコンパクトなまちづくりへの手がかりになるのではないか。
《富岡店舗併用集合住宅I》
上:1階平面図
下:2階平面図
《富岡店舗併用集合住宅II》
上:1階平面図
左上:2階平面図
左:断面図
《富岡店舗併用集合住宅I》
模型写真
右:外観
右下:「プライヴェートデッキ」部分俯瞰
左:1階内観
左下:「プライヴェートデッキ」部分内観
《富岡店舗併用集合住宅II》
模型写真:上から2階俯瞰、外観、1階内観、「プライヴェートデッキ」部分俯瞰
ケース2:プロジェクトA
法政大学渡辺研究室(担当:芦谷公滋、木村陽介、中野真人)と設計組織ADHの協働作品。中規模の地方都市の中心街に「低層ネットワーク型」という新しいタイプの集合住宅を提案した。
●低層居住──住まいは二階から四階までの三層に、公共施設・生活支援施設などは一、二階に設けた。
●コモンのあるくらし──三階にあるコモンは半戸外の生活空間であると同時に居住者の生活空間でもある。プレイロットには最適だし、東京の下町などに見られる「あふれ出し」もここでは許容されるだろう。コモン上部には透明な屋根がかかり、採光と通風を保ちつつ、雪と雨をしのぐことができる。
●ネットワーク──七つのコモンが南北に走っている。コモンとコモンの間にもネットワーク状に通路がめぐり、それぞれのコモンが閉ざされないことをめざした。
各フロアの構成
1Fユニットプラン
2Fユニットプラン
2Fプラン
3Fユニットプラン
3Fプラン
4Fユニットプラン
4Fプラン
広場のネットワーク
全景
道路からの景観
広場を見下ろす
コモン
空の見える広場
広場のネットワーク
ケース3:東雲E街区
設計組織ADHとワークステーションの協働。
ここでは高密度の都市型集住の基本的なかたちとして、今日の集合住宅の代表的な「愚形」とでもいうべき片廊下形式をあえて採用した。片廊下の採用で敷地内にできるだけ長い建物延長を確保し採光や換気にすぐれた住まいをつくれるのではないかと考えたことがひとつ、それと「片廊下」を何とかできないかという気持ちもあった。間口が奥行きより広い、ワイドフロンテージ型の住まいの利点をできるだけ活かした住棟には共用部分に開かれた要素をもつ住まいが並べられ、二〇世紀型の集合住宅に典型的なソトに閉ざされた住まいではない、新しい集住の可能性を提示することを意図している。
住戸ユニット
基準階平面
註
★一──渡辺真理+木下庸子「とらえどころのない建築型」(『孤の集住体』[住まいの図書館出版局、一九九六]第一章)。
★二──渡辺真理+木下庸子「連載 集合住宅をユニットから考える 第三回:公団住宅の標準設計プランから学ぶもの」(『新建築』二〇〇一年六月号)。
★三──『孤の集住体』、二一頁。
★四──ポール・ウォーレス『人口ピラミッドがひっくりかえるとき──高齢化社会の経済新ルール』(高橋健次訳、草思社、二〇〇一)。