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他者が欲望する黒船都市、トーキョー──ねじれたトポロジーの表出 | 五十嵐太郎
The Other's Black Ship Tokyo: The Manifestation of a Torsional Topology | Igarashi Taro
掲載『10+1』 No.12 (東京新論) pp.80-90

1
錯乱のプロローグ

一九八×年:おそらく二〇世紀の「東京」。人々は平和を謳歌している。見慣れた渋谷や新宿の風景。どこにでもいそうな公園の男女。ダンサーを志望する少女は、フリーターの不良少年に「何かに自分をぶつけてないと、生きてる気がしないものね。ただ、いまが一番いい時代だって気がするだけ」と語る。まったく社会は満たされているのだ、誰かの夢の中のように。とあるアニメ映画の描いた、すてきな「八〇年代」。

一九八一年:アクシスビルに入るカッシーナ・ジャパンのショールームに、イタリア人建築家のM・ベリーニを起用することが決定された。これの成功を契機にプロデュース会社のカザテックは設立され、P・スタルクやサム・ロパタらの海外デザイナーによる話題の商業空間を次々と実現させる[図1]。彼らは空間デザインの鎖国状態に微少な風穴をあけたのである。それが小舟のような黒船だったとしても(札幌にはN・コーツのデザインしたノアの箱船が来る)。

一九八八年:かつて宇宙にワープしたアトランティスの神殿が、東京湾13号地に舞い降りた[図2]。その名はMZA有明。地球外から来たという設定だ。空間プロデューサーの山本コテツが考案したおとぎ話にもとづく、古代建築からの引用とポップなガーゴイルによる装飾が示すように、典型的な商業ポストモダンである。開発のまなざしが向けられるウォーターフロントに、派手な宇宙船が着岸したのだった。

いささかマイナーなエピソードが続いたが、ここには八〇年代以降の東京建築がもつある種の兆候が集約されている。すなわち海外建築家の起用、奇異なデザイン、多様性や物語性、仮設性や非場所性などである。一言で言えば、東京建築は徹底的にアトピックだったと言えよう。建築界にも押し寄せる本格的なバブル経済の余波は、外国人やインテリアという外部的な側面にこそ先んじて現われていたのだ。そこから東京はかたちのない、大きなインテリアではないかという磯崎新の指摘も思い出される。実際、コギャルたちは他者を単なる風景として無視し、都市の街路を室内であるかのように振る舞うだろう★一。ベンヤミンならば、これを醜い巨大なパサージュというのだろうか。
そして誰もが口をそろえて言う。確かに平和かもしれないが、なんとも呆れ返るほどに無節操な東京。アジアやアフリカに強い、外国のある旅行ガイドには、東京についてこう書かれている。「ひどく醜い都市……伝統的な着物を身につけた女性がマクドナルドのハンバーガーを買っている」★二。むろん経済や政治の諸相と、短い周期でスクラップ・アンド・ビルドを続ける建設行為の自動運動に、その原因を求めることも可能だろう。だが、ここで注目したいのは、おそらく設計に意識的であるはずの建築家をも巻き込んで、こうした都市を生み出した背景に、東京=カオス論がひそんでいることだ。それゆえ次にわれわれは、この時代に流布していた都市の認識を問わねばならない。

大雑把に言って、東京は六〇年ごとに大地震に見舞われている。
東京に住まなくてはならない用心深い資本家たちは、ワニのつがいに投資するかもしれない。そうすれば庭先の水槽で壁に爪をたててワニがうなりはじめたとき、いまこそ土地を手放すときだとわかるだろう。いまが売りどき、売るのだ! と。
P・ポパム『東京の肖像』(朝日新聞社、一九九一)


1──S・ロパタ「ジャバ・ジャイブ」(1988)模型 (『日経アーキテクチュア』1988年5月30日号)

1──S・ロパタ「ジャバ・ジャイブ」(1988)模型
(『日経アーキテクチュア』1988年5月30日号)

2──山本コテツ「MZA有明」(1988) (『日経アーキテクチュア』1988年10月31日号)

2──山本コテツ「MZA有明」(1988)
(『日経アーキテクチュア』1988年10月31日号)

2
カオスの世界首都

日本のシンプルな建築美を称えたブルーノ・タウトは、かつてそこが将軍家のお膝下だったからなのか、やはり東京はお気に召さなかったようだ。初めて外国人として東京に訪れたときの感想をこう記している。「建物がまたひどく支離滅裂で、矢鱈滅法に配置されているのである。……かくもはなはだしく不快の感を抱かせ、反撥の念を喚び覚す所以のものは、各種の建築物が全く無連絡、無統制に対立し、結局は限りなく殺伐で、絶望的な全体感を惹き起すからである」★三。それから五〇年以上たってバブル期の日本に訪れる海外の建築家も、評価は変化しているとはいえ、同様に東京にカオスを見出す。
良識的な建築家にとって、秩序のない都市は、恥ずべきこととされていた。コスモスを良しとする近代都市計画の思想からみれば、カオスは悪しきものなのだから。したがって、日本における都市論も、西洋の広場を中心とした美しい街並みを理想とみなし、逆に自国の統一性のなさを嘆くというのが一般的だった。しかし、当然、鎖国していた江戸期にそのような自覚があったとは考えにくい。開国して日本の知識人が西洋の「良き」都市計画を学び、反対に日本に訪れた外国人が無秩序を事後的に「発見」したのである。両者はさかさまの鏡像として、互いにその属性を引き受けあったと言うべきかもしれない。それが混成系の都市を評価する方向に傾くのは、西洋では近代都市計画批判が起こり、日本では高度経済成長を続けていた六〇年代からである。西洋/日本という奇妙な二項対立が、後者のカオス的な側面をきわだたせるというあのやり方★四。黒川紀章や上田篤など、広く読まれた都市論のほとんどは、K・リンチやJ・ジェコブスの新しい都市論を日本的に受容しつつ、この構造を採用し、東京の性格づけも行なってきた。いや、東京をモデルにこの理論は再編されたのではないか。最も顕著なのが、芦原義信である。彼の『街並みの美学』(岩波書店、一九七九)から『隠れた秩序』(中央公論社、一九八六)への思想的転回は、日本の都市批判からカオス的な東京評価にほかならない(後者にはフラクタル構造を認めるが)。
八〇年代後半より幾つかの東京建築ガイドが刊行されたり、建築側からの東京論が語られたことは記憶に新しいが、方向性の違いはあっても、おおむねカオス的な側面には寛容だったと言える★五。つまり多神教的な建築の状況を礼讃するにしろ、迷宮やラビリンスといったキーワードを用いて都市を面白がるにしろ、カオスを好意的に認める点では皮肉なまでに均質的である。とはいえ、誤解を招かないよう記しておけば、本論はカオス論をいまの時点からこれみよがしに断罪するという立場はとらない。むしろ現象の深層意識を読み込むことに主眼を置く。
こうしたまなざしは国内外でフィードバックしながら同調していった経緯がある。ドイツの建築雑誌『archi+』のデリリアス・トーキョー特集や、『カサベラ』の日本特集(一九九四年一─二月号)などにもうかがわれるように。次に東京を代表として日本の建築の状況に明らかな期待を寄せる、海外建築家の発言を幾つか抜粋しよう。

R・ロジャース    「東京の街を歩いていて、建物の多彩さには目を見張る。……この層状の街並み構成は、現代建築の持つ問題点に対する解決の糸口となる」★六。
C・ポルザン    「今の日本は世界の建築家にとって最もエキサイティングなフィー
パルク        ルドとなっている。……東京は建築家にとって登竜門のような存在になりつつある」★七。
M・ボッタ    「東京のように複雑で矛盾に満ちた大都市で一度デザインしてみたい……ある意味では現代におけるバベルの塔とでも呼べるのではないかと思います」★八。
B・ボイゴン    「東京には、世界の主要都市を代表している面があり、そこには非中心化というか、いわゆるスプロール化した都市が見られます。同じようなものが複数化していくような都市の形態です」★九。
M・ベリーニ    「日本を無視すれば、それは未来の一部を無視することになるのです。……日本では、コンテクストが消えてなくなろうとしています。……だから、日本の都市のストリートは建築のキャンプあるいは建築のディズニーランドみたいなものになっています」[図3]★一〇。

ときには密度のあるカオス状態に対し、皮肉を込めているものの、意地悪くみると、西洋では仕事のチャンスが少ない建築家の売り込みともとれるような一言も多い。日本に新会社を設立したR・ロジャースは「最大の理由は、経済、テクノロジーの両面で世界の大国となった日本に興味があったから」と語り、M・ボッタはアルド・ロッシが「リッチマンのいいクライアントをつかまえた」と言う[図4・5]。そして「私は長い間、東京で仕事をしたいと考えていました」と、デザイナーのサム・ロパタは語る★一一。
もうひとつのキーワードは速度である。東京は「非常に変化のスピードが速い所」(M・ボッタやS・ロパタ)であり、《speed reading tokyo(東京速読)》展を行なったB・ボイゴンは、マンガのもつスピード感を東京に重ねあわせていた[図6]。N・コーツも「東京スピード」を指摘する[図7]。これはまさに資本の投機される速度のことだ。建築はそれを正確に反復している。仮設的な施設も生む。しかし、バブルの崩壊後、速度と密度のモデルは、むしろアジアの熱い現代都市にシフトしていく。
ともあれ、カオス論は、結果的にコンテクストを無視してデザインするためのエクスキューズとして機能してしまう。最初から「日本の都市にはコンテクストがない」(T・ヘネガン)のだから、異人として参加する建築家はなおさらそれを考える必要はない。実際、少しはコンテクストを意識していても、上記のR・ロジャース、C・ポルザンパルク、M・ボッタらは、自己流を変えないことを強く主張しているし、例えば、オーストラリア大使館(一九九〇)を設計したJ・デントンは「オーストラリアの伝統を継承する建物を目指した」という。つまり、おもちゃ箱をひっくり返したようなデザインを実施するには、反近代都市計画という錦の御旗を掲げながら、免罪符としてカオス論を語る必要もあったのだ。
だが、本当にそれだけなのだろうか? 東京だけがカオスなのだろうか。なるほど、いまやカオスはアジア都市の代名詞にもなっている。それゆえ、西洋という主体がカオス的な側面を他者である日本やアジアに押しつけることを、単にオリエンタリズムで片づけることもできるだろう。自己の倒立した肖像を相手に投影しているのだ、と。しかし、本当は西洋の都市がすでに混乱していることを忘れるために、東京がカオスであると主張しているのではないか。いまだ西洋には秩序が存在すると信じるために。このことは後でまた触れよう。ともあれ、西洋は東京にコンテクストを考える必要がないと信じればいいのだ。そして結果的には、ますます彼らの言う東京のカオス化に自らが加担するだろう。

"It's his first hotel. We call him 'Frank Lloyd Wrong'."
"Jishin", he proclaimed loudly. "We will now see the Imperial Hotel fall like a house of cards."
L. Riordan "Jishin" 1997


3──M・ベリーニ「東京デザインセンター」(1992)筆者撮影

3──M・ベリーニ「東京デザインセンター」(1992)筆者撮影

4──R・ロジャース+アーキテクト・ファイヴ 「歌舞伎町プロジェクト林原第5ビル」(1993)筆者撮影

4──R・ロジャース+アーキテクト・ファイヴ
「歌舞伎町プロジェクト林原第5ビル」(1993)筆者撮影

5──M・ボッタ「ワタリウム」(1990)筆者撮影

5──M・ボッタ「ワタリウム」(1990)筆者撮影

6──B・ボイゴン「効果輸送装置」(1989)。本作品は精神分析の誕生に関係するという。(『日経アーキテクチュア』1990年10月29日号)

6──B・ボイゴン「効果輸送装置」(1989)。本作品は精神分析の誕生に関係するという。(『日経アーキテクチュア』1990年10月29日号)

7──N・コーツ「ザ・ウォール」(1990)筆者撮影

7──N・コーツ「ザ・ウォール」(1990)筆者撮影

3
黒船幻想

二つの他者が東京にまとわりつく。ひとつは外来の文化である。過去の日本建築には、外国の様式が幾度か大きく流入した。まずは中国のテクノロジーを導入した奈良時代と鎌倉時代。が、これらはいまの東京に関係ない。むしろ鎖国を経て、江戸を「東京」に改名するその起源のとき以来、ここが西洋建築の大きな受け皿となる。そして西洋化によるこの建築的な断絶こそが、最も東京のカオス化に寄与した。また技術や様式だけでなく、いわゆる「建築家」が国の招きで次々と来日したのは、このときが最初だろう。
以後、鈴木博之によれば、バブルと重なる八〇年代までに四つの波があった★一二。明治のお雇い外国人、大正の実務的なアメリカの建築事務所、戦前にわけあって来日した作家(ライトやタウト)、そして第四の波としてバブル期に世界の有名建築家が東京に次々と来襲したのである。確かに、万博や大使館といった特殊な建築プログラムを除いては、戦後の四〇年間、海外の建築家の実作は日本でほとんどつくられなかった。
そうした意味でも、この時期の東京建築は未曾有の事態に立ち合っていたのである。東京に限定しても、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、オーストリア、ハンガリーなどの各国から、四〇人以上の建築家が設計の機会をもった★一三(その中にはJ・コンドルの子孫もいた!)。複数のプロジェクトをかかえていた建築家も少なくないから、作品の数はその倍にはなるだろう。わずか一〇年前後の期間に民間主導でこれだけの設計が行なわれたことは、かつてなかったはずだ(全国規模なら、もっと多いはず)。その結果、代表作にこだわらなければ、雑誌を賑わせている建築家の作品を見るために、わざわざ海外に行く必要はなくなり、とりあえず国内で見ることが可能になったのである。
明治期に来日した建築家は祖国において必ずしもトップクラスの存在ではなかったが、第四の波では、本国でも一流とされる建築家が訪れた。そして東京は積極的な自己植民地化が進み、「世界」の建築博物館になる(ただし、ここの「世界」はおおむね西洋を指す)。なるほど「東京は、現代建築の世界一の花園だ」(藤森照信)。一〇年前には考えられなかったことだが、いまやCNNのテレビを見ているがごとく、東京に居ながらにして、世界各地からの建築家の名人芸を堪能できる。ポストモダンのワールド・シティに「時間─空間の圧縮」(D・ハーヴェイ)が実現されたのだ★一四。
さて、もうひとつの他者とは、東京を破壊する圧倒的な外力、すなわち地震である。大地の奥底からあたまをもたげる地震に、天空からの光で都市を焼き尽くす戦争を加えてもよいかもしれない。おそらく東京という主体にとって地震はトラウマのようなものだ。それは破壊を契機に大規模な改造が行なわれるという意味で都市の起源と更新にかかわっており、またその都度、耐震性を建築に求めねばならない土地であることの覚醒をうながす(あるいは自然にあらがうことを一切放棄し、テンポラリーな建築に向かうか)。不意の訪問者である地震が、建築の構造や法規に大きな影響をあたえたことは言うまでもない。むろん通常の東京は、無意識のレヴェルでそれを抑圧し、忘れようと努めている。
にもかかわらず、マゾヒズム的な反復強迫により、その体験は映画や小説、マンガなどの分野で繰り返し描かれてしまう(死の欲動か?)。カタストロフへの想像力が似合う都市。崩壊の不安におびえている東京。これを最も強く引き受けた建築家が、廃墟のことを語り続けていた磯崎新である。廃墟へのオブセッションは、おそらく彼が一四歳だった終戦時に刻み込まれ、そのときの強烈な体験が二つの人格を生み出した。つまり、彼は都市の分裂を個人のレヴェルで担い、有名なテクスト「都市破壊業KK」において構築者の新(ARATA)と破壊者の新(SIN)という二つの人格を演じたのである★一五。
しばしば建築界において、バブルはバベルともじって語られたが、その言葉の「しくじり行為」は、混乱と崩壊のモニュメントであるバベルから地震の記憶も連想させるだろう。足元にひそむ、内なる他者としての地震。ともあれ、そもそも江戸が東京に名称を変えたその起源において、すでに主体は海外の建築を導入し、自己の一部が西洋化されていたのであり、さらにバブル期はオリジナルの建築家そのものを大量に流入してそれを決定づける。かくして東京の主体は、地震と黒船という内部に埋め込まれた他者によって二重に脱中心化されているのだ。

the Urbannet Building, also known as the 'Tower of Bubble', referring to the extravagance of the go-go eighties.
As the eighteen storeys of the Urbannet Building had fallen to earth, only those on the top floor had stood any chance of survival.
A. J. Alletzhauser "Quake" 1997


4
斜めから、東京を読む

ところで、建築家にとってバブル経済は夢のようなものだったと言えよう。なぜなら、いつもはドローイングに甘んじていた建築家でさえ、現実に作品を建てられたのだから。このことはとりわけ実作に恵まれない海外の建築家に大きくアピールしたはずだ。事実、東京は、どちらかと言えばアンビルトのドローイングや理論で有名なザハ・ハディドやアイゼンマンのような建築家にも、実作の機会を与えたのである[図8・9]。非現実的な条件、非現実的な作品。東京は建築家の欲望を喚起する、夢のようなトポスだった。
さらに言えば、西洋にとって他者である東京は、そもそも夢のような存在ではなかったか(この逆も然り)。この仮設的な前提に即して、先に述べたテーゼはこう言い換えられる。すなわち、西洋の現実が汚れていることから目をそむけるために、海外建築家は東京がカオスであるという夢を見たいのだ、と。実際、アメリカやヨーロッパのあらゆる都市のあらゆる部分が整然としていることはもはやないし、かつて一度でもそんなことが本当にあったのだろうか。カオス的な部分(例えば、スラムや空洞化する都心部)は、彼らの言説において抑圧されているだけなのだ。とはいえ、誤解は真実を招くというジジェクにならえば、海外建築家は自らの作品を東京に刻印することで、そのカオス化に拍車をかけていることもまた事実である。彼らの夢を壊さないために。
つまるところ、西洋から見る東京像を、ジジェク/ラカン風に解釈すれば、他者(東京)の魅惑的な秘密(カオス)は、主体(西洋)の欲望の中にあるというねじれたトポロジーを導くのではないか★一六。すなわち西洋こそがカオスを欲しているのだ。少なくとも東京が意識的にカオスであることを欲していたわけではない。
そうした意味でJ・ヌーヴェルの意見は興味深い★一七。彼は、広告公害の東京には計画の美はなく、複雑な深さがあると言いながら、西欧都市の日本化が進むのではないかと言う。つまり、普通の論者は東京だけにカオスの属性を一方的に与えてきたのに対し、すでに西洋が東京的であることを認めているのだ。日本化という表現が適切かどうかは別にして、この認識は重要である。おそらく都市の「ダーティ・リアリズム」な側面にまなざしを向けているレム・コールハースのような建築家も、そのことに気づいているし、十分に意識的であるはずだ。
あるいはカオス論という言葉にひっかけて、秩序のとれた自然な都市は存在しないとジジェク風に主張することも可能だろう★一八。すると秩序の維持に過敏に反応する建築家は、自然の規則性を守るよう自分が努力しなければならないと考えるエコロジストに似てはいないか。だが、人間や自然がそうであるように、均衡のとれた都市のイメージは人間の遡及的な投射に過ぎず、都市は本質的に乱れているのだ。またカオスといえども、その科学理論がいうアトラクターの制御があるならば、コスモスとの対立も保留される。
さらに、われわれは夢の中においてのみ欲望の現実界に出会うのだというジジェクの論は、彼らを想起させないか。おそらく本国では実現できないプロジェクトを手がけてしまった建築家たち。スケッチが本当に建ってしまった海外のデザイナーたち。例えば、隅田川にシュールレアリスム的な光景を現出させたシット・ビル、スタルクのスーパードライホール(一九八九)において、日本側の共同設計者である野沢誠は、渡された「模型のイメージを、そのまま建築に拡大することが我々の役割だった」と語る★一九[図10]。燃える心をイメージした炎のオブジェが具現化したり、模型を見た施主の一言「ナニナニ?」が建物の名前になり、悪い冗談が家具ではなく建築に適用される[図11]。が、これこそがスタルクにとっての欲望の現実界なのである。しかも、これらがダリの偏執症的批判方法で紹介されるあの絵を彷彿させるのは、きっと偶然ではない。ここは悪い夢の世界と現実を巧みに織り込む、パラノイアのユートピアの再来なのだから。
厳密に言うと東京建築ではないが、ロッシのイル・パラッツオ(一九九〇)について、コールハースはこう評している★二〇。「驚くべきことはそれが日本的であることだ。サムライのお城のように、周囲を支配している。さらに驚くべきことは、彼の不在によってロッシの詩学は完全に実現されていたことだ。……それは日本人の誰にも想像できなかったものであるが、ロッシにも決して建てられなかったものといえる」。そして作家が出自の環境で仕事を行なうときは、さまざまなコンテクストが邪魔して真の自由を得られないが、その地を離れれば、お行儀のいい仮面を捨てて「ロッシ以上にロッシになる」可能性があるという。彼はこれがグローバル化の提出する問題であり、そうして世界に増えつつあるアトピックな建築を「日本的」だと指摘する。
グローバル化=「日本的」かどうかは議論の余地が残るけれども、異国の地で設計を行なうことが引き出す奇妙な効果を彼がうまく言い当てているとは言えるだろう。これは夢の中でこそ無意識、すなわちときには恐ろしい本当の自己に出会うというジジェク/ラカンのテーゼとパラフレーズして読むことができる。かつてコールハースは、異邦人のダリがニューヨークに到着したとき、すでに確立された自己の欲望の肖像をその地に見出したと論じていたが、八〇年代から九〇年代の東京は、他者のすぐれた欲望の鏡として機能したのではないだろうか。仮に出来のひどいものがあったとしても、だ。他者の隠れた欲望が剥き出しになり、その無意識を語らせる巨大都市。西洋の建築家にとっての欲望の首都なのだ。ちなみに、その欲望の実現には日本の高い技術力がサポートしていたことも付け加えておこう(和魂洋才ではなく、和才洋魂である)。

〈ウエスタン・ワールド〉は、大地震(ゴジラ)を無傷で生きのびられなかったオフィス・ビルの最上階の二階分を占めていた。
〈城塞都市〉の屋上はごみ捨て場らしいが、そこに捨てられているのは、夢のなかの物体、ここの創造者たちがビットマップしたあとで廃棄した幻想だった。
W・ギブソン『あいどる』(角川書店、一九九七)


8──Z・ハディド「麻布十番ザハビル」(1988)模型 (『日経アーキテクチュア』1988年8月22日号)

8──Z・ハディド「麻布十番ザハビル」(1988)模型
(『日経アーキテクチュア』1988年8月22日号)

9──P・アイゼンマン「布谷東京ビル」(1992) 筆者撮影

9──P・アイゼンマン「布谷東京ビル」(1992)
筆者撮影

10──P・スタルク「スーパードライホール」(1989) 筆者撮影

10──P・スタルク「スーパードライホール」(1989)
筆者撮影

11──P・スタルク「UNEHX NANI NANI」(1989) 筆者撮影

11──P・スタルク「UNEHX NANI NANI」(1989)
筆者撮影

5
内部化された外部の視線

最後に九〇年代の東京建築へのまなざしとして注目すべき試みを検証しよう。塚本由晴貝島桃代による〈メイド・イン・トーキョー〉は、コンクリートミキサーと社宅の異常接近する「生コンアパート」など、超機能主義的に複数のビルディング・タイプが混在するキメラ的建物をとりあげる[図12・13]。塚本によれば、〈メイド・イン・トーキョー〉は空白恐怖症による空間の細分化と不法占拠的複合という建設の論理をもつが、これは資本主義の要請、すなわち快楽原則に忠実に従った結果だろう。近代化の苦痛を忘却して江戸と東京の連続性を強調しつつレトロスペクティヴに回顧する東京論とも、安易なカオス/迷宮礼讃論とも違い、ポップなリアリズムに徹した良質な東京建築の発見行為である。
提唱者はこう言う。〈メイド・イン・トーキョー〉とは「東京の都市特有の」高性能のダメ建築であり、「しかも、このダメさは日本にしかない」★二一。だが、これを自立的に定義することはできない。沢田研二の『TOKIO』がアルファベットで表記されていたように、それが日本外部の視線を意識していることは明白である。実際、塚本は「世界に日本の現代都市の長所を輸出する」ことに意識的であり、〈メイド・イン・トーキョー〉は建築のマーケティングの末、いかに日本のオリジナル商品を売り込むかを計算したものなのだ★二二。とすれば、いわば明治時代の殖産興業を思わせる構造がここに生き残っており、やはり他者の欲望が媒介して、東京の無意識的なアノニマス建築を発見している。
誤解を招かないよう記しておけば、筆者はこれを批判するつもりはない。無邪気な悪意にあふれた「ばか建築」と一線を画するのは、まさにこの点だからだ。とはいえ、「このダメさは完全にオリジナルです」という日本のオリジナル・ブランドが、本当にオリジナルなのかという疑問が残る。そうした一種の混合体としてのイリーガル・ストラクチャーは、むしろアジアの専売特許とされていなかったか。彼らが示した拡張の論理による〈メイド・イン・ホンコン〉も、トーキョー版との違いを説明しきれていないように思える★二三。とすれば、ヴェンチューリ/スカーリのアメリカン・ヴァナキュラー建築賞賛のように、あえてナショナルな傾向をおびる必要もないのではないだろうか?
つまり、〈メイド・イン・トーキョー〉はオリジナル・ブランドではなく、じつはアジアの偽ブランドなのかもしれないし、そもそもオリジナルの不可能性を立証するブランドとして立ちあげる可能性もあったように思えるのだ。現在、塚本+貝島コンビは、隣の家や木や道路などばらばらだった要素をまとまりとして考える、メタ・オブジェクトとでも言うべき「環境ユニット」の概念を提出している★二四。この移行は、建築の中に特異な都市的構成を読む、〈メイド・イン・トーキョー〉から、都市の中に特異な建築的構成を読む、環境ユニットへ、と説明できるだろう。
一方、牛田英作+キャサリン・フィンドレイの『パラレル・ランドスケープ』展(一九九六年)では、ありうべきもうひとつの都市を示す、ステーション・プロジェクトが提案された[図14]。本人たちの弁によれば、シチュアシオニストのサイコ・ジオグラフィやシュールレアリスムを参照しつつ、人々の隠された欲望を具現化する試みである。実際、会場の模型には断片的な映像と音が挿入され、心理地図が描かれる。また模型はその大きさでも訪問者を圧倒するのだが、よく見慣れた東京の風景が、五つの鉄道に沿う群衆の動線をもとにフラクタルなパターンで変形され、パラレルな都市像を垣間みせてくれた。
むろん、プロジェクト名のは渋谷のイニシャルからとられたものに違いないが、主体のSとしても読めるし、その鏡像文字であるから、これはまさに鏡としての他者の風景なのではないか。付言するならば、夫婦でもある彼/女らのユニットは、同時に日本/西欧のコラボレーションにもなっており、「自己の中の他者、他者の中の自己」の存在に意識的だ★二五。そして自己と他者の弁証法を目指しているという。曲線を多用する彼らの形態が本当にそれにふさわしいのかという疑いはあるものの、その都市認識は大変に興味深い。おそらく、こうした塚本+貝島、牛田+フィンドレイらの建築的実践から、グローバル時代の新たな東京への参与は紡がれていくのではないだろうか。

一九九六年:巨大なガラスの黒船が完成した[図15]。一度も敷地に訪れていないラファエル・ヴィニョリが、敷地を生かした設計で国際コンペに勝利し、最大の代表作を異国に建設したのである。通常の規定をはるかに超える七パーセントの設計料を奪ったことから国辱ものとまでささやかれた東京国際フォーラムは、完成度の高さにもかかわらず、プログラム上の無駄から粗大ゴミとまで言われている。そして経済の停滞とともに、いったん海外建築家の参入は落ちつきつつある。はたしてガラスのタイタニックは沈むのか?

二二××年:冒頭のエピソードに戻ろう。二〇世紀の東京と思われたその世界は、じつは住民の知らぬままコンピュータに管理された二三世紀の宇宙船の中だった★二六。つまり、宇宙船地球号ならぬ宇宙船東京号。コンピュータが八〇年代の東京のシミュレーション世界に人々を生かしている理由は、「私たちにとって一番いい時代だから」だという。あの平和な風景は誰かの夢だったのだ[図16]。胡蝶の夢のように、人々は他者の夢の中に生きている。やがて物語では宇宙船が地球に向かっていることが判明する。そしてハリボテの東京は崩壊し、漂流する東京は自らが他者に、すなわち黒船になって地球に着陸する。リセットされたエデンの園に、バベルの塔のような偉容をあらわにして。

12──「生コンアパート」 (『インターコミュニケーション』1997、Spring、No.20)

12──「生コンアパート」
(『インターコミュニケーション』1997、Spring、No.20)

13──「メイド・イン・トーキョー」展示風景(1996) 筆者撮影

13──「メイド・イン・トーキョー」展示風景(1996)
筆者撮影

14──「ステーション・プロジェクト」 『パラレル・ランドスケープ』(TOTO出版)

14──「ステーション・プロジェクト」
『パラレル・ランドスケープ』(TOTO出版)

15──R・ヴィニョリ「東京国際フォーラム」(1996) 筆者撮影

15──R・ヴィニョリ「東京国際フォーラム」(1996)
筆者撮影

16──「メガゾーン23」(1984) 偽東京の裏側にある廃墟(劇場パンフレット)

16──「メガゾーン23」(1984)
偽東京の裏側にある廃墟(劇場パンフレット)


★一──宮台真司『まぼろしの郊外』(朝日新聞社、一九九七)の第四空間論や、鹿島茂「流行のツボ」、『朝日新聞』一九九七年一二月四日号を参照されたい。
★二──Japan, Lonely planet, 1991, p.148.
★三──B・タウト『ニッポン』(森郎訳、講談社学術文庫、一九九一)。
★四──拙稿「都市=テクスト論から都市テクスト=論へ」、『建築文化』一九九六年二月号(彰国社)。先日、筆者の会った香港の建築家マイケル・チャンは東京のカオスを面白がっていた。アジアから見る東京のカオスとは何か? このことは別の機会に考えたい。
★五──建築書としては異例の売り上げを記録した『建築MAP東京』(TOTO出版、一九九四)のほか、松葉一清の『東京ポストモダン』(三省堂、一九八五)や『東京現代建築ガイド』(鹿島出版会、一九九二)、Teku・Teku編著『魅力発見東京まち歩きノート』(彰国社、一九九七)、『東京現代建築ほめ殺し』(建築三酔人、洋泉社、一九九七)などがあり、彰国社からも東京圏の建築ガイドの刊行が予定されている。海外の視線の介在したものとしては、国際性、はかなさ、多様性などを指摘するB. Bognar, World Cities Tokyo, Academy Editions, Tajima/ Powell, Tokyo Labyrinth City, Ellipsis, 1997. のほか、クライン・ダイサム・アーキテクトのホームページ(http://www2.gol.com/users/zapkdarc/)などがある。
★六──『日経アーキテクチュア』一九八九年二月六日号(日経BP社)。
★七──同、一九八九年一〇月一六日号。
★八──同、一九九〇年四月三〇日号。
★九──同、一九九〇年一〇月二九日号。
★一〇──同、一九九一年二月一八日号。
★一一──同、一九八八年五月三〇日号。
★一二──同、一九八八年八月二二日号。
★一三──『FP』一九九〇年一月号(学習研究社)。
★一四──D. Harvey, Condition of Postmodernity, Blackwell, 1990.
★一五──拙稿「建築家という〈私〉」、『建築文化』一九九七年九月号(彰国社)を参照されたい。
★一六──S・ジジェク「イデオロギーの崇高な対象」、『批評空間』第I期第四号(鈴木晶訳、太田出版、一九九二)。
★一七──『朝日新聞』一九九七年一一月二五日号。『建築技術』一九九八年一月号。
★一八──S・ジジェク『斜めから見る』(鈴木晶訳、青土社、一九九五)。
★一九──『日経アーキテクチュア』一九八九年一二月二五日号。
★二〇──R. Koolhaas, "Architecture and globalization", Reflections on architectural practices in the nineties, princeton architectural press, 1996.
★二一──『磯崎新の革命遊戯』(磯崎新監修、田中純編、TOTO出版、一九九六)。
★二二──「30×100」建築家会議のWEB MEETING(http://www.nex.co.jp/~30by100/)における塚本由晴の一九九七年一一月一二日の発言。
★二三──『SD』一九九七年七月号(鹿島出版会)。
★二四──『STUDIO VOICE』一九九八年一月号(インファス)。
★二五──『建築雑誌』一九九六年一一月号(日本建築学会)。
★二六──上野俊哉「ジャパノイド・オートマトン」、『ユリイカ』一九九六年八月号(青土社)も参照されたい。

*この原稿は加筆訂正を施し、『終わりの建築/始まりの建築──ポスト・ラディカリズムの建築と言説』として単行本化されています。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>『10+1』 No.12

特集=東京新論

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>パサージュ

Passages。路地や横丁、街路、小路など表わすフランス語。「通過」する「以降...

>ブルーノ・タウト

1880年 - 1938年
建築家、都市計画家。シャルロッテンブルグ工科大学教授。

>黒川紀章(クロカワ・キショウ)

1934年 - 2007年
建築家。黒川紀章建築都市設計事務所。

>芦原義信(アシハラ・ヨシノブ)

1918年 - 2003年
建築家。東京大学名誉教授。

>街並みの美学

2001年4月

>鈴木博之(スズキ・ヒロユキ)

1945年 -
建築史。東京大学大学院名誉教授、青山学院大学教授。

>藤森照信(フジモリ・テルノブ)

1946年 -
建築史、建築家。工学院大学教授、東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。

>ザハ・ハディド

1950年 -
建築家。ザハ・ハディド建築事務所主宰、AAスクール講師。

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>塚本由晴(ツカモト・ヨシハル)

1965年 -
建築家。アトリエ・ワン共同主宰、東京工業大学大学院准教授、UCLA客員准教授。

>貝島桃代(カイジマ・モモヨ)

1969年 -
建築家。筑波大学芸術学専任講師。塚本由晴とアトリエ・ワンを共同主宰。

>建築MAP東京

1994年8月1日

>松葉一清(マツバ・カズキヨ)

1953年 -
建築評論。朝日新聞編集委員。

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年 -
表象文化論、思想史。東京大学大学院総合文化研究科教授。

>上野俊哉(ウエノ・トシヤ)

1962年 -
社会思想史、メディア研究。和光大学教授。