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瞬間としての保存=写真──保存の始まりと建築の記憶 | 清水重敦
Preservation as Instant, Photography: the Beginning of Preservation and Architectural Memory | Shimizu Shigeatsu
掲載『10+1』 No.23 (建築写真, 2001年03月発行) pp.141-144

保存の開始・写真の開始

横山松三郎という写真家がいる。明治五年(一八七二)前後に江戸城や日光、京都、奈良の古建築の写真を撮影している[図1]。日本の建築を保存する目的で写された最初の写真である。だが、ここに写されたものは何なのか。「建築写真」という名にはふさわしくない、と一見して思う。広角レンズによる歪み、人物を意図的に配した、わざとらしいまでの遠近感の強調。肝心なはずの建物が、多くのノイズで曖昧にされてしまっている印象を受ける。
古建築の写真のフォーマットが確定するのは、明治四三年(一九一〇)に撮影された『特別保護建造物及国宝帖』であろう[図2]。横山の写真と比べてみれば、差異は一目瞭然である。「日本建築」という呼び名にふさわしく思える後者は、今日の目から振り返ると静的で退屈にすら感じられてしまう。対して前者は決して洗練されたものではないが、なにか惹かれるものがある。
この両者のあいだには建築の保存への認識の発生から、それが制度化し、事業として軌道に乗っていく過程がある。ここに並行して、西洋的な概念である「建築」認識が徐々に生成し、「建築写真」が成立していく展開が存在するのが、日本の文脈での特異性と言えようか。だが、ここで問題にしたいのはそれとは逆で、何が写されなくなっていくのか、ということである。いかに写したか、という問題ももちろん問わねばならない。しかし、おそらくこの写真の開始期、そして保存の勃興期においては、写す側の意図ではなく、意図にならないものが拾われねばならないのだろうと思う。
被写体としての建物は、写真伝来とともに古い。それはまず、名所写真としてはじまる。近世の名所絵の延長で、名所旧跡が被写体となっていったというのはうなずける。写真は絵画の代替物だったから。では、名所を写すとは、どういうことなのか。ここに写されたものは、「建築」というよりはそれを取り巻く「場」であった。そもそも、建物を「建築」として見る認識がないのだから、曖昧な写真に見えてしまうのは当然だろう。
明治の洋風建築も、導入直後の写真の被写体によく選ばれた。だが、ここでも名所的な視覚が幅をきかせることになる。それが変質を遂げるのはいつか。つまり、建物が「建築」として撮られるようになるのはいつか。ひとつにはもちろん、新しく建てられた建物の竣工写真が挙げられる。つまり、建築の「記録」である。確実に建築の記録を目的とした写真としては、北海道開拓使の建物の記録写真や、三島通庸による山形の都市改造の記録写真がその最初期のものと言える。明治一〇年代を中心とするものである。
こうした「記録」への意志が建築写真を産んでいくことは素直に理解できる。その視線は、ほぼ同時に、竣工から時が経った建物にも向けられていく。
明治維新の際の廃仏毀釈へのカウンターとして、伝統的な建物を保存する動きが早くも明治五年ごろ起こってくる。その保存への最初の意志が、実は写真撮影というかたちで表明されていることは興味深い。横山の写真は、まさに保存への最初の意志を視覚化したものだった。保存が写真と共に立ち現われていくのは日本だけの現象ではない。フランスでも、国家による建造物保護事業が始められたとき、まず行なわれたのが建造物の台帳作成であり、バルデュスらによる写真記録であった。「保存」は、写真とともに始まっている。
日本の文脈では、まず「保存」が立ち現われたが、「建築」という概念がその後から追いかけるように成立していくという、順序の逆転がある。横山の写真も、「建築写真」というよりは、「名所写真」の延長線上で理解するのが、今の目にはしっくりくるだろう。だが、ここでは保存的な視覚のもとで、それが少しずらされているようだ。ここには、名所、つまり場と、建物とのあいだを揺れ動く視線がうかがえるように思える。建物の「保存」も、西洋風の建物の新築同様、新しい事件だったのであり、やはりそこには新しい視覚が導入されているのだろう。この視線は、のちに「日本建築」という認識のもとに投げかけられる視線とも明らかに異質である。しかし、こうして写真という方法で記録されることによって、「堂」や「社」は、「寺院建築」や「神社建築」へと転化する口火が切られることになる。

1──法隆寺大講堂(明治5年) 撮影=横山松三郎[横山家蔵]

1──法隆寺大講堂(明治5年)
撮影=横山松三郎[横山家蔵]

2──法起寺三重塔 出 典=『特別保護建造物及国宝帖』明治43年

2──法起寺三重塔

典=『特別保護建造物及国宝帖』明治43年

写真と「日本建築」

だが、日本の伝統的な「建物」が「建築」へと転化するのには、意外に長い時間がかかる。横山の写真撮影は、間接的ながら、明治一三年(一八八〇)の古社寺保存金制度へと展開する。この制度は、建物を守ろうとする意識を含むものの、その内実は古社寺の組織への援助策で、建物を「建築」化する契機とはなっていかない。結局、明治二〇年代の伊東忠太の登場を待って初めて、伝統的な建物は「建築」としてとらえられるようになっていく。
伊東忠太に始まる古建築への認識は、明治三〇年(一八九七)に古社寺保存法が成立し、「特別保護建造物」という、古建築に対する指定制度が導入され、同時に古建築の修理事業が開始されることで制度化されていく。古建築を写した写真も、この古社寺修理事業を通してフォーマットが固められていった。古社寺修理を経ると建築の形が大きく変わるので、その前後の形態変更を記録するために写真が利用されていくのである。奈良県に残された明治三〇年以降の古社寺修理の写真を見ると、最初の新薬師寺本堂、法起寺三重塔の写真には、後に見られるような安定した構図が見られない。修理を担当した建築家関野貞の日記を読むと、明治三一年(一八九八)一月二二日に写真術の研究を開始した、という記述が見られる。これは新薬師寺、法起寺の修理を終えようとする時期だった。つまり、建築家の視線が写真家の視線と絡まり合うことで、はじめて古建築は「建築」として写真に撮られていったのだ。
日本建築の写真はこの後、明治四三年の『特別保護建造物及国宝帖』に至り、そのフォーマットがほぼ完成されるようだ。この写真集は、日英博覧会のために作成された。つまり、外国に日本建築を紹介するために作成された写真集であった。「日本建築」をいかにプレゼンテーションするか、そこに建築写真の目的は収斂していく。
写真はもちろん建築の記憶を定着するものであろう。しかし、古建築に限って言えば、むしろ写真は記憶を矮小化していったように思う。明治時代の建築過程がほぼ歴史主義建築学習の過程であったことは教科書に書かれている通りである。古建築は、この歴史主義のひとつの駒に組み込まれることで「建築」となりえたし、「日本建築」としてくくられていく。同時にこの過程は、古建築をオリジナルの形態へと復原していく欲求を増大させていった。修理によって、建てられた後時間が経ってから付加されていったものが取り払われ、古建築はオリジナルの、贅肉をそぎ落とされたスリムな形に戻されていった。
保存事業に支えられた古建築の「日本建築」化が、そのイメージの画一化を導いていったことは否めない。その要因として、写真が唯一のものであったとはもちろん言えない。しかし、変えられていった建築がフォトジェニックになっていったことだけは確かである。ラスキンの警句通り、建築は記憶装置として機能できなくなってしまった。建築自体に刻み込まれた記憶も喪失されていく。
横山松三郎の視線が失われた同じ明治四三年に、建物の保存と絡んで、別種の写真が撮られている。建築家中村達太郎が写した東京の擬洋風建築の写真群である[図3]。明治一〇年前後に建てられた擬洋風の建築は、築後三〇年経ったこのころから取り壊しの対象とされていった。歴史主義の習得への自信から、自らのたどってきた道が不要なものと思われるようになってきたのだろう。だが、中村は、西洋建築でも「日本建築」でもない建物、そして「建築」でもない「建物」を、崩れ落ちんとする姿で写真に収めていった。この写真は『特別保護建造物及国宝帖』とは決定的に違う位相にある。「記録」という意味での保存はここから始まったと言えるだろう。
写真開始当初、それは「建築」と結びつく以前に、まず場を写し込んだ。それは「保存」意識を呼び起こす。「場」と「建物」との間を揺れ動く曖昧な意識である。また、その「保存」が制度化したとき、別の保存意識が立ち上がり、再び写真に新たな感覚が定着されていった。そこには多くの記憶がすり込まれているように思われる。

3──東京医学校本館(明治43年撮影) 出典=『東京大学本郷キャンパスの百年』(東京大学総合研究資料館、1988)

3──東京医学校本館(明治43年撮影)
出典=『東京大学本郷キャンパスの百年』(東京大学総合研究資料館、1988)

写真・時間・記憶

写真のなかに定着される記憶は、建築の時間的価値と関係していると言えないだろうか。アロイス・リーグルは、歴史的に形成されていく価値を記念碑的価値、歴史的価値、古びの価値(エイジ・ヴァリュー)の三つに分類した★一。建物の時間的価値というと、歴史的価値と同義と考えてしまいがちだが、建物が経ていく時間のなかでの持続的な変化を価値と認めるエイジ・ヴァリューをそこから区別して提示したところに、リーグルの新しさがあった。写真の記憶と建築の記憶とは、このエイジ・ヴァリューで結びつくのではないかと思う。フォックス・タルボットが、建物の写真を「self-representation」だと語ったとき、そこに写し撮られたものも建物のなかに流れる時間ではなかったか。
だが、日本の古建築に向けられた写真的な視覚は、歴史的価値と関連づけられていった。ある時点での建築の形態の変化が記録されたとしても、その写真は両者の形態的対比を強調しはするが、建物が経てきた時間を記録することはできない。その意味では、日本の古建築の写真化は、価値の単一化、そして記憶の単一化を結果してしまったのかもしれない。代わりに、写真と被写体への認識との距離は限りなく近づけられていく。
いかに写すか、という課題が明確に意識されてきたときにはすでに、写される対象も明確な枠組みで認識されるようになっていた。その結果は、写し込まれた記憶の限定であったように思う。逆に、いかに撮るか、という認識が極小化される瞬間に、建築それ自体がもつ記憶が、写真のなかに定着されるような気がしてならない。「保存」意識が発生するときが、まさにその瞬間にあたる。
写真は、「保存」意識が顔を出した瞬間を定着した。そこには、ものそのものの語りが定着される。横山松三郎の写真には、曖昧ながらも異様な力で迫ってくるものが感じられる。中村達太郎の写真もしかり。無意識な部分にこそ、記憶は宿っていく。


★一──Alois Riegl, Der moderne Denkmalkultus: sein Wesen, seine Entstehung (近代のモニュメント崇拝──その本質と起源)、一九〇三。

参考文献
金子隆一「写真のなかの建築」(全一五回)『建築知識』一九九三年一月号─一九九四年一一月号。
港千尋『記憶 「創造」と「想起」の力』(講談社選書メチエ、講談社、一九九六)。
五十嵐太郎「共同体建築のアルケオロジー  第六回  時間よ止まれ」『建築文化』一九九七年五月号。
拙稿「建築写真と明治の教育 東京大学大学院工学系研究科建築学専攻古写真解題」『学問のアルケオロジー』(東京大学、一九九七)。

>清水重敦(シミズ・シゲアツ)

1971年生
独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所。文化遺産部 景観研究室長/建築史学、建築保存論。

>『10+1』 No.23

特集=建築写真

>建築写真

通常は、建築物の外観・内観を水平や垂直に配慮しつつ正確に撮った写真をさす。建物以...

>港千尋(ミナト・チヒロ)

1960年 -
評論家、写真家。多摩美術大学美術学部教授。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年 -
建築史。東北大学大学院工学研究科教授。