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「周縁都市の将来」──幕張 | 米田明
"The Future of Peripheric City",Makuhari | Yoneda Akira
掲載『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容, 1994年05月01日発行) pp.173-179

駅を下りると視覚によるスケールの把握に先だち、パノラミックに広がった空気があらゆる方向からダイレクトに皮膚に迫りくるような、空虚でありながら妙に高揚した感覚をもたらす、新都市のヴァーストネス(Vastnes)に出会う。そしてそのさらに向こうに、林立するタワークレーンのシルエットが見えた。

1 幕張新都心住宅地区


「東京臨海副都心」、「よこはまMM21」と並んで東京湾岸の代表的ウォーターフロント開発地のひとつとして挙げられる、幕張の新都心エリアでは、都心居住機能を担う住宅を主体とした街づくりの第一期工事が開始されている。その住宅地区は、JR京葉線海浜幕張駅を中心とした、高層オフィス群、日本コンベンションセンター(「幕張メッセ」)、ホテル群などからなる中枢業務地区の南東に、幕張海浜公園を介して隣接し、面積約八四ヘクタール、全新都心エリアの約一六パーセントに相当する広さをもっている。計画人口は、二万六千人。全計画戸数は一○年の期間をかけて建設され、最終的に八、九○○戸に達するという。当初の予定では、一九九四年三月に入居開始、二○○一年三月に全体計画の完成が目論まれていたが、昨今の景気低迷により第一期工事が約一年遅れて着工し、今後の予定も景気動向を睨んだものに修正されていくことになろう[図1]。
そもそも新都心エリアの住宅地区計画は、一九七○年「海浜ニュータウン」として計画されたものに端を発するが、オイルショックなどの影響で中断された後再び幕張新都心整備計画の全体計画のなかで、現在の住宅地区が設定された。一九八三年にはそのエリアにもとづいた住宅地計画が作成されるが、一九八七年の「幕張メッセ」並びに最初の高層オフィスである「幕張テクノガーデン」の着工や京葉線の東京乗り入れの決定に伴い、新都心のヴィジョンがより高度化かつ現実化するにつれ、将来の就業人口の増加を見込んだ質の高い住宅供給が、再度検討されることになった。現在工事が進められている計画は、一九八八年に基本計画策定委員会の提言したマスタープランに従っている。
その都市基本計画のマスタープランでは、まず最初に方位からではなく、晴れの日には東京湾の向こうに遠望することのできる富士山への軸線をもとに、基準となる都市グリッドが設定される。これは、人工台地にもたらされるニュータウンの「無場所性」を富士山との関係を担保に場所化、構造化するものである。そのグリッドの上には、富士山への眺望を確保するための海へ開いた三本のストライプ状のオープンスペースが、オーバーラップされる。このオープンスペースは、公園や学校の校庭を連続させたものでコミュニティーベルトと名づけられ、自然とのあるいは人々どうしのコミュニケーションが目論まれる。そしてそのコミュニティーベルトに挟まれた中央部のグリッドには、六層程度の中層住棟がインフィルされる。周辺部には高層住棟、超高層住棟が足元を中層住棟によって取り囲まれるようなかたちで配され、さらにその外周部には公園緑地が巡らされることになる[図2]。

1──幕張新都心土地利用計画図(千葉県企業庁)

1──幕張新都心土地利用計画図(千葉県企業庁)

2──都市デザイン・ガイドラインによる検討で作成された街区の全体像。 渡辺定夫[編著]『アーバンデザインの現代的展望』(鹿島出版会、1993)

2──都市デザイン・ガイドラインによる検討で作成された街区の全体像。
渡辺定夫[編著]『アーバンデザインの現代的展望』(鹿島出版会、1993)

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>米田明(ヨネダ・アキラ)

1959年生
アーキテクトン主宰。京都工芸繊維大学准教授。建築家。

>『10+1』 No.01

特集=ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容