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バウハウスと論理実証主義 | 米田明
Bauhaus and Logical Positivism | Yoneda Akira
掲載『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999, 1999年06月発行) pp.174-184

一九二六年一二月四日に催されたデッサウのバウハウス新校舎の落成式には、一五〇〇人以上の来賓が出席した。彼らは、主要な政治家、経済人、官僚たちに加え、内外から招かれた著名な建築家、芸術家、学者らであった[図1]。ハンネス・マイヤーは、そのなかのひとりとして初めてバウハウスを訪れる。かつての「ABC」グループでの同志であったマルト・シュタムに伴ってのことだった。マルト・シュタムは、すでにロッテルダムで《ファン・ネレ・タバコ工場》[図2]の設計に中心的人物として関わっており、グロピウスからもちかけられたバウハウスに新設される建築部門の常勤ポストへの招聘を断った手前、代わりとなる人物をグロピウスに紹介する心づもりがあった。グロピウスは、バウハウスに建築の工業規格化、もしくは大量生産化に適った技術的・科学的アプローチを探求する建築部門を新たに設立しようとしていたのだった。その一方で新校舎建設と並行してデッサウへのバウハウス移転に際し支援をうけた地元のユンカースやアグファといった先端企業の期待に応えるべく、デッサウ郊外のテルテンにそうした企業の勤労者のための市営集合住宅[図3]を計画中であった。この計画の背景には、ワイマール共和国の社会介入政策による一九二四年から始まり経済恐慌が勃発する二九年まで続く住宅建設の国家的支援がある★一。第一次世界大戦後、きびしいインフレに悩まされ続けたドイツは深刻な住宅不足に見舞われていた。そこで二四年に一五パーセントの家賃税が導入され、それが住宅建設の行政的中心となる住宅援護協会の財源となると、その助成によってとりわけ市街地の集合住宅や衛星都市の郊外団地が数多く計画されることになる。一九二五年以降ベルリンではブルーノ・タウトとマルティン・ワグナーが、フランクフルト・アム・マインではエルンスト・マイが、巨大なジードルンクを建設することになるが、結果的に二五年から二九年までの間にほぼ六万四〇〇〇戸の住宅が住宅援護協会の支援によって建てられる(これに対して個人的に建てられた住宅はわずか三万七〇〇〇戸にすぎない)。テルテンのジードルンクもそうしたワイマール共和国の社会民主主義的政策の支援を受けたものであり、グロピウスの個人事務所が設計を担当して、一九二六年から二八年にかけて最終的に三〇〇〇戸余りの住戸が建設されることになる★二。

1──バウハウス・デッサウ新校舎、1926年12月4日 The Dessau Bauhaus Building 1926-1999, 1998

1──バウハウス・デッサウ新校舎、1926年12月4日 The Dessau Bauhaus Building 1926-1999, 1998

2──《ファン・ネレ・タバコ工場》スケッチ Simone Rümmele, Mart Stam, 1991

2──《ファン・ネレ・タバコ工場》スケッチ Simone Rümmele, Mart Stam, 1991

3──グロピウス《テルテン・ジードルンク》建設現場配置図

3──グロピウス《テルテン・ジードルンク》建設現場配置図

4──同、建設現場

4──同、建設現場

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>米田明(ヨネダ・アキラ)

1959年生
アーキテクトン主宰。京都工芸繊維大学准教授。建築家。

>『10+1』 No.17

特集=バウハウス 1919-1999

>バウハウス

1919年、ドイツのワイマール市に開校された、芸術学校。初代校長は建築家のW・グ...

>ブルーノ・タウト

1880年 - 1938年
建築家、都市計画家。シャルロッテンブルグ工科大学教授。