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直線か、曲線か──伊東忠太と岸田日出刀を中心に | 五十嵐太郎
A Straight or Curved Line?: With a Focus on Chuta Ito and Hideto Kishida | Igarashi Taro
掲載『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築, 2000年06月発行) pp.119-129

焦土の幾何学

「あーきれいだ、絵画的だなー」★一。
疎開先の山梨から東京に戻り、強い夕日を受けた褐色の焼跡を見て、甚だけしからないことだと思いつつ、東京帝国大学教授の岸田日出刀はこうした感想を抱いた。彼にしてみれば、戦前の「街の姿のあまりの醜さを毎日みせつけられてウンザリしていた」し、防空の観点から木造都市の危うさをさんざん警告していたわけだから、むしろさっぱりしたというのが本音だったのだろう。それは理想の近代都市を実現するチャンスだった。建築家でもある彼は「欧米の整然とした都市」と比較して、「日本の都市の混乱ぶりとあるまじき猥雑さを何よりも悲しく思つた。それはただ家が建ち並び、その間を人の群が蟻のやうに集つて右往左往するだけのものである」と批判していたからだ★二。
戦災により、醜い過去の街はなくなった。この際、岸田は高層化と不燃化を推進し、広場を含む、都市計画を造形しなければならないと説く。「よりよい街区」についてのはっきりした説明はないが、おそらく矩形の街区が続くものと思われる。彼は二〇代のときにオットー・ワグナーを研究していたが、その都市計画も影響を与えただろう。岸田の整理によれば、「都市計画上に於ける、故意の不規則をワグナーは極力不可とする」とともに、「大都市として新しく表出さるべき美しさは、秩序と統一に外ならずとする」★三。実際、岸田の研究書に収録されたワグナーの理想都市(一九一二)は、軸線をもつ広場を中心に整然とグリッドの街区が広がっている[図1]。
ただし、ワグナーの案が石や煉瓦造による五、六階程度の建物から構成されていたのに対し、岸田は都市の混乱や衛生の問題を解決するために、より高いスカイスクレーパーの導入を提案した。ここで彼はル・コルビュジエの「パリ改造計画」を参照している。ル・コルビュジエの計画は、密集した既存の建物をすべて取り壊し、そこに十字形平面の高層建築を建てることにより、十分な緑地を確保して快適な都市生活を構想するものだ[図2]。これをパリに実現することはおよそ不可能かもしれないが、焦土と化した東京ならありうる。岸田はそう直感し、焼け跡を美しく感じたのかもしれない。彼は東京という白紙のキャンヴァスに描かれるべき、整然とした幾何学の都市を幻視した。

1──O・ワグナー、ウィーン22区の都市計画、1912 出典=岸田日出刀『オットー・ワグナー』

1──O・ワグナー、ウィーン22区の都市計画、1912
出典=岸田日出刀『オットー・ワグナー』

2──ル・コルビュジエの構想した現代都市 出典=ル・コルビュジエ『ユルバニスム』

2──ル・コルビュジエの構想した現代都市
出典=ル・コルビュジエ『ユルバニスム』

ル・コルビュジエは『ユルバニスム』(一九二四)において、ぐねぐねと曲がったまぬけなろばの道を批判し、真っ直ぐ目的をもって進む人間の道は直線の街路であるべきだと主張していた★四。そして人間は合理的な幾何学を好むから、道路が直交したグリッドの都市計画が良いという。なるほど、曲線は中世の非合理性に対応するが、直線は近代の機能主義にふさわしい。キャサリン・イングラハムは、このろばがモダニズムに対する抵抗、ごてごてとした装飾、のろまな歴史主義といったものの回帰的な形象であり、「直交性は文化を自然に対してヘゲモニー的な優位に保ち、文化における自然の痕跡を消し去ることを目論む」と指摘した★五。こうした価値判断は言葉にも内在するだろう。そもそも、フランス語のdroit(e)は、直線や直角のことであるが、正義や権利も意味している。英語のstraight も直線、正しさ、異性愛などを指す言葉だが、out of straight は「曲がって」、「ゆがんで」、「不正に」を含意し、curveは曲線のみならず、ぺてんやごまかしという悪い意味をもつ。近代の美学は曲線を排除しなければならない★六。

岸田日出刀の美学と直線

岸田は、建築に関連してはっきりと直線に言及し、肯定的に評価した。しかし、それは必ずしもモダニズムの建築を指して述べたのではない。例えば、伊東忠太の設計した《朝鮮神宮》(一九二五)がもつ「直線の巧みなコンビネーションで構成された建築美」を論じながら、こう述べている[図3]。

3──伊東忠太《朝鮮神宮》1925  出典=岸田日出刀『過去の構成』

3──伊東忠太《朝鮮神宮》1925

出典=岸田日出刀『過去の構成』

平安朝以後の神社建築の中には、大陸的建築手法の感化影響を多分に受けたものがある。線も直線の外に曲線が自由自在に駆使され、(…中略…)外観上の華麗さは眩ゆいばかりに輝くものも少なくないが、さうしたものにはあまり深い感激を覚えることはできない。
(…中略…)線には各種各様のものがあるが、その基本は直線であり、線がこの基本形式から遠ざかれば遠ざかるほど、我々への引力は弱められると考へてよかろう。曲線から直線へ、楕円から円へ、不整四辺形から正方形へ、そこに現代が見出される★七。


つまり、曲線から直線への移行が、建築の現代化(朝鮮神宮やモダニズム)と仏教以前の起源回帰(伊勢神宮など)を同時に示している。そして岸田は同じ本のなかで、靖国神社の鳥居をとりあげ、「水平に二本、垂直に二本の直線を素材として構成されたこの神明鳥居の美しさと神々しさは、我々に数しれぬ啓示を与へてくれる」と言い、「形と構造との原形と極致」をもつと述べた。直線という属性が日本古来の神社建築と結びつく。反対に、曲線は仏教建築の固有性となり、大陸文化の影響だとされる。彼は師である伊東に傑作が多いのは神社だと指摘し、いささかファナティックなまでに称賛している。例えば、靖国神社の神門については、「護国の英霊を祀る社殿への神門として、規模雄大・手法簡明で荘重の気品に満ちている。(…中略…)わたくしはこの神門の建築としてのすばらしさに心打たれる」と、伊東の神社全般については、「妄りに新意匠を弄ぶといふような点は微塵もみられない。あくまでも古式に忠実であり、(…中略…)傑れた古式神社の建築がもつ荘重森厳な雰囲気に満ち溢れており、礼拝する人の心を打たないではおかない」と言う★八。
日本建築の美しさは古代から続く神社建築の直線性にあるかのようだ。こうした岸田の考えは伊東から影響を受けたものなのか。岸田は伊東の伝記をまとめており、忠実な弟子と言えるだろう。例えば、戦災で焼失した明治神宮の再建(一九五九)において、木造と鉄筋コンクリート造のどちらを選ぶかで論争が起きたときも、岸田は伊東の神社木造論を継承して木造に決定させたことがある★九。しかし、ポストモダン以後、伊東忠太の作品はシンプルな神社よりも、《築地本願寺》(一九三四)や《震災記念堂》(一九三〇)など、装飾が多い仏教的なもののほうが注目されており、岸田とは異なる評価が流通している[図4]。戦前への反動もあるだろうが、どうやら伊東は過剰な部分をもっており、単純に岸田の紹介した像に還元できないようだ。次に伊東の言説を検証してみたい。

4──伊東忠太《震災記念堂》1930 筆者撮影

4──伊東忠太《震災記念堂》1930
筆者撮影

伊東忠太の進化論と曲線

よく知られているように、伊東は最初に「法隆寺建築論」(一八九三)を書いて、日本建築史学を創始したとされる [図5・6]。同論では、結論のひとつに「柱は『エンタシス』の曲線より成る」を挙げて、柱の膨らみ、すなわちギリシアの古典建築にも通じるエンタシスに注目し、東西交渉の結果として高く評価した★一〇。当時、日本建築史の必要性を感じていた辰野金吾は伊東の論を絶賛し、強い期待を寄せている。言うまでもなく、このエンタシスは曲線的なものである。後に彼は「エンタシスの如き微妙なる曲線は芸術的感覚がきわめて鋭敏であり」、中国もかつては直線ばかりの時代があったことなどを指摘し、曲線の繊細さにこそ日本性を見出していた。例えば、法隆寺の特徴的なディテールである雲斗や雲共の曲線は大陸から伝来したものではなく、聖徳太子が「新たに図案なされたもの」と推測する。そして忍冬唐草模様はギリシアで誕生したが、約千年をかけて文化的に不毛な地帯も経由し、日本にたどりつき、「芸術的才能の豊な我国民によつて洗練され、一層美化された」と言う★一一。

5──法隆寺金堂 筆者撮影

5──法隆寺金堂
筆者撮影

6──法隆寺とパルテノン神殿を並べた 『建築雑誌』の表紙 出典=『建築雑誌』133号、1898

6──法隆寺とパルテノン神殿を並べた
『建築雑誌』の表紙
出典=『建築雑誌』133号、1898



とすれば、伊東は当初、曲線に関心を抱いていたのではないか。法隆寺論の翌年、やはり彼は『建築雑誌』において「日本建築術に於ける曲線の性質を論す」を連載している。議論の内容を見よう★一二。まず彼は、霊妙な風景や日本の山河は「形態奇趣に富み」、曲線から構成されていると指摘して、日本建築の曲線への注意をうながす。次に曲線は直線よりも数学的に「高次の線」とし、美術において重要なものと位置づける。彼によれば、「我が日本建築の外形は大概千遍一律にして変化極めて少なし、之れ我が日本建築に於ける最大弱点」だとして、神明造はプリミティヴな形式だと言う。が、「幸にして我国建築術に於ては曲線の応用頗る啓発し、往々甚た高尚なる曲線を其間に見る、而して其精の凝る所粋の聚る所は、発して絵様となり彫刻となり、燦然たる光彩を建築界裡に放つことを観察すへきなり、余故に以為らく我が日本建築術の命脈は僅かに其形式を構成する曲線に依て以て之を維持するもの」と強調する。ただし、ロココや中国のように曲線を濫用するのは悪弊とし、日本はそれを巧みに回避すると言う。
伊東は、ほとんどのギリシアの模様が楕円の弧から成るという説を紹介し、日本建築も「高次の曲線」から構成されることを証明しようとする。つまり、西洋美術の古典であるギリシアと学問の王者である数学と接続させることにより、日本建築がもつ世界的な普遍性を論じるのだ。具体的な分析を見よう★一三。彼は曲率の観点から曲線を三つに分類し、日本建築の細部にそれを「発見」する[図7・8]。第一に円周であり、破風などに使われる。第二に曲率に変化のあるもの。二次方程式としては、肘木が放物線、垂木や虹梁が楕円、さらに高次の方程式としては、茅負が懸垂線の一部であると言う。第三に反対曲率のあるもの。唐破風、雲形肘木、懸魚などに認められる。そして重量を平等に配分するために肘木は曲線形になったと見なし、ヴィオレ=ル=デュクの構造合理主義的なゴシック解釈を彷彿させる。つまり、伊東はエンタシスの問題をさらに疑似科学的に発展させたのだ。現在の日本建築史ではこうした説明は採用されないが、それだけに彼の思い入れがうかがえる議論と言えよう。

7──楕円の曲線をもつ巻斗の分析図 出典=『建築雑誌』95号、1894

7──楕円の曲線をもつ巻斗の分析図
出典=『建築雑誌』95号、1894

8──楕円と放物線をもつ唐破風の分析図 出典=『建築雑誌』96号、1894

8──楕円と放物線をもつ唐破風の分析図
出典=『建築雑誌』96号、1894

曲線の展開は伊東の進化論的な歴史観と結びつく。彼の整理によれば、神社の建築史は、直線的な大社造や神明造の時代を経て、春日造や流造が登場する「曲線形適用の時代」に移行した★一四[図9・10]。そして近世の八棟造は最も複雑に発達し、最も意匠に富むと高く評価しており、近代における神社の標準設計は変化と進化を阻害するものとして批判する★一五。伊東は、明治以降の日本建築のカオス的な状況を決して否定的には考えていなかった★一六。むしろ、「百鬼夜行のやうでないならば、それは建築の停頓である」とし、建築が元気であり、将来に発達する兆しと捉えている。進化論的には、適者が生き残るというわけだ。ところで当時、「曲線形適用の時代」以前に曲線がなかったとする単純な図式への疑問がなかったわけではない。武田五一は屋根の膨らみや円柱を見れば、古代が「全くの曲線を使はない時代とは認められない」と攻撃した★一七。これに対し、伊東は「創立の際には決して曲線形に葺く」ことはなかったと述べ、「自然の丸木を使つた結果で曲線が出来たのと、意匠の上から曲線を考案」したものは違うと、苦しい答えを出す。

9──神魂神社(大社造)、1583 筆者撮影

9──神魂神社(大社造)、1583
筆者撮影

10──円成寺春日堂・白山堂(春日造) 筆者撮影

10──円成寺春日堂・白山堂(春日造)
筆者撮影

伊東によれば、日本に曲線をもたらしたのは仏教建築である。古代は「曲線の適用なく、乾固なる水平線、鉛直線及斜線を以て寧ろ階調(ハーモニー)」に欠けていたが、「仏教と共に曲線を伝ふるや、建築の形式全く一変して彼の乾固なるものは此の優秀なる寺塔の建築となり」、「我が建築術は仏教渡来に由て始めて大成せり」という★一八。そして以下のように明言した。

本邦仏教渡来以前に在ては未だ曾て『アーキテクチュール』の真正の意義に適するか如き芸術あるをなく我邦に建築術を起したるものは実に仏教にして、我邦建築の観るへきものは殆んと常に仏教的のものに限り、我邦建築の沿革は即ち仏教建築の沿革に外ならさる。


裏返せば、古代の神社は芸術的な「建築」ではない。しかし、後に神社は別のレヴェルの日本的なものを設定することにより、自然的なものとして回収されるだろう。ほかにも伊東は天平時代の装飾を論じながら、「日本の総ての種類の芸術が皆仏教渡来を発足点」とすること、正方形と半球を組み合わせ、「直線と曲線の妙配合」をもつ多宝塔は日本の仏教建築において「最も形の優秀なるもの」だと書いている★一九[図11]。つまり、仏教のもたらした曲線の導入により、日本の建物は「建築」に進化したのだ。
伊東が構想したのは、単に史実を時系列的に並べた「沿革」ではなく、明確な切断線をもつ「歴史」である。基本的には、フェノロサや岡倉天心らによる仏教美術の再評価から日本美術史が始まったことに影響を受けたのだろう。仏教を通して、美術は世界に接続する。そこに単純な直線から複雑な曲線へという進化論が重ね合わされた。そもそも最初に導入した西洋美術史的な分析手法は、仏教建築に使いやすかったものではなかったか。当時、伊東や塚本靖は、構造の研究よりも、あまり建築的と言えない、模様や装飾の分析を積極的に試みている★二〇。そして様式論や装飾論が主導した日本建築史は、将来の「様式」を模索していた建築家にも役立つものだった。実際、明治後半の歴史主義建築にとって、細部を埋める装飾は大きな問題である[図12]。が、法隆寺再建論争で文系に敗北し、文献実証主義に傾く日本建築史は、直接にはデザインに使えない学問に変わっていく。そして現在の日本建築史は、もはや直線/曲線を神社/寺院と対応させず、直線的/曲線的という単純な説明も使うことなく、日本的なるものの説明にもきわめて慎重になっているようだ★二一。

11──石山寺多宝塔、1194 筆者撮影

11──石山寺多宝塔、1194
筆者撮影

12──J・コンドル、司法研修所の イスラム風室内装飾、1896 筆者撮影

12──J・コンドル、司法研修所の
イスラム風室内装飾、1896
筆者撮影

アール・ヌーヴォーと日本的な曲線

明治末、曲線を日本建築の特徴とする考えには追い風があった。世紀の変わり目にヨーロッパを席巻したアール・ヌーヴォーである[図13]。国会議事堂のデザイン問題に触発され、一九一〇年に日本建築界をにぎわした討論会「我国将来の建築様式を如何にすべきや」から興味深い意見を拾いだしてみよう。三橋四郎は、近頃の西洋では旧来の建築様式とは違う「『ヌーボー』式や或は『セセッション』式と云ふものが流行し始め」たが、「日本の趣味が余ほど這入って居る」と指摘した★二二。彼は曲線に言及していないものの、曲線的な装飾を特徴とするアール・ヌーヴォーが日本的だと考えられた背景には、日本は曲線を多用するという前提があったと見なしてよいだろう。西洋の文化を受け入れるばかりの日本建築界にとって、日本的なデザインを輸出したかもしれないアール・ヌーヴォーは痛快な様式だった。ただし、日本の建築様式をアール・ヌーヴォーにせよと主張したわけではない。実際、この議論の頃アール・ヌーヴォーは終息し、より直線的なセセッションが流行していた。ほかにもアール・ヌーヴォーと日本趣味を結びつけた意見としては、松井貴太郎が「(西洋の新様式の)其曙光は必ずや日本趣味に、触れたるものだらうと思ふ、(…中略…)光琳趣味は、彼等の手に入つて、仏国に新芸術(アール・ヌーヴォー)が生れた」と述べている★二三。曾根達蔵は前述の討論会において、「欧米各国が日本の影響を蒙つて居る」事例としてアール・ヌーヴォーを挙げている★二四。世紀末にパリへ留学した塚本は、現地でアール・ヌーヴォーの知識を得ているが、前述したように、法隆寺など、曲線の強い装飾や模様の研究を行なった。また武田五一は一九〇〇年にヨーロッパ留学しアール・ヌーヴォーに感銘を受け、日本で最初にデザインに導入したが、同時に円や正方形などの幾何学を用いて古建築のプロポーションを分析している★二五[図14]。アール・ヌーヴォーは西洋にとっては過去との断絶を意味したが、日本にとっては仏教系デザインとの連続性を感じさせたのではないだろうか。いわば、直線は西洋的、曲線は東洋的というオリエンタリズムを受け入れ、素直に喜んでいる。おそらく、曲線は世界につながる回路だった。

13──V・オルタ、自邸の階段室、1898 筆者撮影

13──V・オルタ、自邸の階段室、1898
筆者撮影

14──武田五一、室内意匠習作、1902 出典=『JAPANと英吉利西』世田谷美術館、1992

14──武田五一、室内意匠習作、1902
出典=『JAPANと英吉利西』世田谷美術館、1992

やがてモダニズムの勃興とともに、直線が曲線的なアール・ヌーヴォーに勝利し、曲線を注目する傾向はすたれていく。が、昭和期に建築史家の藤島亥治郎は、古建築における曲線を重視していた★二六。「日本建築は本来が直線の構成である」のだが、直線ばかりだと退屈でとげとげしいから、伊勢神宮の「御屋根の凸曲面」のように微妙な曲線を加味すべきだと述べている。ただし、エジプトや古代西アジアは単調な風景に単調な建築が合うと言う。彼によれば、パルテノンは双曲線、法隆寺は双曲線や放物線が使われており、「高次の代数式で示されるほど美しい線である」。そして「意匠的に劣ると云はれるローマ建築は直線・円・楕円の程度の線以上は出ていない」と見なす。この後、議論はハンビッジのダイナミック・シンメトリー論の紹介に移行するが、基本的には伊東忠太による日本建築の曲線分析に影響を受けたものだろう。

モダニズムと直線の伝統

岸田日出刀は「欧州近代建築史論」をまとめて学位を取った後、一九三〇年代から特徴的な日本建築論を展開する。英文による外国人向けの日本建築紹介の本ではこう書かれていた★二七[図15]。「日本建築で用いられる線は直線に基づいており、屋根に見られるような曲線は大陸から影響されたもので、純粋な日本趣味ではない」。最も日本趣味の建築は古代の神社、中世の茶室、現代の民家である。直線は平面において顕著であり、木造にとって最も合理的なものであり、立面や断面もそれに従う。そして日本の屋根は中国の屋根よりもやわらげた曲線を用いたと指摘する。同様の論旨は『日本建築の特性』にも認められる★二八。「日本建築の造形上の一つの大きな特徴として、わたしはその『直線性』といふことを特に指摘したい」と言う。それが「日本精神」の表現にもなる。彼は「簡素明快」な伊勢神宮を絶賛し、法隆寺は確かに素晴らしいが、「純粋な日本的の美しさというふ厳密な篩を通さうといふ段になれば、多くの難点がそこに見出されよう」と論じた。つまり、仏教的なものを日本的なるものから注意深く排除している。

15──H. KISHIDA, JapaneseArchitecture.

15──H. KISHIDA, JapaneseArchitecture.

ある時、外国の新聞記者から出た「神社と仏寺の建築的表現はどこがちがふか、我々には全く同じとしか感じられぬが」という質問に対し、岸田はこう答えた★二九。

神社建築の形体上の表現の特徴は、素木造りで直線を主とし、金銀萬彩の装飾を一切附けず、その全体の輪郭も部分的の取扱も、つとめて素朴簡明を旨とする。これに反し仏寺には曲線を豊富に応用し、更に色彩や装飾をふんだんに使ひ、全体として複雑華麗を旨としている。


彼は明快に神社と寺院を二項対立的なものとして位置づけた。確かに伊東も直線と曲線を軸に神社建築を整理していたが、岸田は神社と寺院のビルディング・タイプの違いに対応させて思い切った単純化を試みている。それは異国の眼から見れば、神社も寺院も、日本も中国も、すべて同じ枠組みに回収されてしまうことを恐れたからにほかならない。デザイン論における神仏分離である。中国の影響を受けた装飾の多い曲線的な仏教建築に対し、神社建築は日本の純潔を維持し、単色性・開放性・無装飾・直線的なものだ。言うまでもなく、それはモダニズムの美学に直結する。
こうした岸田の議論はブルーノ・タウトの著作と共振している。一九三三年にタウトは日本を訪れ、精力的に日本建築論を執筆した。到着の翌年に発表した『ニッポン』では、日本の建築史を二系統に分け、天皇─神道的な建築(伊勢神宮、桂離宮、農家など)と将軍─仏教的な建築(寺院、屋敷、日光東照宮など)の構図を描き、前者を日本的とし、後者を中国からの輸入品だと論じている★三〇。伊東の構想では、法隆寺を媒介して日本建築は国際性を獲得したが、岸田やタウトの場合、伊勢や桂離宮がもつ真の日本性が反転して真の国際性になるだろう。伊東は法隆寺とパルテノン、タウトは桂離宮とパルテノンを比較した。ちなみに、ル・コルビュジエは自動車とパルテノンの写真を並列している。
ともあれ、直線と曲線の強引な二分法は、日本建築の内部に巣くう悪しき他者を中国に押しつけるものだった。純粋な日本建築という虚構を成立させるために。かつて伊東は、ファーガソンの名著とされた建築史に日本文化はすべて中国の模倣であり、特に語る必要がないと書かれたことに憤慨した。ゆえに日本と中国の建築を分離させねばならない。伊東は曲線に魅せられながらも、その過剰な使用は中国的なものとした。若い頃の岸田も曲線を多用する表現主義のメンデルゾーン的なものに感化されており、卒業設計のロマン的な監獄(一九一六)や《安田講堂》(一九二五)など、初期の作品にも影響がうかがえる★三一[図16]。とすれば、彼の直線崇拝は、青年時代に愛した曲線の記憶を抑圧するものでもあった。

16──岸田日出刀「監獄建築の計画」1922 出典=『岸田日出刀  上』

16──岸田日出刀「監獄建築の計画」1922
出典=『岸田日出刀  上』

当時、岸田以外にも直線を日本的なものと見なす考えは流布していた。一九四〇年代に書かれたいくつかの日本建築史を見てみよう。足立康の『日本建築史』の冒頭は、五十鈴川のほとりにあって「崇高森厳の気にうたれる」伊勢神宮の描写から始まるが、仏教伝来以前を「純日本建築様式発展時代」と位置づける★三二。続いて「上古の日本建築は、植物的材料を用ひ、単純で清楚で、且明朗である」こと、「輪郭は殆ど直線形より成り」、「屋根の形は主として直線形」であること、そして「必要と美の一致」が見られると言う。彼は遺構を中心にした様式史的な立場をとれば、どうしても仏教建築史に傾くのを認めながらも、その前段階の特徴を日本的なものとして論じている。伊東が建築史を創設した頃、視野の外にあった失われた上古の建築が、いまや日本的な「建築」として持ちあげられた。関野克の『日本住宅小史』も、「上古屋根は直線的であつたが、仏教建築の影響を受けて、屋根自体並びに軒に反りを生じた」と指摘した★三三。
田邊泰の『日本建築の性格』では「上代の神社建築は、その造形構成に於ては実に純一無二なる日本精神の象徴」であり、「直線的な意匠」を特徴に挙げている★三四。同書は総論の後、ビルディング・タイプ別にまとめているが、最初に「神社建築の性格」、次に「寺院建築の性格」という構成をもち、前者に「原日本的性格」を指摘した。現在でも通史として使われる太田博太郎の『日本建築史序説』も、伊勢神宮は「曲線の使用は全くなく、直裁簡明な構造意匠である」とし、後の改訂で増補した「日本建築の特質」の章では「日本の建築は、その表現が直線的」と断定する★三五。彼が中国建築との比較を繰り返しながら、日本建築の特徴を抽出しようとしたことは留意すべきだろう。他者として規定されているのは、大陸であり、中国だった。西洋からは同系統と見なされてしまうがゆえに、日本建築史は中国との差異を強調するのに必死だったのではないか[図17]。そして中国をおいてけぼりにして、日本建築は西洋発のモダニズムという時代の先端への接続を試みた。

17──紫禁城、北京 筆者撮影

17──紫禁城、北京
筆者撮影

戦後すぐに星野昌一が書いたデザイン論も、こうした考えを継承している。彼は『建築意匠』において、日本建築と現代建築に共通した直線的構成は機械生産に便利であるが、曲線の多い東洋建築は煩雑な労働と技術を要するために民主的なものには合わないと言う★三六。ここでは民主主義論と生産論が加味されている。なお、星野は東京大学で教えており、同書の序文は同僚の岸田が書いていた。五〇年代にジャーナリズムをにぎわせた弥生的なものと縄文的なものによる伝統論争は、直線と曲線の対立構図を変奏したものだったと言えるかもしれない。前者は従来の日本的なるものであり、伊勢神宮や丹下健三に代表される明快なデザイン、後者は伊豆の民家や白井晟一などの異形のものに対応していた。弥生・縄文時代の建築が、直線・曲線という属性によって特徴づけられるわけではない。が、縄文の土器は生命力あふれる曲線的な装飾をもっていた。つまり、曲線的なものを日本外部に割り当てるのではなく、さらに起源を遡行した日本の無意識的な古層に発見することも可能だろう。

過去と現代を接続する岸田日出刀の写真

五〇年代に刊行された西川驍『現代建築の日本的表現』でも、「日本美の特徴とするものは単一の直線構成がモンドリアンの平面構成から、立体的な面の組立(茶室)と同じ表現を示し、やがて近代建築のスケルトン構造との偶然な類似と影響へと連繋し、日本の古典建築と近代建築の接触が始まる」と指摘していた★三七。興味深いのは、巻頭において《一条院黒書院》とミースの《IIT同窓会館》の写真を見開きで並置していることだ[図18]。なるほど、軒から下に限定すれば、黒書院は水平線と垂直線だけで構成され、モダニズムの極北であるミースの作品ときわめて類似するという印象を与えるだろう。それはいわば写真という近代的な表象空間において捏造されたモダニズム的な日本建築だった。

18──《一条院黒書院》とミースの《IIT同窓会館》を並べたページ

18──《一条院黒書院》とミースの《IIT同窓会館》を並べたページ

建築において写真を媒介した近代的なまなざしの流布には、岸田日出刀が大きな役割を果たしていた。彼はライカを愛用し、四部作の建築論集にも関連する写真を挿入したが、特に重要なのは対比的な題名をもつ『過去の構成』(一九二九)と『現代の構成』(一九三〇)であり、戦後には『京都御所』(一九五二)も刊行している。本人が自信作と称する『過去の構成』は、「日本の古建築を見直す」ために、学術的な建築史にとらわれず、「現代人の構成意識ともいふべき観点から展望を試み」、西洋ではなく、過去の日本建築から「『モダーン』の極致」を発見したものと述べている★三八。そして自らの撮影した大胆な構図の写真を掲載しながら、空間の構成を解説した。例えば、「障子と格子の黒と白の対照が面白い」京都御所の写真や、「部分的構成」を切り取ると「溌剌として展開する構成の妙」をもつ金閣寺などである[図19・20]。すべての写真が作為的な構図であるわけではないし、必ずしも直線的な構成ばかりを強調したわけではない。とはいえ、本人が狙ったと記しているショットはモダニズム的なものが多く、強烈な印象を与える。

19──京都御所の障子と格子 出典=『過去の構成』

19──京都御所の障子と格子
出典=『過去の構成』

20──金閣の裏側における部分的構成 出典=『過去の構成』

20──金閣の裏側における部分的構成
出典=『過去の構成』

『過去の構成』は伝統的な日本建築に新しい魅力を吹き込み、モダニズムを志向する学生や建築家から絶大なる支持を得た。例えば、堀口捨己は『過去の構成』の視点に触発されて、「現代建築に表れた日本趣味について」(一九三二)という論文を書いた★三九。堀口は「『過去の構成』は非常にわれわれも感心しましたね。岸田さんはあのレンズを通して、面白いコンポジションを見る。ことに京都御所なんか、非常にうまく捉えて、僕は驚きましたね。(…中略…)非常に啓発されました」と回想している★四〇。また丹下健三は「学生のころでしたが先生の『過去の構成』には非常に感銘をうけました。とくに大学の先生の室には先生のライカで撮られた御所の一連の写真が引伸ばされて、パネルに貼ってありましたが、わたしはその写真から強い影響をうけたように思います」という。後に丹下は石元泰博と写真集『桂』(一九六〇)を刊行したが、石元はミースや丹下の建物を撮影した眼で桂離宮に接し、「古い建物というより、ミースみたいな、ああいうかたちに最初から見ていた」と語っている★四一。桂の足元を強調し、屋根を切った石元の特徴的な構図は、晩年の岸田が斜めに延びる線を排斥し、軒の出を嫌って水平線を強調したという証言に通じるものだ。ともあれ、岸田の思惑通り、『過去の構成』は過去を再構成し、古建築を生きた伝統に変えることにより、若い世代を刺激した。それは文章ではなく、写真の視覚的なメッセージにより伝わったのである。
岸田は写真の効果に意識的だったようだ。彼は写真でしか知らなかった近代建築の実物をヨーロッパで実見し、《アインシュタイン塔》など、幾つかの作品にがっかりしたと述べ、「カメラの技巧でいろいろ建築の効果がちがふものであることを識つた」という。続けて「カメラの眼を苦心して考へることは必要なことではあるが、それが度を越すと一種の欺瞞になるから注意しなくてはならん」と警戒しているが、まさにカメラによる発見的な構図が『過去の構成』の影響力を強めていた。
『現代の構成』は、巻頭にある短い文章を除けばほとんど写真集といっていいが、他の書物から転載した写真も多く、より編集的な色彩が強い。ただし、『過去の構成』が各写真に解説を付していたのに対し、『現代の構成』は完全にテクストと写真が分離しており、両者の相乗効果は薄れている。『現代の構成』にいわゆる近代建築は収録されていない。紹介されたのは「工芸品、ポスター、各種交通機(汽車、汽船、自動車、軍艦、航空機)、兵器、機械及機械的構成物等」であり、ほとんどがデザイナー不詳のものだ★四二[図21]。そして彼はこう宣言する。

21──鉄骨を見上げる  出典=岸田日出刀『現代の構成』

21──鉄骨を見上げる

出典=岸田日出刀『現代の構成』

機械は我々に、現代といふ輝かしい時代を興へたと同時に、過去に於いては夢想だもされなかつた新たな美の領域を展開してくれた。現代の美の宝庫はどこにあるか。単調に打ちつづく軌道とそれに負けじと立ち並ぶその傍らの電柱に、ラヂオ・セットの配線と真空管の配列に、工場に、サイロに、鉄橋に、飛行機飛行船とそれの格納庫に、自動車・汽車・電車・汽船と軍艦に。etc. etc.


通常は「建築」とされない日常的なデザインから現代的な構成を抽出すること。それも装飾ではなく、直線的なものを。最も建築に近いものは、アオリのない工場やサイロの写真であり、造形のダイナミックさを伝えている。機械の美を表現する建築以外の対象物は、ル・コルビュジエの『建築をめざして』(一九二三)で選ばれたものと似ており、参考にした可能性が高い[図22]。『現代の構成』はその焼き直しと見ることもでき、『過去の構成』程の衝撃はなかったようだ。ともあれ、写真を媒介して、建築と非建築のデザインが衝突する。機械の眼が機械の美学を称えるのだ。

22──ル・コルビュジエ『建築をめざして』から鉄の構成 Le Corbusier, Towards a New Architecture.

22──ル・コルビュジエ『建築をめざして』から鉄の構成
Le Corbusier, Towards a New Architecture.

最後に『京都御所』を見よう★四三。岸田は「建築眼を通してみづからシャターを切つたものばかりであるから、たとへ写真技術そのものは拙くとも、普通の京都御所の写真とはどこかちがふいい点もあらうかと、ひそかに自負もしていた」と述べ、京都御所にさまざまなモダン・デザインを発見する。例えば、「まつすぐ」な砂利道が中心軸に続く「御所のヴィスタ」は「整然として一分のすきもなく、清純の気に満ちている」とし、「紫宸殿高縁の下」には「今流行のピロティ」を見出す[図23]。また写真の構図も階段や基壇、手すりや回廊をクローズアップしたり、近景の列柱と遠景の建物を重ねたり、白砂の向こうに白と黒を交互に反復する渡り廊下の幾何学的なパターンを意図的に選んでいる[図24・25]。確かに、京都御所は全体的にシンプルであり、複雑な組物をもたないが、岸田の切り取る建築美は近代性がさらに強調された。

23──ピロティに見立てられた紫宸殿高縁の下 出典=岸田日出刀『京都御所

23──ピロティに見立てられた紫宸殿高縁の下
出典=岸田日出刀『京都御所

24──紫宸殿の南階 出典=岸田日出刀『京都御所

24──紫宸殿の南階
出典=岸田日出刀『京都御所


25──岸田の最も好む風景のひとつである紫宸殿と渡り廊下 出典=岸田日出刀『京都御所』

25──岸田の最も好む風景のひとつである紫宸殿と渡り廊下
出典=岸田日出刀『京都御所』

実は戦時中に京都御所は延焼を恐れて、岸田の最も愛した渡り廊下の部分を取り壊し、もはや出版した時点でそれを見ることができなかった。材料も処分され、復元の目処もない。彼は「有機的連関」をなくし、「清純高雅な建築的雰囲気」を損なったがゆえに焼けなかったにもかかわらず、「京都御所はなくなつてしまつていた」と断言した。そこで彼は、一般の拝観が許されるようになり、大衆化した京都御所の現在ではなく、過去の写真を収録し、「失はれた京都御所の美しさ」を偲ぶ。焦土になった東京は岸田にとって都市美を獲得する千載一遇のチャンスだった。しかし、空襲を受けなかった京都は、皮肉なことに「建築美の精髄」を救おうとして、それを喪失する。東京の終わりは再生への徴候となり、反対に京都の存続はひとつの美の終わりを告げた。だからこそ、『京都御所』は、写真の中でのみ存在しえた岸田のユートピアになったのである。


★一──岸田日出刀「高層建築」(『焦土に立ちて』、乾元社、一九四六)。
★二──同「日本の都市」(同書)。
★三──同『オットー・ワグナー』(岩波書店、一九二七)。
★四──ル・コルビュジエ『ユルバニスム』(樋口清訳、鹿島出版会、一九六七)。
★五──C・イングラハム「直線性の重荷──ろばの都市計画」(五十嵐光二訳、『10+1』No.15、INAX出版、一九九八)。
★六──ただし、日本語だと、悪い意味で「杓子定規」、良い意味で「人間が丸くなった」という表現がある。
★七──岸田日出刀『過去の構成』(相模書房、一九五一、初版一九三八)。
★八──同『建築學者 伊東忠太』(乾元社、一九四五)。
★九──拙稿「なぜ神社は木造なのか」(『UP』一九九八年九・一〇月号、東京大学出版会)。
★一〇──伊東忠太「法隆寺建築論」(『建築雑誌』八三号、一八九三)。なお、『伊東忠太著作集1』に収録された同じ論では、「各部の手法一般に自在にして雄健なり。其の曲線は勁健にして無限の趣味を有す」という項目が増えている。
★一一──同『法隆寺』(創元社、一九四〇)。
★一二──同「日本建築術に於ける曲線の性質を論す」(『建築雑誌』九三号、一八九四)。
★一三──同論文(『建築雑誌』九五、九六号、一八九四)。
★一四──同「日本神社建築の発達」(『建築雑誌』一六九号、一九〇一)。
★一五──同「神社建築の形式は一定すべき者なりや」(『神社協会雑誌』一九〇一年一号)や、「将来の神社建築」(『神社協会雑誌』一九一二年一号)でも、神社の新様式を待望していた。しかし、後にこの考えは廃棄される。
★一六──同「予の日本建築史観」(『日本建築の研究 下』、原書房、一九八二)。
★一七──『建築雑誌』一七四号(一九〇一)。
★一八──伊東忠太「本邦仏教各宗の建築」(『建築雑誌』一二六号、一八九七)。同じ号に掲載された、塚本靖「伊東工学士の日本仏教各宗建築論を読む」も、「仏教建築の輸入は即曲線色彩の輸入」であり、「本邦建築美術」の始まりとすることにおおむね同意している。
★一九──伊東忠太「天平時代の装飾模様に就て」(『建築雑誌』一六四号)。同「多宝塔」(『日本建築の研究 下』)。
★二〇──例えば、塚本靖「法隆寺装飾論」(『建築雑誌』九四号)や、「蛇形装飾」(『建築雑誌』三六二号、一九一七)など。
★二一──例えば『日本建築様式史』(美術出版社、一九九九)。
★二二──「討論──我国将来の建築様式を如何にすべきや」(『建築雑誌』二八二号、一九一〇)。
★二三──松井貴太郎「日本趣味を論じて将来の日本建築に及ぶ」(『建築雑誌』二八三号、一九一〇)。
★二四──★二二に同じ。
★二五──武田五一「建築の格好に就いて」(『建築雑誌』一六二号、一九〇〇)。
★二六──藤島亥治郎『建築と文化』(誠文堂新光社、一九四一)。
★二七──H. KISHIDA, Japanese architecture, Maruzen Company Ltd., 1936.
★二八──岸田日出刀『日本建築の特性』(内閣印刷局、一九四一)。
★二九──岸田日出刀「神社と仏寺」(『壁』、相模書房、一九三八)。
★三〇──ブルーノ・タウト『ニッポン』(森郎訳、講談社学術文庫、一九九一、初版一九三四)。
★三一──『岸田日出刀』編集委員会編『岸田日出刀  上』(相模書房、一九七二)。
★三二──足立康『日本建築史』(地人書館、一九四〇)。
★三三──関野克『日本住宅小史』(相模書房、一九四二)。
★三四──田邊泰『日本建築の性格』(乾元社、改訂版一九四六)。
★三五──太田博太郎『日本建築史序説』(彰国社、一九六二、初版一九四七)。
★三六──星野昌一『建築意匠』(資料社、一九四九)。
★三七──西川驍『現代建築の日本的表現』(彰国社、一九五七)。
★三八──岸田日出刀『過去の構成』(相模書房、一九五一)。
★三九──日本建築学会編『近代日本建築学発達史』(丸善、一九七二)。
★四〇──★三一に同じ。
★四一──石元泰博+藤森照信石崎順一「戦後モダニズムの軌跡」(『新建築』一九九九年五月号、新建築社)。
★四二──岸田日出刀『現代の構成』(構成社書房、一九三〇)。
★四三──岸田日出刀『京都御所』(相模書房、一九五四)。

*この原稿は加筆訂正を施し、『戦争と建築』として単行本化されています。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>『10+1』 No.20

特集=言説としての日本近代建築

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>ブルーノ・タウト

1880年 - 1938年
建築家、都市計画家。シャルロッテンブルグ工科大学教授。

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

>建築をめざして

1967年12月1日

>五十嵐光二(イガラシ・コウジ)

1966年 -
表象文化論、美術史。東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。。

>藤森照信(フジモリ・テルノブ)

1946年 -
建築史、建築家。工学院大学教授、東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。

>石崎順一(イシザキ・ジュンイチ)

1968年 -
近代建築史・都市計画史。東京大学研究員、ペンシルヴェニア大学客員研究員。

>戦争と建築

2003年8月20日