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都市はたたる | 都市連鎖研究体
City, Haunted | Laboratory for Catenated Cities
掲載『10+1』 No.32 (80年代建築/可能性としてのポストモダン) pp.169-186

閣下はまず、人間が如何に知る所の少ないかを御考えになるべきでしょう。
たとえば、閣下の使用せられる刑事の中にさえ、
閣下の夢にも御存知にならない伝染病を持っているものが、大勢居ります。
殊にそれが、接吻(せっぷん)によって、迅速に伝染すると云う事実は、
私以外にほとんど一人も知っているものはございません。
この例は、優に閣下の傲慢なる世界観を破壊するに足りましょう。
芥川龍之介「二つの手紙」大正6年8月10日

Laboratory for Catenated Cities
都市連鎖研究体

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都市はたたる


私にとって現代都市は、見えないものどもが巣喰い、とびかっている、つかみどころのない妖怪であった
「みえない都市」(磯崎新日本の都市空間』一九六七)


一九六七年、都市に関するひとつの論文が発表される。「みえない都市」と名づけられたそれは、その後の都市論のみならず建築家個別の方法論の前提をも大きく塗り替えた。執筆者は当時まだ都市デザイナーと名乗っていた、磯崎新。
そのキーワードが現われはじめたのはその四年前、デザインサーヴェイの先駆的作業『日本の都市空間』★一の巻頭に寄した「都市デザインの方法」の最終節においてである。この論文は二○世紀以降の都市デザイン論のパースペクティヴをとらえようとしており、その推移を段階的に整理している。それらは、実体論的、機能論的、構造論的、そして当時始まりつつある段階としての象徴論的段階、以上の四つである。磯崎が前提としたのは言うまでもなく、象徴論的段階である。「みえない都市」はこの段階に即応する。

あらゆるエレメント、エレメントの効果、活動のおこなわれる空間、あるいは都市空間そのもの、これらすべてを、いまや記号に転化しうる可能性が発生しているのである。(…中略…)都市空間は、シンボルが視覚化された記号の〈濃度〉の分布となりはじめる。
 「都市デザインの方法」(一九六三)


「みえない都市」とは以上のように、物理的な都市要素に意味が固着せず、そもそも関係性だけが意味を持つ空間である。その流動性がかたちとしての都市の意義を見失わせる。そしてこのような空間こそが現代都市なのだ、と彼は述べた。しかしその結論において、みえない都市に対するデザイナーのための処方箋は、二つの方向に大きく引き裂かれてしまう。
ひとつは、「私たちが所有しはじめた都市解析の技術を徹底的に駆使すること」である。具体的には当時胎動し始めた「コンピュータ」を用いたシステム解析である。空間を構成するすべての要素を記号に還元し、その関係性だけに着目する。そのカオスとも無限ともいえる関係性の傾向を濃度として明らかにするには、人知的操作を超えたとてつもない機械に頼ってみるほかはないのである★二。
もうひとつは現実の都市の諸構成要素と関連はあっても「結局は無縁なひとつの想像の産物、虚体のような都市」を投企的にデザインすることである。つまりは流動する群としての都市を前にしては、現在の都市でさえもそのプロセスの一断面に過ぎないのだから。ゆえに、すべてはアンビルトの地平において等価である。未来都市が「廃墟」となりうるのはそういう意味においてである。
これらのスタンスは六○年代中盤までの社会改良者としての建築家像を鮮やかな手つきで封印し、それ以降の「解体」世代の出現を保証することになった。ただしこの構図から導き出された以降の都市(カオス)―建築(アンビルト)像を検討することに、もはやいかなる生産性もない。というのも「みえない都市」の結論を素直に読むかぎり、この論は都市デザイン論(都市的要素のかたちを規定しようとする論)としては、はじめから確信犯的に失敗していたからなのだ。わたしたちはいまさらながら、みえない都市に対するデザイン的解決法が磯崎も関与していた丹下研究室「東京計画」(一九六○)[図1]の枠組みを一歩も踏み越えていないことに気づく。東京湾へ向けて上空を貫く虚体の都市、そしてその下にうごめく現実の都市。しかしながらわたしたちは上空を貫くハイウエイの鮮やかさが、丹下健三による果敢な都市デザインプロジェクトの連敗につぐ連敗の後に生まれたものであったことを忘れてはいけない★三。そしてその構想模型の土台となった東京の写真は、戦後すぐに進駐軍が撮影した焼け野原のパッチワークであった。建築が消滅してもなお過去を地表に刻みつけたその焼跡との抗争を打ち切ったうえで、東京計画は「宙に浮いた」(宙づりにされた)のである。みえない都市の線上にある都市デザインは、絶対にこのプロジェクトの先にたどりつくことはないはずである。むしろ私たちの興味は、この論を題名通りの「都市はみえない」という知覚論として読み替えてやることである。

1──東京計画(1960)

1──東京計画(1960)

みえない都市では、その中の生活者は、機械の操縦者にみたてられていた

たとえばこのような記述がある。

操縦者がみいだす風景は、ひろがり、重みをもち、形態に意味の密着した物質の存在感からつくりあげられるのではなく、計器によって測定された、すなわち記号に翻訳された対象物と主体との相対的関係性だけとなる。……知覚の方が変化してしまったのだ。
「みえない都市」


「操縦者」たる著者は、住宅・自動車・キャラバンを例に挙げ、現代都市の流動性を述べる。これらは外形と系統発生を全くたがえた異なった性格の施設であると思われていたが、実は都市の移動空間の容器として同一系統の道具であった、というのである。彼がロサンジェルスで遭遇したキャンピングカー群という事象が、それを見出させたのだ。しかしそれでは西部開拓史における幌馬車はどうなってしまうのか?
この図式が語りうるのは、そもそもまったく現代都市要素の性格とはいえない。単純に対象とその知覚(解釈)との可変的な関係のみである。そしてその可変的関係によって発生したあらゆる事物が持ちうる「現在性=modernity」についての指摘である。
物理的な都市要素とその意味との乖離、みえない都市で指摘されたこの現代都市の特徴は、実は事象を知覚する主体の受容のみに帰結する問題なのであった。それは子供のころ書いた絵が親に指摘されないかぎり自分の書いたものとは思えず、違った自分の存在に気づくこと(=現在性)と同じぐらいの基本的なことである。ゆえに、それらはあらゆる時代、地域を問わずに発生するのであり、ましてや史的段階的に獲得された現代都市のみに限られるはずがない。ツリーがセミラチスを生み、そしてそれが別のツリーを構成してしまうように★四、かたちとその意味機能の乖離とは、むしろ伝統都市を生き永らえさせてきた基本的なメカニズムなのである。だから過去を含めた現存するすべての事象が、受容者とのその時々の契約関係によって意味をたち表わすことができ、それによって「現在性」がすべての事象から発生しうる権利を留保しているのである。彼が「みえなかった―みた」のは現代の都市ではない。残存するすべての事象がひとしく権利をもつという錯乱なのであった。それはより普遍的な問題だったのである。

では、それはどのように触知されうるのだろうか

すべての現存する事象に現在性が確保されるというが、しかしそれはどのように証明できるのか。ポパーの「精神のサーチライト」理論をひもとくまでもなく、人は見るものをすでに形成された自らの観念の鋳型に沿って解釈する。そうしないと精神が錯乱するからである。これらの意味においてのみ「みえない都市において人間の視覚の価値が相対的に下落した」という磯崎の指摘を理解すべきだろう。視覚体験は強固な鋳型のひとつであり、視覚だけでは都市の本来的な錯乱は「みえない」からである。しかしそれゆえにこれまでの都市のかたちは無効となり、「エレクトロニックなテクノロジー」が台頭するという彼のまとめは正しくない。みえないものがみえないにもかかわらず確かに存在するのは、より日常的な現象によって説明可能である。たとえば和辻哲郎は、その経験を「寒気」に集約して説明している。彼によれば、私たちが「寒さ」を感じる時、主観的な「寒さ」の感じがそれを発動するのではない。私たちの知覚の外にある何かが不意に直接的に私たちに関連した結果である。こちらの意志に関係なく押し寄せる「寒気」は、いわばとらえがたい何ものかがあることの証しなのだ、というのである★五。

都市はたたる

私たち都市連鎖研究会は、いろいろな時代の地図や昔に撮影された空中写真をもって町を歩くのであるが、だいたいにおいてその成果は腑に落ちないものばかりである。確かに何かのように見えるが、なんの意味もないもののようにも見える。今回お見せする優秀例の背後には、そのような落第作品がたくさんある。このような情けない結果を前にして誰かが叫んだ。われわれの作業は都市の心霊写真探しにすぎないではないか、と。
確かにそうだ、と私たちは思わずにはおれない。過去の事物をも現在的な存在としてみる行為、つまり都市のあらゆる部分に複数の重奏した現在性を見出そうという行為はまさしく、そのようなものなのだ。それらは私たちの受容能力の限界によって「みえる」とは言いきれない。とはいえ磯崎のように「みえない」というわけにもいかない。都市は不意にやってくるような「寒気」を確かに含んでいるからだ。その意味で都市はたたられ、とりつかれている。もちろんオバケや幽霊といったものが実際に存在するのか否か、と議論することは無意味なことである。しかし少しでも「寒気」を感じる者は、とりあえずともオバケや幽霊というものを措定し、捉えようとしないかぎり、日々の生活を送っていくことは不可能であろう。

○都市百鬼とは 江戸時代の絵師、鳥山石燕の妖怪図集「百鬼夜行」をもとに名付けた、都市連鎖事例の総称。 各事例を都市に潜む妖怪に見立て、その成り立ちや特徴を紹介する。

○都市百鬼とは
江戸時代の絵師、鳥山石燕の妖怪図集「百鬼夜行」をもとに名付けた、都市連鎖事例の総称。
各事例を都市に潜む妖怪に見立て、その成り立ちや特徴を紹介する。


★一── 『建築文化』一九六三年一二月号(彰国社)。
★二──しかし残念ながら当時においても、そして現在においても、以上のようなシステム解析は成立していない。実はこのようなシステム解析論自体が無意味であることが、その数年前にハーバード大学の博士課程に在籍していた一学生によって証明されてしまっていたのである(明滅する一〇〇個のライト実験)。クリストファー・アレグザンダー形の合成に関するノート』(稲葉武司訳、鹿島出版会、一九七八)参照。
★三──丹下健三+藤森照信『丹下健三』新建築社、二〇〇二、参照。
★四──『10+1』No.30、「都市は連鎖する」内キーワード「セミラチス  ツリー」)参照。
★五──「人間存在の風土的規定」『風土』(岩波文庫版)参照。

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先行形態論ノート|中谷礼仁


都市連鎖を考えはじめると、落ち着かない。
都市連鎖は都市の形質が過去から現在に受け継がれていく様を、とらえようとするものだ。しかしながらその連鎖は、何によって保証されるのだろうか。それは過去の多くの土地の形質が残りうることを示すことによってである。その点については、はなはだおぼつかない。残るものには特別な意志が働いているというのが、まずは普通の仮説であろう。しかし、本誌三○号でそのいくつかを提示したように、連鎖事例は意識的に行なわれてきたわけではなく、なのにほとんど必然的に発生している。都市連鎖事例のほとんどに意志的な徴が見出せないままなのである。とりあえずいちばん近い表現は、「どうしようもなく残ってしまっている」というものだろう[図2]。
なぜ昔のかたちが残ってしまうのか? つまり、現在においてなんの生存権を持ちえていない非意志、非モニュメンタルな過去の形質が、なぜ現在のかたちに深く影響を及ぼしているのか? これを考えるたびに、何か奥深い事物生成のプロセスに触れはじめているようで胸がさわぎ出すのであった。とにかくこの特異なプロセスを解明することが都市連鎖が成立するための基本条件である。もとより困難な課題に近づくためのいくばくかの覚えをここでは記してみたい。

2──大阪府貝塚市の、ある工場地の変遷 (上)田畑の中に工場敷地、その後次第に廻りを人家が取り囲むようになる。 (下)宅地化の進行と逆に工場は閉鎖された。 出典=国土地理院撮影の空中写真

2──大阪府貝塚市の、ある工場地の変遷
(上)田畑の中に工場敷地、その後次第に廻りを人家が取り囲むようになる。
(下)宅地化の進行と逆に工場は閉鎖された。
出典=国土地理院撮影の空中写真

妖怪  目目連

(参考:建築春秋塾における都市連鎖講義、学生・林泰介による報告)
「これは現在ほとんど使われていない空き地なので、その管轄の役所に行って話をすると購入することができるのですが、その際に役所の人から冷ややかに『その土地に面している土地の所有者すべてのハンコをもらってきて下さい』……と言われます」。
都市に潜むオバケを授業で収集してもらったところのなかのひとつの事例である。報告者によると大阪市内のいたるところにある路地のなかに、とりわけ特有の雰囲気を持つ空き地がある。その空き地はいずれも同じような幅、奥行きを持っているが、路地とも、建物の敷地とも違う特有の幅である[図1]。調べてみるとそれらはほとんどが市や府の所有となっている。これは以前の水路を埋め立てた土地なのである。近代以前において水路は重要な交通網であり衛生設備であった。水路であったこの「空き地」はその成り立ちからして特定の個人に属さない非私有のものであり、その性格は埋め立てられた現在でも残存し、その新しい所有には「その土地に面するすべての所有者の同意が必要」なのである。誰にも属していないが、にもかかわらず現在では所有可能な場所。この性格はその土地に対する複数の近隣者たちに一種の牽制状態を生み出す。規模的にきわめて凡庸な土地であるにもかかわらず、その背後には明文化されえない張りつめた緊張関係が存在する。その結果何も建てられていないのである。

目目連|多数の目が覗いている 都市百鬼 その1

目目連|多数の目が覗いている
都市百鬼 その1

特徴 路地に化けている。舗装されておらず、近隣の倉庫が置かれていたり、家庭菜園にもなっている。一見平和だが、常に複数の眼によって見張られている。ここに立ち入ると金縛りにあう。

特徴
路地に化けている。舗装されておらず、近隣の倉庫が置かれていたり、家庭菜園にもなっている。一見平和だが、常に複数の眼によって見張られている。ここに立ち入ると金縛りにあう。

道のない村

(参考:『長原・瓜破遺跡発掘調査報告』大阪市文化財協会、一九八九)
さて目目連を紹介させてもらったのは、この空き地のあり方が、先の命題に応える鍵を握っている気がするからである。その鍵とは道、水路のような非私有の場所とそれに対する占有である。
都市連鎖を大阪などの近畿圏に当てはめてみた場合、その連鎖プロセスの主要な性格を決定したのが、古代に敷設された条坊制、条里制という都市区画であったことはすでに明らかである。中心都市居住地域の計画としての条坊制、農業用生産地管理把握のための条里制は同じグリッド空間でもさまざまな違いが存在する。とりわけここでの重要な違いとは、条坊制には建物を建てるための敷地の他に道路も計画されていたのに対し、条里制には「道」がなかったことである。つまり条里制とは田畑管理のための観念的な線引を基本としていた。道路の敷設、周辺設備の完備などの実体的な都市計画がなされていたわけではなかったのである。居住を主目的とはしない田畑とはいえ、しかしその生産には住まいも必要であるし、そこへアクセスするためには道も必要である。条里制においては、条坊制と異なり、初期計画の外部で実際上の運用に必要なものとして、「いたしかたなく」道が条里の基本グリッドに従って(それはほとんど畦道であり、水路も兼ねていた)作られたのではないか。
では村はどう作られたのだろうか。
ここでたとえば本誌三○号で提示した中世集落・長原村において、同村の発生過程は旧河道に沿ってできあがってきたことがわかっている。条里制は川などの自然構築物の妨害によって一端途切れる例が多く見受けられる(長原村はまさにそうである)。そうすると長原の村は、条里制による区画の及ばない非私有、いわば空白の土地を新たに占拠することによって発生した可能性が高い[図3]。条里制と中世集落の関係のかたちを地図上で確認すると、後者は前者に対するガン細胞のようである。このような中世集落の形の特異性は、そもそも中世集落が条里の空間計画の他者であったことに起因しているのではないだろうか。つまり初期に想定されていなかった複数の住まい手が、初めは非私有の場所(存在していないはずの場所)から、そして次第に認知可能な管理空間をも侵食していく。その経緯が中世集落特有の不定形を形成しているのではないか。条里に「道」はなかった。しかし道は必要であった。その存在しないはずの道に、生産の現場たる条里の地から切り離された人々が、その場所の非私有的な性格に守られて、そこを次第に占拠しはじめる。そしていつか占有が所有へと変わる。占拠地は町、宿になり栄えはじめる。経済交換を中心としたそれら細胞は、次第に生産の場である田畑を相対化する。それを弱体化し、逆に空白の地に転じ、条里を侵食する。近代になって発生したスプロールでさえ、その延長線にあるのではないだろうか。

3──旧長原村周辺図 出典=米軍撮影の空中写真(昭和23年撮影)

3──旧長原村周辺図
出典=米軍撮影の空中写真(昭和23年撮影)

築地塀の家

(参考:五味文彦「都市の空間を読む 絵巻のなかの都市──鎌倉・京」、高橋敏子「京中巷所──公から私の空間へ」『朝日百科 日本の歴史別冊 歴史を読み直す7』[朝日新聞社、一九九四])
さて、捨て聖・一遍の生涯を描いた『一遍聖絵』(一二九九)には一遍の軌跡とともに、中世の街並みが活写されている。そのなか、京都の街の一角に不思議な家が描かれている。京の東境である四条京極の鴨川のたもとからほどないところに釈迦堂があり、そこで一遍一行は踊り念仏を奉納した。絵では彼ら一行を見るために、群衆が釈迦堂の境内めがけて浮塵子のように群がる様子を描いている。その境内からやや目を下にずらすと、釈迦堂を取り巻く築地塀が見える。条坊制によって計画された京都では、屋地はそのような塀で道路と画然するのであるから別に奇妙ではない。しかしその塀にそって目を左に動かすと、築地塀であったはずの場所に家が建てられているのである。家が塀の役目をしているというか、家が塀の中に潜んでいるのであった[図4]。境内にも民家は建込んでいるようで、庶民が信仰に事寄せてだんだんと住みつきはじめた結果のようであるが、そのような占拠が、とうとう築地塀の中にまで及んでしまったのだといえる。条坊制によって当初から計画された築地の幅は六尺、ちょうど人が一人横たわれる最低限の空間であった。そこに人が住みつきはじめたのである。道に面した塀を崩したことで作られた家々には、さまざまな売り物が並べられ、道ににぎわいを生んでいる。新しい街が、築地塀の中の家からはじまった。政治空間を整然と保つべきはずであった条坊の塀が、経済都市としての姿に変容しはじめているのである。
一遍の訪れた当時の釈迦堂は一二―一三世紀初頭の左京の様子を象徴している。そこでは、条坊制の変容が顕在化していた。天皇の行幸路として「大路」は、平安末期にはその空間的意味を喪失する。つまり、左京の都市空間が単調な格子状の町割に堕し、「大路」と「小路」の形態的な差異がなくなりつつあったのである。
この「大路」と「小路」の形態的差異の消失の背景には、中世都市化の特徴的現象であった「巷所」の発生が挙げられる。「巷所」とは平安京条坊制の大小路付近の空閑地、路の両側の溝などが耕地化、宅地化された土地を意味する。大路の巷所化は、特に朱雀大路において、当初の壮大さを称える精神が影を潜め、むしろ無駄な空き地として見られるようになったことによって生じたのだろう★一[図5]。街路における上記の変化により、「大路」と「小路」の意味と形態における区別が消滅し、街路は均質化される。左京の「条」「坊」「保」「町」は層序的構成をもたなくなり、同質の「町」に分解、変容するのである。その結果、従来の二面町から、「町」の四周に家並みを形づくる「四面町」によって構成される均質な都市空間へと変貌を遂げた[図6]。
このような流れは、これまで条坊制の衰退、崩壊ととらえられてきた。しかしその表現は厳密には正しくないといえる。というのも条坊制のかたちはその「崩壊」の過程に、巷所、塀といった弱い土地にその形態を反転させているからである。逆に条坊制の屋地が空白の地となり(まるで先の工場跡地のようである)、そのすき間に建込まれはじめた元道路が次は逆に次の京都の姿を形成していった。それはかたちの連鎖である[図7]。

4──京都釈迦堂の築地塀に巣くう家々 出典=『一遍聖絵』東京国立博物館蔵

4──京都釈迦堂の築地塀に巣くう家々
出典=『一遍聖絵』東京国立博物館蔵

5──東寺の巷所 出典=都市史図集編集委員会編『都市史図集』(彰国社、2001)

5──東寺の巷所
出典=都市史図集編集委員会編『都市史図集』(彰国社、2001)

6──平安京の宅地割変容 文治3(1187)年―嘉禄2(1226)年の間に起こった土地売買の記録から復元された宅地割の線。当初の条坊制のアクセスは二面のみであったが、入口を四周の道に面して奥行きの深い町家が並ぶようになった。 出典=秋山國三、仲村研著『京都「町」の研究』(法政大学出版局、1975)

6──平安京の宅地割変容
文治3(1187)年―嘉禄2(1226)年の間に起こった土地売買の記録から復元された宅地割の線。当初の条坊制のアクセスは二面のみであったが、入口を四周の道に面して奥行きの深い町家が並ぶようになった。
出典=秋山國三、仲村研著『京都「町」の研究』(法政大学出版局、1975)

7──「延喜式」(12世紀前半ごろ成立) 中世化の過程を示す京都の都市空間。これは左近町周辺であるが、「修理職町」が道路から発生した一瞬を的確にとらえている。

7──「延喜式」(12世紀前半ごろ成立)
中世化の過程を示す京都の都市空間。これは左近町周辺であるが、「修理職町」が道路から発生した一瞬を的確にとらえている。

先行形態論──弱い土地

さて、ここまでの検討において、非私有―占有―所有という特異な変容プロセスのなかに、過去の土地の形質が連鎖していく徴をいくつか確認してきた。つまりここで大切なことは、冒頭の提起通りに、連鎖はそのものの意志によって生じたわけではないことである。別の意志が働くところに境界が生じ、内容は残らず、かたちがうつしとられるのである。道、水路などの非私有地は、所有地たる屋地をポジとすれば、ちょうどネガである。すでに先行した所有地、管理地が存在する場合、新しく流入する人々がなしうるのは、それ以外の非私有の場所を占拠することである。その占拠は生死にかかわるために、先行地の際まで隙なく埋め尽くされる。その結果正確なかたちのネガが形成されるのである。このような非私有からはじまる土地を弱い土地と呼ぼう──中世ではこのような場所を広く「無縁」と呼んだ(参考:網野善彦『無縁・公界・楽──日本中世の自由と平和』[平凡社、一九七八])。するとその土地は先行地の単一性に比較して比べようもないほどの複数の小さい生存権によって埋め尽くされている。こうなってしまえばもはや強大な権力によってもその一体的更新が極めて困難になってくる。そして時とともにその占拠地にこまやかな生存権が発生する。それと時を同じくしてか、以前の先行地がその意志を失い空白化する。その先行地の権利が別の意志主体に移ろうとも、彼はもはや周辺の土地を併せて一体的に獲得することは困難である。そこには微細な権利が細胞のように発生してしまっているからだ。別に挙げた妖怪・ぬっぺっぽうにまつわる見事なヴァリエーションはこれを証明している。
このようなプロセスが、過去を連鎖させてきたのではないだろうか。過去のかたちが連鎖するのは、その当の形質の意志によるものではないのである。それが反転したネガ──弱い土地からはじまった複数の権利性──がそれを「いたしかたなく」なすのである。ネガが次にはポジとなり、ポジはネガになる。ポジとネガとは流動する濃度であり、「みえない」一体である。
よって次のことが言える。都市性の本源は複数の微小な権利によって構成される。よって単一な権利しか持たない土地は、それがいかに大きくても都市ではないのだ、と。[協力:登尾聡]

本稿を書くにあたって、特に二○○三年五月のもの研究会(京都)での発表時における考古学研究者、中井淳史、佐藤啓介、内田好昭とのディスカッション、同月コミュニティカレッジ(東京)での発表における岡崎乾二郎からのコメント、七月大阪芸大の設計講評会後の宮本佳明による古墳事例の現地紹介から多くの示唆を得た。記して謝意とする。


★一──中谷ゼミナール『歴史の中のコンバージョン』(私家版、二〇〇二)矢本宏担当部分参考。

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史的結物論 百鬼都市堺・松原の都市連鎖|清水重敦


百鬼は偏在する

何の変哲もない郊外住宅地のような表情を見せながら、古墳や中世集落といった歴史的な事物を内包する町、堺・松原。そのほとんどが明治以降に都市化した場所で、歴史的な事物と明治以降の事物とは、一見、相互に無関係に隣接しているだけに見える。しかし、町を歩くと、何かが引っかかる。
例えば、古墳が後の時代に浸食を受けて周囲を取り囲まれたり、古墳自体が消失したいくつかの場をピックアップして見ると、そのほとんどが現在、住宅地になっている。それも、広い庭を持った住宅が並ぶ閑静な住宅街である。古墳が郊外住宅地の中にあるいは溶け込んでかたちを失い、あるいはぽつんと残される。この地区の典型的な風景であるが、なぜ古墳と高級住宅地が併存しているのかと問い始めると、古墳の存在が不意に大きく見え始めてくる。
地区内に広範囲に遺存する条里制の地割も、地区の基調をなす要素である。六○間四方の大柄な区画は、大規模な工場か、あるいは規則的に配された住宅で埋め尽くされている。単調な風景である。だが、一旦、条里制の地割を意識し始めると、そのグリッドに強く規定された、ひたすらに単純な工場や住宅の配置とかたちが異様に感じられてくる。
どちらのケースでも、漫然と歩いているだけでは、それほど気を引く風景には思われない。しかし、注意して見ていくと、何かがおかしいことがわかってくる。そこでは、知らず知らずのうちに、異なる時代の事物が結びついているのだ。われわれはこうした場に現われる連鎖現象を百鬼と呼んでみるわけだが、百鬼といっても、例えば「都市微分図」の整理に歴然と表われているように、その出没箇所には偏りがある。これは都市連鎖分析を試みるわれわれの受容能力の限界によるものかもしれないけれども、現時点での把握では、百鬼は確かに偏在している。百鬼の偏在とはすなわち、事物間の結びつきに一定のメカニズムが存在する、ということである。
異なる時代の事物が知らず知らずのうちに結びついてしまう、いわば「結物」とでも呼ぶべき現象。なぜ事物は結びつくのか。どのような事物が結びついていくのか。その結果として生成する都市はいかなる相を見せるのか。このメカニズムは、堺・松原という一事例にとどまらない、都市形成の構造に一般化しうる問題だと考える。

窮奇|結界をはる 都市百鬼 その2 成立ち 1──中世、農地を水害から保護するため輪中が造られる 2──市街化が進んでも輪中は残る 3──昭和30年代、スプロールの拡散を食い止めた

窮奇|結界をはる
都市百鬼 その2
成立ち
1──中世、農地を水害から保護するため輪中が造られる
2──市街化が進んでも輪中は残る
3──昭和30年代、スプロールの拡散を食い止めた

特徴 窮奇にとってみれば、外敵の侵入も、内からの発展も、 いずれも敵である。その力はあなどれない。

特徴
窮奇にとってみれば、外敵の侵入も、内からの発展も、
いずれも敵である。その力はあなどれない。

「結物」のしくみ

堺・松原には、古墳や条里制地割などの古代に由来する事物、散在する中近世集落、明治以降の鉄道、道路、住宅地など、各時代の事物が重畳している。各要素が折り重なってできあがった現在の景観は、カオティックな都市郊外そのものである。けれども、各時代の層に分解してみると、それぞれの事物の配置には規則性が見出される。地区の顔である百舌鳥古墳群は、地区中央南部の、わずかに高まった地形の場所に点在する。これらの古墳群の建設よりもおそらくは後に設けられた条里の地割は、古墳群を取り囲むように、平坦地を埋め尽くす。古墳の点在する微高地と条里制の施工された場所とはほぼ棲み分けがなされているようだ。そして両地区を覆うように中近世集落が点在する。これらの個々に規則性をもって配された、古代から中近世にかけて形成された事物は、相互に重なり合うことでその規則性を識別しにくくしている。この状況が結物の下地をなしている。結物の具体例を見ていこう。

栄螺鬼|何にでも化ける鬼 都市百鬼 その15 成立ち 1──各時代の都市パターンが断絶的に層をなす 2──その結果、きわめて複雑な都市ができあがった

栄螺鬼|何にでも化ける鬼
都市百鬼 その15
成立ち
1──各時代の都市パターンが断絶的に層をなす
2──その結果、きわめて複雑な都市ができあがった

特徴 何にでも化ける鬼どもが集まっている。特に、近代にたくさんやってきた。仲が悪いのか、お互いそっぽを向いている。

特徴
何にでも化ける鬼どもが集まっている。特に、近代にたくさんやってきた。仲が悪いのか、お互いそっぽを向いている。

[古墳は古代の高級住宅地である]

百鬼の宝庫、古墳は、高級住宅地となぜか結びついている。これについては、古墳群の広がる場所が微高地で、かつ条里制地割の及んでいない場所だったため、という因果関係を容易に想定することができよう。だが、古墳と高級住宅地が結びつく理由はそれだけではなさそうだ。例えば、戦前から戦後にかけて大塚山古墳の周囲と本体とを取り崩して宅地化された上野芝四丁目では、街路がまるで近代の郊外住宅地のごとくに曲折している。墳丘の円形をなぞって開発された結果であるが、比較的規模の大きい前方後円墳や円墳などの形状は、近代の宅地開発に好まれる道路形状、敷地形状と、偶然にも一致しているわけだ。一方、スケールの小さな古墳の場合には、例えば反正天皇陵付近に残存するいくつかの陪塚(大型の古墳に近接する小規模の古墳)のように、住宅街の中にまるで宅地の一区画のごとくに自然に埋め込まれていたりする。古墳は、小さな森として、すでにそこに存在していた。それらは、忌み嫌われるものではなく、環境としても、かたちとしても、むしろ住宅と共存しうる存在なのである。古墳の造られる微高地という場所、そして古墳のかたちは、住宅地という場の選定、その配置計画、敷地形状と共鳴する。こう考えたとき、そもそも古墳という存在と、高級住宅地とは、優れた場を占めたいという人間の欲求のうえで、同列に並べうるものなのかもしれないことに気付かされる。

[条里の上で工場と住宅は田畑の一作物と化す]

古墳群のある微高地を取り巻く平坦部は、大規模な工場か、あるいは住宅によって埋め尽くされている。大規模工場に隣接して規則的な住宅が並ぶ風景もまた、都市郊外の典型である。ただ、この地区では工場配置にも住宅の敷地割、形状にも、徹底して規則性が貫かれている。どこまでいっても同じ風景が反復される、合わせ鏡のような町である。この風景は、遺存する条里制の地割によって作り出されている。田畑の管理と分配のために古代に施工された六○間四方の規則的な条里地割は、大規模工場や住宅によってその内部を充填されることで、土地に沈着し、見えにくいが確かな存在と化す。田畑が都市化され、工場と住宅に置き換わることは、どこにもみられる現象だから、とりたてて語るべきことではないと思いがちである。けれども、条里地割によってそれらが規則的に反復される状況からは、住宅や工場がまるで田畑に植えられた作物のごとく見えてしまう。田畑と住宅、工場は、人間が生きていくうえで生産しなければならない場という、本質的に共通する性質を有していることをここでは知らされるのだ。
一見、何の連関もなく思える事物が、平気な顔をして隣り合っている。けれどもよく見ると何か違和感がある。こうした結物の状況は、事物どうしの持つ本質的な親和性をあらわにする。

[中世集落の配置は条里より生まれ不条理と化す]

この地区では、古代と近代という断絶した二時期のみならず、古代から中・近世、そして近代に至る各事物が、互いの構造を連鎖させながら結物している状況も確認できる。わけても地区に点在する中世集落の配置が興味を引く。都市化の進んでいない明治期に作られた地図を見ると、中世集落が明らかに東西―南北のグリッドの交点に配されていることがわかる。この配置が自然発生的に生まれたものなのか、それとも後世のある段階で一気に計画的に配されたものか、集落研究上でも結論をみていないようだが、このような配置が少なくとも条里地割との関係のなかで生まれたことだけは疑いない。
条里制から派生した集落配置という二次的生成物が、さらに新たなる地割形状を生み出していった例を、われわれは貝塚市で見出した。市北東部にあるユニチカの工場跡地は、条里とも近代の鉄道とも異なる方向に不自然に配置されており、目を引く。中島陽の分析によれば、これは、周囲の条里グリッドの交点に配置された中世集落の配置の影響によるものだという。集落を条里グリッドの対角に結んで造られた道路により、四五度に振れた四角形が形成され、工場はこの軸に平行に配置されたのだった。その後、工場の周囲には工場の軸線とは無縁な軸に沿った住宅が建ち並び、複数の軸が交錯する現状が生まれた。

[事物の配置は個別の共鳴を繰り返し連鎖する]

事物の配置の軸線は、あるものは中世集落に、そしてあるものは条里に共鳴して設定されている。事物のコンテクストごとに、結びつきやすい事物が発生し、それと関係を持つようだ。このような結物の連鎖によって形成される都市では、全時代の構造がすべて一貫した流れとして重ね合わされているわけではなく、そこに存在するのは事物ごとの個別の関係性だけである。かたちがかたちを、配置が配置を呼び寄せ、共鳴しあった結果としてできあがる都市は、整然としたものとはなりえず、カオティックな相を見せる。近視眼的な計画の集積とも言える。けれども、それこそが連鎖都市の現実にほかならない。
各時代要素が次々と結びつくと、多くの境界領域が生まれる。そこには、都市の周縁的事物が誘い込まれていく。結物の裏返しとして生まれる、古墳の脇に並ぶラブホテルや不自然なロータリー、軸線に迷った家などは、雑多なようでいて、その実、都市の史的奥行きに気付かせてくれる身近な媒介装置なのかもしれない。

中世集落の配置 出典:『明治18年大阪地図』をもとに作成 明らかにグリッドにのる中世集落の配置。条里制の遺存地割グリッドと呼応する。

中世集落の配置
出典:『明治18年大阪地図』をもとに作成
明らかにグリッドにのる中世集落の配置。条里制の遺存地割グリッドと呼応する。

史的結物論──都市連鎖のZ軸

異なる時代の事物が結びつくこと、つまり史的結物は、事物どうしがもつ親和性と事物の転用可能性から引き起こされる、と言えそうだ。それは、かたち、配置、地形、場といった各相で現われる。けれども、これらの事物は「古墳」だから結びついたのでも、「条里」だから結びついたのでもない。かたちや配置の意味が一旦忘却されることを経て、知らず知らずのうちに結びついたのである。連鎖都市分析の第一回(「都市は連鎖する」『10+1』No.30)において指摘したように、意味が忘却された事物は、複数の転用可能性を有した資材と化す。
また、事物どうしの相乗効果によって、意味のみならずかたちや配置自体も見えにくくなる。これらの見えにくくなった状態のかたちや配置の中に事物が挿入されるとき、その時点で容易に識別できるかたちや配置が結物を誘発するから、事物の結びつきはどうしてもある事物とある事物との個別の関係となる。つまり、結物という事象は、連続してはいても一直線ではなく、個別の共鳴を繰り返す複数の波紋のごとく連なるのである。結果として現出する都市は、それゆえにカオティックな相を見せることになる。
時間という縦軸、各時代層という横軸によって骨格が形成される都市を、結物というZ軸が立体的に編み込んでいく。この第三の軸が、連鎖都市の見えない構造をなしている。結物によってかたちをなした都市の現実は、たしかに明快な構造を示すものではない。しかし、結物という事象を意識してこそ、都市の物語は史的な深みを帯びて理解されるようになるのである。異なる時代の事物が結びついてできた都市は、たとえそれがカオティックであったとしても、物語や意味を次々と発生させうる豊かな都市となる。これを本稿のひとまずの結論としたい。[協力:中島陽+登尾聡]

成立ち 1——古代条里グリッドの残る田畑に小さな集落が点在していた 2——昭和初期に建設された工場は、条里グリッドとは異なった角度で配置された 3——実は工場は集落間のみえない配置に関係していた

成立ち
1——古代条里グリッドの残る田畑に小さな集落が点在していた
2——昭和初期に建設された工場は、条里グリッドとは異なった角度で配置された
3——実は工場は集落間のみえない配置に関係していた

特徴 市街化が進むにつれて、その工場が傾いていることが意識されはじめた。だが、それが何によるものか、まったくわからなかった。その後工場は、魂を抜かれてつぶれてしまったという。

特徴
市街化が進むにつれて、その工場が傾いていることが意識されはじめた。だが、それが何によるものか、まったくわからなかった。その後工場は、魂を抜かれてつぶれてしまったという。

>『10+1』 No.32

特集=80年代建築/可能性としてのポストモダン

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>日本の都市空間

1968年3月1日

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

>クリストファー・アレグザンダー

1936年 -
都市計画家、建築家。環境構造センター主宰。

>藤森照信(フジモリ・テルノブ)

1946年 -
建築史、建築家。工学院大学教授、東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。

>中谷礼仁(ナカタニ・ノリヒト)

1965年 -
歴史工学家。早稲田大学創造理工学部准教授、編集出版組織体アセテート主宰。

>林泰介(ハヤシ・タイスケ)

林泰介建築研究所。

>岡崎乾二郎(オカザキ・ケンジロウ)

1955年 -
造形作家、批評家。近畿大学国際人文科学研究所教授、副所長。

>宮本佳明(ミヤモト・カツヒロ)

1961年 -
建築家。宮本佳明建築設計事務所主宰、大阪市立大学大学院建築都市系専攻兼都市研究プラザ教授。

>清水重敦(シミズ・シゲアツ)

1971年 -
文化遺産部 景観研究室長/建築史学、建築保存論。独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所。