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丹下研究室から独立した頃およびル・コルビュジエ受容をめぐって──一九六〇年代の都市計画とプロセス・プランニングへの過程 | 磯崎新+日埜直彦 聞き手
After Independence from the Tange Kenzo Studio, and the Reception of Le Corbusier: Urban Planning in the 1960s and History of Process Planning | Isozaki Arata, Hino Naohiko
掲載『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) pp.172-181

ル・コルビュジエミース・ファン・デル・ローエ受容をめぐって

磯崎新──いわゆるモダニズムの受容過程が日本の現代建築の始まりとしていま注目されているように見えますが、僕はそれをアメリカ現代建築と一緒に取り出すとその特徴がより明瞭になると思うのです。その手がかりとして、ル・コルビュジエとミース・ファン・デル・ローエがそれぞれどんな具合に受け入れられたかを比較してみるといい。日本はル・コルビュジエを、アメリカ(USA)はミースを受容し、ほかを拒否しています。
日埜直彦──なるほど。前川國男さんのようにル・コルビュジエのアトリエに行った人はアメリカにもいたのでしょうか。
磯崎──前川さんの前に日本から牧野正巳さんが行っています。そんな具合の人はアメリカからもいたかもしれませんが、記録には出てきませんね。戦後《UN(国連)ビル》(一九五二)を共同設計するとき、ル・コルビュジエがフランス代表で行っている。このときの通訳兼アシスタントをつとめたのはポール・ダマスというフランス人(戦前からニューヨークに渡っていた)ですから、目立った人はいなかったのじゃないかな。リチャード・マイヤーがコーネル大学を卒業して、すぐにル・コルビュジエのアトリエに入りたいと面会に行ったけれど、アメリカ人は採用しない、と言って断られたと聞いています。UNビルの苦い経験があったからでしょうけれどね。ホセ・ルイ・セルトがグロピウスの後をついで戦後ハーヴァードのGSDに来ました。それでセルトがル・コルビュジエ的なものをハーヴァードで教えていました。槇文彦さんが留学していた頃はそうだと思います。それからTAC(The Architects Collaborative)の人たちはグロピウスの弟子だけれど、ル・コルビュジエ的な要素をかなり受け取った人たちでした。ポール・ルドルフなどはある時期からル・コルビュジエに近かったと思います。しかしアメリカではそのジェネレーション自体が消えてしまい、ル・コルビュジエは受け継がれていかなかった。反対にミースはSOMなどに受け継がれ、モダニズムの基準を作ったように考えられているのですが、ル・コルビュジエは全然入っていない。
日埜──フィリップ・ジョンソン独特のドイツ好みが影響したかもしれませんね。
磯崎──それはあると思います。フィリップ・ジョンソンがキュレーションをしたMoMAの《近代建築:国際展》(一九三二)は本当はミースにやってもらいたかったようです。だけれどミースは来なかった。そのあたりで奇妙なセレクションがあったと思います。フランク・ロイド・ライトもル・コルビュジエは嫌いだけれどミースは好きでした。ル・コルビュジエはプロパガンディストだという見方をしていたと思います。ライトの事務所にいた人の回想録にあるのですが、ミースに対してはタリアセンで賓客としてもてなして、一日で帰るはずだったけれど一週間ぐらい泊めて、着替えを持っていないから帰る頃にはミースのワイシャツの襟が黄色くなっていたという話がありました。そのくらいライトはミースを認めていた。
日埜──ライトのヴァスムート版作品集がヨーロッパの近代建築に与えた影響というのはよく言われますけど、ミースの場合も「煉瓦造の田園住宅」や実現したいくつかのレンガ積みの個人住宅を見ると、流動的なプランなどにライトの影響は見えます。ライトも自分の影響を見て悪い気はしなかったでしょう。
日本の場合、ル・コルビュジエの受容に関しては岸田日出刀さんがキーパーソンのようで、その点に関しては『10+1』No.41のインタヴューで少しおうかがいしました。彼の周辺で前川さんがル・コルビュジエのアトリエに行き、丹下健三にもル・コルビュジエの影響が表われている。ル・コルビュジエのこうした受容の一方で、例えば丹下さんはミースについてどう考えていたんでしょう。
磯崎──前の東京都庁舎をミース的と言うべきか、ル・コルビュジエ的と言うべきか、そのあたりの違いもあると思う。丹下研究室ではミースのようなディテールをやりたいと一生懸命やっていました。ル・コルビュジエはコンクリートの打ち放しだから、彫塑的な扱いで考えればよかったけれど、ミースのディテールはやりたいと思っても当時の技術力では及ばなかった。だからサッシュも後退させて、コンクリートが前に出てくれば収まるようにル・コルビュジエのほうが楽でした。普通に考えれば日本的なのはミースなのですが、なぜかそうではなかった。
やはり前川さんがいろいろな意味で影響力を持っていたと思います。しかし日本のル・コルビュジエの受容はかなり変則的で、ル・コルビュジエの持っているものの表面的な部分しか受け止めていないので、いろいろ論じられていない部分がたくさんあると思います。だから日本での受容については日本の近代建築史家たちが論じないといけない。
丹下さんの「ミケランジェロ頌」を藤森照信さんが、丹下さんはあの文章でバウハウスを落としてル・コルビュジエを持ち上げた、これはおれの読みだと言っていました。確かに、丹下さんは「衛生タイルをただ貼ったような近代建築は建築ではない」と言っていました。これは当時の流行していた山田守などの表層的なファンクショナリズム批判だったと思います。それに対して、「ミケランジェロ頌」ではル・コルビュジエとは何なのかと問うている。しかしどういうものをル・コルビュジエと言うべきかということについては、丹下さんは発言していません。前川さんは、ル・コルビュジエの翻訳はしたけれど、ル・コルビュジエ的なデザインをしたとは思えない。むしろ坂倉準三さんのほうがル・コルビュジエの三〇年代の気分は持っていた。坂倉さんはル・コルビュジエのところに長くいても、その後右翼、ナショナリスティックなことをやってきた人だから、日本的なものとも関連があると思います。しかし東大の建築科出身の人たちと坂倉さんとの関係は本当に妙なところがあります。坂倉さんは東大の建築科ではなくて美学出身です。だから建築の人たちは坂倉さんを自分たちの系列に入れていません。あれは不思議な関係です。坂倉さんのところには西沢文隆さんが行ったけれど、彼以外は芸大系の人が多かった。ル・コルビュジエ受容はいろいろたどっていくと面白いことが出てくるけれど、あまり議論はされてこなかったと思います。
話がとんで四五年、日本が降伏した頃を見ると、少なくとも日本においてはル・コルビュジエ受容はある程度浸透しただけでなく、日本的な近代建築を探す理論的な背景も生まれつつありました。それに対して、アメリカは相変わらず機能主義的なものをモダニズムとしてアカデミズムが保持したにすぎなかった。ミース経由の機能主義をアメリカはテクノロジーの系として受容した。言い換えると美学がなかった。これに対して、日本には日本的と言われる美学しかなかった。「建築デザインを含めて、第二次世界大戦に勝利したとき、アメリカ美術には何も誇るべき特徴はなかった。そこで戦利品として東洋からスピリチュアルでミニマルなものを、西欧からロジカルで構成的なものをもちかえる。これをブレンドしていきながら、『アメリカ的』と呼びうるような現代美術をみつけだそうとする」(『en-taxi』一六号、扶桑社、二〇〇七)と書いたことがありますが、これは日本の「ジャポニカ」と呼んだ、サビ、シブ、ユカタ、ウチワなんかを指しているのです。詳しくは『建築における「日本的なもの」』(新潮社、二〇〇三)を見てください。

磯崎新氏

磯崎新氏

日埜直彦氏

日埜直彦氏

建築思想の断絶と連続

日埜──前川さんの場合ル・コルビュジエの建築作品に対する関心の強さに対して、「輝く都市」のような近代都市計画に対する関心があまり実作に見えてきません。むしろ丹下さんが積極的にそういうことを研究していたと思うのですが。
磯崎──都市をつねに頭に入れていたのは丹下さんの一番の特徴だと思います。建築の存在基盤の手がかりをどこに求めるかというと、地霊や地形、技術などいろいろありますが、丹下さんの場合は都市でした。環境条件、都市の構造、特に都市を手がかりにして建築は存在理由が出てくると丹下さんは考えていました。僕らはそれをコンテクスト、都市文脈と理解しました。
日埜──とはいえ終戦後の当時の日本の状況を考えると都市と言ってもその内実は荒涼たるものだったわけですね。
磯崎──だから都市計画を最初にやらねばならないという人は丹下さんぐらいしかいなかった。大半はそんなのは無茶だと思っていました。
日埜──丹下さんが直接都市と関わったのは広島が最初ですか、それとも満州で関わる機会もあったのでしょうか。
磯崎──満州にはつきあっていなかったと思います。前川さんは上海で仕事をしていた。坂倉さんは満州に行っていました。そのときのコンペなんかを手伝ったかもしれませんが。先日グループ演劇工房の『満州國の黄金の都市──幻影の王道楽土』のパンフレットが来て、そこで宮内嘉久さんが演出家の木内稔さんと対談していました。主人公は、満州へ行って壮大な都市計画、建築のデザインををやった建築家です。嘉久さんの対談を読むと前川さんより前にル・コルビュジエの事務所に行った牧野さんが主人公のモデルのようです。彼は新京でさまざまな都市計画に関わって建築のデザインをやりました。その芝居では、牧野さんは純粋機能主義を学んでヨーロッパから帰ってきて満州に行き、そこで土地の文化などは排除して帝冠様式が必要だと考えるようになりました。これは、戦時中の『建築雑誌』の牧野正巳が出席していた座談会の記事で読みました。主人公の牧野さんは戦争中に近代の機能主義から日本の伝統的なものへ転向した人だったけれど、戦後も生き延びて大建築家になって文化勲章をもらったという設定になっています。これは建築の外の人が日本の帝冠様式と機能主義について──そこは井上章一が詳しく書いていますが──、その批判的パロディを芝居に組み立てたのだと思います。イデオロギー問題や様式問題はわかりやすいから、いまだにこのような解釈が出てくるのですが、僕はそういう解釈ではないところで議論しなくてはいけないと考えています。
しかし、例えばソヴィエト・パレスなどにスターリンが介入してきました。その過程でどのように構成主義や古典主義が残り、それらがどのようにスターリニズムにつながっていくのか、そういう過程は本当は見えているのだと思います。ただその読み分ける手段、読み取る方法論がはっきりしていない。最後にあの上に世界最大の彫刻のレーニン像を載せろと言ったのはスターリンでした。先日ロシアのアーティストたちとシンポジウムをやりました。そのシンポジウムで、元々マレヴィッチがアルキテクトンで考えていたタワーのコンセプトがあって、あのタワーはそれが下敷きになっているのではないか、と勝手な推定で発言しました。タワーの上に人が載っているという建築は歴史的にあります。あの像を載せたのはマレヴィッチか弟子のスウェティンかわからないけれど、アルキテクトンの抽象的な形の上にレーニンの彫像を載せたのは、その流れであることは確かでしょう。断絶があったのではなく、つまりスターリンが構成主義全部を切り捨てたのではなく、その中に残ったものと重なってスターリニズムが生まれたのだと考えられます。ボリス・グロイスの『全体芸術様式スターリン』(現代思潮社、二〇〇〇)は、スターリニズムを断絶ではなくて連続だと見ている。形態ではなく生の様式として捉えています。このあたりがいま満州への日本の侵略と、そこに建設された都市的建築のデザインの関係なんかに関心が集まっている理由でしょうが、同じことはムッソリーニがロードスで、フランスがアルジェでやったことなんかと比較するといい。クレオール/コロニアリズムへと話をつなくことができると思います。テヘランやイスファンにボザールで学んだ建築家たちの良質のアール・デコ風の建物がたくさん残っているし、インドでのラッチェンス以後のヴィクトリア風コロニアル、さらには中華民国の時期の孫文の中山陵に続いて梁思成のポール・クレ(ペンシルバニア大学でのルイス・カーンの師)経由のアール・デコなど、三〇年代、四〇年代の国境を超えて広がっていったそれぞれの国のモダニズムを、グローバリゼーションがいきわたって全世界が均質化された今日の時点から見ると、このグローバリゼーションと言われるものは、第二次世界大戦へ向かう過程の単なる反復だったことが見えてくるのではないでしょうかね。
10+1 ──八束はじめさんが最近ロシアは大変な好景気で高層建築がたくさん建っているけれど、ロシアアヴァンギャルド的なもの、構成主義は巧妙に排除されていて、いわゆるスターリニズム建築ばかりだと言われていました。
磯崎──五年前ぐらいにソヴィエト・パレス以来の国際コンペがあって、僕は招待され応募して、落ちました。サンクトペテルブルグにあるマリインスキー劇場の増築で、横にもうひとつ劇場を作るコンペです。そのときに僕が考えたのは構成主義、マレヴィッチを手がかりにすることでした。ソヴィエトの頃はアナログでしかできなかったけれど、現在ならコンピュータにかけることができる。「デジタライズド・マレヴィッチ」です。そういう構成主義的デザインでした。この案はロシア以外から来た人たちには面白いと言われたけれど、ロシア国内では抵抗がありました。ようするにあれはロシアとしてはやれないわけです。コンペは結局ドミニク・ペローが取りました。ガラスのシェルターで、これが当選して、構成主義が落ちたわけです。これは流行りだから二、三年で消えていくと思う。あのようなアプローチを批判しながら案を出しました。あのプロジェクトそのものが解体気味になっているのでよかったのですが。だからロシアは構成主義に対してはかなり抵抗感があると言われればその通りです。いま建築家たちは、そういう商業的な開発のスタイルをとっているだけです。
日埜──ロシアで世界で流行っている新しいスタイルをつまみ食いしてるのはニュージェネレーションの人たちで、それに対してスターリン様式なりクラシシズムを好む保守的な有力者がいて、そういう世代的なギャップと政治が絡み合って取捨選択が行なわれているのでしょう。
磯崎──それは全世界で同じ問題だと思います。中国では、海外から入ってきた人がコマーシャルの塊みたいなのをやっています。でも独立系でわれわれの考えが通じるような建築家も増えてきて、張永和もそのグループのひとりです。最近は若い建築家がコンピュータを使ってぐにゃぐにゃ建築をつくることが流行っています。張永和や独立系の建築家はそうではなくて、レンガやコンクリートを構成的に使っている。あまり大きくないものをつくっています。

丹下健三の都市への関心

日埜──前川さんが高層建築や都市と関わる問題にさほど興味を抱かなかったのに対して、丹下研究室では都市の再構築が構想されていた。そういう状況において、磯崎さんの「ジョイントコア・システム」などの初期のプロジェクトが丹下研究室の都市のもとに出発しています。
磯崎──その通りです。丹下さんが始めたのは、建築と都市の関係を考え直すことでした。僕らの時代になってきたらそれは当然なんだという感じになってきた。もともと日本はドイツ系の都市計画だったからシティ・プランニングでした。イギリスもシティ・プランニングです。ところがル・コルビュジエは前からシティ・プランニングではなくユルバニスムと言っていましたが、ユルバニスムはアーバン・デザインにつながってくる要素を持っているわけです。都市に対するアプローチの違いが用語にもありました。日本の政府、各自治体が組み立てる都市計画はドイツ的なもので、いまの中国では、それを規制と呼んでいます。
日埜──そういう区別をするとすれば高山(英華)研究室がドイツ系のシティ・プランニングという位置付けでよいのでしょうか。
磯崎──高山さんもそうだけれど、彼以前に全部まとめていたのは内田祥三さんです。あの時代は祥三さんや佐野利器さんたちが都市を研究していて、そこから何人かビュロクラートが出てきましたが、彼らはユルバニスムではなく、シティ・プランニングの王道でやっていました。
日埜──それに対し丹下研の都市への考え方はむしろユルバニスムに近い性格を持っていた。
磯崎──持たせようとしていたと思います。当時世界的には一方にCIAMがあり、他方にビュロクラートの世界組織である国際住宅都市計画連合(IFHP)があり、それぞれの都市論が対立していました。そういう関係のなかで、CIAMはつねに外側からのカウンタープロポーザルでした。丹下研はCIAMの系列で、だからアンビルトは当然と考えていました(笑)。
日埜──たしかに丹下さんの広島への関わりにはユルバニスム的な、プロジェクトによって都市を組み立てていく方向が強いように見えますね。
磯崎──丹下さんの都市計画の仕事はいろいろありましたが、シティ・プランニングのルールを守っていないとできない要素がある場合は、それは守っていたと思います。だけれどモニュメントとしての平和記念都市計画は大きなスケールということもありますが、これは都市デザインでした。だから広島での提案はCIAMの都市論に通用したのだと思います。
日埜──それで丹下さんは一九五一年の第八回CIAMに招待されて、前川さんとともにプレゼンテーションに行ったわけですね。
磯崎──前川さんが行くので、日本からこの案を出そうということだったのでしょう。
日埜──当時のCIAMで発表されるプロジェクトとしては、実現に至った計画は珍しかったんじゃないでしょうか。
磯崎──ル・コルビュジエは戦後の再建計画をたくさんやっていますが、ほとんどできていません。そういうものは政府機関が組み立て発注しない限り、ありえないわけです。南米などで相談にのったりしたこともありますが、そこでは建築はパーツで全体の都市計画は別だと思います。現在もそういう二重状態になっていると思います。先ほどの牧野さんなどいろいろな人たちが満州で都市計画の仕事をやっていましたが、そのなかで一番若いジェネレーションがやったのが大同の都市計画でした。これは旧市街地と新市街地の中からできていくような計画で、CIAMが提案してきたコミュニティ計画です。住居と建物の関係は高山さんや内田祥文さんがやっていました。祥文さんは祥三さんの長男、祥哉さんのお兄さんで終戦直後に亡くなりましたが、彼が仕事をしていたら、日本における都市へのメソドロジーが変わってきたかもしれないと言われていました。

丹下研での都市計画

日埜──話は変わりますが、磯崎さんの卒業論文はエレベーター、コアの研究だったと聞いています。つまり高層で居住するときにどういう生活環境が成り立つかという、都市化を前提としたビルディング・タイプの研究ということでしょう。どちらかと言えば地道なテーマで、数量的、計画学的ベースで都市を考えていく雰囲気が丹下研究室に色濃くあったのかと思います。
磯崎──卒論は歴史的にアメリカの超高層がどのように変わっていったのかを調べて、それをまとめたものです。それで数量化などをふまえていないと建築学会、都市計画学会で論文として認められなかったと思います。数量的な問題、ベーシックな調査と実証的な研究があったうえで、何をやるのか。僕はそういう研究をやっていても何も出てこないと思っていました。
日埜──「東京計画一九六〇」を発表するためにまとめられた黄色い冊子を図書館で探してみました。全体としてみるとひどくアンバランスな印象の本です。前半には統計的な人口動態や産業構成の変化の予測分析が綿々と述べられ、後半はほとんどイリュージョナルと言ってよいほど野心的な計画案が描かれている。そのギャップ、視点の分裂が露呈している。要するにこれが建つわけがないわけですけれど、それを根拠づけようとしながらどうにも繋がらないアカデミックな分析があるわけですね。そのギャップをどう繋げるかは苦しいものがあったろうと思いますが、それでもこうせざるをえなかったところに丹下さんのキャラクターなり、研究に参加していた方々に共有された空気があったのかと思います。実際にはどういう雰囲気だったのでしょうか。
磯崎──東京を実際にデータとしてきちっとつかまえて、どのように成長を考えるかは、いわば都市社会学的な視点によることになるでしょう。人口にしても交通量にしてもグラフで示される数量の変動を見る視点がそこにあります。データはその現況からしか収集できない。そうするとそれをプロジェクトにするときには、都市はベースでじわりじわり動くので、それをどのようにフォローしてゾーニングや道路計画をつくるのかという普通の押さえ方です。それに対してストラクチャーを変えることがある。CIAMはリング状の都市から線状の都市へというように都市そのものを組み替える提案なんかをした。これをベースに考えようというのが、当時のわれわれからすると都市を表現する常識だと思っていたのです。外から見たら「あほな」という見られ方をしました。そういうことを提案するのは最初から議論の外で、「おまえらは漫画を書いてるにすぎない」という受け止められ方でした。
日埜──例えばカーンにもほとんど実現不可能なプロジェクトがありますが、世界を見わたした時にそれと対抗するためにはこれぐらい強く打ち出さないと意味がないという意識があったんですね。
磯崎──ルイス・カーンのフィラデルフィア計画が成立したのは、『都市のデザイン』を書いたエドモンド・ベーコンが市の重要なポジションにいたからだと言われています。彼がルイス・カーンのような若い建築家にいろいろ作らせたわけです。しかしデザイナーはそういうときに暴走するわけです。ルイス・カーンのドローイングも下敷きの部分はリアルにやっているけれど、その上に暴走した部分が出てくる。そうすると全部がおかしいとなってくる。でもこちら側は暴走しているものしか見えていません。六〇年にはルイス・カーンも日本に来ていたから、MoMAで行なわれた彼の展覧会の情報は知っていました。その前にイエール大学の美術館の増築(一九五三)があり、僕は重要なデザインだと思うけれど、外から見ると箱みたいな建物であまり評価がされませんでした。ルイス・カーンは、最後にはこういうかたちに戻っているわけです。その後の《リチャーズ・メディカルセンター》(一九五七)のコアは中にあるのではなくて外にある、という発想の逆転があります。
日埜──「サーヴド・アンド・サーヴァント」とお題目のように言われるので、あれをコアとして見たことがないのですけれど、確かにあれはコアです(笑)。当時丹下さんや丹下研究室がコアを問題にしていたときには、カーンの仕事のそういった部分に共有された問題を見ていたのでしょうか。
磯崎──それは近い。ただ、ルイス・カーンのようないろいろなタワーが乱立しているイメージ、単純に箱で納めるのではないことはわかっていました。

「プロセス・プランニング論」と《大分県立図書館》

日埜──コアによるシステムとハングされたスラブの構成を都市的スケールでやるときには、それ以外見えるものがないから成立して見えます。しかし例えば《リチャーズ・メディカルセンター》がそうだと思うのですが、それを建築に落とすとスケールというどうにもコントロールしにくい部分が邪魔をして、そこに折り合いをつけるのはなかなか難しい。
コアをそういう意味で見れば、例えば磯崎さんの《大分県医師会館》(一九六〇)や《大分県立図書館》(一九六七)も、縦ではなくて横に通ってはいますが、あれはコアだということもできるでしょう。
磯崎──廊下やコアはパブリックでそれに対してプライヴェートな部屋があり、この二つの要素が建物の中に入り乱れていますが、都市はもともとそういうもので成り立っています。それでパブリックはコントロールを利かせることができるのではないか──本当は逆なのですが──という幻想がありました。それは公共事業だからその部分を骨組みとして可視化する。だから水平インフラを垂直にしたのはコアの問題です。そのようにパブリックとプライヴェートを考えていました。「サーヴド・アンド・サーヴァント」は目的的空間とそれをサポートする空間として、設計の手がかりを二分する手段です。このやり方が明瞭にわかってきたのは五〇年代ぐらいでしょう。ル・コルビュジエもコアをそこまでクリアに見ていないと思います。ミースにいたってはスキンしかなくて、コアはどこにあるのかという感じです(笑)。五〇年代末にはこれは常識になっていました。
日埜──『建築文化』一九六三年三月号に「プロセス・プランニング論」という論文が掲載されています。クローズド・プランニングからモデュラー・プランニング、そしてプロセス・プランニングへと計画手法の次の方向性を示すのが趣旨ですね。粗っぽく言えば「クローズド・プランニング」が古典的建築、「モデュラー・プランニング」が近代建築で、それとは根本的に異なる「プロセス・プランニング」を打ち出しているわけで、ターニングポイントとして興味深いところです。
磯崎──「クローズド・プランニング」と「モデュラー・プランニング」は例もいろいろあり、サンプリングできました。しかし「プロセス・プランニング」ですが、なぜこれを言い出したのかははっきり覚えていません(笑)。
日埜──先行する論文に『建築文化』一九六二年一月号の「現代都市における空間の性格」があり、そこでは当時有効と見なされていたモジュラー・プランニングないしオープン・プランニングによって都市の問題を解決することに否定的な見解を示しつつ、プロセスに注目する必要性が述べられています。基本的にアイディアはここでまとまっていて、「プロセス・プランニング論」はむしろそれを《大分県立図書館》という具体的な事例を背景にして論文にした格好ですね。
この二つの論文は『空間へ』に収録されていますが、惜しいことに図版がほとんどなくなっています。「プロセス・プランニング論」に付された《大分県立図書館》の検討途中の模型断面には設備が組み込まれたコアらしきものが見えます。どうもそれが立方グリッドになっているようですね。
磯崎──イタリアのマンジェロッティの作品で工場でプレキャストを使った提案がありました。窓はプレキャストで作ったフレームをはめ込んだと思います。パースを描いたのですが、このインキングの仕方はポール・ルドルフだとひやかされました。
日埜──確かにこのパースはそうかもしれない(笑)。それにしてもこの柱梁はプレキャストで考えられていたんですね。煉瓦タイル張りのオーソドックスな基壇の上にプレキャストのフレームが組み立てられていて、上下のコントラストは「空中都市」の構図の余韻があります。
磯崎──いろいろ変わっているものはやっていないと思います。プランで、この場合では中のペアにした壁がまだない。それですべてがこのような軸ででき上がっていて、まったくツリー構造になっています。でもこれはプレキャストで、どうしてもコスト的に収まらないことがわかってきました。これを描いた直後にヨーロッパに初めて旅行しました。唯一ヨーロッパでこれだと思ったことは、それまでは壁の意識がそんなになかったわけですが、壁への意識と光が上から入ることです。日本に帰ってきてこれを見て、もう一度全部やり直そうと思いました。それで全部コンクリートにしました。実施設計では全体的にぼってりしてきたけれど、コンクリートの壁だったら仕方がないと思った記憶があります。
日埜──壁と上からの光ということが出ましたが、大分の住宅《N邸》(一九六四)がありますね。
磯崎──あれがそういう意味の最初の作品です。コンクリートで目隠して、光は上から入ってきます。
日埜──作品説明でもヨーロッパで見たフェルメール的な高窓の光と谷崎潤一郎的な陰影の対比というようなことが述べられていて、日本的なものをコントラストにおいて受け止める磯崎さんの独特の姿勢が見えます。
そうして《N邸》に少し遅れて《大分県立図書館》のロビー空間の光ができる。都市におけるコアの問題と建築におけるコアの問題はスムーズに繋がったのでしょうか。
磯崎──アルベルティの「都市は大きい建築、建築は小さい都市」という言葉があるけれど、当時はそれほど悠長ではなくて、都市も建築もやるなら一緒でした。内容や扱いは違ってもそれほどに変えられない。だから似たような結果が生まれてきたと言ったほうが正直かもしれない。

1──ルイス・カーン 《リチャーズ・メディカルセンター》(1957) 引用出典=http://www.archinform.net/quellen/ 470.htm

1──ルイス・カーン
《リチャーズ・メディカルセンター》(1957)
引用出典=http://www.archinform.net/quellen/
470.htm

2──《大分県立図書館》パース 引用出典=『建築文化』1963年3月号(彰国社)

2──《大分県立図書館》パース
引用出典=『建築文化』1963年3月号(彰国社)

丹下研からの独立とアトリエを開設した頃

日埜──都市の議論は丹下研究室に由来する土台としてあったと思うのですけれど、具体的な建築を作るとなると問題はまったく違ってくると思います。
磯崎──「東京計画一九六〇」までは、僕は研究室のスタッフとしてやってきました。あの計画の後、病気で倒れたりしてしばらく休息期間がありました。その頃こういう計画を始め、そのときは丹下研で研究を続ける方向と、実現する仕事をやる方向の二つがごちゃごちゃになっていました。そしてその過程で《大分県立図書館》のフィジビリティスタディをやって、この土地でどれだけのものをつくれるかと考えていました。現実問題として県が持っていた予算ははっきりしていなかった。担当者レヴェルでは県の予算や寄付で予算化しようとしたけれど、もう少し理想に近いものをやったらどうだという議論があって、プロセス・プランニングの画をかきました。だからまだ実施契約してないわけです。そしてこれは予算化できそうだというので丹下研でやりますかと持っていきました。でも丹下研はそろそろ東京オリンピックの工事準備が始まり、それから《東京カテドラル聖マリア大聖堂》も始まろうとしていました。そういうなかで、「お前は独立しろ」という話になったのです。だからこのあたりまではまだ意志を決めかねていましたが、それならもうひとりでやる以外しょうがないと思い、二、三人の手伝いで事務所を始めました。駆け出しの事務所で、見積もりを取ろうとしても見積もり事務所などなかったので、メーカーに見積もりを出してもらいました。それで見積もりのデータにメーカーの名前が残っていて、「こんなもん出したらだめだ」と怒られたことがありました(笑)。
日埜──丹下研を離れた後も、スコピエ計画に関わっていますが、これは助っ人としてですか。
磯崎──最近、丹下研との関係を海外などで聞かれますが、最初の一〇年はスタッフとして、次の一〇年は協力者だった。全部で二〇年丹下健三さんと一緒に仕事をしたということです。丹下研はオリンピックや《電通本社ビル》の計画をやっていたから、コンペをやっている手間はなかったわけです。それである程度のキャリアのある人が参加して、僕はスコピオのコンペをやりました。その頃、六角鬼丈が僕の事務所にいたから彼を連れていき、あとは大学院生四、五人だけでした。それで丹下さんが大学に講義で来たときに相談していました。プレゼンテーションに使うシルクスクリーンのやり方やグラフィックについて杉浦康平に聞いたり、木型をつくっていた石黒模型を紹介されて頼んだりしていました。
日埜──コンペに通って逆に困ったという感じもあったのでしょうか。
磯崎──それは丹下さんのことだからどうでもいいと思いました(笑)。とにかく現地に行かなくてはいけないということになり、三人が派遣されました。
その頃事務所では岡本太郎の展覧会のディスプレイや映画『他人の顔』の美術をやりました。先日カナダで『他人の顔』のDVDが出るというので、安部公房も勅使河原宏も武満徹も死んでいないので、僕があの映画についてインタヴューされました。『他人の顔』の美術をやって、映画のロケハンや基本的なイメージをどうするという相談をしていたのですが、スコピエに連れていかれてしまったので、向こうからスケッチを描いて送ったりしました。あの映画でダ・ヴィンチの人体像をアクリルに透明で映して使ったりしていますが、あれを選んだのは耳の彫刻をつくっていた三木富雄で、彼にもその後もいろいろ手伝ってもらいました。
スコピエ計画はどういう環境でやっていたかというと、東大で大谷幸夫さんの後に都市工の教授になった渡辺定夫がいました。その頃に谷口吉生がハーヴァードから戻ってきて、この三人でやりました。渡辺の役目は都市計画の全貌をバランスよくまとめることで、僕は最初からどうやったらこのデザインが残るか、それしか関心がなかった。谷口はコンペの最初のときは関わらずに通った頃に戻ってきて、その後彼が間に立っていました。しかしあのコンペはいろいろな意味で敗退したわけです。負けたので都市計画のリアリティとは何かということが少しわかってきました。肝心な問題は何を手がかりに決定がなされ、その意思決定はどのように組み立てられていくのかが、どのようなデザインよりも強いということでした。それは一度体験しないとわかりません。日本に帰ってきたとたんにそのまま横滑りで万博の準備に巻き込まれました。
日埜──万博は丹下研究室、それとも磯崎アトリエとしての仕事ですか。
磯崎──万博の会場計画は研究室の仕事です。大半の時間は大学で過ごしていたのが実情です。そしてある程度まとまったときに初めて建築事務所として万博の仕事に関わり、それは最後の二年ぐらいでした。研究室では方法論については議論がありましたが、深く激論をするという雰囲気ではなかったです。しかし丹下さんがやると言わない限り何にも動かないけれど、丹下さんは「これをやれ」とは言わないので、研究室ではみな推定しながらやっていました。丹下さんはそこからセレクション、ピックアップしていました。それから、丹下研では吊り構造にする、あるいはシェルにするということは最初に決めています。それが丹下さんのやり方だったのかもしれない。

時間を介在させる建築

日埜──話が前後するのですが、《電通本社ビル》の計画ではコアの扱い方はニュートラルかつスクエアで、磯崎さんの扱い方とはずいぶん肌合いが違います。
磯崎──最初の電通の計画は、《大分県医師会館》のように壁で囲ったコアが両側に二本あって、ブリッジが三段ありました。当時の電通の社長が丹下さんを評価していて頼まれたのですが、この方が亡くなってしまった。そうしたら後を継いだ人から「こんなにお金かけてやることはない」といじめられ、「ゼネコンもこんなことにつき合ったらだめだ」と言っていた。いくらか妥協させられたのでしょう。それで「たまには普通の建築もどうでしょう」ということでできたのが《電通本社ビル》です。しかし丹下研はそれでは収まらない。それで電通ビル周辺全体の計画をやろうというので考えられたのが今残っている「築地計画」です。
日埜──「築地計画」はほとんど手塚治虫のような都市像に見えて、磯崎さんの黙示録的なイメージと対照的に見えます。
ともあれ問題設定は共有しながら、磯崎さんご自身の仕事があり、丹下研究室の仕事があり、もちろん丹下事務所もまた別であるという込み入った状況があったわけですけれど、そういうなかからオリジナルなアイディアとして「プロセス・プロンニング」というロジックを掲げ、自分の位置を明確にしていくということなのでしょうか。
磯崎──理論化することによって自分なりの方向性を探すことはあったと思います。当時プロセスというのは瞬間による切断の連続だと思っていました。それは時間についての僕なりの理解でした。この頃アーキグラムなどとコミュニケーションが始まりましたが、彼らは動くことについて考えていました。動くことは、もともとチームXのアリソン&ピーター・スミッソンたちが言い出した概念でしたが、チームXには丹下さんも参加していました。動くことと、スタティックなものだと見られている建築物と都市の関係の議論は五〇年代からずっとありました。それで六〇年代になって具体的にアーキグラムが絵を描き、アートのパフォーミング・アーツやアクション・ペインティングなどが重なってきて考えられたのが万博のお祭り広場でした。つまり時間をいかに建築に介在させるか、これが僕にはひとつの手がかりだったと思います。
日埜──単に施設が成長して規模を大きくするだけではなく、そこで起こることに対して建築がどう対応できるか、ということですね。
磯崎──成長というよりは変化です。その変化をスタティックな建築がどう解明できるか。それは本来矛盾した話です。その典型的なのはメタボリズムで、黒川紀章の《中銀カプセルタワービル》もぼろぼろになって、メタボリズム理論なら新しい同じようなものに取り替えなくてはいけないのだけれど、あれはモニュメントだということになっている。丹下さんの《静岡新聞・静岡放送東京本社》は最初から静岡新聞の広告塔、モニュメントだから建ってればいいわけです。
[二〇〇七年二月二日、磯崎新アトリエにて]

4──「築地計画」(1964) 引用出典=栗田勇監修『現代日本建築家全集10 丹下健三』(三一書房、1970)

4──「築地計画」(1964)
引用出典=栗田勇監修『現代日本建築家全集10 丹下健三』(三一書房、1970)

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