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廃墟、空白、生成──一九五〇─七〇を俯瞰する | 磯崎新+日埜直彦 聞き手
Ruin, Vacuum, and Genesis: Looking Back over the 1950s to 1970 | Isozaki Arata, Hino Naohiko
掲載『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) pp.263-276

はじめに

日埜直彦──このインタヴューも残念ながら最後ですから、これまで伺ってきた五〇年代終わりから六〇年代の流れをまとめつつ万博のお祭り広場へと話を繋げ、五〇年代から七〇年代初頭までを俯瞰できるような視点をつくりたいと思っています。
そういう目でこれまでの記録を読み返してみると、最初期の文脈をもう少し丁寧に押さえておく必要があったのかなという気がします。単にひとりの建築家が出発したというだけではなく、その前には具体的な状況があり、そこからものごとは始まったはずですから。例えばすでに岸田日出刀との関係についてお話を伺いました。しかしいま振り返ってみればもう少し掘り下げておくべきだったかもしれない。岸田日出刀や丹下健三に日本浪漫派的な傾向があったことはしばしば言われますが、それがモダニズムと結合した不思議なアマルガム状の指向性となってこの時期を牽引しました。日本浪漫派的な傾向についていたずらに戦犯的なイメージを投げかけるようなものがあるなかで、このことはある時代の具体的な文脈としてまずはきちんと見る必要がある。日本の近代建築に日本浪漫派的なある種の栄光を求めようとする姿勢があったとするならば、それに対して磯崎さんがどういう距離感で接していったのか、いま視野としている範囲を俯瞰する基点としてしっかり固めておく必要があるように思うわけです。
磯崎新──つまりひとつの切り口として、日本浪漫派はこれまでリファレンスとしてしか扱われてこなかったけれども、むしろ逆に、今回は日本浪漫派というものに対するスタンスの話をしながら、そのなかで岸田日出刀、丹下健三、浜口隆一、立原道造という人々との関係をどう整理して掴んでおくかということですね。
日埜──確かにそういうことになるでしょう。ドイツロマン派について書いたベンヤミンをひとつの鏡とするならば、「八田利也」(はったりや)という筆名で書かれた『日本建築愚作論』(一九六一)はベルトルト・ブレヒトに重なって見えるし、「都市破壊業KK」(『新建築』一九六二年九月号)はボードレールとかアラン・ポーに近い性格があるのではないか。丹下的な社会の掴み方が社会を代表するものとして自分の立場を規定するような「モダニズム」のあり方だとすると、それに対して『日本建築愚作論』はむしろ下からの視点から書かれ、シリアスさを転覆させる道化的、戯作的なユーモアが基調にありますね。「都市破壊業KK」もどこかフィルム・ノワール的な雰囲気、光というよりは闇、高らかな宣言というよりは毒を含んだつぶやきのような響きに近い。磯崎さんの仕事のなかにはこうした文章がいくつかありますが、そこには磯崎さんの根底にあるなにかを窺うことができるのではないかと思うわけです。戯れに書かれたものがたまたま世に出たわけではなく、意識的に投げかけられたものであるに違いないわけで、実際にも相当特異な文章に見えたでしょう。それが状況に対するある距離感を示唆しているのだとすれば、まずは丹下あるいは岸田のモダニズムについて伺う必要があるだろうと思うわけです。

磯崎新の分裂

磯崎──最近、長谷川堯の『神殿か獄舎か』(一九七二)が再版されて注目されはじめているということを聞きます。僕にとっては同時代的に読んでいた文章をまとめたものですが、そのなかで組み立てられたフレームはとても明快な二項対立になっています。国家的なものと国家から抑圧されたもの、つまり国家的なものに対する大衆的なものという対立のなかで全体の枠を組み立てています。そのなかにちょっと笑っちゃうような図式もあります。あまりにも単純だけれども意外に説得性をもちえている。つまり、東大派と早稲田派というかたちで建築家が分類されていて、東大はすべて国家側、今和次郎をはじめとする早稲田は庶民側となっていた。こういう構図のなかで、東大の国家的な建築家はというと、岸田日出刀、丹下健三、そしてなぜか、まだろくに仕事をしていなかった僕まで入れられていた。それは長谷川堯の勘で入れられたのだと思いますが、どうして僕がそこに入るような枠になっているんだよと当時は思いました。少なくとも事実からすれば、岸田さんは僕の入学時の教授であり丹下さんは助教授ですから、その人たちについて大学を出たことは確かですし、その後も丹下さんの仕事をずっとやってきて、岸田さんの手伝いもしていましたが、僕のスタンスは、少なくとも国家的なものに対する僕なりの疑問や、国家的なものが抑圧する側の視点を表明してきたはずでした。けれどもそれは切り捨てられていた。あの本ではいきなり岸田、丹下の系列で国家側だと決めつけられています。これは半分光栄で、半分おかしいと思ったのが当時の実感です。少なくとも表立った仕事の流れを見れば、長谷川堯が言う通りに見えても仕方のないポジションにはいました。あげくに万博をやって、皆から揶揄されているように、戦争協力をしたような気分になって、僕は一種の挫折をした気分でいたわけです。それに関しても、戦争は要するに国家の戦争であり、その国家を代理するような万博という戦争に僕は協力して、最終的に「お祭り広場」など中心施設の企画・建設・運営にたずさわってしまったということですが。
この論は、少なくともあの当時僕の世代では多木浩二、次の世代では宮内康、布野修司といった全共闘に参加していた世代がそう言っていたことは確かですから、やっぱり戦争協力だったと言われてもしょうがなかった。けれどもそれは表向きの部分であって、実はいまピックアップしてくれたように、『空間へ』で書いてきた文章であるとか、八田利也をやっていたときに書いた文章は、むしろそういうポジションにいる自分自身を批判することを通じて、全体を批判したいということでした。内省的とは言わない、自己批判とも言わない、けれどもそういうかたちにはめ込まれている自分自身と、すべての思考方式がそういうかたちで動いている自分自身の仕事のやり方に対して、もうひとつ自分のなかで批判を加えてみるべきではないかということを考えていたとは言えると思います。
そこで、結局「都市破壊業KK」では、僕自身が分裂した二重人格的な自己を出そうとした。一番僕がやりたかったのはその部分で、それをSINとARATAという二人の関係で喋っています。のちにさらにその続編として「流言都市」(『UNBUILT/反建築史』TOTO出版、二〇〇一)を書きました。最近この二つの文章が改めて英訳され、フレデリック・ジェイムソンが頭書きを書いてくれて、アメリカの批評誌『SAQ-The South Atlantic Quarterly』Vol.106, No.4(Fall 2007, Duke University Press)に掲載されたのですが、英訳するにあたってあの文章は、日本語としてもかなり意味不明な部分があって、前に一度中国語に訳されたときは、日本語の表現のままでは中国語にならないと言われました。僕が書いた文章のなかでも一番面倒なのがこの二つなのですが、それには理由もあります。この文章を書くときに、自分自身を分裂したものとして捉えているので、同じロジックが正反両極から同時に現われてくるようなかたちにしておきたいと考えていたためです。英語でも中国語と同じことが起こるのではないかと心配をしていたら、仲介に入ってもらったミヨシ・マサオさんを通じて、ジェイムソンの弟子筋の人からずいぶんと問い合わせがありました。そのなかで、SとAというものが最大の問題でした。両者が相互に批判しあうかたちで書いているのですが、もしかしてSは慎太郎とかそんなモデルが頭にあったのか、なんて言われました(笑)。Sは単純に日本の五〇年代のトロツキスト、Aはスターリニストが思い浮かんでいました。その両者が実は私の内部に巣喰っている。これを書くことによっておびきだしたい。以前に海外の評者からは安部公房的だなんて言れました。少なくとも安部公房の著作は翻訳されカフカ的な表現をする作家が日本に存在しているとみられていたし、僕は個人的に親しかった。彼のスタイルの影響があるのかもしれない。
五〇年代にはこんな二分法がありました。五〇年代半ばにはフルシチョフのスターリン批判で表向きは一段落したのですが、スターリニスト/トロツキストの歴史的対立の構図にひそんでいるキャラクターが漠然とではあるけど僕のなかにひそんでいる。それが対話したらどうだろうかと考えたのです。言い換えるなら、僕のなかのスターリニストは国家を代理している。トロツキストはロジックを徹底して追いつめることにより、体制からはみ出してしまうラディカリズムを代理している。僕はそのどちらの気分もよくわかる。ある意味で言えば分裂を抱え込んでいた。後に浅田彰が「スキゾキッズ」ということを言いはじめます。その内容は僕にとって、すぐには賛成できるとは思えなかったのだけれども、「スキゾ」は実感としてわかるような感じがしました。

日埜直彦氏

日埜直彦氏

磯崎新氏

磯崎新氏

「間」への関心、あるいは中間にあること

磯崎──以前のインタヴューで「アンビギュイティ」(曖昧)に触れました。ひとつのものに二つ以上の要素が入っている、さらにはひとつの言葉が二重の意味を持つ、これがアンビギュイティの基本的な意味です。「曖昧」という日本語は、あまりに派生的な含意をたくさんもっている。「アンビギュイティ」はやはり「両義性」というべきなんでしょう。文化人類学の山口昌男はベイトソン由来の分裂症の概念を手がかりに、広く文化論を展開しましたが、彼は僕の東大駒場の頃同じ美研にいたようで、その頃はあまり接触はなかったけど、後に海外でよく出逢うことになり、『へるめす』誌の同人にもなったりして親しくなったわけですが、彼の方法は「文化の両義性」にみえるように、両義的なものを核心にすえてあります。彼とは方法を共有することになります。僕には両義性を言っていた世代なんだ、という感じもあるんです。方法的に両義性に至るプロセスのなかにそうした分裂についての理解があったと思います。国家的抑圧と被抑圧、または岡本太郎的な対極主義、こんな二項対立的な理解がない限り、この時期の議論は追いかけえないのに、なんだか核心にあるものは違っているのではないか。解決不能なままでしたね。丹下さんが弁証法的な統合を言い過ぎるところに一番ついていけなかった。統合ではなく対極のほうがまだしも僕にとっては親近感があった。その理由は、分裂を分裂のままで抱え込まない限り身動きが取れないということ。それを統一するなどというのはあまりにも話ができすぎているという印象を持っていた。けれども時代はスターリンを否定しながらも、相変わらずスターリニズムでした。やっぱり全部が弁証法的思考法なんですよ。勿論それはヘーゲルから来ているわけです。マルクスを通じてエンゲルスにいたると、弁証法を言うのはあたりまえだ、と僕たちは学びました。政治家でも誰でも保守・革新のちがいなく、弁証法的統一を言っていた。僕はついていけなかった。といっても、二極分解という二項対立のロジックにもついていけない。対極主義というのはそれに近いのだけれども、二つの極に対立物を立てているわけですから、一種の否定神学的推論なのですね。神学があるから否定神学があります。全面対立をつくりだそうとするものです。しかしそうでもない。両極があるのはそのとおりとして、その合間のほうが重要ではないかという気分がありました。「間」に関心を持ったのもそういうわけです。こんな僕自身の持っているいい加減にみえるような思考形式がいろいろなレヴェルで反映している。そうすると、長谷川堯がやったような一方に位置づけをしないとつじつまが合わないときには、本音では落っことして欲しい(笑)。こっちのほうは誤認だと思っているのですから。
日埜──いまのお話で出てきた丹下健三と岡本太郎という異質な二人の関係もひとつの重要な文脈だと思います。彼ら自身の密接な繋がりがあるなかで、磯崎さんはいわばその間に挟まれた立場ですね。旧東京都庁舎での協働関係が丹下と岡本の間にある一方で、磯崎さんは岡本の個展の会場構成をされていて、丹下以上に岡本とは近かったでしょう。そして同時に磯崎さんは丹下の門下にいるという関係にあります。そうした人間関係と平行して、考え方においても挟まれていた。岡本が対極主義という場合の対極とはまったく相容れない二極ですね。丹下の場合ならそれを止揚することが課題となるわけですが、磯崎さんの場合はむしろ「間」みたいなもの、矛盾を抱え込んでいながらそれを割切ることのできないようなものとしてそのまま捉えていこうとします。
磯崎──それが僕の悪い癖かもしれないね。いつもはっきりしないポジションにいるというか、意志決定をはっきり表明していないというか、そういうところがある。だけど、便利なときもあります。例えば最近、ミラノの中心部再開発として、「フィエラ」のプロジェクトをザハ・ハディッドとダニエル・リベスキンドと、もうひとり地元のイタリア人の建築家の四人でやりました。しかしこの組み合わせは特例です。先の二人はほかのプロジェクトで重なるケースはなかった。このときだけです。ザハ・ハディッドとダニエル・リベスキンドが面と向き合って議論するのはなかなか難しい。二〇年前なら別です。一九九〇年「花の博覧会」のフォリーの担当に両者を僕は呼びましたが、日本でも顔を合わせることがなかった。すでに二人ともそれぞれの立場が確立していて、しかもお互いに引きずっている歴史や人種や文化が真っ向から対立している。本人たちはわかっていてそういうことは言わないけれど、やはり周りにいる人たちはその対立を目立たせようとする。そのときに、いわば仲介人のような立場の者がいたほうが話は収まることがあります。そういうケースが偶然ミラノのプロジェクトであって、僕は二人の間に入る関係になりました。必ずしも「間」の用法とは違いますけどね。それから後も、ダニエルとだけ組んだり、ザハとだけ組んだりすることはあるのですが、やはりこの三人が組むということはもう成立しないという印象があります。あの二人が直に組むことはもっと考えられないでしょう。それをみると、きっかけは偶然だったのですが、客観的に見て僕自身のポジションが、一種の中間的なメディエーター役になっていることがわかる。良い悪いというのとは別です。自然とそうなってしまう出自や性格があるようですね。別な例で言うと、僕は個人的にピーター・アイゼンマンと付き合いがあるし、レム・コールハースとも付き合っています。しかしこの二人は互いにしょっちゅう喧嘩しています。ときには口も聞かないくらいです。僕は喧嘩をする気にはならないししてもしょうがないと思うので、両方と別々に付き合っている。ひとつはアジアからきた、異なる文化を持っている人間だということ。一応ユダヤ文化も西欧文化も、近頃はイスラム文化も理解しようとする努力をしてきたこと、そしてできるだけ衝突を回避してきたこと、こんなスタンスを保持したせいかもしれません。
本人にしてみると生やさしい事態ではないのです。対立するイデオロギーに挟まれている。内的な分裂を起こしている。過激の側に走ろうとする。そして「破壊業KK」ではSとAといったキャラクターをつかまえようとしてみたり、これがラカン的な分析に沿うものかどうかわからないとして、ともかく症候群などというビョーキ用語をもてあそぶ。この年齢になってもよくわからないのですよ。

「縄文」と「弥生」──五〇年代の建築批評

日埜──もう少し具体的なケースで言うと、岡本太郎は「縄文」と「弥生」という対極を打ち出した。丹下さんは、少なくともその批判を受けるまで「弥生」、つまり伝統に対応できるような近代建築をつくりたいという問題設定を持っていて、伝統論争の果てに出した答もいわゆる縄文というよりはそれを彼なりにうまく昇華しようとしている。磯崎さん自身もそれを真剣に考える局面があったはずですが、その問題について語りはじめるのはわりと最近になってからですね。
磯崎──うまくまとめてくれています。それより前は、どう喋ったらいいのかわからなかったというのが実情だったと思います。最近わかってきたことは、二項対立でものごとを整理することに懐疑的だったのに、それを扱うすべがなかったというべきかもしれません。敵か味方か、善か悪かというかたちにすると議論が明快になっていくという思考方式は古来あります。もちろん正反合という弁証法のプロセスも二項対立に基づいています。岡本太郎はそれがよくわかっていた。もう少し大きいスケールに広がっていったときに、先ほどの縄文と弥生という文脈があります。これが五〇年代の建築批評の言説を組み立てたのです。その文脈のなかからかつての旧体制である支配階級が寝殿造のような高床でこれが弥生、被支配階級は竪穴に住んだ縄文人の系列であるという明瞭な対立にいきなり分解してしまっています。その過程で、縄文は「民衆」を発見することにつながっていきました。そしてこれは岡本太郎のユニークな解釈ですが、山野を駆けめぐる民衆のエネルギーが縄文のどろどろした複雑な火焔土器として現われたと言いきった。ただそれが「民衆」なのだという民衆論に展開したのは岡本太郎ではなく日本の建築界ですね。その代表は川添登です。太田博太郎でさえその影響を受けて整理している。彼の『図説日本住宅史』というとても良い本がありますが、ここでの住宅史はそうした竪穴、高床という階層構成として形式の展開を捉えている。これは戦後日本の歴史観、とりわけ五〇年代の共通認識になっていました。その建築批評版が民衆論ですよ。五〇年代末期は民衆論を言わないと建築家ではない、それ以外は国家の手先であるとなったわけです。ですから縄文論が広まったときに、丹下さんでさえも縄文的になっていく。剣持勇さんもそうです。みんな縄文的になっていったんです。
丹下研究室のなかの気分を考えてみると、五〇年代の初期は桂離宮から学んだものをコンクリートのフレームに置換することがどこか共通認識になっていたようにみえました。僕は入ってすぐに香川県庁のチームに入れられました。その過程で、なんとなく広島ピースセンターよりは太くしたほうがいいのではないかとか、こんな議論があったのを覚えています。香川県庁は丹下さんのなかではプロポーションが上手く収まった建物だと思います。あの気分は、いまからみれば弥生的な広島ピースセンターと縄文的な旧倉敷市庁舎への移行期で、僕はそういう時期にこそ、その型の真髄になるようなものができあがる時期だと思うのですが、香川県庁舎はまさにその瞬間です。その前に行っても後に行ってもちがうのです。建築界の気分もそうでした。やはりチャンディガール的にもう少し暴れたほうがいいのではないかなどというのが共通認識だったと思います。それをかなりコントロールしてできたのが代々木体育館です。ですから一度は縄文的なものを通過している。そういう意味では丹下さんは統合したのです。丹下研のこの時期の仕事で注目すべきは日本における近代建築の方法的・美学的展開です。それが歴史的に評価される核心だと思われます。もちろんこんな仕事はいくらか浮世ばなれした条件のなかでしか成立しない。帝国大学のシステムが存続することによって、これに保護されながら、徒弟的な努力を重ねることによってはじめて可能だった。国王や法王がいないとき、近代国家がパトロネージするという型が残っていた。『神殿か獄舎か』はそんなパトロネージの構造を批判しようとしていた。そのパトロネージされたなかで、縄文を介して民衆論へと方法をつなぐ試行をしている。ほとんど逆説的です。そんなこんがらかった情況だったんですよ。

ブント的思考──六〇年代の枠組み

日埜──そうした縄文対弥生という二項対立的な状況、あるいは丹下さんが抱いていたような日本浪漫派的なイメージに区切りをつけたのが、磯崎さんも部分的に参加されている「日本近代建築再考──虚構の崩壊」(『新建築臨時増刊号』一九七四年一〇月)ではないか、と思います。どうしてあの時期にああいう本が成立したのか、非常に不思議な本ですね。基本的に歴史家が全体を構成していますから本全体の問題設定はいまの話とは少し違うのですが、磯崎さんのつくったページはそうした二項対立的な構図からずれたところで問題を組み立てています。
磯崎──どういう契機があったのかよく知らないのだけど、少なくともこの特集号の一部を受けもつよう誘われたことは事実ですね。そのとき、いくらか記号論に関心をもっていたこともあって、通史的な記述法とちがうことをやりたいと考えたんです。何しろ僕は専門的知識にとぼしい。そこで当時大学院生だった鈴木博之を捕まえて、一緒にやるということにしたのです。ところが彼がイギリスに行くことが決まった。私のつくったフレームの一部をばっと埋めてでかけて行ってしまった。ですからディテールには彼からだいぶ貰ったものが入っています。この特集号の骨組みからして、大それて日本建築史を批判するようなことは到底できませんから、むしろ記号論的な読みを議論のなかに入れられるかどうかということが一番の目標だったように思います。それまでは様式論しかありませんでした。ただ、参照すべきテキストも何もありませんでしたし、ウンベルト・エーコの本だって日本ではちゃんと翻訳されていませんでしたから、僕が記号論を理解していたかどうかはわかりませんよ。勝手に組み立てたところがたくさんあります。
日埜──いわゆるテマティックな批評の方法論に近いと言えるでしょうが、二項対立的緊張関係のダイナミズムから身を引きつつ、問題を違った位相で組み替えようとしているように見えます。
磯崎──おそらく別の文脈において、僕は手法論を組みたてようとしていたわけですから、重なっていると思います。自分の方法論だけではなく、歴史的なものに対する見方とか、建築一般に対するとらえ方に手法論が繋がりうるか否かということを、考えていたのかもしれません。
日埜──丹下にとっての古代あるいは伝統、岡本にとっての縄文、どちらも古代に照準を合わせています。こうした『始原のもどき』のようなパースペクティヴのあり方に対して、テマティック批評はある種フラットなものの見方を与えます。テマティック批評の元祖であるフランスでもそうした背景があったわけですが、そういう同時代的な状況のなかでこうしたことが起こっている。
磯崎──少なくとも、六〇年代を通じて大きな枠組みが変わっていったことは確かです。変わった原因は、まずは政治的には六〇年の安保闘争があり、ついで全共闘の問題があるのですが、それをドライヴさせた理論はブント的なものだったんじゃないか。それは正統的にいまだスターリニズムの枠からのがれえない日本共産党の系列と、初期マルクス主義の再解釈がすすんだ。自殺したアルチュセールが代表的ですね。日本においてもっともラディカルな解釈がブント的な思考になっていった。全共闘運動の背後にあったイデオロギーでした。ただ、この部分をどんな具合いにフォローできていたのか、当時の僕にはわからなかった。
いつだったか、中川武が早稲田の助教授になったときに、レクチャーをしてくれと呼ばれて行ったことを思いだします。中川が私のことを学生にむけて「この人はブント的な見方を建築においてする人です」と紹介しました。俺が何でまったく理解もできていないブントと関係があるのかと、そのときはわからなかった。それくらい僕はブントとは無縁でした。ブントがマルクシズムのなかでやった議論の組み立てと、僕らが建築を通じて考えていたこととに共通性があることを、中川はそのときに感じていたのだろうと思います。要するに彼は確信犯的にブントだったんでしょうね(笑)。柄谷行人がどうなっていたのか実は無知のまま、この間たまたま会ったときに、この話をしたら、俺がブントだったんだと言っていた(笑)。ブントの始まりに彼がいたことはみんな知っているのに、スーザン・ソンタグがはじめて日本に来て講演をしたときに流れた席ではじめて柄谷と顔を合わせたけど、まだ口も聞かなかった。こんなぐらいの遅いつき合いなので、六〇年代の彼はニュークリティシズムを言う人だ、という程度の認識でした。だからあの頃の政治的な関与の事実などまったく知らなかった。

日本浪漫派的心情

日埜──こうした枠組みのなかで、あらためて日本浪漫派に戻って伺いたい。とりあえずどこから口火を切ればいいでしょうね。
磯崎──日本浪漫派について僕がどこまで理解しているのかわかりません。むしろ理解ができるようになったのはごく最近のことです。学生の頃、建築に入る前に好きだった詩が立原道造と萩原朔太郎だった。その程度です。もちろんわれわれの時代は、小林秀雄が別格で、文学かぶれすると、太宰治です。終戦になって数年間、日本のインテレクチャルが左傾していたなかでも、文学においてもっとも新鮮に見えていたのが、あとから見ればみんな日本浪漫派にかかわっている人ばかりです。保田與重郎が重要人物だということはわかっていたけれども、この人について喋るということはほとんど禁じられていた。誰も喋れない時代でした。立原道造も、あの人が日本浪漫派であったというだけで、彼の詩を議論することがタブー視されていたのです。少なくとも五〇年代半ばくらいまではそうでした。そのなかで大岡信がかなり初期に立原道造論を書きました。それをわりと早くに読んで現代詩としての位置づけがわかるような気がしてきた。それまでは中村真一郎や加藤周一といった近代文学グループの人たちが、道造の友達だったわけですから、そこらへんから捉えていた。もちろん三島由紀夫も日本浪漫派です。彼自身も浪漫派をどうするということについてはあまり言っていない。むしろ浪漫派にいた人の側からの三島論がいま多く出まわっているのではないですか。僕は三島由紀夫の方法は浪漫主義的というよりも古典主義的で、日本主義的なイデオロギーがこれにかぶさっているようにみえる。いわゆる日本浪漫派とはちがっていると感じているんですね。
僕自身は日本浪漫派の持っていた何か、それは詩みたいなものすべてを古代の日本人が発語をすることにしぼりこんでいた時代を憶っていることには共感していたけど、これが現代に回復できるとも思っていなかった。浪漫派が古代を憶いによっていまに引きよせようとしていたのに対して、僕は古代との距離をこそ確認したいと考えていた。やっぱり相対主義的であったのですね。つまり関心を持っていたのだと思うけれども、それを表に出して何が言えるのか、むしろ懐疑的でした。五〇年代に丹下さんは弥生から縄文に振れていった日本のデザインの動向にはそれなりに大きな役割を果たしたことは確かです。同世代の浜口隆一の、博士論文にあたる『国民建築様式論』は彼が出征する前の日に書き上げたということになっています。また丸山真男の『日本政治思想史研究』も出征の前の日に書き上げている。この二つの論文は遺書として書き上げたといわれていますが、二人の一番重要な仕事だと思うのです。戦争中にここまでやれているということは大変なことだと思います。全然閉ざされていない。当時の情報は主にドイツから入ってきているのでしょうが、ドイツの研究レヴェルと比べてもまったく変わらない。彼らはそれをわかったうえで書いているんです。しかもそれを書く相手は日本です。浜口隆一は前川國男と丹下健三のコンペから話題を展開していて、丸山真男は江戸の荻生徂徠から本居宣長に至るまでの間からその核心にあるロジックを抽出している。それは未だに誰も反論できないものです。それだけのことをこの時期にやっていたということはたいへんなことだと思います。
浜口隆一は戦後はポンとひっくり返って『ヒューマニズムの建築』を言い出す。これはある意味では近代建築論なのですが、かなり誤解されたんじゃないかと思われます。いわゆる「ヒューマニズム」とみんな理解してしまっている用語の捉え方がおかしかった。彼はルネサンス以来の人文主義としての「ヒューマニズム」を使ったのです。要するにルネサンス建築論であり、近代建築がここにどういうふうに繋がっているかを書いたつもりだったのだけれども、それをややマルクス主義史学の立場で書いてしまったがゆえに、後になって批判されています。それはそれで仕方のない時代でした。一種の啓蒙的な本でしたから、それ以上は展開していないのですが、その背後にある一つひとつの事実は戦争中に彼が自ずから研究していたということはわかります。その彼が民衆論の議論のさなかに、吉田五十八さんか村野藤吾さんの住宅だったと思いますが、そうした和風の建物の中に入って、ここで三味線の音が聞こえるとやはりほろっとして批判できないと書いている(笑)。これが浜口隆一の転向声明といわれている。
戦争中の国家主義的な議論、それから戦後の政治的な社会主義革命理論、そしてマルクス史観みたいなもの、そういうなかにあった人が抱え込んでいた理屈にならない心情が、三味線の音を聞いてほろっとほころびる。そういう何かを持っているか、持たされているか、その根底にあるものが、日本浪漫派が戦争中の学生に響いていたものにつながっているのかもしれない。日本浪漫派のこうした部分を拒否できないままともかく戦後になって、理論的にも政治的にも拒否してきたはずなのに、一〇年も経ってふと気がつく。畳がいい、障子もいい、竹の影が映ったらもっといい、そこに三味線が聞こえて長唄がながされればもう反論できない。こんな具合に折り返されてしまうわけです(笑)。僕だってすぐその通りにはやらないにしても、お茶に付き合ったり能を見に行ったり邦楽を聞いたりということを、現代音楽を聴くのと同じペースで聞くような雰囲気を楽しんでいます。最近も能舞台論をひとつ書きました。僕もやはり昔はそういうものをいくらか抑圧していたわけです。日本の近代化が圧倒的な動向として肯定されていた。伝統的なもの、歴史的な様式をいっさい拒絶するべしという近代化の論理を文字通りに学んでいた。心底まで改造されていた。つまりどこかで理屈にならないで拒否できないまま染みこんでいる部分であるわけです。言い換えると、昔の人はそれに疑いもなくべったりひたっていたわけです。それに対して近代というものが、外から入ってくることによって内部批判がはじまっていたわけです。

日本浪漫派的思考

磯崎──保田與重郎の日本浪漫派はこんな拒絶し難い心情的な没入とはちがっていたのだと考えます。逆にこんな心情を切り捨てることから始めようとした近代的思考だったのではないですか。日本の持っているそういう拒否できない感覚をドイツ浪漫派のコンセプトを介して批判的に組み換えようとしたのではないか。つまりそれはある意味で言えば近代化です。近代をヨーロッパから受け取って、その眼を通じて日本を見ているわけです。ですから日本浪漫派は近代主義なのです。保田與重郎は最終的には軍部から睨まれて干され、すぐにも死にそうな地域に追いやられたくらいの人ですからその影響力が怖れられたのでしょう。あの人が特攻隊を煽ったからみんな死んだんだと言う人がたくさんいるけれども──杉浦明平は立原道造の親友でありながら、道造を批判していました──それが基本的には日本の近代だったのです。そういうふうに日本の古典をもう一度近代の眼で見直していったら何がうまれてくるかという問いが、日本浪漫派にわれわれが惹かれていく魅力の根源なのではないかという印象を最近になってもつようになりました。僕自身は、近代の眼で日本の古典をみることは、直感的に「日本の都市空間」(『建築文化』一九六三年一二月号)のなかでも言ってはいましたが、明瞭にそれを意識的にやり始めたのは一九七八年の「間」展をキュレーションした頃ですね。
それまではごった返していました。五〇年代はまだ戦後民主主義が被占領下にいかに育てられるかといったなかで、民衆論などが議論の基本をつくっていたわけですから、浜口隆一みたいに三味線に転ぶわけにはいかないと感じでいたことは確かですね(笑)。浪漫派とは、近代の眼から見て過去を再構成するというスタンスですから、純粋な伝統主義者からは胡散臭く見られていたと思います。ドイツ浪漫派は歴史的な動きを単純に唯物論的か客観的に見るのではなくて、むしろ過去になった歴史のはじまりの原点との距離を想い浮かべてそれを圧縮し、現代へ引き寄せることを、民族的なものを介してナショナリズムへつなぐことだったのでしょう。保田與重郎が一番重要な役割をしたのが、このような距離をジャンプする力をイロニー(アイロニー)だと言ったことです。アイロニーであることが力を持つと考えることを、僕が自分の方法のなかにいつから意識してきたかということはわかりませんが、少なくとも日本浪漫派がやり始めた歴史の見方、歴史の解釈の仕方、さらにはそれをどうやって現代に繋ぐかというこの関係がアイロニーとしてはじめて動作する。それが重要だというのがだんだんわかってきました。いまこれは浪漫派的な思考法と言っていますけれど、長い間浪漫派とは関係なしに僕は勝手に組み立てたと思っていました。それを浪漫派と一緒のことをやっていたのだと言えるようになったのは最近のことです。
アイロニーとは要するに、向こうにあるものを距離を持ってみるということからはじまります。距離はプラスにもマイナスにも働きますが、表現するときはこれをひっくり返してもいいから、もうひとつ別な形が出てくる。こういうふうにみれば、近代と古典というものが距離を持った関係として存在しているということがわかってきます。それが浪漫派の方法論でした。日本には国学みたいなものがある。日本浪漫派も国学とは繋がっているけれども微妙な関係なんですよね。むしろ国学的なものの見方に対する批判を彼らはやっていたというべきでしょう。国学が学問体系としてできあがった。浪漫派は芸術表現の流れとしてできあがっている。おそらくつねに対立視点になってしまうと思います。僕がアイロニー側にいることだけは確かです。極端に言うとアイロニーは批評ではなくて表現です。表現であると同時に批評であるというかたちになっていればいいのだけれどもなかなかそうはいかない。小林秀雄の立場はそれに近い。柄谷行人は小林秀雄的なものを批判していますから、純粋に批評の側に立とうとしているという印象はあります。僕はたまたま伊勢神宮について文章を書きました(『始原のもどき』)。こんなとき、再度、再々度、日本の古典といかなるスタンスで向き合うべきかを自問せざるをえない。このときは「イセ」を論じること自体を問題化しようと考えました。どちらかというと批評的スタンスですね。「起源」を問わずに「始原」に注目するということにしました。ここでは「始原」が反復を要請している。一番手がかりになったのが子安宣邦の宣長論でした。宣長は古事記を「再読」することだけをやっていたと書いています。古事記を解釈するのではなく、自分の意見を言うわけではなく、それが発語されたときのままに、あらためて、ただその通り読むということをやったのではないか。言い換えると、古事記が書かれたのと同じ状態で、いま再び古事記を同じように現代の見方で読む。これは先ほどの近代の浪漫主義的思考そのものです。アイロニーがすぐれて実現者的であることに対し、歴史に対する違う解釈の仕方です。「再読」というのはそのひとつの例です。伊勢論は僕にとってみると、どこか日本浪漫派と繋がりがあるといえるかもしれない。ただし、古典を近代から逆照射するという点においてです。距離を無にして回帰だけをいう擬似的浪漫派とは違います。
日埜──丹下さんが日本浪漫派に影響を受けたことがあるとして、そのなかに保田與重郎が言ったような意味でのアイロニーがあったかどうかということが重要なポイントだと思います。
磯崎──立原道造がはやくから日本浪漫派の一員であり、その中心メンバーたちとさまざまにつき合っていたことはよく知られています。その立原道造が友人たちに送った手紙のなかで、丹下健三に送ったものだけがきわだって異なっている(一九三八年一〇月二八日付、丹下健三宛の手紙)。日本の中国侵略のひとつの区切りにもなる武漢三鎮占領の提灯行列に参加し宮城前で万歳をしてきたなどと記されている。文体も違っている。みんなそんな書き方を不思議に思っています。僕はこれは、ル・コルビュジエに心酔している丹下健三に日本浪漫派に関心を向かわせるためのアジテーションだったんじゃないかと推定したりしていますが、実情はよくわかりません★一。
丹下さん自身はアイロニーは語らない人だし、そういう意味ではやはり日本浪漫派とは立脚点が違ったと思います。アイロニーは要するに屈折しているわけですね。屈折しない限りアイロニーはない。『神殿か獄舎か』でいえば、ここにはアイロニーはありえません。アイロニーがあっては神殿はできません。獄舎に入るしかないと言えますね。

「日本の都市空間」の文脈

日埜──少し先に進みますが、「日本の都市空間」でやられていたような空間的な問題、あるいは都市の伝統的、あるいは土着的な型を見ていくところから磯崎さんはまず都市問題に入っていったと思います。その端緒においてなにが一番積極的なモチヴェーションになっていたのでしょうか。
磯崎──すごく単純に、東大へ入ったときに高山さん、丹下さんが都市計画講座にいたからです(笑)。で、そこでやるなら建築一般の研究ではなくて、都市絡みの研究をしなくてはいけないのではないかと思いました。最近は丹下さんの講義録が復刻されていますが、丹下さんの講義というものは研究するような相手ではないのですね。都市論というと語弊がありますから、要はユルバニスム論ですが、それがCIAMあたりから始まって、ロストウのいう経済発展の四段階説のうち、離陸を日本に当てはめたりしていました。僕から見るとこれはかなりいい加減な説だと思って聞いていましたが、当時はかなり説得力はありました。僕自身はそんな研究をする気はないと思っていました。それでもっぱら図面を引いていたのですが、丹下さんは建築をデザインするときに、都市的文脈を理解しない限りその存在基盤がないということをかなり最初から言われていました。これだけは僕もその通りだと思っていました。これは丹下さんの方法の一番重要な部分だと思っています。つまり建築のフレームを外からつくるということです。外とは都市だということです。そして、南方でも満州でも都市計画をまず先にやれ、都市計画にしたがって、これに当てはめるのが建築だ、だから都市計画をやらねばならない。これが帝国主義的な侵略のお先棒を担いでいると思われるポイントです。
都市の文脈を組み立てないといけないよというのはまっとうなことでしょう。だけど都市計画という上位よりの計画はそれを構想すること自体すでに政治的です。そして植民地に進出して都市計画をやる当然ながら侵略者側に立ってしまう。けれども建築の外枠を決めること、それを建築の基礎(ファンデーション)つまり根拠付けにするのは明らかな意思表示でもあります。岸田さんがコンペの審査で丹下さんを支持しています。このとき丹下さんは日本の伝統的な建築モデルを近代の眼で抽出するという戦略を練っていた。それは伊東忠太にはわからなかったけれど、岸田日出刀にはわかった。その意味で岸田日出刀という人は感覚的に近代をわかっていたのだと言えると思います。
もちろんいまの建築史の人たちは、伊東忠太が近代建築の始まりだと言いますし、それは間違いありません。近代的思考といっても、方法が違っている。丹下さんの狙い撃ちがあたったのは、全部に当たったのではなく、岸田日出刀に当たったわけです(笑)。そのときに、どういった視点で古典なり歴史なりを解釈するかというのはとても大きな部分だと思いますし、これは別な見方をするならば、岸田さんの「構成」という概念が歴史の見方に入ってくることこそが、「近代」的な見方であると言える。伝統を対象化して、構成として捉えるという見方ですから。僕が岸田日出刀の『過去の構成』(一九二九)を評価する理由はこのためです。
一番最初の問いのなかに、岸田日出刀、丹下健三の日本浪漫派との関係がありますが、僕はその前に堀口捨己の「日本的なもの」に対しての問題構制に注目すべきだと考えます。それはまだ保田與重郎の登場以前で、「構成」という概念を近代的視線として抽出していく点、建築領域で、独自の展開がもう始まっていたのです。タウトの「イセ」「カツラ」評価もその枠組みで見るといいし、建築界は文学や思想と平行して独自の視点をつくりだしたのではないですか。『過去の構成』はフォトエッセイみたいなものですが、その初期のステートメントだと思います。
ちょうどその本が出た頃に堀口捨己さんにも「構成」という視点が出始めていた。ですから藤岡洋保は、堀口捨己は「構成」をやり抜いた人だと書いていますが、その「構成」について理解すべきは、これは歴史に対する近代的な視線だということです。それを極端に追い詰めたのが石元泰博さんの『桂離宮』の写真です。あの人は桂のなかにモンドリアンを探した。そして丹下さんは同時にそれを設計の方法にも取り込もうとした。それぞれの「近代」を通過した人たちなのだろうと思います。
それじゃあ都市については何かと言われたならば、まず丹下さんの影響、というよりCIAMの影響です。「都市デザインの方法」(『空間へ』)で取り上げてきたことと絡むのですが、いまの言葉で言えばユルバニスムやアーバンデザインという流れと、もうひとつは都市を制御の対象として捉える見方、これはどちらかというとドイツの都市計画論の流れと、この両方があります。日本はドイツ型ですね。コントロールシステムというのは全世界で用いられていて、ゾーニングをする、高さ規制をするという法的な規制を用いる概念はドイツからきている。これが高山英華さんの先生である内田祥三さん辺りが中心になって日本の法制化をした。その具体化が高山さん以下の世代の使命みたいなもので、僕の「八田利也」の同僚であった川上秀光はそちらに入る。それに対して、CIAM、ユルバニスム、アーバンデザインという流れのなかで丹下さんを見ないといけないなと僕自身は思っていました。もちろん高山さんも丹下さんもお互いが何をやっていたかはよく知っていて、川上と僕もお互いの違いはよくわかっていた。僕は都市をさらに違う目で見ようと思っていたといえます。
そうこうしているうちに、二川幸夫といわゆるグランドツアーにでかけた。帰ってきてから原稿を書かなければいけない。ディテールをレポーターとして書いても仕方がない。観察している住居や都市を文明論的な視点を加えて見る見方が必要だと思い始めた。「日本の都市空間」は具体的な調査を含めた作業でしたが、そのあと自分で都市論を考えながら、広い意味での文明的な状況のなかで都市がどのように見えているかという見方にしぼりました。これも考えてみれば、外枠からまとめる考え方にやや近いと思います。それと、自分で建築の設計というものをやっているわけですが、設計というものは外枠を考えてもしょうがないわけです。言い換えると文明論的とは地動説のような客観性を持つべきだが、個別の建物の設計は天動説のように、それが中心になる。こんな二重思考です。ですから外枠と連続させることは無理だと考えました。でも外からの割り算でつくると常識的になるし、内を無限に広げていってもこれは無理で、どこかに相互の対立が生まれる。ですから、ロジックで言うと内部の論理と外部の論理になるわけです。それを「交換」というかたちで柄谷行人はマルクスから引いてきていますが、要するに内の見方と外の見方というものが同時にあるということです。そして場数を踏んでいくと、それを同時に見ればいいんだということがわかるようになる。そうすると一番困るのは一緒にやっているスタッフです。どちらからやればいいのかわからない。「お前は内からやりゃいいんだ」というふうに言わざるをえないわけです(笑)。
そのあと、界隈に注目しました。これは表現技法の問題でもありました。ゾーニングという手法を批判しようとしたわけです。都市は線引きされて用途規制をされるわけですが、例えばわれわれが銀座と呼んでいるのはどこからが銀座的なのかわからなくて、その輪郭線はぼやけたものです。ですからいまの都市の表現の仕方では捉えにくい。われわれは「銀座」と言えば何となくわかるでしょう。だけど図面上の線引きでは区分できない。こんな単純な疑問ですよ。われわれは「界隈」として理解しているわけですが、「ゾーニング」と「アクティヴィティ」は本来違うフレームですから一致しません。無理なんですけれども、一緒にしたいと思っている。そうした揺れ動くものを捉えるにはコンピュータ任せが一番いいよという話になってしまった。ここからは「アルゴリズム的思考と建築」(『10+1』No. 48)のときに話した内容に繋がります。

「手法」あるいは七〇年代へ

日埜──「界隈」における賑わいという問題、不定形なものの問題が、前々回伺った「エンバイラメント」へと繋がっていった部分があるだろうと思います。エンバイラメントは基本的に芸術との関係から具体化していったことも事実ですが、この二つの流れが万博という都市計画のなかにおけるお祭り広場という問題に合流していきます。
磯崎──万博にはずっと付き合っていたのですが、そのコンセプチュアルな部分は西山卯三さんが中心にやって、それを東京チームの丹下さんが受けて、そして建設する段階では建設省に移っていきます。ですから、二人の共同設計ということになっているけれども、いま言ったようにフェーズが異なっています。そのなかで西山さんの最大の功績が、「お祭り広場」という言葉を遺したことだと思います。これは不思議な言葉で、「お祭り」はアクティヴィティのことであり、「広場」は実体ですから、アクティヴィティと場という本来ならば違って理解されるべきものがひとつの単語になってしまっているということです。しかも「お祭り」とは日本的なところから来ているし、「広場」はヨーロッパ的なものです。これを西山さんが命名したというのが決定的だった。ちょうどそのときに僕は、「界隈」を見ながら「エンバイラメント」的な見方をしていた。エンバイラメントは、要するにスペースというスタティックなものに対して、身体性をそのなかに含ませることで、関係を広く理解するというものでした。僕なりに美術のパフォーマンスだとか、時間的な要素の入ったキネティックな建築作品、彫刻作品、あるいは音楽といったものが重なり合って、何とか組み立てようとしていたのです。明快にはなっていないけれども、漠然と何か新しい状況に行き当たると、僕はまず勘でより分けている。そこで漠然とした繋がりができたときに初めてこれを論理的な説明の手続きに入ることができる(笑)。
日埜──お祭り広場は、物理的な実体としてはフレームだけになりながら場をサポートする装置だと思います。しかしほとんど同時期に「手法」論が書かれ始めている。それこそ二重人格的に違う次元の議論がひとりのなかで進行している。それらは必ずしも上手く繋がるものではないように思います。おそらく、このフレームとははたして建築なのか、という問題がそこで浮かび上がってきたのではなかったでしょうか。つまり「手法」という文化的な地平において建築を捉えていくことが、おそらく六八年から七〇年、あるいはお祭り広場が実体化したときにあらためて回帰してきたのではないかと思います。
磯崎──あのときはたしかに目まぐるしかったですね。何から何までがぶっ飛んでいて、きりきり舞いをしたあげくに万博で倒れましたから、文章にできたものはごくわずかだったと思います。そのあとは忘れたのか、記憶に残っていても説明のつかない状態だった。実情は、何が起こるかわからない、どのテーマが出てくるのかわからない、それがオーソドックスなものなのか、半端なものなのかもわからない、けれどもつねに何かをやってきているという状態がすべてにおいてそうだった。政治状況もそうでしたし、社会情勢もそうでした。極端なことを言えば、僕の仕事場が当時は東京、大阪、福岡の三つに分裂していたわけです。ですから、体力的にダウンしたんです。そうした嵐の時期が終わって、七〇年代になってから、『空間へ』を整理しようとしていた。これは単純に六〇年代が僕にとっては一言で説明のつかない時代だと思っていたので、ただ書いたものをクロノロジカルに圧縮して出そうというのがあのときのつくり方でした。そのとき社会的にも肉体的にもとことんダウンして、まったくの空白状態に至ったときに出てくるものは何か。「廃墟」を五〇年代からの十数年を通して考えた。こんどは「空白」。いつもネガティヴな、縁起の悪いことばかりから考えていますね(笑)。けれどもそれは裏返しなのです。生成されていくということが基本的に一番重要なのだということがわかっている。だから空白も言わないといけない。建築で都市が建設されていくのはわかっている。だから廃墟も言わないといけない。こういう構図だったのです。
その次に「生成」「生成システム」が問題化されねばなるまい。手法論の「形態の自動生成」が次に浮かんできます。丸山眞男が古事記のなかに「なる」という言葉がキーワードのように散らばっていることから、「生成」こそが日本の宇宙観・自然観の根底にあると言っていますが、これはもう日本浪漫派とは無縁の視点です。僕の手法論は、やっぱり日本とどこかつらなっていると思うのですが、近代さえも通過してしまった。そんな時点で、「日本」についてその後にいくつか問題構制できるアイディアを探し始めました。そんな区切りが一九七〇年だったのかもしれません。
[二〇〇八年二月七日、磯崎新アトリエにて]


★一──磯崎新「立原道造と建築」(『国文学 解釈と鑑賞』別冊「立原道造」至文堂、二〇〇一年五月)参照。

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年生
磯崎新アトリエ主宰。建築家。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.50

特集=Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

>多木浩二(タキ・コウジ)

1928年 -
美術評論家。

>UNBUILT/反建築史

2001年2月1日

>安部公房(アベ・コウボウ)

1924年3月7日 - 1993年1月22日
小説家、劇作家、演出家。

>浅田彰(アサダ・アキラ)

1957年 -
批評家。京都造形芸術大学大学院長。

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>鈴木博之(スズキ・ヒロユキ)

1945年 -
建築史。東京大学大学院名誉教授、青山学院大学教授。

>中川武(ナカガワ・タケシ)

1944年 -
建築史。早稲田大学理工学研究科教授。

>前川國男(マエカワ・クニオ)

1905年 - 1986年
建築家。前川國男建築設計事務所設立。

>ルネサンス

14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようと...

>村野藤吾(ムラノ・トウゴ)

1891年 - 1984年
建築家。

>日本の都市空間

1968年3月1日

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>CIAM

シアム(Congrès International d'Architecture...

>藤岡洋保(フジオカ・ヒロヤス)

1949年 -
日本近代建築史研究。東京工業大学大学院教授。